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2015年02月22日
カルチャーショック2
生野区のものづくりを見学するツアーがあって、正式には3月14日土曜日にまちのえんがわ主催で開催するのだけれど、それと平行しながら、下見も兼ねて、いろいろな工場を、生野区役所の方々の案内で、一緒に訪問していて、先週は、切り子ガラス工芸研究所のたくみ工房さんにおじゃまして、硝子を削ってデザインをする作業も体験したりし、硝子を、回転する砥石で直接削ってデザインするのを知って、へぇー、っと驚いたりしながら、最近の作品のひとつがこれでと、右の写真の花瓶を見せてもらって、透明の部分が一番手前で、それを順番に削って、編んだデザインの部分がガラスが削られて薄くなっていて、だまし絵のように、妙な感覚にさせられる硝子細工で、最後に一カ所でも失敗すると全てが台無しになるなぁと「私」の心は呟いていたのだけれど、なんでも、和室の天井の「網代組」を見て、アイデアを思いついたのだという・・・。
それで、先日体験した「茶事」の床の間に、網代組デザインの切り子硝子の花瓶に、生け花の姿を想像してみたが、そういえば、夜噺しの茶事では、生け花を飾らないらしい。それに「初座」と「後座」と2回に別けて茶事を楽しむこともその時初めて知ったのだけれど、初座では「日々是好日」という掛け軸だったが、後座では、掛け軸に替わって、箒を掛けてあって、それを「掃込」と言っていたとおもうが、床の間にそういうのを掛けるコトが、ま、大工棟梁の亭主としての「見立て」と洒落でもあるのだろう・・・。写真を取り忘れたのだけれど、なにより、茶事の席で正客が、それなりに恐縮しながらも、スマホで撮影をする事を許されていたのが、学びを兼ねた今回の茶事の大らかさだったのかもしれない。
それより2帖の和室に5人が正座しながら食した「茶懐石料理」の作法に対して、全く無知なワタシがいて、亭主が黒い足のないお膳を持ってこられて、「折敷」と云うらしいが、正客が、まず両手で受け取る事から教えてもらうわけで、ほんまもんの「一汁三菜」を食べる作法もあるらしく、左手で飯椀を、右手で汁椀を同時に取って、汁の蓋を飯の蓋にかぶせて、折敷の右側に一直線に置くという事から学んで、向こう付けを頂点とした正三角形に置かれた左のご飯から食べて、汁を飲んで、と、その食べ方までは、その場ではいちいち教わらなかったが、ネットで見ると汁を先に飲んでと書かれたものもあって、相変わらす、作法というのはムツカシイ。
ご飯が、「ねちゃっ」とした味で、先ほど調べると、たきたての、まだむれていないご飯を一口盛って、お客様のお越しを待ちかねていた心を表すらしい。この後、私はすぐに、向こう付けをひとくち食べたのだけれど、本来なら、お酒を飲んでから手をつけるのだとか。お恥ずかしい。それより、「酒3献」というらしいが、お酒が出てくるのが、なんとも不思議な感覚で、ご飯もでて、それを食べて、お汁を飲んだ合図で、お酒が出てくるのが作法らしく、ご飯とお酒を一緒に飲み食いする茶懐石料理の作法があって、あの慰安旅行などでの宴会料理の、最後にご飯が、というのは、後に生まれたのだと、あ、そらそうね、なるほど、と知るのだった・・・。
亭主が、銚子を右手に持って、左手に杯を重ねた台をもって、私の前に座って、お酒をついでくれて、もちろん、宴会でよくやっている作法の源流がここにある事を体験するわけで、順番にお酒をつぎに廻ったあと、お銚子を私の前に置いて、茶道口に去り、今度はおひつを持ってきて私の前に座って、「御飯よそいましょうか」といわれたら、「どうぞおかまいなく」と応えて、次々に送っていくのが作法らしい。私の汁椀を持って帰り、隣のタナカくんにも同じ事をし、次に来た時は、私の汁椀を持ってきて、ワタシの横の横のオオムラくんの汁椀をとりにきて、タナカくんの椀を渡し…を順次繰り返して、最後までいって、それから、おひつを持って帰ったのだと思うが、あれぇ、これで合ってたかな、どうも記憶が曖昧になってきた・・・。
