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2011年03月27日

電気エネルギー

「発電施設が電気に困っているのだ。」こんな姿を見ていると、複雑な心境に陥る。原子力発電所への外部電源は、火力発電所から送られてくるのだろうか、それとも水力発電所からなのだろうか・・・。「灯台下暗し」という諺がよぎる。こんな皮肉な出来事は、自分自身の身の回りにもありそうで、「人のふり見て我がふり直せ」という啓示ではあるまいかとさえおもう。

丹沢にある「堀山の家」という山小屋に25年ほど通っている。その小屋には、送電線からの電気はなく、水もない。それで、水はポリタンクを背負って近くの沢まで汲みに行く。いろいろな人がボランティアでボッカして、水を運んで汲み置きする。そのボッカというのは、ウィキペディアによると・・・・

歩荷(ぼっか、ボッカとも)は、運送形態の1種で、背中に荷物を背負って人間が目的地まで直接徒歩で運搬すること。また、運搬者そのものを指す。また、歩荷を職業とする人のことは強力(ごうりき)とも呼ぶ。

一般に背中に梯子のような形をした荷台(背負子)をつけ、それに箱詰めした荷物を何段にも重ねて乗せて運搬する。1回の運搬量は数十キログラムになることもしばしばである[1]。現在の日本においてはほとんどの歩荷は男だが、かつては女の歩荷も特に珍しくはなかった。

運送の形態としては原始的で、かつては日本ではどの地方でも見られたが、自動車などの交通具の普及や道路鉄道の発達、人件費の高騰などから徐々に減少した。20世紀後半には山小屋など、直接自動車道路がない場所に物資を運搬するときのみに使用されている。しかし、山小屋でもヘリコプターによる輸送が可能になり、現在、恒常的に歩荷を専門の職業とする人を見ることができるのは、尾瀬の尾瀬ヶ原地区と白馬岳の夏山期のみとされている。

送電線からの電気がないので、夜の照明はランタンを使う。それで、登山口から灯油をボッカして小屋まで上げる。もちろん、テレビはない。ラジオは乾電池。夏の暑い時に登山者のために冷えたジュースやビールを販売するために、冷蔵庫が必要になって、その電源を確保するために、ガソリンの発電機を回す。エネルギーはガソリンなので、ガソリンを登山口からボッカして小屋まで持ち上げる。それに、カセットガスを利用する冷蔵庫もあって、そのためのカセットガスもボッカする。

小面積のソーラーパネルもあり、バッテリ-などに蓄えながら使用するが、安定的に冷蔵庫に使うほどにはならないし、ラジオやカセットデッキ程度だが、それだけでも確かに有り難い。それにしても、裕福な小屋ではないので、大きな面積のソーラーパネルを設置する資金も乏しい。別の小屋で、ソーラーパネルを設置した小屋の人の意見を聞くと、投資した金額の割には、天候の影響もあって、安定した電気を確保出来なくて、もっと電気を創り出すためのエエエネルギーはないのかね。と悩む。

ちなみに、調理のためのエネルギーは、薪かガスで、鉄の容器に入ったガスボンベを誰かがボッカする。暖房は、薪ストーブ。冷房は、自然の冷気。そういえば、薪を確保するための労力もたいへん。それに、ストーブが、数年に一度の割合で、新調しなくてはいけないので、それを、登山口から小屋までボッカするのも一大イベントなのだ。

そうそう、数十年前に、小屋の主人が、お風呂を造った。その水は、雨水を樋で集めて、それを濾過し、その水をドラム缶に入れて薪で沸かして浴槽に注ぐ。完成した時に、一度だけ、入ったが、水も綺麗と言い難く、お湯もすぐに冷めてしまい、エエ湯加減とは言い難かった・・・。それに1人が入るためのお湯を沸かすエネルギー、所謂、給湯エネルギーの確保とその効率の悪さも手伝って、数回使用しただけで、ほとんど使われることもなく、今は撤去されて物置と化している。

