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2005年11月27日

ホームシアター

家族で映画を見に行くという機会など、めったにない。わりと近い日で思い起こしてみると、そうそう「ラストサムライ」を見に行ったけ。 それも、我が家から自転車で行ける、布施とい場所にある映画館で上映されていたので、見に行ったようなものだった。 小学生の子供からじいいちゃん、ばあちゃんまで、一緒に見ることが出来る映画となると、なかなか見あたらない。 暴力的な場面が大すぎるのも辛い。また、ちょっとしたキスシーンなら良いとして、もう少しH度が増すと、 小学生の息子がクレヨンしんちゃんの物真似をしながら「う~ん、エッチ」などと、映画館で、にたりと呟いたりされるのも、また辛い・・・。 そんな中で、子供と一緒に安心してみることが出来る映画となると、今は宮崎駿の映画になるのかなぁ・・・・。

そういう訳で、「ハウルの動く城」を映画館で見ようということになっていた。が、なかなか、 一緒に映画館に行ける機会をつくり出せないでいた・・・・。そうこうしているうちに、DVDで発売された。奥方が、 大型家電店のオープンセールに行った時、その勢いに幻惑されてか、思わず買ったらしい。まぁ、家族で映画館に行って鑑賞することを考えると、 安いっか。いやいや、映画館の迫力のある画面と家族で一緒に行くという行為とを勘案してみると、まぁ、安い、 高いで判断する問題ではないよな。

家で、DVDを借りて映画を見る。という事が普通のスタイルになりつつあるようだ。ソファーに座るかゴロっとするかは別にして、 ホームシアターっていわれているやつだ。我が家もリフォームした時に考えた事のひとつが、プロジェクターで映画を見るということだった。 ホームシアタールームを設ける事など出来なかったので、居間がホームシアタールームと兼用になった。ところが、 光あふれる部屋とホームシアターのための暗い部屋を両立させるのはなかなか難しい事に気づいた。思っても見ない予算もかかりそうだ。そこで、 「夜だけ、見れたらそれで充分」なんて事で、暫く、10インチほどの小さなテレビが寝室にあるだけで、居間では夜だけプロジェクターで見る。 ということにあいなった。まぁ、細かいことを言えば、昼間もそれなりに見られない訳ではないのだが、暫くすると、 その見にくさに疲れてくるのだった。

そして、3年ほど経った。やはり、休みの日の朝や昼の空いた時間に見られないのが辛かった。 そうこうしているうちに液晶テレビが発売された。少し高かったけれど。3年間の我慢賃も含めて思い切って買うことにした。これで、 昼でも映画を見ることが出来るというわけだ。音響をどうするかという問題もあった。5.1チャンネルかぁ。と憧れながらも、普段聞いている、 真空管アンプとオールドなスピーカーという組み合わせから流れる、中音域の豊かな肉声も捨てがたかった。まぁ、それで、 代用しておこうかということになった。でもたまに、電気店で5.1チャンネルの背後から走り迫ってくるような車の音など聞かされると、 やっぱり、憧れてしまうのだなぁ・・・・。

凄く長~い前置きになってしまった。そんなことで、日曜日の朝から家族で「ハウルの動く城」を見る事になった。ソファーに座ったり、 暖炉の横にゴロンと寝転がったり、日本茶飲んだり、コーヒー飲んだり、ポップコーンの替わりにおかきを食べたりしながらの鑑賞だった。 途中に、息子の友達が遊びにやってきた。そろそろ「少年」になりかかった二人の男の子が、ソファーに座って、お互いの「遊戯王カード」 を自慢し合い、取引などしながら、宮崎駿の世界に吸い込まれていった。

映画の内容と出来映えの良さをどうこう言う以前に、ものづくりに携わる立場になると、 宮崎駿の圧倒的なものづくりを見せつけられてしまうと、いったい、「私」は何をしているのだろう・・・、凄いなぁ・・・と、 映画のハッピーエンドとは裏腹に、少し落ち込む「私」を発見するのだった。

 

