2016年07月10日
変化
土砂降りの雨の土曜日早朝。丹沢の堀山の家に向かう。山小屋の親父のヒゲさん3回忌が、午後2時からあり、小屋のリフォームも始まったらしく、親父の奥さんや小屋のあの人この人と四方山話をするべく、車で向かったが、大阪から神奈川まで高速道路はず~っと土砂降りの雨だった。
11時頃から雨具を着て歩き出すが、そのゴアテックスの雨具は20年前のしろもので、ほとんど防水機能を果たさず、それに蒸れて蒸れて汗びっしょり。なんというのか歩くサウナ状態で、50分ほど歩いて我慢出来ず、大倉高原山の家の軒下で、雨具を脱いで、傘をさして、Tシャツで歩くことにすると、すこぶる快適になった。登りで、幸いにも風がなく、夏なので、雨は雨なりの印象的な登山となった。いつもは、ここで、景色を眺めながら、湧き水のドリップ珈琲を飲んで、小屋の親父さんとあれやこれやと話をするのだが、生憎の雨で不在だった。
↑ うちの長男にとっては、幼稚園の頃から通う堀山の家とその親父は、田舎と田舎の叔父さんみたいな存在だったらしく、会社の仕事を皆に助けてもらって、一緒に登った。長男の奥さんと子供も同乗して、小田急渋沢の駅に降ろして、東京に住む妹さんの家に向かったが、何の因果か、長男家族との初めての小旅行になって、奥方は家で、ひとりゆっくりのんびり過ごしたいらしい。
↑ 夕方からは雨も止み、小屋の前の木々の間からは、雲に頂上が覆われた富士山が見えて、夜には、富士山の山小屋のライトや登山客のライトもちらちらと輝やく様子が見えたが、こんな雨の日に富士登山をやっている人もいるのだなぁ・・・と眺めていたら、そうそう、私も、土砂降りの雨の中を、次男とこの堀山の家の仲間たちと一緒に富士登山をして頂上まで登った想い出があり、あの時はまだこのゴアテックスの雨具は機能していたのだ。今日の小屋で一緒だったひとは、「富士山に登らぬ阿保に2度登る阿保」というけど、私なんかもうすでに90回以上も登山していて、もっと凄いひといっぱいいますよ!という。世の中には、いろんなひとがいるもんだ....。
暫くすると富士山に代わって三日月が見え、その横には惑星が輝いていた。そういえば、20年ほど前は、木々に隠れて富士山は全く見えずその存在すら気にならなかったが、ある時、富士山を隠していたほんの数本の木だけが間引きされて、一気に眺望が良くなった。小屋のひとや登山者のひとが、休憩所のベンチに座って、その眺望を楽しむ姿を見て、自然と、人間の仕業と、人の心理をどのように上手くバランス良く成り立たせるのかを考えさせられた。
夜はランプのもとで、たわいもない話をあれこれするが、その時々に、誰かが何気なく発したコトバの中に、印象に残るフレーズがあったりする。「ダーウインの進化論の中に変化するものだけが生き残るというのがあって・・・・・。」これ、いま、あらためてネットで調べると、そんなのダーウィンは言ってないよ。とか、主にビジネスの世界で曲解されて伝わってきたコトバで...。なんて、いろいろあって面白いが、生存していくために「変化」に対応して「変化」していかざるおえないモノゴトが確かにあり、いつまでも変わらず残って欲しいサムシングとサムシングエルスもあったりして、それにしても「変化」という現実が唯一の真実として神のように存在している...なんて、この夜の会話にあったような、なかったような....。
↑ 雨上がりの早朝の日差しのなかで、木にしがみついたセミの幼虫が脱皮し始めて蟬になろうと刻々と変化している姿に出会った。
↑ 土曜日の雨の道。日曜日の雨上がりの道。確かにいろいろなモノゴトが刻々と「変化」していく....。
投稿者 木村貴一 : 2016年07月10日 23:59 « 不安と躊躇 | メイン | 唐突な夏 »