2014年08月03日
清く正しく美しく
オウチを新築やリフォーム工事したご縁で、宝塚大劇場の9列目ど真ん中の席を入手できる事になり、奥方と二人で宝塚歌劇を見に行ったのが、木曜日午後3時からの公演だった。なんとなく機会があれば、一度見てみたいという、エエ加減な興味本位の気持ちだったので、チケットが手に入り、その日、その時間が迫ってくると、なんか場違いな劇場に、おどおどしながら歩いて、きょとんとしながら座っている「私」の姿を想像してしまい、ちょっとだけ憂鬱が押し寄せてきた・・・。
昨年に奥方が友達と宝塚歌劇を見に行って、それがとっても良かったらしく、そのうえ一緒にいった友人に、隣の席に座ったおばさんが、あのひと、もとヅカのひとですか?と、うちの奥方をさして、そう言ったらしく、それは、とっても大きな勘違いなのに、えらく舞い上がって家に戻ってきて、それ以来、奥方は急に宝塚ファンになってしまった訳で、機会があれば、一回だけ一緒に見に行こうと誘ってくれていて、それまで全く興味がなかったヅカなのに、潜在意識のどこかに一度は見てもエエか、みたいな刷り込みが為されていたのだとおもう、ひょんな事からそれが実現してしまったのだ。
劇場周辺から独特のムードが漂い出していて、車道よりかなり上がった歩道を花の道というらしいが、そんなアプローチの設計と目指す大劇場の建物の赤い洋瓦とベージュの壁の組み合わせが、タカラヅカを象徴する建築として成立させたのが、「建築の力」なのだろうが、ま、そんなコトより、歩くひとがほとんど女性で、その年齢層と服装とそのムードが、既にタカラヅカ的で、きょろきょろしながら歩く私の姿があり、横に奥方が歩いてくれへんかったら、独りでは気がひけて歩きづらいわ、なんて心境でひっそりと歩く。開演まで少し時間があったので、レストランで珈琲を飲んだのだけれど、ああいう年齢層のタララヅカファンの女性の塊から発生するタカラヅカ的おしゃべりが、レストラン内に独特の音を響かせて、それが初めて聴く、とっても印象的な音響だった・・・。
生のひとが、生のオーケストラで、真摯に踊る迫力。それにたくさんの若い女性だけが踊り、圧倒的な声量で歌い、そのうえ「清く正しく美しく」的な共有意識を持つコトの「教育」を徹底的に受けた女性のみの集団から醸し出されるエネルギーの塊に、独特なムードがあって、幕が開いてストーリーが始まるまでの数分間の踊りと歌と演奏と舞台装置と照明に、ぐっぐっと引き込まれて、意外とエエわ。と感じている私を発見するのだった・・・。
ストーリーはなんでもシェークスピアのオセロをモチーフにして、ニューヨークが舞台で、それも高層ビルを建設しようとする建築会社を経営する社長が主人公で・・・・、なんていう設定が、私にとっては何となくタイムリーで、建築に携わる「私」であり、NY旅行を計画している最中でもあって、そんな偶然性が良かったのだろう、「船を漕いで寝る」状態になったのは、ほんの一度数秒間だけだった・・・。
成功とか欲望とか愛とか嫉妬とか人の心のうつろいやすさとか不確かさ、そんなのをモチーフとしているらしいが、女性の演じる男性が、妙に男前に思えてきたりして、そんなことを感じている「私」でエエのかどうか、それこそ私の心のうつろいやすさと不確かさを象徴しているわけで、なんだか男前な女性に惹かれるのかね・・・。そうそう、第二部のお決まりのラインダンスや大階段のフィナーレが、想像していたより、とっても良くて、あのエネルギーを「生」で浴びると、それなりに心が動かされる。そういやぁ、終演後、ホールの宮殿風階段を下りていく時に、自分もタカラヅカの大階段を下りる主人公のような気分に錯覚させられる、みえみえの建築的設えに、すっかりそんな気分になってしまっている「私」を発見し、我ながら笑う・・・。
それにしても、こんな歌劇団が100年も続いているという、その「継続性」に最も驚く。100年続くエンターテイメントが、ビジネス的に成立するための、その「システム」とか「マネージメント」とか「戦略的思考」とか「プロフェッショナルの条件」とか、そんなのを学ぶのが、「私」の立ち位置で、「愛、愛、愛」と連呼されている声量に惑わされている場合ではないのかもしれないが、いや、ひょっとして、「愛」をテーマにしているが故に、100年間継続しているのかもしれない・・・。
投稿者 木村貴一 : 2014年08月03日 23:59 « お盆休暇がもたらす何か | メイン | めで鯛 »