2017年04月16日
桜と「私」
初夏のような春。とっても気持ち良い天気の日曜日。久しぶりに、スカットした青空を見たような気分で、この陽気に誘われたのだろう、「まちのえんがわ」の前の通りは、自転車で行き交うひとが、とっても多かった。
清見原神社の氏子総代による春祭りが、午前11時からあって、鳥居の前には、小路小学校の桜の木が咲き誇り、道路は、花吹雪で美しく、この鳥居の横に、氏子総代が、整列し、本殿に向かって、皆で一緒に歩みながら、拝殿にて、参拝するのだけれど、参加者20人ほどの男女のなかで、私が一番若い。地元に古くから住むひとたちが、氏子総代となって、春や夏や秋に、地域の、弥栄(イヤサカ)を祈り、参拝する儀式で、親父から引き継いだ時に、へぇ~、昔から、そんな事をしていたのか.....と感心したものだが、さて、若い世代に、こんなことが、伝承されていくのかどうか.....。
ウィキペディアによると.....
天武天皇が大和の飛鳥浄御原宮から難波に行幸した際に現在の当社鎮座地で休憩したという。現在の社名はこの伝承によるものであり、このとき天武天皇が吉野の方をかえり見たとのことから、附近の地名「吉野見」が生まれた。天武天皇の歿後、一帯を本拠としていた大伴氏が天武天皇を祀る神社を創建し、天武天皇宮と称したと伝えられる。以降、旧大友村の氏神として崇敬された。
清見原神社の歴史はそれなりに古く、木村工務店は、昭和になってから、社殿の増改築工事に携わっていて、2008年の本殿・幣殿・拝殿を増改築工事をする時には、構造設計を木構造研究所の田原さんにお願いした。
木構造研究所 田原のホームページによると →
大阪市内における現存する神社の中では2,3棟しかない木造神社であり、写真のように新築の木造神社は大阪市役所の建築指導課における確認申請の履歴において過去40年でも今回の清見原神社だけであることがわかった。
それだけ建築基準法の仕様規定に合致しないのが神社仏閣等の伝統建築である。
大阪市役所との討議の上、伝統を極力現行基準法の計算法で計算し、伝統的なところはそのまま残し、ルート1による計算法で出来上がったものである。
この清見原神社の本殿では、建築基準法の仕様規定における耐力壁を「構造用合板」仕様で構成される垂れ壁と腰壁とその間にある連子窓を縦格子による半剛性のフィーレンデール梁とし、上下の腰壁・垂壁の耐力要素に水平力を伝達する工法とした。
そのため直径九寸のヒノキの曲げ抵抗は余力として見ており、必要最低限の性能は仕様規定で確保し、許容応力度設計の余力である、丸太柱による曲げ抵抗は予備的に付加している。
基礎仕様はRCのべた基礎にし、地貫に対しアンカーボルトで結合し基準法に適合することにした。
純粋な伝統工法では無いが、あらゆる事で伝統工法を継承し、法的に認められる構造の限界を追求した木造神社と言える。
土曜日の夜9時頃、食事を終え、唐突に、そうそう、毎年、夜桜を見に、自転車で、大阪城と大川に、夜桜サイクリングをしているのに、今年は、天候が悪く、行く機会がなかった事を、突然想い出した。それで、あたふたと、普段着のまま、ロードバイクにまたがって、出発しようとすると、奥方も、ついていくわ!という。電動ママチャリにまたがる奥方と二人で、毛馬の水門まで、往復24kmの夜桜サイクリングを楽しんだ。
造幣局の横の川沿いは、夜店も出て、きらびやかな光と、沢山の人で、賑わっていたが、外れた静かな場所で、ひっそりと、カップル花見。あぐらを組む女子会花見。学生サークル風大人数飲み会。などなど、土曜日の夜遅くなので、サラリーマンより、若い人たちで、いっぱいで、夜桜の下で、くりひろげられる、そんな、悶々とした、若いエネルギーを垣間見るのが、嬉しかったりする。
投稿者 木村貴一 : 2017年04月16日 23:26 « 谷口さん | メイン | 花見と天候 »