2011年01月16日
運命
祭壇の前、最前列に座る。自分自身の姿が、ドラマの一場面での、配役のような感じがし、それは、妙な、現実感であって、かといって、胸に、大きな悲しみが渦巻いているわけではなく、ほとんど、無思考な状態が続く。祭壇を眺めている「私」の姿を、どこか、非現実感を伴いながら、「私」が眺めているという、不思議な感覚。そして、時折、唐突に、涙が溢れる。
1月12日水曜日の朝7時過ぎ、いつものように出社し、掃除をしていると、現場担当で、おもにメンテナンスを担当している中田 昇さんが、全く、いつものように、大きな声で、「おはようございます。」と2階の事務所に入ってきた。ひとの顔を見て挨拶をするのではなく、それは、まるで甲子園球場に入ってくる高校球児のような感覚で、事務所に入ってくるのだった。私も「おはようございます。」と、かなり離れた所から、言葉を返す。
その朝の挨拶に、どれほど、気持ちが救われたことか・・・・。と、いまとなってはおもう。
それが、中田 昇さんと交わした、最後の言葉になるなどとは、おもいもしない。胸騒ぎがあった訳でもない。その日の午前中は、うちのミカワさんや外部のスタッフを交えて、ホームページの打ち合わせをした。昼過ぎには、石井修さんの最後の作品となった、弊社で施工した目神山の家22に向かうため、電車を乗り継いで、甲陽園の駅に降り立っていた。
20人ほどの大学生達と一緒に、目神山の12番坂を歩き、目神山の家22で、1時間30分ほどの時間を過ごす。施主のご主人にも、親切に応対して頂き、ほんとうに有り難かった。この家の2階のダイニングテーブルの椅子に座ると、必ず、石井修さんと会話をした時の事を想い出す。特に、石井さんが私にむかって語った、「それが、正直な家やな」という「それ」と「正直な家」は、まるで、私に与えられた、公案のようなものかもしれないとおもう時がある。そんな話も含めて、何点かのエピソードを学生さんに語る。
夕方5時30分過ぎ、目神山で落ち合った、弊社設計のヤマガタくんが運転する車に乗り込もうとした、その時、私の携帯に、設計のタナカくんから電話がかかる。「いま、ナカタさんが倒れて、救急車がきて、心肺停止で、救急隊員が、胸を押さえて蘇生している最中で・・・・・」動揺もあり、唖然とした様子もあり、それでいて、それなりに淡々とした声の電話だった。
何のことか、理解できなかった・・・・。車の中に乗りながら、コバヤシくんからも電話がある。理解不能。思考停止。阪神高速を走る車の中で、私は、背広に着替えていた。この後に、先々代からの得意先の新年会があって、上六のシェラトン都に向かっている最中だった。
車の中での何回かの電話で、理解した事は、中田 昇さんが、倒れたという事。お昼は、普通に施主との打ち合わせをし、倒れる5分前には、弊社の会長の頼まれ仕事を快く受けて、元気に、自分の席に戻ったという。机に座って、暫くして、急に、胸の圧迫を感じたのだろう、うつ伏せになった。その後、自らの力で、床の上に仰向けに寝転がる。その間も、携帯に掛かってきた電話に対応しようとしたり、もう一度、起き上がろうとしたりしたと聞く。しんどいとは、言わなかったらしい。その場に居合わせた、社員のコバヤシ、タナカ、ツジモト、ミカワ、タツタが必死の応対をしながらも、唖然とした心境だったのだと聞く。そして、救急車がやってきて、今、病院に向かっているところなのだと。
これから、座敷での会食があるので、携帯にはでられないとおもう。私が、電話を切ったら、メールで、事態を報告して欲しいと伝える。その時、私の心の中では、ナカタさんは、以前、病気で入院した時も、不死身のカムバックをして、今は、社員の誰よりも元気なので、必ず、蘇生する。と、最悪の事態。が、繰り返し葛藤していた。
8人の座敷。高級日本料理。途中に、コバヤシくんから携帯に何度か電話がかかる。が、切る。何度か、メールをチエックする。が、こない。度々携帯をチェックするごとに、最悪のシナリオへの覚悟が、徐々に出来てくる。しかし、それにしても、この時の日本料理は、とっても微妙な味覚だった。それに、会話の中での、私の笑顔の奥には、微妙な不安感が、漂っていたに違いない・・・・。
地下鉄谷町九丁目の駅で、やっと奥方と連絡が取れた。小声で話す。訃報。地下鉄小路駅に到着し、寒波の夜道を淡々と歩き、9時40分、会社に、ようやく、辿り着いた。社員が残っていた。私は、ちょっとした呆然と悲しみと怒りが同居した不思議な状態だった。理解しがたいという、ちょっとした唖然。ほんとうに死んだという、ちょっとした悲しみ。なぜ蘇生しなかったのだという、ちょっとした怒り。事の成り行きを聞く。そうそう、メールをして欲しかったとも言ったのだが、その場の雰囲気から、そのような内容を、メールで伝えにくいという、そんな社員の心境を、ようやく理解する・・・・。
お通夜があり、告別式が滞りなく終わった。
中田 昇さんは63才で、定年退職後も在職し、若い現場監督の応援と、主にメンテナンスを担当してもらっていた。「家守り」というコトバが呟かれる時代背景からすると、ほんとうに貴重な存在だった・・・。社員で富士登山に行った時、誰よりも先頭に立って、小走りで登った・・・・。丹波の山間に建てた木造住宅、今田町の家の基礎工事をするために、いつもいつも斜面を走って登り、駈け下った・・・・。今年の初出で、お正月に孫さんと一緒に特急電車に乗った話を、あの笑顔で、嬉しそうに語った・・・・。社長、大丈夫。ワシやっとくから、マカシトキ。と、何度も言ってくれた・・・・。何度も何度も真剣に言い合いの喧嘩をした。そしてあくる日は、お互いに、ちょっと気まずく、でも、ケロッとして、「おはようございます。」と言い合った・・・・・。
故人のご冥福をお祈りするとともに、これまでの貢献に謹んで感謝の意を捧げます。
投稿者 木村貴一 : 2011年01月16日 23:17 « ステイ | メイン | 年頭所感 »