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2004年06月28日
ホタルを見た。
ホタルを見た。沢山のホタルがゆったりとしたリズムで明滅し、フワーと飛び交う。不思議なひとときだった。
19日土曜日、台風が上陸するかもしれないとテレビが告げていた。雨風が強くなりそうな、いやーな天気だった。
日曜日の朝5時前に目が覚めると、台風が来るというのに青空が見えていた。思い切って、長野県辰野町にあるホタルの里、
ホタル祭りに行くことにした。先日の新聞に辰野町のホタルの記事が載っていた。子供にもホタルを見せてやりたかった。
辰野町からちょっと足をのばしたところにある井戸尻遺跡で縄文土器を見たかった。何よりも金曜日に新車がやってきた。
天気も含めた様々な要因が絡み合って私を突き動かしたのだ。
眠気覚ましに、シャワーを浴び、子供と妻を車に引きずり込んで大阪・小路を出発した。
私はどちらかと言えば長距離をドライブすることが好きだったりする。近畿道から名神に乗る。車も少なく快適に飛ばす。
京都と大津を迂回して通る第二京阪道路を利用し、再び名神に戻る。米原あたりにさしかかった頃からか雨が降ってきた。結構な雨だ。わぁー、
ホタルを見ることが出来るのだろうかと「心配」が湧いてきた。そんな心配もつゆ知らず、横と後ろを見ると二人とも熟睡状態だった。まぁ、
いいか。
養老サービスエリアで朝食を食べ、名神から中央道のカーブの多い山坂道を走る。新車だから運転するというそのことが楽しかたりする。
ふったりやんだりのどんよりとした天気だ。山々も見えない。諏訪湖のサービスエリアで休憩をした後、
小渕沢インターでおり10時頃井戸尻遺跡に着いた。
井戸尻遺跡考古館の展示物を紹介するCDを数年前に友人からもらた。いつかは実物を見てみたいと憧れていた。
館の前には丸太にV字型の棒をつけた柱が横たわっていた。なんでも、今年は7年に一度の諏訪湖の御柱祭りにあたるらしい。
館の中は私達3人だけだった。人がいないがらーんとした雰囲気に、想像以上に沢山の土器が展示されてあった。
その土器の量に圧倒されてしまった。普段、写真で見慣れた土器を実物で見ると、思った以上に大きかったのが意外だった。
5000年前に造られたひとつずつの土器から人の手のぬくもりや息づかいが伝わってきそうであった。
5000年前の人たちは精魂込めて生きていたのだ。と、しみじみと思った。どれもが「手仕事」だなぁ・・・・・・と。
曇り空の山々を見ながら周辺を散歩した。アヤメは終わり、蓮が咲いていた。散歩しながら子供が温泉に行こうと言いだした。小さいのに何で、
温泉好きになったのだろう。ちなみに、私はほとんど野球を見ないのに子供は阪神タイガースファンだったりするのだ。子供は不思議だ。
近くにある道の駅に併設された温泉に入って、そばを食べることにした。ここにも丸太にV字型の棒を付けた柱があった。
まだまだ、日が暮れるまで時間があるのだが、目的地の辰野町ホタルの里に向かうことにした。途中、原村のペンション村に寄り道をしたら、
やはりここにも丸太にV字型の棒を付けた御柱があった。あちらこちらで見ているうちに、
素朴で豪快な御柱を曳き立てる祭りが関西の町では何だか都会的で車輪の付いた「だんじり」
となってあちらこちらを曳くようにたのではないかと・・・・・どうだかね・・・・。
辰野町に着いた。道にはずらーと屋台が並んでいて、お祭り騒ぎだった。かたや、御柱を中心とした伝統的なお祭りもあれば、
ホタルで町おこしにしたお祭りもあり、それはそれで楽しそうなのだ。公園の駐車場に車を止めて日が暮れるまで待つことにした。
関東方面や名古屋方面などあちらこちらから来ている。なにわナンバーの車は私達1台だけだった。天気はなんとかもちそうだ。