とにかく、煮物の椀盛りがでて、その作法があって、2回目のお酒がでて、亭主についでもらって、そういえば、4客目のササオさんはお酒をお断りして、それも作法としてOKらしく、それから焼き物がでて、焼き物の取り方の作法があり、お盆にのった皿のひとつを自分で拭いて、そこに取って、次々に回していくのが作法らしく、とってもエコな作法で、微妙にカルチャーショックだった。それから2回目の御飯がでて、お汁のお代わりも勧められて、お汁のお代わりは、断るのが礼儀だと教わるのだが、あっ、めんどくさっ!と心の中で呟いてる「私」もいて、でも、ま、それなりに、そんなのも理解できる歳でもあるのだが、とにかく、その後、預け鉢というらしいが、それがでて、これで、終わるとおもいきや、暫くして、箸洗いの吸い物がでて、お盆が下げられて、酒の肴とお銚子を持った亭主がどことなく嬉しそうに茶道口から現れるのだった・・・。
「千鳥の杯」という杯を酌み交わす作法があって、亭主が正客である私の杯にお酒を注いで、正式には亭主が「お流れを」正客は「ご用意があれば、別盃をどうぞ」亭主は、「持ち合わせませんので」という、コトバの儀式をやるらしいが、正客のワタシは懐紙で杯を拭いて、その杯を渡し、亭主は正客の杯を借りて、ワタシが亭主についで、その酒を亭主が飲みほし、それが、次客や三客四客五客へと、ワタシの杯が、千鳥状になりながら廻って、懐紙で拭き、酒を酌み交わし、と、再び私の元に戻って来て、私、これがいちばん好きやねん、という亭主のコトバと共に、再びワタシの杯に、お酒が注がれて、妙な一体感が生まれるのだった。
確かに、舞台演出のような楽しさがあって、気分が高揚するわけで、止まり木をあちらこちらと「遊ぶ」鳥のような「杯」が、亭主と戯れる姿を見ながら、自分自身は止まり木になったり、また一緒に遊ぶ鳥のようにも感じながら、和蝋燭の炎が格好良く揺らぐ、ほの暗い2帖の間で、「網代組」のような縦横にみっちりと織り込まれるような演出(おもてなし)と作法が、延々と続くのだった・・・。
2015年02月15日
初午の祈り
「初午祭」という木村工務店の伝統行事として催す「祭り事」があって、昨年の暮れに忘年会があり、新年早々に新年会をし、それに最近はお餅つきを1月中過ぎにするようになって、さらに2月のこの時期に、「また飲むのかい!」というコトに、シャチョウという立場を鑑みても、流石に、「躊躇」のような気持ちが湧き上がってくるわけで、それ故に、春過ぎてとか、夏前にとか、秋の日にとか、時期をずらして、職人さんの安全祈願を兼ねた初午祭をするほうが良さそうに思えてきて、そんな迷いのようなものが、そこわかとなく忍び寄ってくるのだった…
そもそも「初午祭」というのは農作物の豊作をを祈って、農作業が始まる前のこの時期に祈願したのが始まりだそうで、奈良時代の初午の日に京都の伏見稲荷大社に稲荷大神が鎮座したらしく、稲荷は稲生る神でもあるわけで、豊作を祈る祭りとなったのだろう。それに2月最初の午の日(初午)は一年のうちで最も運気が高まる日であるという。ならば、農作物を作らない私たちは、豊作を祈るかわりに、沢山のお客さまに恵まれますことをお祈りすることになるのだろうし、今年の初午の日は2月11日で、その近しいこの土曜日に、運気が高まる気配にチューニングし、全国で豊作の祭りをするひとびとのエネルギーとも同調するのが良さそうに思えてきて、会社の3階会議室にお祀りされているお稲荷さんの前に、参加者全員が参列して、清見原神社の宮司さんによる、祝詞奏上によって、初午祭を始めることにするのだった・・・・。
