2009年08月02日
無事を事とし
8月だというのに、夏が始まったような、始まってないような、セミが鳴いているようで、鳴いていないような、雨が降るようで、降らないような、暑いような、暑くないような、とっても、中途半端な初夏。
庭で、小鳥がピーピー、ピーピーと鳴いていて、親鳥が二羽、木々に留まったり、空中を旋回しながら、ピィー、ピィー、と、小鳥を探している・・・・・。何とかしてぇ・・・と、奥方が、会社に電話をしてきた。うちの会社の「おくりびとK」に云うと、「生きているものは・・・・」と、小声で呟いた。
産まれて間もないのだろうか、一羽の小鳥が土の上を、よちよちと、歩きながら、何とも言えない目で、こちらを見る。近づくと、飛べそうで、飛べそうにない羽根で、バタバタさせながら、ほんの少しだけ、空中を滑空して、逃げる。逃げているような、逃げていないような。
廻りをよく見ると、もう一羽の小鳥が、木の葉っぱの中で、羽根をばたつかせながら、ピー、ピーと鳴いていた。2羽の親鳥は、小鳥の居場所を、ハッキリと、認識しているのだろうか、知っているような、知っていないような、そんな素振りを繰り返しながら、心配そうに、木々の中を渡り歩いている。
出来そうで、出来ないことが、世の中には、いっぱい、あると、おもう。しっかりと、成り行きに任せる以外、どうしようもなかった・・・・・。
二日後の、日曜日の、いま、庭には、小鳥の姿も親鳥の姿も、その鳴き声もなく、晴れそうで晴れない、曇っているようで、曇っていない、天気の中で、セミが、「もう夏でっせ」とミィミィと鳴いているものの、あの小鳥はどうなったのだろう・・・。飛び立ったのだろうか・・・・。老子か何かに、「無事を事とし」なんて、話が、あったような、なかったような。
無事を祈るばかり・・・・・・。
鳥の側から、離れて、会社に戻ると、会社の近くに住む60代の男のひとが、突然尋ねてこられて、地元の清見原神社が、完成し、嬉しいので、お祝いに、これをお持ちしました。と、仰った。一度も面識はなかった。
先週、仮社殿にあった御霊が、弊社で増改築工事をした、新社殿に移す儀式があり、少しの工事は残すものの、ほぼ、完成という状態になった。
現役時代は、建築の本を売り歩く仕事をしていたので、この「規矩術」の本が、木村工務店の大工さんの、何かの、勉強になれば、幸いです・・・・・と。時には、夜の10時を過ぎても、木村工務店の加工場で、大工さんが、遅くまで、頑張ってはる姿を見ていたので・・・・。この生野区の小路の町の中で、材料を全て加工してくれはったのが、嬉しくて・・・・・と。
清見原神社を増改築するにあたって、宮司さんの意向もあって、「木造」であり、「千木と鰹木」があるという事。純然たる「吉野檜」で造作をするという事。それに、この大阪市の生野区の小路という小さな町の中の加工場で、材木を全て、「手加工」するという事。増改築として、既存の建物も残し、耐震改修をし、増築する社殿はオーソドックスな神社建築でありながら、現代の木構造の基準を満たす事。などなどを、こだわったような、こだわってなかっような・・・・。それは、それなりの、しっかりとした、成り行きでもあった。
それらの要件をまっとうするため、設計は、奈良の今井町で町並みの保存と監修をしている林清三郎(林木造建築研究所)さんに基本設計を依頼した。木村工務店の会長をしている、私の父の高校時代の同級生でもあった。
大工は、沖棟梁に依頼した。「木村工務店の大工」という呼び方には、誤謬があるので、「木村工務店の息のかかった大工」と呼んだ方が、正しいとおもう。「木村工務店の体質」を、「良し」として、受け入れくれ、うちも、その大工さんの仕事と人柄を気にいって、うちの仕事をしてくれている大工さんの事を、「木村工務店の息のかかった大工さん」とするのなら、沖棟梁は、一年に一棟ほどの、新築や増改築を、依頼する木村工務店の息のかかった大工さんのひとりであった。数奇屋の大工でもあり、平田雅哉の弟子でもある。あの吉兆なども手がけたという・・・・。
角材を丸柱に加工するための道具の工夫も含めて、全てを、大阪の下町の小さな加工場の中で、造りあげるのが、沖棟梁にとっての、「あたりまえ」の事柄でもあった。うちの社員大工である別處くんは2年間、棟梁のお世話になり、匠技をどれだけ受け継いだのか知るよしもないが、大工としての、「気構え」の何かは、受け継いだに違いない・・・・。
構造は、木構造研究所の田原さんに、お願いした。神社建築で壁量計算をするのが、妥当なのか、限界体力計算が相応しいのか、もっと、新しい構造基準が求められているのかどうか、様々な、議論の余地は残るものの、いまの建築基準法に合致した、木組みの建築を造るためには、様々な構造的テクニックが必要なのは事実だった。それを、基本設計者と大工さんに「納得」してもらうためのコミニュケーションも重要な事だった。
吉野の檜は「金幸」という奈良桜井にある材木屋さんから調達をした。みごとな檜材だた。都会からの多くの人々の寄付が、「木」に費やされた。それは、ひいては、間接的に、吉野の山を育てる事になり、山を育てる事が川を育て、海を育て、それが、山の幸、海の幸を豊にする事に繫がっていくのだと、おもう・・・・・。
私の役目は、背後で、応援歌を静かに歌う事だった。その前面に出て、工事部長の冨桝くんと現場監督の守田くんが、そして、定年後も会社で技術指導をしてくれている福本さんが、様々な事柄を調整した。
出来上がってから、改めて、黙って見守ってくれていた、地域の人々がいて、陰ながら支えてくれていたのだと知る。「無事完成した事」が最大の事なのだとおもう。「感謝」
投稿者 木村貴一 : 2009年08月02日 19:43 « ブログ上で、様々な事柄が絡み合う。 | メイン | 一緒に »