7時頃、駐車場からホタルの見えるせせらぎのある公園に向かう。ホタル育成補助金として大人一人300円を払った。奥方は言った。
「もし見られへんかったら、返してくれるんやろうね。」と、やっぱり大阪の女は手厳しい。係員の人にどこで見たらよいのかと尋ねると。
「今日は風があるので、あまりホタルは飛ばないかもしれない。あの手摺のあるデッキに上がって、上の方から眺めた方が良いと思います。」
と親切に教えてくれた。素直にデッキに行くと既に数十人の人が陣取って暗闇になるのをじっと待っていた。
そのすき間にいれてもらい私達もホタルを待つことにした。
不思議な時間だった。すっかり日が沈んだのに、まだ真っ暗になっていない時間帯。数十人、いや百人ほどの人たちが静かにじっと、
暗闇が訪れるのを待つ。隣の人が言った。「待っているとほんと時間が長が~く感じるんだよなぁ。」と。
それでもあたり一面に何だかすごーく瞑想的な雰囲気と時間が漂っていた。じわ~と暗闇が訪れだした頃、草むらの中で青緑色の光が明滅した。
誰かが、「あっホタル」と叫んだ。うちの子供も「あそこあそこホタルホタル」と連呼した。暫くは、数匹ほどがまだらに寂しく明滅していた。
ほんとうにホタルがいっぱい飛ぶのだろうかと疑いたくなるような状態だった。
あちらこちらに気まぐれに明滅するホタルを目で追いかけているうちに気が付くとあたりは、すっかり真っ暗になっていた。
それとともに数多くのホタルがゆったりとしたリズムで明滅しながら一斉に飛び交いだした。上の方にも沢山のホタルが舞い上がった。
上方に舞い上がるホタルの明滅を目で追っていくと雲の合間に星が輝いていた。星とホタルが明滅していた。一匹のホタルが私の手に留まった。
隣の子供連れの見知らぬおばさんに手の上のホタルを差し出した。嬉しそうにとってそばの子供に手渡した「おじさんにお礼を」と。あっ、
そうそう、もう既に私もおじさんと呼ばれる年になっていたのだ・・・・・・・・。
玄関の段差
内線電話が鳴った。庭続きに住む私の祖母からの電話だった。奥方が受話器を持った。おばあちゃんが玄関でころんで血だらけらしい・・・
・・・。慌てて隣の家に向かった。そして、直に戻ってきて、「車でお医者さんにつれていくわぁ。」と言って身仕度をして、駆けだして行った。
私も後を追いかけた。
おばあちゃんは居間に座りこんでいた。脚にはタオルを巻きつけて止血をしていた。けっこうな量の血があちらこちらの床についていた。
それでも、おばあちゃんは案外ひょうひょうとしていた。自分で歩けるようだった。奥方がおばあちゃんに保健証を用意するようにと促した。
それを取りにおばあちゃんは歩き出した。それなりに元気そうなのだ。そこでじっと待っておくようにと諭して、
奥方がおばあちゃんの指示にしたがって保健証を取りに行った。布団の横にある、あそこの、棚の、ベージュの袋の、中の、・・・・・・
あーぁまどろっこしい・・・直ぐに見つからないので、折り畳みの傘や、
何だか訳のわからないものがいっぱい入っている袋を丸ごと持っていくことにした。
奥方が玄関前に車を横付けし、私はおばあちゃんを抱き抱えるようにして車に乗っけた後、家に戻って、床の血を拭き取り、
その後仕事に行こうと考えた。ところが、何故か、直ぐに奥方が戻ってきた。
入れ歯をいれてないままお医者サンに行くのはいややと言いはったらしい。この期におよんで何を・・・そんなこと言ってる場合かいなぁ・・・・
。とにかく洗面所を探すが、それらしいものは見つからない。奥方もあきらめて家を出て車に乗りこんだ。私は雑巾で床を拭きだした。すると、
また戻ってきたのだ。どーしてもどーしても入れ歯なしではいやなのだ・・・・・と。