小屋の基本は、雨風がしのげて、ゆっくりと寝られる事だと思うのは、被災者の姿を見ていても、あらためて、そうおもうのだけれど、生活エネルギーという観点に立つと、そんな小屋遊びの体験から、生活するためのエネルギー確保の大変さを実感し、特に送電線から送られてくる電気エネルギーの有り難さには、感謝のおもいすらあるものの、はたして、福島原発事故のような危険を冒してまで、送電線から送られる電気エネルギーを贅沢に消費する生活が必要なのかどうか。じゃぁ、どのような節電や家づくりがバランスのとれた生活エネルギーになるのだろうか。それに、日本という国では、エネルギーをどのように創造するのがエエのだろうか。と考させられる。

ツイッターに「発電施設が電気に困っているのだ。」と書くと、「逆永久機関」というリツィートが反ってきた。それを読んでいると、熱力学第二法則というコトバを思いだして、「熱力学第二法則、エントロピー増大を防ぐのは、「愛」か。」と、リツィートした。インターネットで調べると 熱力学第二法則 (Japanese) - ChristianAnswers.Netには・・・

熱力学の第二法則は、日常生活でなじみのある基本原理を描写しています。それは部分的には、普遍的な崩壊の法則です。それは、全てのものが最終的には時間と共にバラバラになり、崩壊してしまう究極の原因です。物質的なものは不変ではないのです。全てのものは最終的には変化してしまい、無秩序が増加します。どんな物でも買った日と同じように新しいままの物はありません。服は色あせ、すり切れ、最終的にちりに戻ります。2 全ての物は古くなり、すり切れます。死もこの法則の現れの一つです。熱力学の第二法則の影響は至る所に現れ、宇宙の全ての物に及びます。

毎年、この法則の無情な影響に対抗するために莫大な金額が費やされています(維持管理、塗装、医療費など)。結局、自然界の全てはこの法則に従っているのです。

    熱力学の第二法則: 物理学者ケルビン卿が専門的に次のように述べました。「熱源を冷やし、外部に仕事を行うだけという自然の過程は存在しない。」 もっとわかりやすく言うと、この法則は、宇宙の利用可能なエネルギーはだんだん少なくなっていく、という事実を述べたものであるということです。最終的には、利用可能なエネルギーは無くなってしまうでしょう。この事実から、どの自然のシステムにおいても、最も可能性が高いのは無秩序な状態であるということがわかります。放っておけばどの自然のシステムも崩壊します。3

エントロピーが増大するのを必死で食い止めようとする作業員。それは、日本の国と国民に対する「愛」なのだろうか。「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」が日本の国の在り方や日本人のライフスタイルを変える、きっかけなのだろうか・・・。

まずは、早期の収束を願いたい。

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2011年03月20日

シーベルト

それは、シューベルトではなく、シーボルトでもなく、「シーベルト」なのだ。と言うと、そんなオヤジギャグ、流行らんわ。と東京から帰ってきた長男に、一喝された。確かに。奥方は、それ、偉人さんやったけ、エジソンとちゃうけど、あっ、チャウチャウ、解った解った、アレアレ、それやん。知ってる知ってる。で、終わった・・・・。

この震災から1週間が経って、震災前と震災後で、「私」の中で、新たに学んだ事は、「津波」と「シーベルト」だった。あの時見た、衝撃的な津波のLIVE映像は、その後テレビで流れたのだろうか、あれから一度も見る事がない・・・。津波が引いた後の映像は、木造の基礎だけが残る映像であり、土台や根太や大引と言われるものが、基礎に取り付いたまま、残像のように残っている基礎の映像もあった。土台を残し、柱から上だけが、波に持って行かれた多くの木造家屋。構造設計の田原さんと電話で会話をすると、木造という建物は、地震のように、右や左に揺れる力には、まだしも、津波のように、一方向から一気にかかる力には弱いねぇ・・・。うん、なるほど、確かに。

