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2014年01月26日
筋肉
10ヶ月ぶりにランニングをしてみると、足の筋肉はつるわ、しんどいわ、で、2回ほど歩こうかと「私」のなかの私が呟いていたが、それを右から左に受け流しつつ、身体の筋肉たちに、リラックスを促しながら走っているうちに、徐々に筋肉がランニングに馴染んできて、とりあえずなんとか走りきった。帰って、家の椅子に15分間ほど静かに座っていると、じわっと爽快感が湧いてきて、こんなのが、ランニングの魅力だとおもう・・・。
そういえば、今年の自転車の初乗りは1月の5日で、柏原の葡萄坂を登って、のどか村で猫ちゃんのささやかな歓迎を受け、信貴山の朝護孫子寺と三郷の龍田大社にお参りし、「寺」と「神社」のダブル祈願で自転車での安全無事をお祈りしておいたのだけれど、それにしても、今日、ランニングをしてみると、自転車で使う足の筋肉とランニングに使う足の筋肉は全然違うなと、つくづくおもった。久しぶりにランニングをしても、心肺機能は自転車のおかげで、向上していて、息が上がる事はなかったが、直ぐに、ふくらはぎの筋肉が筋肉痛になり出したのには少々驚いた。自転車ではまったく違う筋肉を使っているらしい、腸腰筋というらしいが、ま、スプリントではなく距離を乗る自転車の方が、ランニングより、ふくらはぎや太ももが細くなりそうな感じがする・・・・。
今週の加工場では、テレビ撮影の収録があって、うちの協力会社の左官山本組の山本さんが、木村工務店の前掛けを着けてくれて、光る泥団子を造る先生となったのだけれど、昨年は3度ほどNHK文化センターで、「まちのえんがわ」の光る泥団子教室として、2人で講師を務めたりし、職人さんに触れる機会を子供さんたちに提供していたのが、ネット上の検索で引っかかり、こんなハプニングに至って、なんだか、著作権とかいろいろな絡みがあるらしく、さてさて、どんな番組のどんな出演者に光る泥団子を教えて、いつ放映されるのか、それはまた後日・・・・。
そ、お仕事の話。今年最初の住宅相談会が本日あって、ひと組目のAさんご夫妻はお二人の小さなお子さんとご一緒にお見えになって、ご主人は大手建設会社の設計部にお勤めらしく、昨年末に、土地を購入されて、これから設計を始める段階で、勿論、ご自身で、設計をされ、図面や木構造等をうちでお手伝いし、一緒にものづくりが出来ればおもうのだけれど、勿論、奥さんも設計の打ち合わせを一緒にしたいご様子で、ところが、小さなお子様の面倒を見る事にエネルギーがそがれて、落ち着いて打ち合わせが出来ない状況があって、もどかしそうだった。時としては、長時間ではないものの、うちの「女子」がお子様の面倒を見る事もあって、それなりの協力は出来るのだけれど、確かに、2時間ほどの託児機能を望む方が沢山いらっしゃるのだろうなぁ・・・・
ふた組目のBさんは、女性ひとりでご相談にお見えになって、お父さんとの2人住まいになる店舗付き住宅を減築し駐車場にし残った部分を小さな店舗と2人住まいの住宅にリフォームしようという計画で、なんでも、昨年末に突然、お父さまが、そんな計画をコトバに出したのをきっかけに、一気にリフォームムードが盛り上がって、今日の相談会にお見えになった。それにしても、この1月と2月の相談会には、年末やお正月に建て替えやリフォームを「やろぉ!」なんてふと閃いた人が、毎年のようにひと組ぐらいお越しになって、「暮れと正月のリフレッシュパワーによる家づくり」っていうのは、「あるある」なのか・・・。
ところで、建築業界の大工不足や合板不足に足場不足や鉄筋職人不足などなど、今年に入ってからその「不足」の深刻さが少しだけ増してきて、こんな時こそ木村工務店のものづくりの仲間たちによるチームワークのようなものがあって、いろいろな物事を最優先的に考慮してくれる仲間たちではあるものの、それでもあらゆる工程が少しずつ遅れ気味になってくると、どうなるのか、まったく予測がつかないムードが、あちらこちらの業種からじわっと漂いだしてきて、いや、ま、なんとかなるさ、みたいな楽観的ムードも全くない訳でもなく、ただ、建築業界の全般的な運動不足が露呈しだしたのか、別な筋肉を使って運動していたのが露呈しだしたのか、とにかく、ものづくりの「職人」というひとたちとの筋肉の付け方を改めて考える「時」がやってきたような気がする・・・・。
