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2012年03月25日
花粉症week
花粉症という症状が唐突にやってきたのが、先々週の月曜日の事だった。確か初午祭という職人さん達の安全祈願と懇親会を開いたのが、その前々日の土曜日の事で、その余韻があって、風邪でも引いたのかと思っていたら、鼻水がずるずると落ちだして、ティッシュをつまみながら箱から取り出すというあの動作を何回繰り返したことか・・・・。
最初は市販の鼻と喉の薬を飲んだのだけれど、眠気が襲ってきて、顔の前に膜がかかったようなドロンとしたあの状態。そんな症状のままで、打ち合わせが何件もあって、ズルズルという鼻水とゴホゴホと咳き込む事を繰り替えしながら、会話を繰り返す。ここ最近は、鼻水は収まってきたが、微妙に鼻水が喉へ流れ込んできて、ゴホゴホしている。きっと、皆さん、不愉快だったに違いない。この場をかりて、あらためて、陳謝。
さて、その、ここ二週間ほど続く「私」の花粉症2weekでの出来事。
「まちのえんがわ」のモビール製作とライブペインティングのワークショップに参加して頂いたAさん宅へリフォームの現地調査に同行する。打ち合わせのなかで、花粉症に効く薬のアドバイスまでしてもらったのだけれど、子供部屋の中に、子供さんが作ったモビールが、飾ってあって、何だか、それが、とっても嬉しかった。
もちろん、今までにもワークショップで作った作品が家で飾られている何枚かの写真を送ってもらっているのだけれど、「実物」を見ると、よりワークショップを開催したのだなぁという、主催者としての実感と責任感のようなものまで湧いてきて、こんな小さなワークショップだが、その事を通じて、「ものづくり」の「喜び」や「面倒くささ」や「不完全さ」を共有体験し、ひいては、家に飾られてある自分の作品が、それぞれの内面にある、創造性や自主性を思い起こすきっかけに繋がればとおもう・・・・。そうそう、送ってもらった写真の何枚かを紹介すると・・・・。
先週の日曜日。住宅相談会があって、3組の方々と、花粉症が最悪の状態になっている状況下で、打ち合わせをした。そのひと組にお医者さんがいて、その方も花粉症で、お互いにティッシュで鼻をかみながら打ち合わせをするという可笑しな状態だった。漢方の小青竜湯を教えてもらって、そのお陰で、眠気がなく、鼻水がズルズルする症状は改善されたが、タンが喉に流れ込んで咳き込む症状に未だ悩まされる・・・・。
今週は、地鎮祭が2件も重なるという珍しい週で、そんなのは、4、5年に一度あるかないか。もう3月の後半で、春分の日を過ぎたというのに、寒い日が続いて、そのうえ雨もよく降って、春一番の風も吹き荒れて、いづれの地鎮祭も既存の家の解体作業があったので、地面を整地する作業やテントを張る作業に大わらわだった。
解体工事と地鎮祭の日程調整に、この気まぐれな春の自然現象が、ガッツリと絡んできて、現場監督の「段取り力」という工程調整能力が問われた二つの地鎮祭だったが、幸いにも、何ごともなかったかのように「無事」に地鎮祭が終わって、あらためて、「無事を事とし」という老子のコトバの重みを体感した地鎮祭だった。そうそう、もちろん地鎮祭の間は咳き込まないように、我慢していたのだけれど、いつもに比べて、2礼2拍手1礼での2拍手に精彩がなかったのは、花粉症のせいだという事にしておきたい・・・。
本日の日曜日。花粉症を吹き飛ばしたいという事もあって、ランニングをする。もちろん、先週も、けだるい体にもかかわらず、ランニングをしたのだけれど、流石に、途中でしんどくなって、何度も何度も歩いて、距離もいつもより1Kmほど少なく、今までで一番しんどいランニングだった。それに比べて、今日は、時折、鼻水が出て、咳き込むものの、先週に比べれば、随分と「まし」で、どちらかといえば快適なぶるい。
昼前に少し寝て、体力を回復してから、午後からは、石川友博建築設計事務所による苦楽園・N邸新築工事のオープンハウスに行く。外構工事はまだ残っているのだけれど、たまたま東京から帰省していた長男を同伴しての見学。うちの長男は、もともとW大学の文学部だったのだけれど、2年ほど前に、突然、Wスクールをして、W大学の建築の専門学校に通うと言い出して、今に至る。「職業」というのは不思議なものだなと、つくづくおもいながら、やっぱり、時折、花粉症の症状がでて、咳き込むオープンハウスだった。