「壊滅」というコトバも、ここ最近あらためて認識したコトバだ。壊滅都市を、どのように再興し、都市計画するのだろうか・・・。コンクリートの建物による復興?超高層?海辺の超高層マンンションから降りてくる漁民のおっちゃんおばちゃんの姿?・・・。土地の問題はどうするのだろうか・・。戦後というのは、こんな状態だったかと、ふと思った。きっと、これから様々な「基準」というものが、変わるのだろう。まずは、多様な議論が欲しい。

それにしてもやっかいな問題は「シーベルト」なのだ。マイクロなのかミリなのか、/年か/時か/日か/回か、語尾があいまいなまま報道され、困惑してしまう。年間に1ミリシーベルト/年が、一般人の限界値だという。いま測定された数値が例えば、0.5マイクロシーベルト/時間なら、 0.5マイクロシーベルト/時間の放射線を24時間浴びると、0.5マイクロシーベルト/時間×24時間=12マイクロシーベルト/日で、限界値の1ミリシーベルト/年を1000マイクロシーベルト/年に直し、1000マイクロシーベルト/年÷12マイクロシーベルト/日=83.3日間となって、0.5マイクロシーベルト/時間の放射線を24時間連続で、83.3日間浴びると危険なのだ・・・。という、こんな計算でエエのかどうか・・・。ちなみに、80日という数値から脳内では、小学生の頃に読んだ、80日間世界一周がよぎる。また、それをネットで調べる過程で、「被爆治療83日間の記録」というのに出くわした・・・。

そんな事を頭で、何となく考えている時に、ある人から、親しい人に向けたメールとして、私の稚拙な内容をもっと熟考した内容で数回に渡り送られてきた。その一部を引用すると。

・・・・(前略)・・・・
「避難する」という判断の閾値について考えます。
<前提条件>
・避難したい範囲から出るための時間(つまり被爆時間)を24時間とする
・屋内に居れば被爆量は減るが、安全側(状況としては危険側)を考えて、ずっと屋外にいると想定する
・これまでと同様、環境線量をすべて被爆するという仮定とする

【判断レベル1】
判断する数値の想定:一般市民の線量限度(自然からの線量被爆は除く)
数値:1mmシーベルト/年
上記数値から求められる、自分がいる場所の近くの放射線量の数値:1000マイクロシーベルト÷24h=41.7マイクロシーベルト/h

【判断レベル2】
判断する数値の想定:業務に従事する人の年間被爆量の上限
数値:50mmシーベルト/年
上記数値から求められる、自分がいる場所の近くの放射線量の数値:50000マイクロシーベルト÷24h=2083マイクロシーベルト/h=2.83mmシーベルト/h

【判断レベル3】
判断する数値の想定:成田-ニューヨークを飛行機で往復する線量
数値:86mmシーベルト
上記数値から求められる、自分がいる場所の近くの放射線量の数値:86000マイクロシーベルト÷24h=3583マイクロシーベルト/h=3.58mmシーベルト/h

【判断レベル4】
判断する数値の想定:臨床的な症状が出ない(専門医に行っても「問題のある所見なし」というような診断が出される)
数値:250mmシーベルト
上記数値から求められる、自分がいる場所の近くの放射線量の数値:10417マイクロシーベルト=10.417mmシーベルト/h

【判断レベル5】
判断する数値の想定:リンパ球の一時的な減少
数値:1000mmシーベルト
上記数値から求められる、自分がいる場所の近くの放射線量の数値:41667マイクロシーベルト=41.67mmシーベルト/h

【判断レベル6】
判断する数値の想定:将来的に致命的な癌の発生確率が0.04%として明らかになっている数値(この被爆量を受けた1万人に4人)
数値:1000mmシーベルト(レベル5と同じ)
上記数値から求められる、自分がいる場所の近くの放射線量の数値:41667マイクロシーベルト=41.67mmシーベルト/h