コップに入っている入れ歯を一緒に探す事になる。血が止まらないという、それなりに焦った状況なのだが、
何故か祖母の入れ歯を探す私たち夫婦。滑稽だ。そしてその上入れ歯を見つけた時のその姿を想像してしまうものだから・・・
ちょっと気色が悪くて身も入らない・・・・。でも探す。でも見つからない・・・。
奥方が車に戻ってもう一度コップの形と置いた場所を聞き出しに行く。歯が入ってないものだから言葉がもぐもぐしていて、
祖母の言っている内容がよくわかれへんらしい・・・・。私はその間も探すが、やっぱり、もう一つ身が入らない。
ようやく奥方が正確な場所とコップの種類を聞き出して戻ってきた。「もう、入れ歯なんてどうでもええんとちゃうのーっ。」
と半分怒りながら叫ぶと。その時奥方が、あのちょっと汚いものをつまむようなしぐさを交えて一つのコップを持ち上げた。そして、
そのコップに被せてあった蓋をそろっと上げた。口元に何ともいえない笑みを浮かべたあと、口元がへの時にひん曲がった。そして、
「あったわぁー。」と言って車に走って行った。後で聞いた事だが、コップに入ったグロな入れ歯とその、何と言うか、
ちょっと汚いものが浮かんでいたその光景。もう、どうしょうかなぁ・・・と焦ったらしい。
この話を聞いた義母は何で綺麗に洗ってあげへんかったの・・と言った。そう、あの時あの場所は到底そんな雰囲気と状況ではなかったのだぁ。
こんな状況でも身なりにこだわるおばあちゃん、おそるべし・・・・・。
暫くして、奥方が病院から電話をかけてきた。大丈夫やッたのか?と心配した。不吉な予感も・・・・。すると電話口で、
「豆腐屋さんが家に来る事になっているから留守番に帰れ・・・・」とおばあちゃんが言っている。と奥方がのたまう。え、
豆腐屋が何で家まで来るのか・・・・! 仕事を置いて豆腐屋の留守番をしに家に帰れ!てかぁ・・・・・。確かに、
けがをして血を流しているのは事実やけど・・・・。入れ歯は探さなあかんわ。豆腐屋さんを待って留守番をせなあかんわ。う~ん、おそるべし、
おばあちゃん・・・・。
かなり立ってからまた、電話がかかった。もう不吉な予感など全然しない。骨には異常なし。4針縫うただけ・・・。
ほんとうは4針も縫ったという大事故なのだけれど、もはや4針縫うただけ、大したことないわーって事になった。
どうやら豆腐屋さんが来るから玄関の鍵を開けておこうとして躓いて上がり框の角で打ち付けて血を流したらしい。
祖母の家の玄関の高さは30センチほどあるのだ。よっこらしょと昇るぐらいの高さだ。やっぱり年寄りには玄関の段差は危ない。
それにしてもうちのおばあちゃんは不思議だ。果物屋さんや八百屋サン、
それに豆腐屋さんにまでちょっとの果物や野菜や豆腐を配達してもらうのだ。「ちょっと家まで果物たのんまっさぁ。もってきておくんなはれや」
と年期のはいった大阪弁で頼む。お笑いの吉本のどきつい大阪弁とは違って昔の人の大阪弁はゆったりとして美しい。
うちのおばあちゃんが操る大阪弁は結構好きだ。それを八百屋にしても、「ちょっと忙しいて、行けまへんわー。」と柔らかく断れば良いのに、
「よろしおま、持って行きまひょか・・・。」なんて言うもんやから、どんどん調子に乗って・・・・あげくのはては、玄関でころんで・・・。
それにしても、おばあちゃんといい、奥方といい、いざと言う時には肝が座っていて、達者ですなぁ・・・・・・。そうそう、
設計する時は玄関の段差には気を付けなあきまへんな。
2004年06月14日
丁寧に生きる
15年・21万キロを走ってきたクラウンのワゴン車の調子がおかしくなってきた。
10万キロをすぎ15万キロあたりにさしかかったころ、なんとしても、20万キロは乗ろう。と考えるようになってきた。丁度、
バブルがはじけ、不況といわれるようなムードが漂ってきた頃のことだ。次々と新しい「もの」に買い換えるのではなく、「もの」を長が~く、