夕方、そのオープンハウスから会社に帰ると、「まちのえんがわ」でお酒とアテを持ち込んだ宴会が始まっていた。この「まちのえんがわ」の新たな使い方を提案してくれたのが、設計の矢部達也さんで、同じく設計の石井良平さんとその所員のナガエさんや造園の家谷さんが集まっていて、夜遅くまで、あれやこれやなんだかんだ。建築の話が題材になって、尽きることなく続くのだった・・。おそらく、このブログを日曜日に書き続けるという「私」の「趣味」のために、終わってくれなかったら、深夜まで続いていたのだろう・・・・。それにしても、相変わらず、時折、花粉症で咳き込む「私」。
そんな訳で、体のどこかに、けだるさを感じながらの花粉症2week。もうそろそろ、花粉症から解放されたいものだね・・・・・。
2012年03月18日
フェースブックな誕生日
3月14日はホワイトデーで、それがいつから始まったのか知らないが、1959年3月14日に「私」が生まれた時には、なかったはずで、この日が誕生日の「私」にとっては、エエ迷惑といえばエエ迷惑で、つまり、チョコレートか何かをお返しするという習わしなのだと云う。誰が云っているのだ。そんな殺生な。と大きな声を出したい気もするが、まぁ、そこは、少し気弱なので、このブログの力に頼る「私」。
ほんのちょっとだけホワイトデーの日程を決めた人に憤りがあり、オトコの意地のようなものを、時には少しだけかざしてみたい気持ちもあって、まぁ、例え、義理チョコであっても、嬉しいわけだけれど、今まで、ホワイトデーにお返しを買った事はなく、誕生日のプレゼントをもらう代わりに相殺やね。と言い続けている。
そういえば、歳がとるに伴って、ケーキの大きさが、どんどん小さくなり、勿論、家族と食べるだけなので、こちらも小さくてエエよ。というわけで、今年は、「五感」のケーキらしい。それにしても、ろうそくの数だけはどんどん増えてくる状況で、ケーキの大きさと比して、アンバランスな事。今年など、ケーキの形態からしても、させる場所を探さなくてはならない状況で、今後ますます厳しい状況になるのだろう。果たして、100本なんて日がくるのかどうか・・・・。
ところが、その誕生日に異変が起こった。フェースブックの「友達」から、誕生日おめでとうのメッセージが30数件届く。ここ何十年も、ほとんど家族か、両親からしか、誕生日を祝うメッセージをもらったことがなく、もちろん、それが至極普通の事であり、誰か他に祝ってもらいたいという気持ちもなく、そんな訳で、フェースブック上で表示される、本日は○○さんのお誕生日です。というメッセージを見てもお誕生日のメッセージを送ったことがなかった。
にもかかわらず、面識のある数人の方々からメッセージをもらうと、それはそれで、やっぱり嬉しいわけで、「私」の心理なんてというのはいたって単純なのだ。その日は、お昼からの予定がキャンセルになったこともあって、お礼を書いているだけで半日が流れていくという、今まで経験した事がない、フェースブックな誕生日だった。返信を書きながら、これからは、誕生日のメッセージを送るのもエエもんやな。そうそう、社員にもちゃんとせねば・・・と呟いていた。
2012年03月11日
3・10初午祭
3月10日土曜日の夕方から、社員と大工さんや協力業者の職人さんたち約75名ほどが集まって「初午祭」という安全祈願祭をする。何時の頃からか知らないが、昔からお稲荷さんが会社に祭ってあって、氏神さんの清見原神社の神主さんにお祓いをしてもらい、玉串の奉奠と神酒を頂戴し、安全祈願をした。
勿論、それだけでも良いのだが、この機会を利用して、木村工務店の現場で働く職人さん達と、同じ価値観を共有出来ればという趣旨で、1時間ほどの時間をプロジェクターを使って、あれやこれや、なんだかんだと説明をする。その後は、懇親会として、おでんとか、汁ものとか、焼きそばなど、もちろん生ビールもあって、それらを社員やうちの奥さんなど、皆で手作りしながら、経費をあまりかけずに、素朴な宴会で盛り上がった。
