2015年02月08日

カルチャーショック

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玄関の引き戸をガラガラっと開け、靴を脱いで、上がり框を上がって、正面の襖を開けて座敷に入ると、真っ暗な和室の中に、火鉢の炭火のほんのりした赤い火と、行灯の和蝋燭の炎の光がゆらゆらと揺らいでいて、先に沖棟梁の娘さんが着物姿で座っていて、そうだと知ったのは、茶事が進行して、会席料理も出て、杯も酌み交わして、歓談する雰囲気になってからのことで、そうそう、今年に入って沖大棟梁の息子さんから茶事のお誘いがあって、もちろん、初体験で、作法も全く心得ず、正客としてのお誘いの意味も理解せず、それに夜の茶事がこんなにも静謐なおもてなしなのだとも知らず、それを「夜咄よばなし」と云うのだと知ったのもつい先ほどの事で、そんな私たちをあたたかくやさしく指導してくれながらの「茶事」だった。

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行灯のゆらぎのピッチが、おもいのほか速く、せわしく、ゆらいでいるのに、行灯の障子に映し出される光と影の動きに情緒があって、それに火鉢の炭火のほんのりした暖かさと、かすかな赤い火を眺めているうちに、徐々に徐々に、心が静かになり落ち着いていくわけで、吐いて吸ってと腹式呼吸になっていく「私」を眺めながら、5人で静かに「待つ」時間を過ごしていると、襖が開いてオキさんの息子の息子さんが、ま、ちょっとややこしいので、おじいちゃんが大棟梁として、その息子さんを棟梁として、その孫さんを小棟梁と呼ぶことにすると、小棟梁が着物姿でお盆にお茶を持って現れて、その役目を「半東」と呼ぶらしいが、いわゆるフツウのお茶なのだけれど、それを飲んで待つことになった。

ちなみに、メンバーは、設計のタナカくんと新人のササオさんと前日に仕事の都合で交代参加として決まったオオムラくんで、いまからおもえば、こんな筆書きの招待状まであるのに、メンバーが入れ替わるのも不義理な事なのだろうが、このような5人が、なにかの縁で、いまここに、静かに時を待つ、その行為から茶事が既に始まっているのだと、そんな夜会の始まりを無言で伝える空気感が充分に漂っていた。ちなみにこの待合を「寄付」と呼び、その「前礼」として、客の代表の私が、前日に、亭主をたずねて、お礼と人数を伝えるのだそうで、前日に電話では連絡をとったものの…だ、そんな作法が必要なのだと、いま頃知るのだった。

2015-02-07 18.09.35正式な案内があって、座敷の庭に面した障子を開け、藁草履を履いて、庭に出て、「外待合」に5人が体を寄せ合って待つ。オキ棟梁が着物姿で「手燭」を携えてわざわざやってきて、正客としての私が手燭を持ってやるべき作法を教えてくれて、それを棟梁の着物姿の娘さんが、その都度ホローしてくれるという、そんな手助けが最後まで続いたお陰で、なんとか茶事を楽しく過ごせたわけで、それはそうと、確か藁草履を履いたのは20年以上前に神奈川県の丹沢にある勘七沢に沢登りをした時に登山口の売店で買って、地下足袋の上から藁草履を履いたその時の事を、冬の外待合で、鴨川の音を聴きながら想い出した。

竹の中門のところまで亭主としてのオキ棟梁が迎えに来てくれて、それを見て、腰掛けから立って、正客としての私が手燭を持つわけで、独特のデザインのアイアンの重みとバランス感覚が手に伝わってきて、その先端の和蝋燭の炎が揺らいで、足下の飛び石を照らすわけで、微妙なバランスをとりながら一歩ずつゆっくりと、後から続いてくる参加者の気配も感じながら中門に着くと、亭主と手燭を交換するのだった。その行為が、なんだかとってもカッコエエなぁと心の中の私が呟いていて、いよいよこれから始まるのだと、お互いによろしくお願いします。とエールを交換するような、そんな気持ちにさせる、粋な儀式だった。ちなみにそれを「迎え付け」と云うらしい。

