2012年06月24日
クリエイティブな層
梅雨の晴れ間。一年に4回だけしか行かないゴルフ。それもコンペだけ。そのゴルフの帰りに会社に戻ると、いつも偶然遭遇する東大阪のTさん。昨日の梅雨の晴れ間のゴルフコンペでも、会社に戻ると、やっぱり遭遇し、昨年から3回連続の遭遇で、これは「偶然」なのか、それとも「縁」とよぶのか、とにかく不可思議。
そのTさんが、家族で、光る泥団子製作と左官工事のワークショップに参加してくれて、ご主人が造った泥団子が、皆さんからの投票で、一等賞を獲得し、それで、記念品として、多肉植物プランターを「まちのえんがわ」からプレゼントさせてもらった。そのTさんのお宅は、只今リフォーム中で、壁を自分で塗装するか左官塗りをする予定で、そんなコトもあって、左官塗り壁のワークショップでは、「体験」を越えて、ほとんど一生懸命な「練習」モードだった。
「まちのえんがわ」のワークショップには、親子の子供連れの参加者が最も多くて、主催者の私たちとしても、なによりも嬉しい出来事のひとつで、戦前に、大工さんたちによって造られた木造トラス組の加工場に、子供達の歓声が響く「音」は、なによりもの「元気」なのだと、こうやって今まで催してきたワークショップを振り返って見ると、そう思えてくる。そうそう、その中には「おっさん」の常連さんもいて、幅広い「年齢層」の参加者が、「一緒」にものづくりをする、そういう場として利用してもらえるコトも嬉しい出来事。
小学生や幼稚園児やそれより小さいお子さんたちをワークショップに連れて、ものづくりの何かを体験させてあげようという、ご両親の気持ち。それはいったいなんなのだろうか・・・・。日本や世界の将来を担う新しい世代の子供達。その子供達と一緒に「ものづくり」の「共有体験」をすることを通じて、「創造性」のある子に育って欲しいという願いが、潜在的にあるのではないのか・・・と、ワークショップでの「音」が、そう思わせる。
ものを実際につくる職人さんに育てたい、大工さんや左官屋さんのような職人さんになって欲しい。と考えているひともいるのだろうが、そうであるにしても、創造性のある職人さん、アイデアをもった職人さん、知識ある職人さんになって欲しいのだろうし、男の子であれ、女の子であれ、どんな職業を選択したとしても、創造性をもった人として生きて欲しい。というお父さんとお母さんの願いと、子供達の歓声が、加工場に響いているのではないのかと、ふとおもう。
先週の左官工事ワークショップの山本左官の職人さんのなかに、今年、大学を卒業し、それも女子の硬式野球部のピッチャーとして全国大会にもでた女子が、左官職人になりたいと、山本左官さんの門戸をたたいて、なかば、強引に弟子入りしたのだという。その女性左官職人Cちゃんの立ち居振る舞いを見ていると、左官職人になろうと心底努力している姿が、ひしひしと伝わってくるのだけれど、ひょっとして、その力点のポイントは、「職人」という生き方以上に「創造性のある人」として生きたいというところに実際の力点があるのではないのかと、ワークショップでの光景がそう思わす。
「まちのえんがわ」にたびたび訪問してくれる、ご近所のスヤさんが、「クリエイティブ・クラスの世紀」リチャード・フロリダ著という本を薦めてくれて、それを3分の2ほど読む。クリエイティブクラスとは「価値を新しく創り出す人たちの階級」なのだそうだ。このクラス=「階級」というコトバはいかにもアメリカ的で、とっても馴染みにくいコトバだが、価値を新しく創り出す「層」。「クリエイティブな層」が、全ての職業と職種の中を横断してありそうで、クリエイティブな層=職人の層という捉え方ではないのだろうし、職人の層のなかにもクリエイティブな層とそうでない層があるのだろう。
世界を変えるような創造性も素敵だが、誰もが持つ事ができそうな、日常に潜む、ほんの小さな創造性で充分なのだとおもう。「まちのえんがわ」のワークショップの楽しみ方というのがあって、そのひとつには、「ものづくりの不完全さと喜びを共有し・・・・」というのがあり、クリエイティビティに潜む、失敗や不完全さは大切な共有認識で、それぞれのレベルでの「不完全さ」があって、いやそうであるからこそ味わえる、ものづくりの「喜び」の共有こそが「クリエィティブな層」の本質なのかもしれない・・・・。
今日の午前中は住宅相談会に参加し、お昼からは第七回住宅風呂巡礼が喜連の家であった。晴れ男の異名を持つ温泉ソムリエぐっちのおかげなのか、梅雨の晴れ間の楽しい撮影となって、お風呂を提供して頂いた、うちのお施主さんであり、クリエイティブな層でもあるカナモリさんには感謝の気持ちをこの場を借りて、お送りしておこうとおもう。
夜になると、このブログを書くうちに、雨が降り出して、梅雨の雨音が響く、いまとここ。「まちのえんがわの人々」=「クリエイティブな層の人々」なのかどうか定かではないが、ただ、梅雨の雨音を聴きながら想起する、加工場に響く、クリエイティブな層のひとびとによって奏でられる木霊に、なぜか、感謝したい気分。
投稿者 木村貴一 : 2012年06月24日 23:24 « 「ハート」 | メイン | 段取り »