こんな事を加工場でやり出したのが、3年ほど前で、それまでは、3階にある会議室で、うちの母親がおでんやおにぎりを作って、もう少し小さな規模で、職人さん達とワイワイとコミュニケーションをしていた。そうそう、父親から社長を受け継いで、それと一緒に、おでんづくりや稲荷祭も受け継いだのだ。こういう「まつりごと」が古くさいとおもう、気持ちもあったのだけれど、やってみると意外にエエもので、場所を加工場に移し、社員で手作りし、パワーポイントを使って、「価値観の共有」なんていう、それっぽい「コトバ」を使うコトで、「今」にあった形式への編集作業とアレンジをした。
こういう、職人さんたちとのコミュニケーションの潤滑油の役目をしてくれる、日本的な「まつりごと」があったお陰で、大工さんも含めて、塗装屋さんや左官屋さんや電気屋さんや水道屋さん、などなど、様々な職人さん達と、木村工務店の「ものづくりの仲間意識」が育まれてきたのだなぁ・・・・・と、今にしてようやく、思えるようになった。
今っぽく、「組織はチームだ。チームで貢献して成果をあげよう。」「コミュニケーションとチームワークと自己啓発と人材育成を真摯な態度で考よう」「情報とコミュニケーションは別物。コミュニケーションが成立するためには体験の共有が必要。大工さんと話をする時は大工の言語をつかい・・・・」などなど、ドラッカー的コトバをふんだんに使いプロジェクターとパワーポイントの助けをかりて語るものの、すでに日本的な「祭」や「政」や「宴会」などを催す事そのものの中に、それらドラッカー的コトバが、「遊び」の要素を含めた「共有体験」を伴いながら、神妙かつ面白可笑しく学ぶ「お祭り」として、存在していたのだなぁ。と感じる。
こんな伝統的な行事を催し、経験している事が、「まちのえんがわ」での木村工務店ワークショップの土台と下地になっているのだろう。ワークショップでは「材料とのコミュニケーション」というのをテーマとして掲げていて、それは、村松貞次郎著の大工道具の歴史にある「材料と対話をしそれをモノにするための対話の通訳者になってくれるのが道具である」というのがモチーフ。
その「まちのえんがわ」は、あの3.11というデキゴトがなければ、誕生しなかった訳で、そのいきさつの一部は、ブログ「穀雨」にあるのだけれど、あの日までは、10年ほど沸々と暖めていた木村工務店の路面店としてのアイデアが、いまひとつ形になりきれず、実現出来る状況ではなかった。
それが、3.11から1ヶ月ほど経過したある月曜日に、温熱環境と1985アクションを主催する野池さんによる野池学校があって、その後の懇親会の居酒屋での事だった。3.11の時に、もし、「まちのえんがわ」のような機能とコミュニケーションの場があると、勿論、その時は「まちのえんがわ」という名前がうまれていなかったけれど、そういう何かが、工務店の機能の拡張としてあれば、どうなっていたのだろうか、何かの役目を担えるのだろうか?という、酒宴の軽いのりと、でも大真面目な話題だった。「私」から皆に、そんなのを作ってみたいと云えると、それは会社の「縁側」みたいなものやね。という返しがあって、宴席が、あーだこーだと盛り上がった。そして、翌日に、ノイケさんからメールで送られてきたのが、こんな写真だった。
セミナーの後の懇親会という、どちらかといえば、縁側的コミュニケーションに近い居酒屋での会話で、3.11というデキゴトを話題にしながら、曖昧で漠然としたコミュニケーションを通じて生み出されたのが「まちのえんがわ」だともいえる。もちろん、このコトバのおかけで、それまで、曖昧としいたものが、「ひとつの形」になり始めた。
今、3.11があったその週の日曜日に書いたブログ「粛々」を読み返した。あの3.11からの一年間を振り返ってみると、ちょうど、昨日の3.10に催された、安全祈願祭という神事と、最近は使うのに少々の気恥ずかしささえ伴う「絆」というコトバが似合いそうな「ものづくりの仲間」たちとの宴会によって締めくくられたのだなぁ・・・・・。
2012年03月04日
LIVE!