・・・・(後略)・・・・

同級生から電話が掛かってきた。東京に住むオー君から電話があって、どうも、政府の公表している数値が信用できないので、奥さんと娘さんを大阪に暫く移住させるつもりやけど、ウィークリーマンションもどこもかも空いてないので、どこか借家でもないかね・・・。という内容だった。おそらく、こんな事があちこちで起こっているのだ。避難するのかどうかの判断基準は、風評ではなく、引用のような理科的な考え方で、それぞれが判断するしかないのだろうが、より専門知識をもった政府レベルの人が誠実な計算をして欲しいところ・・・・。

そうそう、その上、今や、「シーベルト」だけでなく、「ベクレル」という単位も登場してきたのだ。もはや、テレビも私も、理科の授業の如く、頭の中は混乱ていて、世間では、「理科」と「風評」とで混沌としている・・・・。

「ベクレル」と摂取制限指標

「シーベルト」が放射線が人体に与える影響を示す単位であるのに対して、「ベクレル(Bq)」は、放射性物質の量を示す単位です。
ベクレルは、放射性物質を含む食品や水を食べたり飲んだりすることによる放射線の影響を防ぐために、安全基準の単位としても使われています。
放射性物質ごとの摂取の制限についての指標の値は次のとおりです。
放射性ヨウ素では、いずれも1キログラム当たりで、飲料水や牛乳が300ベクレル、野菜が2000ベクレル。放射性セシウムでは、いずれも1キログラム当たりで、飲料水や牛乳が200ベクレル、野菜や穀物、それに肉や卵、魚が500ベクレルとなっています。

「シーベルト」さんとのお付き合いだけで、充分なのだけれど、これからは、ベクトルではなく、「ベクレル」さんとのお付き合いまでしなくてはいけないのか・・・。それにしても、自衛隊員や消防隊員の「シーベルト」は本当に大丈夫なのか?と、NHKのホームページを見る。

放水後の放射線量 減少傾向に

東京電力は、20日午前11時前から記者会見し、福島第一原子力発電所の敷地内の放射線の量は、放水が始まった19日午後から、引き続き減少傾向にあることを明らかにしました。
東京電力によりますと、福島第一原子力発電所の3号機から北西におよそ500メートル離れた「事務本館」北側の放射線の量は、19日の放水が始まる前の午後2時に、1時間当たり3443マイクロシーベルトだった値が、20日午前8時半に、1時間当たり2625マイクロシーベルトに減少し、18時間余りで818マイクロシーベルト下がったことを明らかにしました。

週刊朝日には、こんな表が掲載されていて、それを引用すると。

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業務に従事する人の年間の被曝量の上限が50ミリシーベルト/年なので、ミリをマイクロに直し、50000マイクロシーベルト/年として、50000マイクロシーベルト/年÷3443マイクロシーベルト/時=14時間となって、14時間作業をすると限界値を越えると解釈すればエエのだろうか・・・・。まったくもって、その環境の中に、果敢に飛び込んでいく作業員のその「勇気」に感謝したい・・・・。

消防隊 被ばく線量基準下回る

東京消防庁によりますと、福島第一原子力発電所で、19日未明、放水活動を行った消防隊員およそ50人の被ばく線量は最大で27ミリシーベルトで、ふだんの活動での安全の基準としている30ミリシーベルトを下回ったということです。
部隊を率いた東京消防庁の佐藤康雄警防部長によりますと、今回の放水活動を行った隊員およそ50人の被ばく線量は最大が27ミリシーベルトで1人、15ミリシーベルト前後が3人、10ミリシーベルト以下が45人だったということです。
被ばく線量を計測する検査は、除せん後に行われたということで、隊員は全員改めて血液検査を受けるということです。
東京消防庁では、被ばく線量の安全の基準として、人命のためにやむをえない場合の活動でも100ミリシーベル未満とし、ふだんの活動では30ミリシーベルト未満としていて、今回はいずれもふだんの活動の基準を下回ったということです。