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2005年11月20日

学芸会

今日は学芸会があるよ!と前々から念を押されていた。長男の時は何かの都合で行かなかった。 それが私のどこかにそれなりの罪悪感になって残っていたのは確かだった。次男の時は長男の分も含めて返しておかなければなぁ・・・・と、 そういう訳もあって、朝9時から小学校に出向いた。校長先生の挨拶があり、「自分の子供しか見ないと思っている親御さん方、 いらっしゃいますかぁ、手を挙げてみてください」なんて言われたので、素直 に手を上げたみた。「是非、是非、最後まで見てください。 ほんとうに感動しますよ」と名調子で勧誘の言葉があった。その誘い文句に凄く好感が持てたこともあり、また何よりも長男の分まで、 お返しをするという、今となっては取り返しが付かない事を、誠しやかな理由を付けて、 罪悪感から解放されようとする親としての私がそこにいて、そんな事が入り交じって、最後まで見ることになった。

RIMG0011学芸会は毎年あるわけではない。数年に一度だ。確か長男の時は6年間に一度だけだったような気がする。 曖昧だなぁ。舞台を見た。そうだ、私も同じ舞台に立ったのだ。いやぁ、そういえば、校舎が建て替わっているはずだから、 正確には同じ舞台だと言えないなぁ。公共工事というものに投資が少なくなる今、いつか、この講堂も建て替えるのだろうか?  次はボロボロになるまでそのままだろうなぁ・・・などという建築屋さん的な考えが、すっとよぎった後、 自分が小学校2年生の時に舞台に立った、その時のどよめきの記憶が蘇った。鉄人28号に扮して登場した時の、 会場から沸き起こった、歓声の記憶だった。

親の立場に立って学芸会を見る体験はこれが最初だった。親の立場になると劇の内容など、ほんと、どうでも良かった。 子供が台詞を言うその時、心の中で「がんばれぇ!がんばれぇ!」と声援を送っている自分に気づいた。自分の子供は勿論の事なのだが、 どの子供達にも同じだった。それが、会場の親達や祖父母の皆に充満しているのがはっきりと感じ取れた。凄く、暖かく、好意的な雰囲気だった。 そりゃぁ、そうだよな、プロの舞台では、観客に感動を与えるのが「当たり前」の世界でぇ・・・、今、そんな事、どうでも良い事だよなぁ。 そうそう、自分の子供が出る時は、「大きな声でしゃべりよるやろかぁ」「間違えヘンやろかぁ」っと、心の中はぶつくさと呟いていたのだった。

流石に、9時から12時30分まで体育館の席に座っていると足下から冷えがまわってきた。体育館にも床暖房を設置してはどうだろうか、 災害時の避難場所となった時にも重宝すると思うのだが・・・、などと、相変わらず建築屋さん的な考えがやってくるのをやり過ごしながら、 1年から6年までの舞台を見終えた。最後に生徒から終わりの挨拶があった。確かに感動的だった。理由は分からない。 その良さがどこにあるのか分析したがる癖を制止し、観客と一緒になって舞台に向かって大きな拍手を送った。出来れば、 舞台裏で活躍した先生方も壇上に登って欲しかったなぁ・・・そして先生方にも精一杯の拍手を贈ってあげたかったなぁ・・・・・と、 ものをつくる立場になるとそんなことがやけに気になって、後ろ髪を引かれる思いの自分を感じながらも、 それ以上に感じる足下の冷えには抗しきれず、走るように体育館を出た。

家に帰ると高橋尚子さんがマラソンを走っていた。つい先ほどの子供達の舞台の続きであるかのように「ガンバレ」 と画面に向かって声援を送った。 走り終えた後の高橋尚子のインタビューとチームQちゃんのスタッフの笑顔と小出監督のガッツポーズが印象的だった。 それは今日の学芸会での子供達と先生方と親たちの関係性を彷彿させた。

 