大切に使ってみようと・・・・。確かに私個人の年齢的なことがそうさせたのかもしれないが、時代の流れがそのようにし向けたのだと思う。
20万キロを達成した時、この車の「最後」はどうなるのだろうか・・・?という事が楽しみのひとつになってきた。なんとか、
30万キロまで走り続けてくれるのだろうか?。それとも、ある日、交差点の真ん中で突然動かなくなってしまうのだろうか?。いやいや、
走っている途中でエンジンが突然止まり、後続車が・・・・?。なんてことに思いめぐらせながら、乗り続けていた。特別、
この車に愛着を持っているわけでも、ものすご~く気に入っているわけでもなかったのだが、
19万キロあたりから愛着が湧いてきたことは確かだった。
2ヶ月ほど前、ちょっとした気のゆるみからか、大型トラックの後部に追突した。と言っても、相手方には、全く損傷はなく、
こちらの車だけがヘッドライトが割れ、ボンネットが少し歪んだ。この車にとっては15年間で受けたはじめてのダメージだった。
それがいけなかった。それから、調子がおかしくなってきたのだ。
おじいちゃん、おばあちゃんがどこかで転んで、骨を折り、入院し、それから体の調子がどんどんおかしくなり、ついには・・・・。
なんていう話を聞く。まさしくこの車がその様な状態だった。あぁ、ちょっと可哀想なことをしてしまったなぁ。と自分の気のゆるみを嘆いた。
確かに、20万キロをにさしかかるあたりから、オイル交換を頻繁にするようになった。それまでは、
オイル交換をしてもエンジンの調子の善し悪しを判断することはほとんど出来なかったのが、流石に最近は、その違いがはっきりとしてきた。
骨が弱りきしむような感じでハンドルから異音もしてきた。パワーステアリングのオイルを頻繁に交換するようになった。サスペンションも、
まるで皮膚がたるむかのようにフワーっとしてきた。それでも、それなりに快調に走ってくれていたのだった。
「もの」を大切に最後まで「丁寧」に使い続けるというのは難しい。ある日の朝、
車のエンジンをかけようとしても全くうんともすんともいわない・・・・。というような臨終を望んでいたのだが、
それはかなわぬ夢となりそうだ。なんとなく新車に替わっていく。今日、会社の長老?が乗るカローラのワゴン車に乗った。
メーターを見るとなんと30万キロだった。うん、そうだなぁ。残りの人生こそは「丁寧」に生きたいものだなぁ・・・・と。
2004年06月09日
精親会の旅行
6月6日・7日の日、月で社員と協力業者、総勢54名の旅行をした。
3年ぶりである。ここ2年ほど、世の中の情勢もあって、旅行をするような雰囲気など全くなかったのだが、協力業者の人たちの要望もあり、
久々に復活した。精親会とよばれるこの旅行も49回目を数える。考えてみれば、
初代社長である木村精一の精を使って名付けられたこの精親会の旅行は私が生まれる前から続いていることになる。
日曜日の早朝、社員と大工さん、それに建築工事に携わる、材木屋さん左官屋さんタイル屋さん、鉄骨屋さん鉄筋屋さん電気屋さん水道屋さん・・
・・等々、木村工務店のもの造りの仲間達を乗せた2階建てバスは福井に向けて出発した。越前人形作りの里で昼食をとり、
永平寺を見学したあと、芦原温泉にて宴会をした。
下は22才、上は82才の男女が浴衣姿にて、大広間の座敷にある舞台をコの字に取り囲む宴席に着座し、杯を酌み交わした。挨拶と乾杯の後、
仲居さんやコンパニオンも入って最初は静かに酒宴が始まった。和太鼓のショーが終わったあたりで、
社長が席を離れて皆に酒をつぎに回り出した。それは、ほとんど社長の趣味に近い・・・・・・。そんな姿を見てか、若手も席を離れて、