「祭り事」は「政(まつりごと)」でもあるわけで、素直に「初午の政」として捉えるのなら、豊作の田畑のごとく、沢山のお客さんに恵まれる「現場」となるために、シャチョウをはじめ、設計担当者も含めて、現場監督や職人は、現場でどのようにあるべきかを、真摯に見つめ直す「機会」とするのが良さそうで、現場での立ち居振る舞い、これからの目指す住まい、いまとこれからのお客様の傾向を現場で働く職人さんと共有するために、パワポイントで作った資料で、レクチャーをすることを、「初午の政」として4年ほどになる。
そうそう、そのシャチョウの話しが長すぎて、もうこれ以上飲むのを我慢してらへんわ!という職人さんの率直な声もあって、確かに、ビールでも飲みながらリラックスして聴いてもらうほうが良さそうにおもうわけで、それに、ハイブリットな世の中でもあって、日本的なお祭りに、西洋式の何度でも乾杯をするスタイルを取り入れるのも面白そうで、そんなこんなで、レクチャーのために着席した時には、すでに御神酒と缶ビールかお茶を両手に携えている状況で、3階のお稲荷さんに引き続き、1階の加工場で安全祈願を兼ねた祝詞奏上とお祓いの神事をして、宮司さんによる神酒拝戴の儀をすることになって、「いやますます栄えますように」という意味合いらしい、「イヤサカ」と全員で発声して、御神酒での乾杯を1回目の乾杯とするのだった。
そのまま「直会(なおらい)」に入りたいところだが、まずは、木村工務店協力会社でつくる精親会という親睦会の会長をを勤めてもらっている材木屋さんの岡房商店のオカモトさんに挨拶をしてもらい、その次に、シャチョウとしてのワタシの挨拶があって、そのまま引き続いて1時間ほどのレクチャーをするわけで、確かに長いのだ。喉も渇くし、足下も冷えるのだ。それで、簡単な挨拶の後に、すぐに缶ビールを片手に持ち、皆の前で、全員で、一斉に、「ブッシュ」と音をならして缶を開ける事をもって、二回目の乾杯の儀式となった。
40分ほど経過した飲みながらのレクチャーの最後に、参加者ひとりづつの自己紹介とちょっとしたお遊びを兼ねた協力会社の売り上ランキングの発表と表彰を終えると、いよいよ、ようやく「直会」のはじまりで、やはりそれこそ、カンパイがないと、宴会の開始宣言ができないわけで、素早く紙コップを配って、ビールをついで、精親会副会長の横井金物のヨコイさんによる高らかな「カンパイ」の発声によって、3回目の乾杯となった。
そうそう、勿論、宴会の最後の締めは、「カンパイ」ではなく、「バンザイ」三唱か、「一本締め」か、最近では「大阪締め」なんかもするわけで、今回は近隣へのご迷惑を考慮して、弊社トミマス部長による、一本締めを、「よぉー」のかけ声と、全員で一斉に「パン」という手打ちの音を持って、終了の合図をするなんてことは、日本的宴会の王道でもあるよな…。
いや、こんなコト、どうでもエエコトなのだけれど、先日の「夜咄の茶事」では、何度もお茶を飲むおもてなしが、さまざまなスタイルであり、懐石料理では、全員で、箸をお盆に落とす「音」を持って、終了の宣言としたり、杯を酌み交わすスタイルにもいろいろあって、特に「千鳥の杯」などという亭主と客人が千鳥状になりながら杯を酌み交わす粋なスタイルを経験してみると、確かに、どんな順番で、どんなスタイルで、どんな作法で、飲んで食べるか考えて、「おもてなしを遊ぶ」かは、クリエイティブなコトでもあるわけで。
工務店の社員が、「職人」さんたちを、おもてなしするために、初午祭の流れをあれこれと模索しながら、ひとつのスタイルをつくろうと遊ぶなかで、会場の建築的設えを工夫し、おでんや焼き鳥や豚汁やどて焼きなどを自分たちで準備して作り、生ビールをついだり、カクテルをつくったりもして、千鳥足になりつつ、あちらこちらで杯を酌み交わしながら、現場で働く職人さんとの初午祭というコミュニケーションの場を通じて、お施主さんに恵まれますことを一緒に願うわけで、そんな「おもてなしを遊ぶ」コトが、「茶事」という日本の伝統的文化のDNAから、知らず知らずに影響を受けていたことに、気付かされるのだった…。
2015年02月08日
カルチャーショック