年間の被曝量の上限値、50ミリシーベルト/年となっていて、それに対して、ふだんの活動の30ミリシーベルトと人命のためにやむえない100ミリシーベルトというのは、30ミリシーベルト/回、100ミリシーベルト/回として、1回の被曝量の限界値だと解釈するのだろうか。良く理解できていないが、いずれにしても、一般人の年間の被曝量の限界値が1ミリシーベルト/年なのだ。消防団員も自衛隊員も被爆という事に関しては、一般人のレベルな訳で、それを50倍や100倍以上の危険を承知の上で挑み、また、ヒロシマ、ナガサキ、チエルノブイリに起こったあの結果が、被爆者の結論であるとするのなら、そういう目に見えぬ悪魔と戦い、国を守ろうとする、消防隊員や自衛隊員の「心意気」には、頭が下がる・・・・。


ところで、原子力発電の賛否は別にして、兎に角、これからの家は、送電線から送られてくる電気エネルギーをなるべく消費しない家が良いね・・・。そうすれば、原子力発電所の数を減らせるし、水力発電を建設するためのダムや環境破壊も減らせるし、火力発電のための天然ガスの輸入も減らせる。「ついでに」CO2の削減にもなるのだろう・・・

家で使うエネルギーは、家電エネルギーが30%ほど、照明が13%ほど、給湯が29%ほど、暖房が15%ほど、冷房が3%ほど、換気が5%ほど、調理が5%ほどだと言われている。あくまで、温暖な地域の平均値。そのそれぞれで、電気エネルギーを節電するにはどうすれば良いのだろうか・・・・。

家電と照明は、いわゆる節電と省エネ機器の性能向上で、電気の消費エネルギーを減らす事になるのだろうが、確かに、これが、家庭で使うエネルギーの半分近くを占めるので、節電する効果は大きい。それに家電や照明のエネルギーは、昼間で天気が良ければ、太陽光発電でまかなうことも出来そうだ。

給湯エネルギーと言われる、お湯を沸かすエネルギーをどう減らせばエエのだろう。主に、お風呂のお湯が最大の消費量になるので、その昔、詐欺まがいの太陽熱ソーラーっていうのが販売されて、社会的な問題になったけれど、太陽熱温水器を使えば、29%のエネルギー消費のかなりを減らせるので、企業が魅力的な製品を出して、復活して欲しいね・・・。一般的には、電気でお湯を沸かす時は、エコキュートなどで、省エネするのだろう。電気を使わないでお湯を沸かすのなら、ガスの給湯器やエコウィルやエネファームになるのだろう。ただ、災害時は、ガスより電気の復旧の方が圧倒的に早そう。そうそう、一般性はないが、薪も候補。災害時は特にね。

調理エネルギーが5%あって、電気をなるべく消費しないという観点でいけば、ガスレンジになる。でも、ガスだと、災害時の復旧が遅いとか、IHと違って、火事の危険性が大きいとか。そういやぁ、キャンプでは炭や薪を使うけれど、それもひとつの選択肢か。

換気で消費されるエネルギーが5%で、それに比べて冷房が3%だという数値には驚くのだけれど、5%の換気エネルギーを節減するのには、調理の時の換気扇以外の換気、例えば、便所やお風呂は、自然換気に頼るのが良さそうだ・・・・。

何よりも暖房の15%と冷房の3%をどうすれば良いのだろうか。暖房に関しては、まずは、家に、断熱材を入れて、断熱効果を高めて、電気でもガスでも灯油でも、兎に角、暖房のために費やすエネルギー使用量を減らす事が求められている時代で、CO2削減として、エコポイントなどが、国レベルの取り組みとして、推進されているが、原子力発電所削減ポイントにしてはどう・・・・?