年輩者をまわって酒を酌み交わす。そんな上下関係のないざっくばらんなところが酒の席の良さだと思う。賑やかな酒宴が続く。
カラオケを歌うのは2人ほど。舞台でコンパニオンとダンスする職人さん。舞台で詩吟を唸る建材屋さん。和太鼓をたたく社員。
そんなことにはお構いなしに好き勝手に酒を酌み交わし続ける輩。酔っぱらう皆々。2時間ほどの宴会は定番の万歳三唱にてお開きとなった。
宴会の後は、そこに残って飲み続けるもの、夜の町に繰り出すもの、コンパニオンを連れてスナックに行く人、
部屋に戻てマッサージをしてもらうひと、サイコロで遊ぶ輩、部屋でドラマを見るもの、露天風呂に入るもの・・・・と、
てんでバラバラの楽しい夜が更けていった。翌日はゴルフ組と観光組に別れて行動するが、最後には合流して帰路、大阪に向かった。
参加者には戦前から取引を続けている畳屋さんもあれば今回が初参加の鉄筋屋さんもある。
一泊二日という時間と空間を共有することによって生まれる仲間意識と繋がり。
そんな繋がりと愛に支えられて木村工務店の家づくりが成り立っているのだと思う。
コストダウンの競争にヒイヒイと悲鳴をあげながらついていくのだが、ナンバーワンにはなれない我が仲間の業者さん達。
結構それなりに一流だとは思うのだが、超一流にはなれない愛すべき職人さん達。やっぱりナンバーワンよりオンリーワン。なのだよなぁ・・・。
とお互いを慰め合いながら、それでも世の中の変化にはしなやかに反応して歩んでいく仲間達。末永く付き合っていきたいものだなぁ。
40回以上も参加している我が社の大先輩は、今年も、日曜日の朝にバスに乗ってから月曜日の午後8時30分、
大阪に到着してバスを降りるまでの間、ず~~~と酔っぱらっていた。そんな姿を見ているのが私も含めて皆も嬉しかったりするのだ。
月曜日にもかかわらず現場を休むことを許して頂いた工事中のお施主様の皆様。どうも有り難うございました。
2004年06月07日
もうすぐ春かな?
二日前、何十年もの間、家のメンテナンスに出入りをさせていただいている平野のF家にお伺いすると、庭の梅が満開だった。
早や咲きの桜の木にも蕾がつきはじめていた。
あぁ、そろそろ、春がやってきそうだなぁ・・・・・・ と思っていたら、今日の日曜日の昼過ぎには3月だというのに、
大阪ではめずらしいことだが、雪が降った。そんなに長い時間じゃなかったけれど、それなりの勢いで、降った。
仕事の打ち合わせを終えて家に帰るやいなや、残り少なくなっていた暖炉の薪の木をあわてて補充し、ガンガンと燃やした。そして、
久しぶりにビフォーアフターを見た。
私は、あの番組を見ると、番組の内容よりも、出演した時に、木村工務店の社員や職人さんや協力業者の人達、全員が夜遅くまで苦労した、
その日々のことを思い出す。出演した匠の人達も皆、大変な思いとプレッシャーのなかで仕事をしているんだろうなぁ・・・と。
テレビを見終わって、部屋の照明器具を消すと、家の中に月明かりが差し込んでいた。夜空を見上げると満月だった。
冬の乾いた空に浮かぶ月が何だか、暖かく感じられた。月を見ながら、先日NASAの、
火星にはかつて水があったという報告のことを思い出した。暫くすると雲の中に月が消えていった。
今、もう一度、夜空を見ると、しっかりと満月が光っていた。全然関係性はないのだけれど、ふと、春はもうすぐかな? と思った。
2004年06月02日
黄色い帽子の訪問者たち
6月1日の朝、東小路小学校2年生の生徒5名が当社にやって来た。
聞くところによると町の工場や商店にお邪魔してインタビューをしようという校外学習だそうだ。
残念なことに当日、大工さんは現場で仕事をしていたため、会社の加工場で、
コンコンと音をたてながら手加工をしている姿を見せることができなかった。それで、
事務所内での設計の仕事や見積の作業を見せることになった。