2014年01月19日
ついて、まるめて、たべる。
2008年の1月27日にお餅つきを復活させて、最初は、自宅の庭で、社員の子供さんたちを呼んで、細々と始めたのだけれど、2009年からは加工場ですることにして、小さなお子さんがいるお施主さんにもお声がけをし、少しだけ規模が大きくなり、2010年も同じように続けて、2011年は、年始の仕事が始まってすぐに、突然、社員が亡くなるという出来事があって、お餅つきは中止した。2012年は、「まちのえんがわ」をオープンしてはじめてのお餅つきで、お餅つきと日本的文化というブログを書いた。2013年は、ワークショップに参加して頂いたお客さんにもお声がけし、もう少しだけ輪を広げてみた。
2014年の昨日の土曜日は、お施主さんや、ワークショップに参加して頂いた方々だけでなく、フェースブック上と、「まちのえんがわ」のお店の前にも告知をし、それなりに輪を広げた事で、お施主さんより、「まちのえんがわ」関係の参加者が上回って、初めてお会いする方々もかなりいて、参加頂いた皆さんには、この場をかりてお礼を申し上げておきたい。thanks!
さて、新年のブログに「建築の力」で貢献してみたい・・・と書いたてまえもあって、今年からは、会場のセッティングにも、少々力をいれてみた。暴風シートや長いバーカウンターを設置し、長テーブルや正方形のテーブル、竈、囲炉裏に、通称馬と呼ばれている木材を乗せる台を腰掛けとして利用しながら、お餅付きと共に、いろいろなコミュニケーションが生まれればと願って、建築的な設えを工夫してみた。
餅米を買ったり、食べるものを準備し、飲むものも揃え、会場セッティングをし、火を起こし、お湯を沸かし、餅米を蒸し、ま、そんな準備が大変なのだけれど、とにかく、無事に午後1時からお餅をつき始める・・・・。
↓ まずは、オトコたちが、威勢良く、エエ音をたてながらお餅をつく。
↑ オーストラリアの方の初参加があって、初の「外国人餅」
↑ 左は設計部3人による「設計餅」。右は現場監督が2人同時について「現場監督餅」
↓今年からは「女子餅」を始めてみた。現代女性の好奇心と自主性と勢いを感じた・・・
↑ 妊婦さんも軽くお餅をついて、さて胎児のお子さんは餅好きになるのだろうか・・・・。
↓ 子供達だけでつく「子供餅」
↑スマホで写真を撮るのが現代的光景。
↓ 何世代も交わって、「まるめ方」を教え会う姿は、「生きる」コトの原点か・・・
↑ みんなで一緒に料理を作る原点がここにあるような・・・・。
↑ こんな裏方の作業があってこそのお餅つき
↓ カマドの前で語り合う、オトナとコドモ。
↑ お餅つきが終わった後も、酔っぱらう建築家と施主と現場監督と見積者との無礼講な談義が延々と続いて、それを、ちょっと呆れながら、辛抱強く見守る、建築家の奥さんと施主の奥さんとその子供達。という妙にオモロい光景。
↓ 大工さんが木材を置いて加工するための台になる通称馬が、テーブルに。
↑ お餅つきが終わり、加工barで、ウダウダぐたぐた延々と続く・・・・
こんな感じで、今日のブログも、ウダウダぐたぐたと終わろうとおもうのだけれど、そうそう、写真のところどころに、木村工務店のロゴが入った「前掛け」が写っていて、リフォーム工事をしたお施主さんからの引き渡しの時のサプライズなプレゼントで、この場をかりて、「服の力」に感謝です。
「ついて、まるめて、たべる」というお餅つきには、その楽しさと共に、いろいろな要素が含まれているとおもうのだけれど、それはいったい、なんでしょうかね・・・。
2014年01月12日
年始の伝統のようなもの
