2013年06月30日
雨の月の物語
6月30日は半年の折り返し地点で、「夏越しの祓」といわれて、半年の穢れを祓うために、人形に汚れを移して水に流したり、大きな茅(チガヤ)の輪をくぐって、清浄を願うらしい。ふつうに月末でもあって、うちの会社では、昔から、専門工事会社や職人さんから送られてきた請求書を査定するコトになっていて、「私」の仕事は、何百枚もある全ての請求書に印鑑を押すことで、その中には、印鑑を押すのに、戸惑いや、躊躇いや、少々の憤りすら感じる、押印もたまにはあって、そんなのが続くと、ネットサーフィンでもしながら、押印ストレスという荒波を乗りこなす。
地図が見ることが好きで、小学生の頃から、東大阪・布施駅前通りにあるヒバリ屋書店の1階の階段横にあった地図コーナーで、国土地理院発行の五万分の1か二万五千分の1の地図を買っては、等高線を眺めながら、想像上の道を旅した。そんな事もあってか、裏道や細い道に入るのが好きで、自動車に乗っても、別に早く到着するわけでもないのだけれど、主要幹線を走らずに裏道だけを楽しみで走ることも多い。時には道に迷うことが好きだったりもする・・・。まぁ、その癖が変に高じて、自転車で道に迷い、鎖骨を骨折したのだな・・・。
梅雨の月末。きっと請求書の押印ストレスがあったのだろう、夕刻過ぎて、無意識にネットサーフィンをしていたシャチョウ職の「私」。ブログや検索や買い物サイトを見るよりも、圧倒的に地図を見る事の方が多い。インターネット時代になると、当然、国土地理院発行の地図からグーグル地図に移行しているわけで、そのグーグル地図の「道」を徘徊していた。そうそう、ゴールデンウィークに明日香にサイクリングに行き、その帰り道に、奈良県の王寺駅と三郷駅の間にあるカフェで、遅いランチを食べた。そこに、日曜日の朝に何人かで、サイクルモーニングミィーティングをするのもエエのでは・・・とおもいながら、「道」を巡る。
主要幹線の25号線を通らない、集落の街道はないのだろうか・・・。西名阪高速道路や南阪奈高速道路から眺める柏原あたりの葡萄畑の丘には、ちょっとした憧れがあって、いつか行って見たいのだが、自動車で行くのはどうも・・・、かといって、歩くのはイマイチ、そんな時に垣間見たロードバイクの世界があって、アップダウンの連続で、しんどそうだけれど、どんな感じなのかと、グーグルのストリートビューを見ながら徘徊する。
ある瞬間、集落の中にある「秋成文庫」という表記に妙に惹かれる・・・。えっ、それ何?。「まちのえんがわ」でちょっとした古本屋さんもやっているので、「文庫」といクレジットに反応する「私」。それで、グーぐってみる・・・。
Amazonの上田秋成著の雨月物語が一番最初にヒットし、数行下に、松岡正剛の千夜千冊の「雨月物語」があって、クリックし開いて読む。
『雨月物語』は中国と日本をつなぐ怪奇幻想のかぎりを尽くしている
『雨月物語』が日本文学史上でも最も高度な共鳴文体であることにも目を入れこみたい。問題は文体なのである。
秋成は狂いたかったのである。心を狂わせたいのではない。言葉に狂いたかった。スタイルを狂わせたかった。
そんなエエ本なのか・・・。「上田秋成と雨月物語」という字句が目の前に突然現れてきて、そういやぁ、映画もあったような・・・、なんとなく聞いた事はあったのだけれど・・・、今まで、全く、興味の対象でなかったコトバ。続けて、グーぐる。ウィッキペディアに上田秋成があり、クリックして読む。なるほど、こんな人なのか・・・。大坂の商人の出身なのかと、少し親近感をおぼえる。それにしても秋成文庫には全くヒットせず、次へ次へとクリックするうちに「村上春樹文学誕生の秘密-兵庫県立図書館」が目にとまりクリック。・・・
デビュー間もなくの 1981 年、作家村上龍との対談で、自分にとっての名文というのは以下のように語っています。「恥を知っている文章、志のある文章、少し自虐、自嘲気味ではあっても、心が外に向けて開かれている文章」、そしてそうした文章の書き手として具体的には、「スコット・フィッツジェラルド、カポーティ、上田秋成、少し質は違うけれどレイモンド・チャンドラー」「ヴォネガットもいい」といった作家を挙げています。
ハルキは、上田秋成のファンだったのか・・・。結局、秋成文庫の実態はわからないまま、気がつくと、アマゾンのワンクリックで、雨月物語の原文に現代語訳や語釈や解説が付いている、ちくま学芸文庫版を買っていた・・・・。
今週は梅雨が続いて、ようやく少しだけ青空が見えてきた金曜日に、雨月物語が届く。クリックした翌日の到着。自転車とグーグル地図とグーグル検索とアマゾンが「縁」を創り出し、購買を促す、そんな時代なのだ・・・。会社では、月末の請求書査定押印のピーク日が、その日、金曜日だった。もちろんそれなりのストレスを感じながら、なんとか、ひと段落がついて、夜、家に帰って、本を手に取る。江戸時代の古典を読めるかどうか、そんな能力があったのかどうか、その不安通り、高校時代に古典を勉強をしなかった当時の「私」を嘆きながら、原文をチラチラ読むも、現代語訳に活路を見いだす、いまここの「私」。これならなんとか読めそう・・・。
そんなわけで、現代語訳を読みながらソファーで寝てしまい、夜中に寝床に戻る金曜日の夜。土曜日の夜も同じように、ソファーで本を読みながら寝入る。本日の日曜日は、久しぶりに「行事」のないオーソドックスな休日で、なんだか嬉しい。それに、梅雨の晴れ間!。早朝、先週に引き続き、11kmのランニングをするが、数ヶ月間ランニングから遠ざかっていたので、足腰がパンパンで脱水状態の「私」。
それで、家族を誘って、朝のスーパー銭湯へ行くことにした。サウナと水風呂に入って体と心をほぐし、帰ってからは、我が家のデッキで、家族揃って、朝食を食べる。あれぇ、こんな日曜日の朝の一連の流れって、何時以来なのか・・・。雨月物語が横に置かれ、大阪人の好きなミックスジュース付きモーニングを・・・。
そんなこんなで、デッキで本を読み。「まちのえんがわ」に出向いて、最近、関西ローカルの朝のテレビで、「町の人間国宝」に認定された、遊び菜のマスターと世間話をしながら、本を読み。自転車の調整をお願いしている、長居にある自転車屋さんアウグーリオへ自転車を引き取りに行く道中の地下鉄で本を読み。帰りは自転車で走って小路まで帰りついて、「まちのえんがわ」で、冷たいお茶をグイグイ飲みながら本を読み・・・と、原文はチラチラ見た程度なのだけれど、現代語訳だけを読了する。
妙な「縁」のお陰で、不思議な物語の世界に引き込まれた・・・。幻想怪奇小説だと言われているらしい・・・。内容は前出の千夜千冊に譲るとして、きっと、「夏越しの祓」のごとく、人形に汚れを移して水に流したり、大きな茅(チガヤ)の輪をくぐって清浄を願うような、そんな効果を「雨月物語にまつわる読書」が、「私」にもたらしてくれたのかもしれない・・・。リフレッシュして、残りの半年に向けましょぉ。
投稿者 木村貴一 : 2013年06月30日 23:59 « サンデーモーニングライド | メイン | マナカードによると。 »