「まちのえんがわ」主催で、谷口智則さんという絵本作家にによるモビール製作とライブペインティングというワークショップを木村工務店の加工場で催す。そのライブペインティングでは、普段は自転車置き場となっている壁に、絵を描く事になっていた。この壁に向かって大工さんが砥石でノミやカンナを研ぐ壁でもあって、何よりも、大工さんや手伝いさんや現場監督や、どちらかといえば、この絵本のような絵とは、全く「縁」のない職人気質な人たちが、毎日通過する壁だった。
その壁に向かうタニグチさん。それを見守る観客。両親に連れられた子供さん達が目を輝かせて最前列で見入る。その子供さんひとりひとりから動物の名前が飛び出す。トラ!ゾウ!キリン!サル!リュウ!サイ!親子のリス!イルカ!クジラ!タコ!テラノザウルス!などなど、尽きることなく連呼する子供達。その名前を聞いて即興で書き始めるタニグチさん。「見事!」なのだ。
50匹近い動物やサンタやピノキオが黒の線画で描かれた。山があり、海があり、空があり、動物たちが窓から顔を出す家がある。拍手が起こる。勿論、色付けをする予定だったが、もう4時を過ぎていたので、サイン会をする時間的な余裕がなくなっていた。それで、一端、作業を止めて、絵本を買った人たちにサイン会をする。その後、子供達と、この絵の前で記念撮影をして帰る笑顔のファミリー・・・・・。
暫くして、数人しか残っていない、例の壁に、再び向かって、色を付け始めるタニグチさん。色に誤魔化されない、リアルなデザイン性としての白黒。光と影としての白黒。そんな白黒の世界からカラーの世界へと。そのフルカラーに変貌していく過程を背後から見守り続けると、色が、動物一匹一匹に、息吹を吹きかけ、命を宿すように見えてくる。山や海や家々に生命の気配が宿る瞬間でもあった。
近所からワークショップに参加した何人かの人たちが、家に帰って夕食を食べ終わり、色が付いた状態を見るために、この場所に戻ってきた。そして、誰もが「うゎーっ」というため息をもらす。きっと「生命の気配」を感じるのだなぁ。そのうちのひとりは、落ち込んだり元気がない時は、この絵を見に来ます・・・・と。
月曜日の朝。突然出現したこの絵を見た職人さん達は、どんなリアクションをしてくれるのだろうか・・・・。いままで、こんな絵と全く「縁」のなかった人たちに、この絵が、どんな「縁」をもたらすのだろうか・・・・。
PS
そうそう、昨日の土曜日、住宅風呂巡礼第4回撮影が、大阪茨城の建築家、橋本健二さんの自邸で催された。ちなみに橋本さんは、最近の高島屋にある吉兆を設計したひとでもある。こちらも「まちのえんがわ」プロデュースなのだけれど、今日の雰囲気とは全く異にする、かなり常軌を逸したムードだった。コドモ向けの世界とオトナ向けの世界との違い。とでも表現すれば良いのだろうか・・・。土曜日と日曜日にたて続けに起こった、この二つの出来事に共通するコトは、「モノづくり」と「LIVE!」なデキゴト。なのだ・・・・。
Making of 住宅風呂巡礼・大阪茨城・橋本邸編
主演:温泉ソムリエぐっち
助演:橋本健二(建築家)ギター生演奏
撮影:多田ユウコ
演出:矢部達也
企画:木村貴一
協力:加藤博久
観客:矢部夫人・加藤夫人
制作:まちのえんがわ
special thanks:橋本健二邸
このビデオ撮影は「私」。
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