暖房器具は、クーラーの電気の暖房でまかなうのか、深夜電力の蓄熱暖房を使うのか、電気床暖などなど。やはり、節電という観点では、ガスや石油だな薪だって・・・・。また、それとは別に、昼間は太陽熱を取り入れて部屋を暖めるというパッシブな方法も大切なのだが、南向きの大開口の家ばかりではないので、これはなかなかムツカシイ。

冷房エネルギーをどう削減するのかも大きな課題。全体量からすると僅かなのが意外な事実なのだけれど、夏の一時に電気消費が集中して、発電所がフル稼働になるのが問題なのだろう。夏のピーク時の発電を助けるという観点では、太陽光発電が役に立つのかもしれない・・・・。でも、やっぱり、クーラーを使わずに、夏涼しい家を造るというのが、あたりまえで、単純な目標なのだとおもう。という事は、屋根や壁の遮熱効果を高かめて、風通しの良い家を創るという事になるのだろう・・・・。

冷暖房費の削減にはパッシブな家が求められている。そのパッシブ(受動的)というコトバって、うちの現場監督のTは、cameraroll-1300629763.653741パッシブって、それ、ポジティブの事ですか?ネガティブの事ですか?と聞いたのだけれど、自然エネルギー利用のためのパッシブ建築設計手法事典には、パッシブな家というのは、「特別な動力機器を用いず、自然それ自体がもつ性質を建築的に利用して室内気候調整を行おうとするのが、パッシブ設計の考え方です」と書いてあった。節電する家という観点からも、ますますパッシブな家が求められるのだろう・・・・。

ところで、パッシブな家が増えて、節電された家庭の電気エネルギーが、電気自動車のエネルギーのために使われるのなら、「シーベルト」への不安は、なかなか解消されないだろうな・・・・。どんなエネルギーバランスが日本国にとってエエのだろうか。

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2011年03月13日

粛々

事務所の2階にある応接室で、リフォーム工事の最終見積調整を、設計担当のカワモトくんや、見積担当のトミマスくんと、女性のお施主さんを交えて、打ち合わせをしている時に、揺れが来た。何となく揺れている・・・。大きな揺れではないが、結構、長い間揺れている。地震?と誰ともなく声が出る。施主の方が、ワー、気持ち悪い。と呟いた。

確かに、ゆる-い揺れだが、周期が長い。気持ち悪い揺れだった。応接室を出て、階段を降りて、道路に出ると、会社近くにある、整骨院のお兄ちゃんも道路に出てきて、お互いに顔を合わせながら、揺れたねぇ・・・。地震やね・・・。と言い合う。辺りを見回すと、何人もの人が、家から道路に出てきていて、まわりを見回している。向いの家の2階の窓が開いて、そのお宅の奥さんが、道路にいる私に、揺れてるねぇ・・・と。私もそれに答えて、揺れましたねと頷く。それが、3月11日午後3時前の事だった。

お施主さんとの打ち合わせを終えて、暫くすると、総務のミカワさんが、かなり、東北方面は、えらい事になってるみたいですよ。と言う。それで、3階に上がって、休憩室でもあり宿泊室でもある、和室のテレビを付ける。NHKから地震の報道が流れていて、全てのテレビが、一斉に地震報道だった。阪神大震災の時の事を思いだした。

あの時も、このテレビを付けて、朝から、社員皆で、テレビを眺めた。何となく凄いことが、起こっているなぁという程度だったのが、時間経つに連れて、その重大さを徐々に認識しだした。実際に工務店として、大阪から神戸に関われるようになったのは、1週間ほど経過してからだったと記憶する・・・。

テレビ画面が、ヘリコプターからの映像に切り替わった。海から波が押し寄せる映像で、単なる波でなく津波だった。いや、それが、LIVEな津波というものだと、その時に、初めて、知ったのだとおもう。その津波が、川をどんどん遡上していく。隣には、トミマス部長が横に座っていて、一緒に映像を視る。

以前のテレビ番組で、南海地震が起こって、淀川を津波が遡上し、堤防が決壊して、大阪の町が水没するというシミュレーション映像があった。それを思い出した。そのように、LIVE映像の津波が、どんどん遡上し、堤防が決壊し、木造住宅を巻き込んで、畑を潰して遡上する。まるでアメーバーのように、土地と建物を浸食していくLIVE映像だった。