玄関の引き戸をガラガラっと開け、靴を脱いで、上がり框を上がって、正面の襖を開けて座敷に入ると、真っ暗な和室の中に、火鉢の炭火のほんのりした赤い火と、行灯の和蝋燭の炎の光がゆらゆらと揺らいでいて、先に沖棟梁の娘さんが着物姿で座っていて、そうだと知ったのは、茶事が進行して、会席料理も出て、杯も酌み交わして、歓談する雰囲気になってからのことで、そうそう、今年に入って沖大棟梁の息子さんから茶事のお誘いがあって、もちろん、初体験で、作法も全く心得ず、正客としてのお誘いの意味も理解せず、それに夜の茶事がこんなにも静謐なおもてなしなのだとも知らず、それを「夜咄よばなし」と云うのだと知ったのもつい先ほどの事で、そんな私たちをあたたかくやさしく指導してくれながらの「茶事」だった。
行灯のゆらぎのピッチが、おもいのほか速く、せわしく、ゆらいでいるのに、行灯の障子に映し出される光と影の動きに情緒があって、それに火鉢の炭火のほんのりした暖かさと、かすかな赤い火を眺めているうちに、徐々に徐々に、心が静かになり落ち着いていくわけで、吐いて吸ってと腹式呼吸になっていく「私」を眺めながら、5人で静かに「待つ」時間を過ごしていると、襖が開いてオキさんの息子の息子さんが、ま、ちょっとややこしいので、おじいちゃんが大棟梁として、その息子さんを棟梁として、その孫さんを小棟梁と呼ぶことにすると、小棟梁が着物姿でお盆にお茶を持って現れて、その役目を「半東」と呼ぶらしいが、いわゆるフツウのお茶なのだけれど、それを飲んで待つことになった。
ちなみに、メンバーは、設計のタナカくんと新人のササオさんと前日に仕事の都合で交代参加として決まったオオムラくんで、いまからおもえば、こんな筆書きの招待状まであるのに、メンバーが入れ替わるのも不義理な事なのだろうが、このような5人が、なにかの縁で、いまここに、静かに時を待つ、その行為から茶事が既に始まっているのだと、そんな夜会の始まりを無言で伝える空気感が充分に漂っていた。ちなみにこの待合を「寄付」と呼び、その「前礼」として、客の代表の私が、前日に、亭主をたずねて、お礼と人数を伝えるのだそうで、前日に電話では連絡をとったものの…だ、そんな作法が必要なのだと、いま頃知るのだった。
正式な案内があって、座敷の庭に面した障子を開け、藁草履を履いて、庭に出て、「外待合」に5人が体を寄せ合って待つ。オキ棟梁が着物姿で「手燭」を携えてわざわざやってきて、正客としての私が手燭を持ってやるべき作法を教えてくれて、それを棟梁の着物姿の娘さんが、その都度ホローしてくれるという、そんな手助けが最後まで続いたお陰で、なんとか茶事を楽しく過ごせたわけで、それはそうと、確か藁草履を履いたのは20年以上前に神奈川県の丹沢にある勘七沢に沢登りをした時に登山口の売店で買って、地下足袋の上から藁草履を履いたその時の事を、冬の外待合で、鴨川の音を聴きながら想い出した。
竹の中門のところまで亭主としてのオキ棟梁が迎えに来てくれて、それを見て、腰掛けから立って、正客としての私が手燭を持つわけで、独特のデザインのアイアンの重みとバランス感覚が手に伝わってきて、その先端の和蝋燭の炎が揺らいで、足下の飛び石を照らすわけで、微妙なバランスをとりながら一歩ずつゆっくりと、後から続いてくる参加者の気配も感じながら中門に着くと、亭主と手燭を交換するのだった。その行為が、なんだかとってもカッコエエなぁと心の中の私が呟いていて、いよいよこれから始まるのだと、お互いによろしくお願いします。とエールを交換するような、そんな気持ちにさせる、粋な儀式だった。ちなみにそれを「迎え付け」と云うらしい。
中門を入ってすぐに、ちょろちょろと音を立てながら水が滴り落ちる蹲踞つくばいがあって、その左手前には手燭を置けるように計算された石があり、そこに手燭を置いて、揺らいだ蝋燭の炎に照らされながら、左右左と手と口を濯いだあと、数歩進むと茶室の前の躙り口にたどり着いて、身を屈めて茶室に入り、後ろを振り返って、次のひとのために藁草履を合わせて立てかけて、2帖の畳を膝を刷りながら進んで、正座のまま見上げると、目の前に床の間があり、アイアン台の蝋燭に照らされて、「日々是好日」と書かれた掛け軸が出迎えてくれた。
