2014年05月04日
生きる姿勢
5月2日、朝、9時過ぎ、左手でポケットから数珠を出すと、突然、切れて、数珠の玉がポロリと5つほど落ちた。縁起悪ぅ。っと次男が言う。紐に数珠を通すが、老眼が強くなってきて、息子に手伝ってもらいながら落ちた玉を全部入れたが、切れた紐の部分を結ぶだけの余裕がなく、使える状態に修復しなかった。なのに葬儀の集合時間が30分後に迫っているので、あたふたしていると、奥方が、そうそう、お父さんの部屋に行って借りてくるわ。と言い、別棟の親父の部屋に走っていって、暫くすると、戻ってきた。全く同じ色柄で、玉の大きさがもう少し大きくて、上等そうな数珠。これからは、俺のを使え!っと言われたような気がした。
4月30日午後4時40分、木村工務店の代表取締役会長であり、私の父でもある、木村正一が、満82歳の生涯を閉じた。昨年の2月に胃がんであると告知され、胃を全摘手術をし、暫くして退院した後は、会社にも毎日のように出勤していたが、この3月18日に腹水に溜まった水を抜くため再入院した。4月4日の枝垂れ桜花見の宴には外出許可をもらって、私が病院まで迎えに行き、少しよろよろしながらも参加して、自ら買った枝垂れ桜が大きく成長し満開のその姿を納得しながら椅子に腰掛けていた。4月22日に退院することになり、可能な限り家で療養しながら癌と闘い癌と付き合って過ごす事になったが、4月25日、どうしても運転免許書の更新に行くと言い張って、私の弟に付き添われて、3時間の講習と実地を受けたと云う。しかしながら、そのことで、一挙に体力を消耗し、家に帰ってからはぐったりした様子で、翌日の夕方、救急車で、再び病院に運ばれ、4月30日、静かに息を引き取った。
最後まで「生きる」という姿勢に拘りをみせた、それはそれで天晴れな父だったとおもう。そういえば、満84歳で亡くなった祖父は食道楽で、亡くなる前日の朝に、黒門市場に買い物に行き、好きな食材を買って、お昼にそれを食べ、夜に、お腹が痛いと言い出して、入院し、翌日に静かに息を引き取った。祖父も父も二人とも、如何にして「生きる」か、その「姿勢」を問うたのだとおもう。
亡くなった木村工務店会長木村正一の功績の中で、二つばかり・・・
↑ こんな言霊を残していて、「親切丁寧」は木村工務店の社員と職人の目標でもある。
↑ このロゴは、デザイナーに依頼することをせず、木村正一自らが、何年間かけてデザインした。特に左の会社のマークは、「木村」という文字を「続け字」として崩して書いて、それをデザインしたんや。と言っていた。木村工務店の「継続」の想いを形に表現し、願ったのだとおもう。
父は、ゴルフと車とお酒が好きだった。特にお酒の「席」が好きだったのだとおもう。社員と協力会社が一緒に行く慰安旅行では、膝を付き合わせてお酒を酌み交わす昔ながらのお膳のスタイルに断固として拘った。お酒の席では、家族と同じように、誰に対しても必ず、一言二言の苦言を呈した。人を叱る事が出来る、近所の怖いおっちゃんのような昭和なタイプの父だった。胃を全摘手術した後に、あと4、5年は生きるつもりや、オリンピックを見る事はでけへんとおもうけどな。と言ったので、何気なく葬儀の事を聞くと、おじいちゃんと同じように会社の加工場でやってくれたらエエわ。と呟いた。
予想より遙かに早く訪れた4月30日夕方の突然の死。ゴールデンウィークがさし迫っていたので、一気に、5月1日夜7時にお通夜、5月2日午前10時30分に告別式を加工場で執り行った。そんな事情もあって、お声がけする時間的余裕がなく、案内を出来なかった皆様には、私のご無礼をお許し頂きたく、また、ご会葬頂いた皆様には、この場を借りてお礼を申し上げます。
合掌
投稿者 木村貴一 : 2014年05月04日 19:46 « 巡礼のような。 | メイン | 春うらら。 »