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2005年11月13日

傘がない

地下鉄の時間に間に合わせようと玄関を飛び出すと、雨がぱらついていた。駅までは何とか行けそうだけれど、 目的地に着いて地上に出ると結構な雨になっていそうな気配だった。10歩ほど歩いてから急いで家に引き返した。

長い傘を持ち歩くほどの事でもないので、折りたたみの傘でも持っていこうかと思いをめぐらせながら、下駄箱の傘入れの扉を開けた。 パイプに長い傘が数本掛けてあった。折りたたみ傘はどこかなぁ・・・と、傘入れの中の下部に、 山積み状態になっている靴関係のグッズをかき分けながら折りたたみ傘を探した。いつもの傘がない、どこかの鞄に入れたままかぁ・・・。 また探すと黒い傘が一本見つかった。取り出してみるとフリルが付いていた。これは持って行かれヘンなぁ・・・と、また探す。 靴入れの扉も開けて探す。贈答品で貰ったものか、箱に入った新品を見つけた。箱を開けると黒かった。しめた。と思って玄関を飛び出して、 小走りに走りながらビニールの包装を取り払い、黒い折りたたみ傘のホックをはずす。雨の勢いは少し強くなってきた。 急ぎながら傘をばあっと広げた。「うわー」 花柄が随所に散りばめてあった。「かっこわるぅぅ」っと大声が出そうだったが喉元で止めた。 すぐに折りたたんだ。すれ違った人に見られたかなぁっと、ちょっと気になった。なんぼなんでも、この傘をさして、 ビジネス街を歩く勇気はない・・・。予定の地下鉄を遅らせることにして、家に引き返した。

今度は部屋にまで戻って、何個かの鞄の中を探した。ない。また玄関まで戻ろうと思いながら振り向きざまに部屋を見ると、 まるで泥棒が入って物色された跡のような悲惨な状態になっていた。予定に遅れるので見て見ぬふりをした。至極単純なことだ。 長い傘を持っていけば良いのだ。が、脳の嗜好は折りたたみ傘に囚われていたのだった。

下駄箱の傘入れの中の折りたたみ傘をどうやって整理するのか? 収納名人の近藤典子さんに聞くまでのことではないのかもしれないなぁ・ ・・・。傘を吊すパイプの上に棚でも一枚追加して、折りたたみ傘置きにすれば良いだろうか。 靴入れのひとつを折りたたみ傘置きにすれば良いのだろうか。案外、いろんな鞄にほり込んだままなのかもしれないなぁ。どちらにしても、 そんな単純な整理をしていない事で立場上?良いものかと自問自答しながら、地下鉄の駅に駆けていった。

 

 

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2005年11月06日

昼休みのちょっとした旅

監理技術者の講習会が先日あった。 5年に一度の講習を受けて免許を更新する。その5年目の講習会がミナミ(大阪・難波)の日建学院難波校であった。なんでも、 衛星中継によりテレビ画面を見て、全国一斉の講習会をするらしい。確か、以前は広い会場で「生身」の人が演壇に立っていたはずだ。「生身」 かどうかが「授業」というものの大切な要素のひとつになる時代なんだなぁと考えながら、小さな教室に画面が3台ほど置いてあり、 それを見て講義を受けた。テレビ画面はこちらの「反応」や「理解力」など関係なしに進んでいく。時折、睡魔が襲う。周期的にやってくるのだ。 「たまには、ジョークのひとつでも言ってよね。」っと画面に向かって語りかけたくなる・・・・・・。

昼休みになった。どこかで食事をしようと、御堂筋に面したビルのエレベータを下りる。道頓堀のすぐ前あたりにそのビルはあった。 スポーツタカハシのビルの前の信号を道頓堀側に渡る。そういえば、学生時代はよく、スポーツタカハシに行ったなぁ・・・。 綺麗なビルになる前の「ごじゃごじゃ」した昔の店舗の方が魅力的な感じがしたなぁと思う。まぁ、 そのあたりのごじゃごじゃ感を上手く演出しているのが、ドンキホーテなのだろう。「はり重」の看板が目に飛び込んできた。そうだ、近いし、 久しぶりに、はり重のカレーでも食べようかなと思った。 昼時だったので、相変わらず混んでいた。「会社」というものに関わるようになってから「昔ながらで、相変わらす繁盛しているという店」 って凄いなぁと思えるようになった。若い時には全く感じなかった事を年を重ねるにつれて同じ店から新たな印象を受け取ったりするのだなぁ・・ ・。テーブルに出されたカレーを見て、そうそう、独特の黄色っぽい色合いのカレーだったなぁと再認識した。 昔ながらのカレーの味で美味しかった。