1月6日が木村工務店の初出で、例え、6日が日曜日でも、初出なのだと、ま、そんなのが伝統なんだろが、確かに、理由は定かでないのだけれど、なんとなく「イエス」と言って、従う事にしてきた。きっと、工務店という仕事内容とお正月休暇との試行錯誤の末、丁度良い加減のバランスとして休暇日数がそうなったのだろう。6日は、ネクタイをした正装で、普段よりかなり遅い出社として、9時に集合するのも、これもひとつの伝統になっていて、3階にある会議室で社員が集まって新年の挨拶をし、それぞれの年末年始の過ごし方や、この一年の豊富をお互いに語り合い、新しい1年がスタートをする。
午後11時過ぎになると、氏神さまの清見原神社に参拝に行く。社員大工全員と協力会社有志が参加して、神主さんによるお祓いの後、数人の代表が玉串を奉奠し、1年の無事を祈り、それぞれが御神酒を頂戴して、神事による木村工務店としての新年がスタートをする。この神社の増改築工事をして完成したのが2009年で、5年の歳月が立つと、吉野檜の床も落ち着いた光沢を放ちだし、歳月による木の美しさの変化が面白く、1年に1度、拝殿から幣殿を眺めながら、窓から差し込む朝日によって美しく光る木の光沢の変化と共に、時の流れを感じ、世の中の変化を感じ、木村工務店の変化を感じ、私の変化を感じると共に、「いまここ」に毎年毎年同じように座り続けて、何かを見守り続ける「私」の存在のような、「変わらぬ何か」も感じたりするのだった・・・・。
お昼からは、これも長く続く伝統として、新年会をする。勿論、数十年前は、そんなの無駄な経費で、必要ないと考えた時期をあったが、70人近くの、ものづくりの仲間たちが一緒に集まって、新年の挨拶を交わす事で、それぞれが、お互いに新年の挨拶回りに奔走するという、無駄が省けて、有難いことだと気付いたのはここ数年の事。それに賀詞交換会ではなく、宴会をし、「膝をついて杯を酌み交わす」コトに拘るのは、弊社の会長で、お酒に関してはまったく省エネルギーな私なのだけれど、そんな「私」でも、膝を付き合わして杯を酌み交わすという作法によるコミュニケーションの親密さは、大いに面白く感じ、1人ずつ全員にお酒をついで廻るのが、新年の「私」の大切な「シゴト」でもある。
そういえば、シャチョウになってからは、もうひとつ新年早々の大切なシゴトがあって、それは新年の挨拶として、年頭所感のようなものを15分間ほど話す事になっていて、勿論、徐々に場慣れのようなものはしてくるので、人前で話す事への緊張感は薄らいでいくのだけれど、流石に話す内容は、その場のアドリブで話すほど、ビジネス的ボキャブラリーが豊富でなく、適度に「ネタ」を集めて整理しておく必要があって、年末の29、30、31の三日間は、家庭の年末シゴトをそれとなくこなしながら、暖炉に火をくべ、ソファーに腰掛け、床にごろごろし、数冊の本を読んで、大まかな方向を決めるのが、年末の楽しみのようなシゴトのようなもの。それで、新年の3、4、5の三日間は、スキーをし、カニを食べながらも、どこかに新年の挨拶へのちょっとしたプレッシャーを感じていて、ふとした瞬間に「ネタ」を考える切迫感が襲ってくるのは、新年の挨拶という伝統のようなものを受け継ぎ継続するための、どこかにあるエネルギー源から、その緊張感が放たれているのかもしれないと想像するのだった・・・。
新年会が終わると午後4時前で、しゃぶしゃぶの木曽路のマイクロバスに送られて会社に到着し、その後、数十名が居残って、加工場のカマドと囲炉裏で2次会が催されるようになったのは、昨年からの事。これが、新たな、年始の伝統のようなものに加わるのかどうか、まだまだ解らないが、意外な盛り上がりをみせる。そういえば、清見原神社を造った大工の沖棟梁が2次会にも参加していて、年月が経つと共に檜の床が光るのは、鉋で木を削り光らすという、日本文化としての道具と技術の伝統があるからだ・・・。という話で盛り上がったのだけれど、大工仕事によって、日本文化を伝えるために、海外でシゴトをしたいのだ!。と蕩々と語るのだった。何とかして、「私」に、海外で日本の文化を伝えるための大工シゴトを取ってきて欲しいとヨッパラウのだった・・・。そうそう、オキ棟梁は、茶室を造るのに、茶事を習わなくて、どうするのだ!というひとで、茶道にも精通していて、「まちのえんがわ」ワークショップで、茶会をしたいという直々のオファーもあって、今年の秋にはワークショップとして、大工棟梁による茶会を開こうとおもう・・・。
