2012年07月08日

まとわりつく

ヒッグス粒子というのが発見されたらしい。こんな風にアナウンサーが喋っていた。「ヒッグス粒子が光速で動き回る粒子の行く手を阻むように、まとわりついて、遅くさせた。これが「質量を持つ」ことの意味だという。」へぇー、そうなんだ。「まとわりつく」というコトバが「私」の脳内の一部にまとわりつく。

「まとわりつく」事がなければ、自由に飛び回わってどこかへ行ってしまい、物質はできないらしい。「まとわりつく」ことで、動きにくさがうまれて、動きにくさが質量で、そして物質がうまれるのだという。なんだか、そんな出来事、まわりにいっぱいありそう。たとえば、恋愛なんて言う現象も男女がまとわりつく事で、なんというのか、恋いうのか愛というのか、そういう質量のようなものがうまれて、あの独特の感覚が物質のように存在するのかも。その元は「まとわりつく」事だったのか・・・と妙に感心する「私」。

いやいや、そうじゃなくて、ある男性とある女性の間にヒッグス粒子のようなもの、「まとわりつく」ような空気とかムードが存在しなければ、恋とか愛とかは、生まれないのだ。と考える方が良いのかもしれない。

NHKの解説によると

ヒッグス粒子が担っている最も大きな役割は、宇宙のすべての物質に「質量」、つまり「重さ」を与えることです。

およそ137億年前、宇宙が誕生したビッグバンの大爆発によって生み出された大量の素粒子は、当初、質量がなく、自由に飛び回っていました。

ところが、その後、ヒッグス粒子が宇宙空間をぎっしりと満たしたため、素粒子がヒッグス粒子とぶつかることで次第に動きにくくなり、物質を構成していったと物理学者たちは考えたのです。

ヒッグス粒子にぶつかることで動きにくくなる、この「動きにくさ」が質量そのものだと考えられているのです。

ヒッグス粒子はよくパーティー会場のたとえ話で説明されます。
会場を訪れた大勢の人たちが「ヒッグス粒子」だとします。
その人波の中を、人気アイドルが通りすぎようとすると、たちまち多くの人にまとわりつかれて動きづらくなります。
この「動きづらさ」が、質量・重さだというのです。

「動きづらさ」が「重さ」なのか・・・。とおもう。重さというか負荷のようなものがあるおかげで、前に進もうとするエネルギーや、アイデアや、創意工夫が生まれる時があって、歳を重ねるにつれて、そんな経験も重ねる。それに「動きづらさ」のようなものがあるおかげで、様々な「気づき」をもたらしてくれるし、痛みとか失敗という経験が何かに「目覚め」させてくれたりもする。それもこれも「まとわりつく」何か粒子のようなものがあるからなのか・・・。

「動きづらさ」を想像してみると、身動きの取れない状態を思い起こして、なんか、解放されたい気分になり、「軽やかさ」とは何だろうか。と。物理の言葉を使って検索することなどめったにないので、「軽やかさ 物理」でグッグってみると、「思考の飛躍―アインシュタインの頭脳」という本にぶつかる。

アインシュタインと同時代にも大勢の有能な物理学者がいた。では、なぜ、アインシュタインだけがずばぬけて頭角を現したのであろうか。著者は、その理由を、「彼が伝統のしがらみを飛び越える軽やかさを持っていたからである」と看破する。

「伝統のしがらみ」というコトバが「まとわりつく」を連想させ、「まとわりつく」が「動きにくさ」に結びつき、「動きにくさ」が「質量」を思い起こさせ、「質量からの解放=動きにくさからの解放」が「軽やかさ」を想起させる。「軽やかさ」とは、「しがらみ」とか「とらわれ」とかいわれるものが「まとわりつく」ことで、「動きにくさ」がうまれていて、そういう環境の中で、軽快に動き回れる力のコトなのか・・・・と。

どこにでも存在していると考えられているヒッグス粒子ですが、発見に向けた道のりは、平坦ではありませんでした。
非常に小さく、空間に密集して存在しているため、空間からヒッグス粒子をはじき出すためには、宇宙が生まれたときと同じような極めて大きなエネルギーが必要とされたのです。
このため、CERN=ヨーロッパ合同原子核研究機関は、1周が27キロある巨大な「加速器」と呼ばれる実験装置を建設し、人類史上、最大のエネルギーで、2つの陽子を衝突させ、宇宙誕生の直後を再現する実験を続けてきました。

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目に見えない粒子を発見するために、地下100mのところに周囲27kmに及ぶ巨大な装置をつくるのが、ちょっと馬鹿げていて、でも凄いなとおもう。装置そのものが、なんか、ものづくりの心を刺激して、とってもカッコエエ。なんてコトより、やっぱり、「まとわりつく」という感覚がオモロイのだ。真空は何もない状態じゃなく、ヒッグス粒子で溢れているのだそうだ。素粒子はヒッグス粒子と相互作用して質量を持つのだそうだ。

なんか解ったような解らんような話だが、とにかく、人にまとわりつくような情報がヒッグス粒子のような状態で、まわりに溢れていて、本とか、インターネットとか、テレビとか、噂とか、そんな自己相互作用をした情報が、ある人と相互作用して、ある人に、まとわりつき、動きにくさがうまれ、質量となり、その人に負荷のようなものを与える。それを飛び越えようとする「軽やかさ」が、生きるためのエネルギー源となったり、ものづくりを生み出す原動力になったりするのか・・・。

と思索する気分になったのは、涼しい小暑の夜だったからだな。

投稿者 木村貴一 : 2012年07月08日 23:43 « 省エネな夏の暮らしのための「窓」 | メイン | 「ハート」 »


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