カレーを食べるとコーヒーが飲みたくなる。なぜなんだろう・・・・。道頓堀を歩くと修学旅行生でいっぱいだった。 平日の昼間のこんな時間帯にこの界隈を歩くことなどめったにない。そうか、いま時は、修学旅行に、こういう所に来るのだなぁ・・・・。 私が高校生の時の修学旅行は九州だったなぁ・・・と、ふっとその時の光景がよぎった。この近くには、昔は、 バンビというジャズが流れるレトロな喫茶店がありJBLというメーカーのスピーカーであるパラゴンオリンパスが置いてあり、 憧れだった。そういやぁ、同じような事、前にも書いたっけ

それに村野藤吾氏による戎橋プランタンがあった。 心斎橋にあったプランタンに対して、通称「白プラ」と私たちは呼んでいた。そういえば心斎橋のプランタンで受けた空間的印象は私の体の一部に残っていると思った。 建築家が創造する「空間」を体験できる素敵な喫茶店だった。モンドリアン風のファサード。鉄とガラスとタイルの組み合わせ。 吹き抜けと螺旋階段の気持ちよさ。天井の低い2階の落ち着いた感覚。木と何よりも籐という素材の魅力的な使い方。 心斎橋のプランタンの気持ちの良い「暗さ」に対して戎橋のプランタンは「白」かった。当時、学生だった私は、 デートや待ち合わせに使うのは圧倒的に「白プラ」だった。「白プラ」も同じように身体的な空間体験として私の記憶に残る事になる。 入り口の吹き抜けを通して、メゾネット的な空間構成で上と下とに分かれる室。 メゾネットという形式によって生まれる空間の格好良さが体験ができる場所だったのだなぁ・・・・と、今にして、思う。 なによりも2階だったか3階だったか記憶が定かでないが、天井が素敵だった。低い洞窟のような雰囲気のクリーム色(白い) の天井に穴がたくさん開いていて、照明の光が漏れていた。未だに、頭上で受けたその時の印象が身体的な感覚として残る。 他の村野建築にはあまり馴染めないけれど、プランタンは私にとっては別格だったなぁ・・・。そして、それらの店はもうない。

少し歩いて、丸福珈琲店でコーヒーを飲む事にする。 ミナミに残る数少ないレトロな珈琲店だ。いかがわしいH系の店が並ぶ通りとレトロな珈琲店の入り口の組み合わせが、 いつもながら格別な印象を与えてくれるのだった。ゆっくりトイレにも行きたかったので、席についてすぐトイレに向かった。少し長めの「用事」 を済ませた後、席に着こうとすると、私が席に戻るまで、珈琲を出さずに、待ってくれていたのに気づいた。そういう老舗の心遣いは「いいなぁ」 と思った。そんな気遣い、木村工務店は出来ているもだろうか?と自問自答などしながら、珈琲を飲んだ。昔ながらの角砂糖が二つ、 ひとり分の小さなフレッシュ入れと独特のフレッシュの味、私はそれら全てを入れる。柄の持ちにくいコーヒーカップに注がれた、 たっぷりの珈琲。丸福にしかない味だった。私たちも、木村工務店にしかない「味」が出せたらなぁ・・・・・と思った。

50分間のちょっとした昼休みの旅が終わった。カレーと珈琲の味を残像のように口に残しながら、一方通行の映像の講師を眺め、 午前中よりかなり頻繁に訪れる睡魔に惑わされ、時には呑み込まれながら、講習会が終わった。

 

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