畳2帖の中に5人が座ると、床の間と直角の方向に半円の茶道口があり、戸が開いて亭主が挨拶に出てきた。作法を知っている正客なら、仮座から床の間の前の本来の座に着いて、それから亭主が出てきて、正客と挨拶を交わして、掛け物などの問答をするらしいが、そんな作法の手ほどきを受けながら、あらためて床の間から順次に席を並んで、最初のお点前が始まるのだった。それは、「前茶」と呼ぶらしく、まずお菓子が出てきて、それからそれぞれが1杯ずつ薄茶を頂戴することになって、もちろん、「懐紙」の持ち合わせのあるなしまで含めて教えてもらうわけで、出掛ける前に奥方から懐紙だけは持って行きや!と手渡されて、そんなのの使い方まで教わって、お菓子をとる作法まで、きっちりとあるのだと知るわけで、それに、お茶を飲む前の次客への挨拶の仕方や、お茶碗を手前に二度回して、口をつけて飲んで飲みきって拭いて、向こうに2度回して、という初歩の作法から、茶器を畳の上に置いて右左と手をついて全体を眺め、膝に肘を置いてお茶碗を手に取って廻しながら細部を眺める作法など、一から「型」を学ぶ茶事となった。
なによりも亭主のお点前の所作を眺めることそのものが瞑想的なわけで、帛紗ふくさの作法とそのポンという音、茶器や茶杓の拭き方、茶筅とおし、茶巾と茶碗のふく所作、お茶を点てる茶杓と茶筅と柄杓の所作とその音など、流派があるらしいが、全てにおいて瞑想的な立ち居振る舞いと所作で、ただただ亭主の作法を見守りながら、自分の心の流れも見守るのだった…。
お茶を味わったあと、「初炭」というらしいが、「炭手前」というのがあって、その所作を眺めるために、正客である私が最初に炉の前に擦り寄って皆で一緒に眺めるわけで、あっ、そんな事するなんて、それこそ全く知らなかったわけで、バーベキューでは決して見ることのない、とってもデザイン的に美しい炭が、エエ感じで燃えるようにする作法を見守りながら、濃い赤の美しく燃える炭火を一緒に眺める行為そのものが、全員の心をひとつに和ませ、力づけてくれるのだった。
もとの席に戻ると、お香を入れた器が畳の上に置かれて、「香合」といわれる器を眺め、次席にまわしながら、お香の上品な香りが、周囲を巡って、当然ながらその蓋を取って眺める作法も教わりながら、炭の臭いを消す目的もあるんやろね。と亭主であるオキ棟梁の解説も加わって、嗅覚まで楽しむ夜会なのだと、その伝統的日本文化の持つカルチャーとやらを、いまさらながら初体験するわけで、そのうえ、茶事はこれで終わって、別の席で、食事をするのかとおもいきや、茶道口が開くと、平たい黒いお盆に載せられた懐石料理を、亭主自らが、運んできて、この2帖の畳の空間で、5人で、懐石料理を食べることになるのだと知って、そらそうで、先ほど、わざわざ、炭を足して火をくべて、熱いお湯を沸かそうとしたわけで、この土曜日の京都での夜の茶事という、「夜咄のカルチャーショック」は、まだまだ続くのだった・・・・。
2015年02月01日
「食」の刺激
日曜日早朝5時45分に、いつものようにNHKのラジオが鳴ると、目をつむって半分寝ているような状態のかなで、あのイスラム関連の訃報のニュースをアナウンサーが伝えていて、そういやぁ寝たのは午前1時頃で、いま世界で起こっている出来事を何となく解釈しようとするおぼろげな脳内活動とともに、いま「私」の中で起こっている肉体的な感覚や昨晩の出来事や日曜日の朝に自転車に乗りたい気持ちと寒さと睡眠不足とで流石に自転車に乗る気力が湧かないわ!という脳内活動が、夢の中の出来事のように流れていて、そうこうしているうちに再び眠りに陥って、ぐっすりと寝てしまって、起きると、体中から辛い臭いを発散していて、奥方に顔をしかめられる始末。
