2010年08月01日

音と断片と間

断片的に思い出す事があって、それは、先日、ツイートした「朝、セミの大合唱を聴く。ブブゼラのあの音が懐かしいね・・・・・。」今朝も、セミが五月蠅いぐらい。セミが5月のハエと同じだ。というのも不思議な表現だが、ブブゼラのいらだつような音を聞いていると、それも頷ける。セミの鳴き声が、ブブゼラと南アフリカとワールドカップサッカーに結びついてしまった。そういう、私の脳内の「リンク」がオモロイ。

「昨夜、BSで、ワールドサッカー、スペイン対オランダの再放送を見た。試合終了後、しばらくして、「could you be loved」が流れ出した。ボブ・マーリー。今回の南アフリカ大会での「新鮮な印象」は、スタジアムに流れる、ブブゼラとこの曲だった。」というツイートをした。

ボブ・マーリーの大阪公演を、それも二日間も見に行った。というのを時として、自慢してみる「私」がいて、いや、もちろん、真剣に自慢をしている訳でもなく、単に、話題性として、話す訳なのだけれど、それとともに、その年頃の精神状態のありようなどが、蘇ってきて、それだけではなく、二回も一緒にコンサートに行ったその友人のひとりが、自らの命に自らが終止符をうった。という、釈然としきれない、事実が、ほんの数年前の出来事でもあって、あのスペイン戦のノーフォイッスルを聞いて、しばらくして、会場内を包むように流れだした、「could you be loved」が、それらの事を断片的に蘇らせる。

もちろん、そんな事に感傷的になっている年でもなく、「私」のどこかに、それらの断片がやってきて、それにしがみつこうとするわけでもない、また、囚われてみたいわけでもない「私」もいて、通り過ぎていくことも含めて、ただただ見守る。

昨晩、大学時代の友人達と会食する。25年ぶりのヤツも。「シカゴを聞くと、ヘンマツちゃんを思い出すわ・・・」「スティーブンビショップが、あいつの車に乗ると、いつも流れていて・・・・」「ウエザーリポートを聞くと、オオカンダの事を思い出すわ。あいつ、どないしてんのぉ・・・」なんていう、会話が飛び交うのは、年寄りになった、歴然とした証拠であるものの、「音」が、ある断片を蘇らせるのも事実。

松尾芭蕉の「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」は、カッコエエ俳句だと、憧れるのだけれど。蝉がブブゼラと結びついてしまい、その蝉の鳴き声がようやく止んで、「静けさ」を満喫している、いまここの「私」と、蝉の音が岩にしみいるほどの静けさと結びついているバショウさんの「いまここ」での境地の違いは、果てしなく大きいか・・・・・。

「音」が、ある断片と断片の「間」に存在する、何かの深淵。奥深い谷のような何か。無。そういったたぐいの「間」に存在する何ものかの、架け橋となる「音」。そういう瞬間に、ある快感が存在している・・・・・。

久しぶりに会った友人たちに、「あの時と、全く、変わってへんわ・・・。」「髪の毛の色は、白いけれどな・・・・。」などと、言われるのは、嬉しい事であるものの、「私」の成長はどうなってしまたのか、と自問してみたくもなる。

その中の年下の友人のヒロトくんが、ハワイで、設計事務所をしていて、彼の里帰りが、この集まりを産み出したのだけれど、彼に、ハワイで、工務店するわ。と、酒の席の冗談の話題とすると、「いやぁ、止めといたほうが、エエですわ。訴訟社会ですから、何でも訴訟になりますから・・・」「施工者は、設計図どおり、施工するだけで、例えば、不具合があっても、設計図どおりにやったから、責任は設計者ですから」と、「確かにその通りですけど、それだけではない、何かが「工務店」というものづくりにはあって・・・、けど、アメリカではしんどいんとちゃいますぅ・・・」「・・・・」

彼は、アメリカの設計者。私は日本の工務店者。前提は、お互いどうしを好意的にとらえようとしているのだけれど、この話には、多くの考えるべき事が含まれていて、でも、それ以上、お互いに話を発展させなかった・・・・。そして、いま、それらが、酒席の「音」の断片として残る。いつか、その断片と断片の間に存在する、奥深い谷を探索したいとおもう・・・・・・。

いま、蝉の鳴き声が全く消えて、静けさという音。時折吹く風で、葉っぱが揺らぐ音。風鈴の音。遠くから、祭りの「だんじり」の太鼓と鐘の音が聞こえてくる。夏の日差し。そんな日曜日のお昼間。でんねん。

投稿者 木村貴一 : 2010年08月01日 12:18 « 花火 | メイン | 遮熱と風 »


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