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中門を入ってすぐに、ちょろちょろと音を立てながら水が滴り落ちる蹲踞つくばいがあって、その左手前には手燭を置けるように計算された石があり、そこに手燭を置いて、揺らいだ蝋燭の炎に照らされながら、左右左と手と口を濯いだあと、数歩進むと茶室の前の躙り口にたどり着いて、身を屈めて茶室に入り、後ろを振り返って、次のひとのために藁草履を合わせて立てかけて、2帖の畳を膝を刷りながら進んで、正座のまま見上げると、目の前に床の間があり、アイアン台の蝋燭に照らされて、「日々是好日」と書かれた掛け軸が出迎えてくれた。

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畳2帖の中に5人が座ると、床の間と直角の方向に半円の茶道口があり、戸が開いて亭主が挨拶に出てきた。作法を知っている正客なら、仮座から床の間の前の本来の座に着いて、それから亭主が出てきて、正客と挨拶を交わして、掛け物などの問答をするらしいが、そんな作法の手ほどきを受けながら、あらためて床の間から順次に席を並んで、最初のお点前が始まるのだった。それは、「前茶」と呼ぶらしく、まずお菓子が出てきて、それからそれぞれが1杯ずつ薄茶を頂戴することになって、もちろん、「懐紙」の持ち合わせのあるなしまで含めて教えてもらうわけで、出掛ける前に奥方から懐紙だけは持って行きや!と手渡されて、そんなのの使い方まで教わって、お菓子をとる作法まで、きっちりとあるのだと知るわけで、それに、お茶を飲む前の次客への挨拶の仕方や、お茶碗を手前に二度回して、口をつけて飲んで飲みきって拭いて、向こうに2度回して、という初歩の作法から、茶器を畳の上に置いて右左と手をついて全体を眺め、膝に肘を置いてお茶碗を手に取って廻しながら細部を眺める作法など、一から「型」を学ぶ茶事となった。

なによりも亭主のお点前の所作を眺めることそのものが瞑想的なわけで、帛紗ふくさの作法とそのポンという音、茶器や茶杓の拭き方、茶筅とおし、茶巾と茶碗のふく所作、お茶を点てる茶杓と茶筅と柄杓の所作とその音など、流派があるらしいが、全てにおいて瞑想的な立ち居振る舞いと所作で、ただただ亭主の作法を見守りながら、自分の心の流れも見守るのだった…。

お茶を味わったあと、「初炭」というらしいが、「炭手前」というのがあって、その所作を眺めるために、正客である私が最初に炉の前に擦り寄って皆で一緒に眺めるわけで、あっ、そんな事するなんて、それこそ全く知らなかったわけで、バーベキューでは決して見ることのない、とってもデザイン的に美しい炭が、エエ感じで燃えるようにする作法を見守りながら、濃い赤の美しく燃える炭火を一緒に眺める行為そのものが、全員の心をひとつに和ませ、力づけてくれるのだった。

もとの席に戻ると、お香を入れた器が畳の上に置かれて、「香合」といわれる器を眺め、次席にまわしながら、お香の上品な香りが、周囲を巡って、当然ながらその蓋を取って眺める作法も教わりながら、炭の臭いを消す目的もあるんやろね。と亭主であるオキ棟梁の解説も加わって、嗅覚まで楽しむ夜会なのだと、その伝統的日本文化の持つカルチャーとやらを、いまさらながら初体験するわけで、そのうえ、茶事はこれで終わって、別の席で、食事をするのかとおもいきや、茶道口が開くと、平たい黒いお盆に載せられた懐石料理を、亭主自らが、運んできて、この2帖の畳の空間で、5人で、懐石料理を食べることになるのだと知って、そらそうで、先ほど、わざわざ、炭を足して火をくべて、熱いお湯を沸かそうとしたわけで、この土曜日の京都での夜の茶事という、「夜咄のカルチャーショック」は、まだまだ続くのだった・・・・。

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投稿者 木村貴一 : 2015年02月08日 23:59 « 初午の祈り | メイン | 「食」の刺激 »


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