2015年03月01日

カルチャーショック3

IMG_6806「日々是好日」というコトバが、先日の茶事の初座の床の間に飾ってあって、それが、今日の日曜日の朝から雨が降って、久しぶりに朝から自転車に乗るのを楽しみにしていたのだけれど、朝の6時過ぎに雨音を聴いているうちに、今日は次男の高校の卒業式であるのを思い出して、別に、高校生の、しかも、18歳の誕生日を迎えた、息子の卒業式典を見るつもりなど全くなかったが、いや、それはちょっとだけ、嘯(うそぶ)いていて、舞台の前で、クラス代表の答辞を読むらしく、その姿は父親として、少しは気になっていたのだが、ま、「雨」が、気分を変えてくれて、奥方と一緒に卒業式を見に行った。

久しぶりに国歌斉唱と蛍の光を歌い、仰げば尊しを聴いたのだけれど、公立の高校に通っていた「私」の高校の卒業式の時は、最も親しい友人のひとりのナンブちゃんが、卒業式の真っ最中のあるタイミングで、突然ひとりで起立して、もちろん友人の誰にもいわずに、予告もなく、立ち上がって、仰げば尊しをひとりで歌い出した。当時は、歌わないことになったいたのだけれど、それが、朝日新聞の天声人語にもなったりして…、そんな光景を思い出させてくれた。

そういえば、一週間前の土曜日の夜に、そのナンブちゃんとイナモトくんとツカモトくんの何人かで阿倍野昭和町の五源大喜で串カツを食べ、キタのバーを2軒はしごして、新地でラーメン食べて、住吉の北畠のバーまで戻って、その時に、あの卒業式の話も出て、そんなのが、潜在意識のどこかに潜んでいたのだとおもう・・・。

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18歳の若者たちが、名前を呼ばれて「はい」と返す返事に、喜びと不安と照れと反抗が微妙に入り交じったトーンがあって、舞台のような通路を、ひとりひとりが歩く姿にも、個性とともに、共通する同じようなムードがあり、それぞれの教室に戻って、ひとりづつが手渡しで卒業証書をもらい、ひとりづつがコメントを言い、笑い涙する姿を見ていると、徐々に徐々に涙を誘われるのは、歳のせいでもあるのだろが、確かに「私」にも高校生の卒業式があったのだ。そして18歳のあの時あの場所で、同じような感覚を持ちながら、同じような返事をして、同じような姿で歩いていたのだろう…。エエ雨が降ってくれたものだ。

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この学校の卒業式の最後の締めは、室長による「キリツ、レイ」生徒が一斉に「アリガトウゴザイマシタ」で締めくくったのだけれど、「夜噺の茶事」での初座の茶懐石の締めは、箸をお膳の端にかけておいて、一斉にお膳に落とす時になる音をもって、終わりの合図とするのだと教わり、その作法をやってみると、なんだか、それをやっている自分が、とっても格好良く思えるような演出で、最も印象深い作法のひとつだった。

そうそう、「千鳥の杯」の後、「湯斗」と香のものが運ばれて、それから箸を落とす作法をやって、それで終わりと思いきや、亭主が、「縁高」と呼ばれるらしい5つ重ねの重箱を持ってきて、その上に黒文字の楊枝が乗せてあって、まず正客の私から懐紙にとって、順に送っていくわけで、それを食べて、ようやく初座が終わって、その見事な「おもてなし」の演出と作法に感嘆するのだけれど、あれぇ、考えて見れば、肝心の、濃茶を飲む作法はなく、これからが茶事の本番らしく、一端、茶室から外に出て、内腰掛けに座って次の合図を持つことになり、それを「中立」と呼ぶそうだが、それにしても、茶事というものが、こんなに長時間かけてするのだと、全く知らなかった。

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庭の腰掛けで待っていると、しばらくして銅鑼(どら)の音が合図として鳴るわけで、ほんとに随所で「音」を遊ぶ演出があって、茶釜の音、炭の音、お手前の音、箸の音などなど、音で再び気分の高揚を促され、にじり口から二度目の突入を試みると、今度は、床の間は掛け軸から箒に変わっていて、それより、これだけ長時間のおもてなしの演出があって、ようやく「茶事」の本番である濃茶の一服を頂戴するお作法が始まるわけで、食事とお酒で、リラックスした心身の状態に、ビシッとした緊張感のある空気が流れて、サウナのあとの水風呂のような空気感でもあり…なんていう表現は、通俗的すぎるかね。

リラックスと緊張を伴う瞑想的な静けさのなかで、濃茶が正客の私にふるまわれ、それが、次々にのみまわされて、何かが共有されるわけで、それより、さすがに、長時間の正座で、足が痺れてくると、横に座るそれぞれも、足をごそごそし出して、それに自分の番のお茶が終わると、余計に足のしびれが強く感じる始末で、なのに、道具を拝見することも作法のひとつであり、そのうえ、もう一度薄茶を飲むおもてなしがあり、もはや修行とも呼べるわけで、もし、利休が亭主で、5人の侍の客人が招かれていたとすれば、それぞれがどんな性格の人柄なのか、一目瞭然に見破られそうな、そんなのが茶事でもあるのだと、足のしびれとともに感じるのだった…。

それはそうと、次の日に客一同のお礼を言うのも正客の作法であると、あらためて知るのだけれど、いやそれよりも、一度は亭主として客人を招いてみたいとおもうわけで、しかしながら、流石に、仮にお金があったとしても、仮に手伝ってくれる人がいたとしても、自らが修練を、しかも年月をかけて修練をつまないと、茶事としてのおもてなしができないところに茶事の奥深さを感じるわけで、ま、まずは、「日々是好日」として生きていくコトから始めてみようかとおもう。

投稿者 木村貴一 : 2015年03月01日 23:59 « 「まちのありよう」 | メイン | カルチャーショック2 »


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