昨晩はお施主さんからお誘いがあって道頓堀のグリコの前で待ち合わせをして新年会をする。生粋の大阪人やけどグリコの前で待ち合わせをしたのは初体験で、観光客気分のノリで、半分が初めてお会いする方々を含めた12名で、宗右衛門町筋を東に歩いて日本橋北詰を渡って島之内にある鑫福/シンフクという中華料理のお店に連れられて入ると、中国語がフツウに聞こえてきて、店員さんもお客さんも中国のひとが大半で、本格的に辛い辛い中華料理を食べて、排便にまで影響を及ぼすほどの辛さだったが、それなりに美味しくて、普段はまったく辛いモノを食べないのだけれど、たまに食べると体中がビックリしはって刺激的でエエですわ。
このところミナミに出た時の2次会は味園ビルのバーにちょくちょく出没して、それはあの味園ビル探検ツアーのお陰なのだけれど、それで今回もそのまま12名で、味園ビルの中の外人客の多いスタンディングバーで、うだうだと心地良く過ごしたわけで、そのうえアメリカ人に締めのラーメンを誘われるという不思議な感覚でミナミをぶらぶらしながら吉本の横の金龍ラーメンを食べたりし、それは20年以上前に御堂筋沿いのお店ができた当初に食べたきりの久しぶりなラーメン体験で、そんなこんなのミナミの夜の残像が、早朝の寝ぼけた脳内を駆け巡っていたのだろう…。
それで、辛いものを食べた刺激が体の中に残っていて、「食」の事が脳内をぐるぐると回り出して・・・
そうそう、先日、堺まで夫婦で出掛ける所用があって、同級生の堺の鰻や竹うちにふらっと食べに寄って鰻丼を食べる。食べた後、裏口から入って職人さんが炭火で鰻を焼いている後ろ姿を見ながら、見事な炭火の「火加減」を見て、秘伝のたれが入ったツボを見て、学生の頃からこの光景を眺めると、「老舗の味」と「商い」というものの在り方に刺激を受けるのだった・・・。
現場に行くと新人大工のヒラボシくんが、ケトルのお湯を沸かして、インスタント珈琲を入れてくれて、そんなのが、とっても嬉しかったりするのだった…。
ある新年会が上本町シエラトンホテルの上町であって、ホテルの日本料理店で食事するというのは、独特のステータス感をくすぐる訳で、味にしても盛りつけにしても店舗の内装にしてもそんな感じで、なんとなくリッチな気分にさせてくれるわけで、その一瞬は、歩き方もそんなリッチな雰囲気になっている自分を発見して、そんなのがエエのかどうか…。
昨年の忘年会で奈良の夢窓庵で食事をして、かれこれ4度目なのだけれど、いつも出汁に旨みがあって、料理のビジュアルも美しく、それに座敷と庭の雰囲気に趣があって、というか味の事をうまくレポートできる舌がないので、それより女将さんと話していると、また新しいことにトライしますのぉ…という、しっとりとしたオトナのバイタリティーを頂戴したのだった・・・。
今まで母親が作ってくれていた黒豆のお汁が美味しくて飲むぐらいで、さまざまな事情から、奥方がその味を受け継げなくて、それが、暮れに鶴橋で黒豆を買って、そこのおっちゃんに、黒豆を洗った汁を捨てずにそのまま使うのがエエんや!捨てたらアカンで!と教わって、そうするとその夜に、不思議にも母親の秘伝の黒豆用の布に入った釘袋が見つかって、そんなこんなで、お正月の黒豆は、母親のあの味にほとんど近づいて、美味しかったな・・・。
暮れの鶴橋商店街の寿し吉で昼食にグルメ鮨というのを食べて、それがフォワグラがネタに乗っている握りで、卵の中にもフォワグラが入っていて、お店のご主人と話しながら食べていると、フォフグラを使ったのはここが元祖らしく、寿司屋さんにしてもいろいろな「道」があるのだと「工務店」に例えて考えてみたりするわけで、そうそう、ある時、うちの職人さんと話していると、最近お寿司やさんにいって、カウンターがくるくる回ってないと、なんかものたらん感じしてくるわ!って。
「食」の刺激ってオモロイね・・・。
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