「年始の伝統のようなもの」といえば、建材商社イナバによる新年初荷の「337拍子」があって、最近は、初荷を持って来ることは、流石になくなったが、それでも新年の景気付けのために、若い社員たちが伝統を受け継いでいて、笛と太鼓を打ち鳴らし、扇子を両手に持って大声を張り上げて、「アホ」なコトをする訳で、大阪弁の「アホやなぁ・・・」は最高の褒めコトバでもあって、こんなアホ伝統は必ず守り続けて欲しいとおもう・・・。
「商売繁盛で笹もってこい」の戎っさんに行くのも、大阪人にとっては「年始の伝統のようなもの」で、今宮戎に行く時もあるが、最近は、布施の戎っさんに、夫婦で詣でるのだけれど、それなりに高い値段の笹を買いながら、こんな戎っさんのような、儲かるエエ商売せなアカンなぁ・・・などと、少々えげつないコトバを発しながらも、お互いの商売繁盛を願うのが大阪人の年始なんだとおもう・・・・。
そうそう、3年目を迎えた「まちのえんがわ」では、突然、新年会のようなものを開くコトになって、寒い中、引き戸を全開にして、ストーブをガンガンと炊きながら、20名ほどで、ワイワイガヤガヤと狭い空間の中で、ひしめきながら、親睦を深めた。いずれ、こんなのも、継続されて、新たな「年始の伝統のようなもの」の仲間入りになればとおもう・・・。
ま、右肩上がりの成長戦略も羨ましい限りだが、伝統を受け継ぐという成長、継続するという成長、持続しているという成長、もはやそんなのは成長戦略とは呼べないのかもしれないが、アベノミクスの3本目の矢としての成長戦略は、それぞれの会社なりの、ささやかな成長戦略を自主的に考えるのが良さそうにおもうのだ・・・・。
2014年01月05日
行く年来る年
新年、あけましておめでとうございます。
2014年になって、急に、物事のすべてが変化し、魔法のような、劇的な何かが起こるとは、思えないが、紅白歌合戦で、泉谷しげるが、熱唱していて、確かに、今日で、全てが終わり、変わり、むくわれ、始まる、ような気にさせられたりしたのは、「歌の力」だな・・・。そういえば、綾瀬はるかの「花は咲く」に、不意をつかれたように涙を誘われたのも、「女優の力」なのだろう・・・。そうであれば、私たちは「建築の力」で貢献できればとおもう。
大晦日は、木村家の恒例行事として、毎年毎年、黒門市場と鶴橋市場で、お正月の食材を買う。大学生になって車の免許を取った時は、祖父や祖母の運転手として、買い物に付き合っていたが、暫くして、行かなくなった・・・。祖父が亡くなり、祖母が亡くなり、それでもその不思議な伝統は引き継がれ、3年前までは、父が運転手となり、母やうちの奥方や弟の嫁さんと一緒に年末の市場に行っていた。一昨年の暮れは、なぜか親父の代わりに何十年ぶりかで「私」が運転手となり、母と奥方と弟の奥さんとの4人で、出向いた。ところが、この年末は、母が入院し、父も胃の手術後で、体調が優れず、「私」と奥方の2人で、「クロモンとツルハシ」に行くコトになったが、偶然帰阪した長男が同行してくれて、全く新しい組み合わせで、その「伝統」を引き継ぐコトになった。
中沢新一著の「大阪アースダイバー」には・・・
カマドはいろいろなものが、大きな転換をおこすのである。薪は火となって燃え、灰となって崩れる。鍋の中の水は煮え立って、生のものが、調理されたものへと、姿をかえる、カマドはかつて家の中心におかれて、そこで食材も人生も転換をおこした。
(中略)
「都市のカマド」といえば、それは古来から市場ときまっていた。マーケットとバザールと呼ばれる市場は、じっさいカマドと同じように、さまざまなものの転換がおこる場所である。市場に運び込まれたいりいろな食材は、そこで交換されて、家庭の台所に持ち込まれる。大地と海がもたらした恵み(贈与物)は、市場でお金に換算されて交換されるが、家庭の台所で調理されて、みんなの健康をささえる恵みに姿を変える。都市を大きな家に例えれば、確かに市場は都市のカマドにあたっている。
(中略)
東京からやってきた私にとって、大阪でのなによりうれしい発見は、そこで転換装置であった頃の記憶を保っている、そのような市場がまだ健在であることを知ったことである、私は黒門市場のことを話そうとしている。いまでは「大阪の市場」と言えば、黒門市場と鶴橋市場と相場が決まっている。この市場の繁栄ぶりに比べると・・・・・・、・・・・・。