黄色い帽子をかぶったカワイイ訪問者達は「こんにちわぁ!!!!!」という元気いっぱいの声をそろえて、付き添えのお母さんと一緒に、
勢いよく飛び込んできた。シュプレヒコールのように「今日はインタビューに・・・・・・・」と声をそろえて挨拶をする。
会社が一瞬にして明るく快活にそして陽気になった。ありがとう黄色い訪問者さん。
一人ずつが代わりばんこに(これって大阪弁かな)かわいいハートフルな声で質問をしてくる。最初の質問者が照れくさそうに質問をはじめた。
1「こうむてんはいつからはじめていまでなんねんめですか」
「昭和12年 1937年創業です。」と答えると。
皆が一斉に画板の上の紙に書き始める。「えー、えー、何々・・・、わかれへん、えー、うまいことかかれへん・・・」
なんて言い合いながら一生懸命に書く。
次に質問者が交代して、
2「みなでなんにんのひとがはたらいていますか」
「社員18人 大工さん12人 雑工4人です。」と答えると、また、大騒ぎをしながら紙に書いていく。
3「ここではどんなしごとをしていますか」と次の人が質問をしてくる。
「ここでは、実際の建物を造るまでの準備をします。設計という作業や見積という作業をしています。」なんて少し難しい言葉を使うと、「えー、
えー、それどういういみ・・・」なんて、またまた大騒ぎになる。
4「おもにどんなしごとをしていますか」と女の子が質問してくる。
「住宅・工場・事務所・マンション・神社・学校建築」と答える。
5次の女の子から「どんないえをたてていますか」と質問される。
「自然素材を使った住宅の新築やリフォームです。」なんて躊躇いも交えて答えると、もう書く方は混乱して・・・・。
6一巡するとまた最初の質問者が、「いえをたてるのにはなんにちぐらいかかりますか」と。
「実際に建てるのには4ヶ月ほどかかりますが、それまでの準備として設計や見積に3ヶ月ほどかかります。」なんて答えると、
もう筆記する方もええ加減な状態になってくる。こちらもそれを分かり易く優しい口調に言い直すのだが・・・・・・。
7「ぜんぶでなんしゅるいぐらいのしごとがありますか」とくる。
「20種類ぐらいはあります。」と答えると。付き添いのお母さんまでも一緒になって「えー、えーーそんなにあるのぉ」と歓声があがる。
8「どんなことにきをつけてせっけいをしますか」となかなか難しい質問をされる。
「住む人の要望を聞き入れることに気をつけてます。」なんて、ちょっと気取り気味に答えている私と社員。
9「木はおもにどこからやってきますか」とへぇーそんなことも考えるのかと感心する。
「九州や四国・奈良県の吉野。」と大ざっぱに省力して答えると。「へぇーよしの。」なんて声を出しながら紙に書いていく。
10「むかしのいえといまのいえはなにがかわったきたのですか」まさか、そんな難しい質問がくるとは・・・・。
「昔の家は地震に対する強度をあまり考えていませんでしたが、今の家は地震に強い家づくり考えるようになりました。」とえらそうに答えると、
ほんとうに書くのがめんどくさくなってきた様子だった。
11「むずかしいのはどんなことですか」と質問。
「住む人の意見を取り入れることです。」なんて優等生的な答え。
12「うれしいのはどんなときですか」と。
「住む人にほめてもらえることです。」とちょっと照れくさく答える。
13「こまるのはどんなときですか」と最後の質問がやってきた。
「・・・・・・・」一同絶句。全てに困っているなんて言えないし・・・と考え込んでいると、誰かが「予算に合わすのに困っています。」と。
な~るほど。思わず出た社員の答えに唸ってしまった。
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