2010年04月11日
山笑う
「山笑う」というのは春の季語だという。「春が近づき山々の木々が芽吹き、陽を浴び緑の葉を広げ、花が開く。この情景のように山が微笑みを浮かべることをいう。・・・」「故郷や どちらを見ても 山笑う --子規--」というのが「歳時記カレンダー」に書いてあって、これを読んだのは、例の便所。最近は便所で雑学をする日々なのだ。
奈良に行く所要があり、 阪神高速から第二阪奈のトンネルに入る手前で、生駒山が、くっきりと見えた。所々に、山桜が咲いている様子が、「山笑う」を連想させて、おもわず顔がほころんでくる・・・・。奈良公園のあたりを抜ける。桜が満開で、歩道を歩く人たちの顔が、うきうきした顔に見えて、こちらも、うきうきした気分を頂く・・・・・。
「転害門」の前を通過する。女性がひとり、門の前に立ち、門越しに桜を眺める光景に情緒があって、このまま車を止めて、私も佇んで眺めてみたいと迷わせる雰囲気。門に興味を持ったのか、桜に興味を持ったのか、女性に興味を持ったのか、脳の中は、いつもながら、不可思議だとおもう。
今まで、何十回も、この門の前を通過しているのだが、いつも、不思議な気持ちにさせられる。それが、なぜなのかわからなかった。帰り道が渋滞し、門の前で車が停車したので、iphoneで撮影し、その画像を眺めてようやく気が付いた。東大寺というお寺の門なのに、しめ縄が飾ってあるのだ。・・・・不思議。そして興味深い。
柳生の方面へ向かう。遠景として見える、東大寺の裏の「立面」を見ながら、その背景の山にパラパラと咲く山桜と新緑を眺めると、やっぱり「山笑う」を連想させて、おもわず、キレイやな。と車中で、つぶやいた・・・・・。
山間のくねえくねした道を何度もターンすると、柳生の里が、独特の雰囲気で開けて、なぜか、「日本」を想う。その家々と山々に、新緑と桜が点在し、これこそ「山笑う」だな。と「目」が喜んでいて、車速が一気におちた。道路から車輪がはみ出しそうになりながらキョロキョロしていると、運悪く後続車が来たので、後ろ髪が引かれる思いで、そのまま通過・・・・。
里と山と道が織りなす、「日本的」を走ると、小さな川沿いになって、川と満開の桜という、あちらこちらの日本でみられる、いわゆる日本らしい光景が、やっぱり、ここにもあって、ここはここなりに見事だな・・・・と見惚れた。そのピンク色の桜と桜の隙間に古民家が見え、勾配のきつい三角屋根の黒。漆喰の白。その背景の山のグリーンと前景の土手のグリーン。そのコントラストが美しく、停車して、運転席から、フロントガラス越しに、iphoneで撮影をこころみたものの、その感じ、伝わるかねぇ・・・・。
こんな山間の家々が、日本の光景の一部であるのだけれど、そんな光景の一部として、許されるような家々や工場や倉庫を、私たち現代の工務店か造っているのかねと、問われれば、少々辛い立場かもしれない。工務店という立場で、山と里と建物を眺めると、近代の工務店としての考え方や在り方を反省せざるおえないなぁ・・・・・とおもう。
それにしても、そんなことに関係なく、確かに、山は笑っているように見えたのだ。
ツイッター上のスターのひとりにソフトバンクの孫さんがいて、最近のツイートに「春の新芽を見た時、厳しい冬の後の喜びを実感す。時代は新芽を求めている。」と書かれてあった。それを読んで、私の脳は、またも「山笑う」を連想した。
うちの庭では、桜が葉桜になって、ピンクより緑の割合が増えた。ジューンベリーが白い花をほんの数日間だけ咲かす。その花の上をモンシロチョウが飛んでいて、今年初めての蝶々をみる。ハナミズキのつぼみが花になろうとしている。春のつぼみや新芽。少々センチメンタルだけれど、木村工務店も時代が求める新芽となれますように・・・と願う。
「山笑う」ように、ものづくりに関わる皆と一緒に笑いたいものだね・・・・・。
追伸
そうそう、川沿いの桜を今年は車で通過しながら、あちらこちらで見たけれど、コンクリートの護岸工事のされていない、川沿いの桜に、より、情緒があることに、先ほど気が付いた。そんな護岸のない川を守りたいね・・・・。
投稿者 木村貴一 : 2010年04月11日 14:02 « 551の豚まんでエエんとちゃう。 | メイン | お花見 »