現実とは思いにくい映像で、まるで映画のシーンのようで、人が、生命ある人が、生活をしている人が、その家の中に居るとは想像しにくいLIVE映像だった。アメーバーのような津波がどんどん押し寄せるその映像の中の、土手を走る車に、おーい、津波が来てる。そっちに行くな。とテレビに向かっておもわず声が出た。LIVEなのか、録画なのかと疑う、キョトンとした状況の「私」。それにしても、その後、あの建物の中の人や土手の車の人たちはどうなったのだろうか・・・・。

時間の経過と共に事の重大さを知る。

翌日のテレビ画面に映る「壊滅」の映像。あの時のLIVE映像のその後が、これなのか? それにしても、大阪でテレビを見る私が、そのLIVE映像で、状況を把握し、その場で、それをリアルに体験しているその人たちに、その事態を伝えられないという、何とも言えない不憫。・・・・。

それでも、震災の影響がない、ここ大阪では、粛々と、日々の業務が続く。土曜日にはタカヤマ設計による高槻の家のオープンハウスが行われた。その日の夜には、矢部達也設計事務所によるcut the corner のレセプションがあった。小学校と中学校の同窓会が、今日の日曜日にあって、それも久美浜までカニを食べる日帰り旅行だった。中止するのかどうかという議論もあったが、最終的には、粛々と行う事になった。同級生のNくんが、震災の影響のない地域では、経済活動を止めない事も、大切な事かもしれない・・・と語った。

いま、被災していない誰もが、心のどこかに、この出来事を気にとめながら、この事に哲学しながら、粛々と日々を生きているのだと思う。

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2011年03月06日

シュールとアフォーダンス

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リフォームの現場に行くと、時々、シュールな光景に出会う。長屋2軒続きの家で、隣を借家として、貸していたのだけれど、その人が出て行かれて、ひとつの住まいとしてリフォームする事になった。その内部解体の現場を見に行く。

「夕焼けの空」という習字が壁に残っていた。ちょうど、夕刻で、日が暮れかかって、内部は、薄暗くなり始めていたところでもあった。一瞬、小学生の頃に、近くにあった、習字教室に通っていた事を想い出した。長屋の2階にあって、長屋として横並びに続いているのだけれど、1階と2階も住人が別れていて、二つ並んだ玄関の片方の玄関の扉を開けると、いきなり急な階段が現れて2階に上がる。その2階が習字教室だった。

その階段を上がる時の雰囲気と、その時の身体感覚。正座をして、座テーブルに向かって習字を習う時の寺小屋のようなその雰囲気。朱墨で、クルクルとまるをつけられたり、訂正されたりする時の感覚。そんな身体感覚が、一瞬だけ、蘇った。それとともに、何となく、ここの住人の姿を想像する。引っ越しする時も、この習字を残して、去っていった、その時の情景と心情は・・・・。

左上の柱には、プロマイドが貼ってあって、笑顔のあどけない、いわゆる清純派女性アイドルの写真で、よくよく見ると、酒井法子って、書いてあった。その名前を読んだ瞬間、声を出して、ウワー、ノリピーや。と叫ぶと、まわりから、何とも言えない、笑いが起こった。その瞬間に、これを一緒に見ている、現場監督のフルカワくんやの設計担当のヤマガタくんや、お施主さんと私が、このまわりを取り囲んでいて、それを眺めている、その様子と、目の前にあるこの「夕焼けの空」という習字とプロマイドと解体現場の情景と、その背景にある社会性を含めたものに、シュールだと想った。そして、シュールな光景やな。と呟いた。

ところで、このシュールっていう表現、これで、エエのかね。ウィッキぺディアによると、

シュールレアリズムとは、超現実主義の事で、「過剰なまでに現実」という意味だとあり、「現実(約束事などに囚われた日常世界)に隣接した世界、またはその中に内包された世界で、現実から離れてしまった世界ではなく、夜の夢や見慣れた都市風景、むき出しの物事などの中から不意に感じられる「強度の強い現実」「上位の現実」である。」と。