(中略)
庶民は食べることで自分たちの身体に入れる食材の出てくる土地についての、直接的な感覚を保っていたい、と考えるので、市場で買い物をするのを好む。食材は土地からの贈り物であり、それをありがたくいただくのが、人間のまっとうな生き方であるとするのなら、出所もわからない外国産の食材やら、信用もできない人たちが心をこめないでつくったものを、自分の口に入れたくないという、庶民は潜在的な反TPP派である。
黒門市場のようなほんまもんの市場では、自然のもたらす富と経済の交換が直接に出会って、転換をおこしている。そこで売られている魚も野菜も、もともとは太陽のエネルギーと海と大地がいっしょになって生み出した、自然からの贈り物だ。ここのような野性的な市場では、自然のおこなう贈与の現場である海や畑と、そこからの作物がお金を仲立ちにして交換される現場とが、直接に触れ合っている。だから庶民は、市場の向こうに、海や土の広がっているのが感じられるような、そういう市場で買い物をするのが好きである。
明治生まれの祖父と大正生まれの祖母は、おそらく、このような感覚を持って、クロモンとツルハシに、普段から通っていたのだな、と思った。そして、いよいよ「私」たちとこれからの若い世代が、それを引き継ぐ順番が廻ってきたのだ。暮れに、市場で新鮮な食材を売る威勢の良いかけ声を聞きながら、人混みに揉まれ、立ち止まって鮮魚を買い、また人混みに揉まれる。そこには独特の心地よさがあって、それは、行く年来る年の転換が起こる「市場経済」としての「カマド」だったのだな・・・。
新年は、朝、8時過ぎから、一年に一度しか使わない数寄屋造りの座敷で、「おとそ」をする。長男は友達たちと恒例のように三輪神社に参拝に行っていたし、次男も友達数人と天満宮に初詣に出掛けていたが、なんとしてもこの時間に戻ってきて、「おとそ」をするのが、木村家の新年の「しきたり」で、私も結婚するまでは、毎年のように、同級生数人と初詣をし、ミナミで遊んだ後、この時間に滑り込むように戻ってきたものだった。今年は親父と、うちの家族4人の計5人による、おとそで、最も少ない人数だったのかもしれないが、この座敷が、家族の行く末を見守ってくれているのだとおもう・・・・。
私たち夫婦は、紅白を見終わったあと、午前零時に氏神様であり弊社で建てた清見原神社に参拝し、宮司さんと新年の挨拶をかわして、新年を迎え、朝の「おとそ」に臨んだ。そうそう、会社にお稲荷さんがあって、新年には親父が蝋燭に火をともしてお参りをしていたのだけれど、今年はその役目を「私」に託されて、それで、新年の朝、会社に行くと、なんと、現場監督のオオムラくんが、出社していて、新年から図面を書いてるのだという・・・。これには驚いた。新年初オドロキだった。「おとそ」が終わった後の座敷に誘って、うちの家族と一緒に、おとそをし、おせちを一緒に食べながら語り合うという、今までとはちょっと違う、新年の幕開けとなった。
3日は、長男次男と私の3人でハチ北高原でスキーをし、リフト開始から午後1時まで滑べって、丹後半島の間人(たいざ)まで移動し、奥方と合流して、「間人がに」を食べた。これが値段相応なのか、よくわからないが、かに刺し、カニみそスープ、かにすきと、今までで、最も美味しかったことは確か。それにしても、料理を出す時に、仲居さんでなく、若い男性が、親切に、料理やその歴史を説明してくれて、雑炊の作り方も丁寧に指導してくれながら作ってくれたのが、美味しい食材を食べる+αがあって、それが間人がにをより印象深くする役目を担っていて、そんなのが、以外と参考になったなぁ・・・・。
そんなこんなの行く年来る年であって、明日、1月6日(月)は、初出と参拝と新年会で、木村工務店2014が始動致します。本年も、このブログ共々、木村工務店と「まちのえんがわ」をご愛顧くださいますよう、よろしくお願い致します。
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