今、話題のヤフーの知恵袋で、カンニング的に調べてみると、そのベストアンサーは、

シュールとは、
そもそもは「シュールレアリスム」の略語です。
画家で言えば、ダリやマグリットなどを想像していただければ分かりやすいかと思います。
そこから転じて「現実からかけ離れ、理解し難いもの」などを指す言葉になったようです。
良い意味か悪い意味かは、場面により異なる気がします。
「意味が分からなくてつまらない」 → 「シュールだね」 → ある種の社交辞令
「意味が分からなくて楽しい」 → 「シュールだね」 → 褒め言葉
「何言ってんのこいつ」という場合でも「シュールだね」で穏便に済ますことができる便利な言葉ですが、逆にニュアンスが難しいように思います。

とすると、私のシュールの使い方は誤りなのかもしれない。いやいや、シュールだね。なんて言う表現は、いたって、曖昧で、「私」もよくわからんまま、カッコヨク使っているのだ。という事なんだろうねぇ。その時は、「過剰なまでに現実的」な情景として、捉えていたのだろう・・・・。

こうやって、ヤフーの知恵袋を使って情報を得ようとしていると、なぜか、あのカンニング事件の事がよぎって、「あのカンニング事件には、アフォーダンスがある。」と表現するのは、どうなんだろうかねぇ・・・。と、ふと考えた。おやじギャグ的表現風に言う、アホのダンスという意味ですかぁ。ではなくて、いや、それが大正解かもしれないが、ヤフーの知恵袋では、

アフォーダンスとはなんですか?

身の周りの役立つ情報の事!

という回答で、こんな単純に割り切った回答で、確かに見事ですけど、割り切りすぎな感じで、例えば、答案に書くのには、ちょっと怖い感じ。それで、別の回答を見みると、

アフォーダンス(affordance)
これは、アフォード(afford)「~ができる」「~を与える」などの意味を持つ
動詞をアメリカの知覚心理学者によってつくられた造語である。
このアフォーダンス論を考えると、非常に複雑であり、また問題もあるので
ここでは一部触れることにする。
■アフォーダンスとは
・アフォーダンスは事物の物理的な性質ではない。
・動物にとっての環境の性質
・知覚者の主観が構成するものではない。
⇒環境の中に実在する知覚者にとっての価値のある情報である。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nitti/kaken/3/affodance.html

リンクを見ると、何となく解ったような解らんような。とにかく、「シュール」と「アフォーダンス」というコトバの使い方はムツカシイのだ・・・・。

今週、中古住宅購入のお手伝いをした、その不動産の決済が、滞りなく完了し、建物が引き渡された。その間に、リフォーム工事の設計も並行して行っていて、事前にリフォーム工事の工事契約も済ませていたので、タイミング良く着工となった。建物には、以前の住人の残留物があって、本来なら、内部解体工事が、直ぐに始まるのだけれど、その前に、お施主さんの希望で、地鎮祭のような、お清めとお祓いをする事になった。祭壇には、山の幸や鯛も並んだ、本格的なものだった。

中古住宅を購入する施主にとっては、初めて、住む土地でもあって、その土地の神様に、この場所に住みますよ。と伝えるのが、中古住宅購入での、地鎮祭のような、お清めのような、お祓いのような儀式なんだろう・・・。そのうえに、施主の奥さんが、「もの」には「もの」の命があって、以前の住人のその「もの」達に、壊しますよ。とお伝えするのだと。なるほど、エエ言霊だな・・・・。地鎮祭と同じように二礼二拍手で榊(さかき)をお供えした。

神主さんが、建物の外や屋上、それに各部屋を廻ってお祓いとお清めをする。3階の部屋には大きなポスターがあって、それは、日本ハムのポスターで、清純派アイドルの大きな顔写真だった。よく見ると、なぜか、またもや、ノリピーだった。その写真の方向に向かって、神主さんが、お祓いをした。

いやぁ、その時の光景は、シュールやね・・・。
神主さんによる、地鎮祭やお祓いは、アフォーダンスやね・・・。

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