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2006年10月29日
モノ
面白いコーヒーメーカーがあるから、とにかく、見に行かへん。と言われるままに、百貨店の売り場に連れて行かれ、カワイイ販売員を前にして、
勧められるままに、何杯かのエスプレッソを飲んでいるうちに、気がついたら購入していた。もはや、ネスプレッソというコーヒーメーカーが良かったのか、
奥方の誘い方が巧だったのか、販売員の女の子が感じよかったのか、なんだかよくわからないけれど、3日後には家に配達された。
珈琲ミルクのような入れ物に入った珈琲豆をチョイスし、コーヒーメーカーの上蓋を開けて装填し、 ボタンを押すと一杯分の珈琲がカップに注がれる。いろいろな味を楽しめるのと、1杯だけ飲めることと、 珈琲を入れる作法がなんだか格好いいのが、ちょっとした魅力だった。
コーヒーメーカーを買った後、キッチンハウスのショールームに行くことにした。 少し前に、お客様が気に入ったキッチンがあると言っていたので、ついでに、ブラッと立ち寄ろうと思いついた。長い間、 キッチンハウスのショールームに行ってないなぁ・・・・、以前行ったのは何時だたのか・・・・、随分、感じが変わったなぁ・・・・ と、見ていると、壁面に、 ミーレの電子レンジとミーレのコーヒーメーカーが埋め込まれてあった。
へぇー、コーヒーメーカーまで、壁面に埋め込めるんだなぁ・・・・と、近づいて、中身を覗いてみると、 先ほど買ったネスプレッソのロゴマークがあって、買ったやつと同じように、コーヒーカプセルを装填する仕組みになっていた。こんな時って、 オレ、今日は、ええ買い「モノ」したよなぁ・・・と、なんだか、得したような錯覚に陥って・・・・、上機嫌になっている自分が、やっぱり、 単純だなぁ・・・と、別のキッチンを見ているうちに、それとなく気付いた。
我が家のキッチンに新しく置かれたコーヒーメーカーのデザインを眺めていると、 その横に置かれてある「塩」 に目がいった。そういやぁ、これは、五島列島の旅でゲットした 「モノ」だなぁ・・・・・。「矢堅目の塩」という食塩で、気のせいかこの塩を使うと、 食べ物が美味しくなったような気がするのだなぁ・・・。 もうひとつゲットした塩があって、「矢堅の水音」という塩の入浴剤で、 これを入れたお風呂につかると、体が温まって、「つるつるすべすべ」になったような気がするのだった・・・・。そうそう、 そういえば、五島列島で手に入れた椿オイルの石鹸も、いまだに、使っているなぁ・・・・・。
と、最近ゲットした「モノ」、他になかったけ。と思い浮かべてみた。そう言えば、 以前のブログで 「椅子」の事を書いた。ミニチュアの椅子を見ているうちに、「ホンマモン」が欲しくなるなぁ・・・・・て。つい先日、 携帯に、奥方から電話がかかった。「堀江のhhstyleに行ったら、 イームズの椅子の中古が定価38800円が27000円で手に入るって、買ぅ・・・・?」「買う!」っと、思わず、 答えてしまった。 何でも、撮影に使った、ちょっと傷あり。という品物らしい。夜遅く、家に帰ると、 手に入れたイームズの椅子が玄関にデーンと置かれてあった。奥方の「サプライズ」というやつだった・・・・・。思わず、 「カワイイなぁ!」と叫んだ。勿論、椅子に向かってやけどね。実物は写真やミニチュアの椅子よりも、もっと、カワイイ椅子だった。 座面の白の色が、つや消しで、感じのええ白色なんだと、初めて知った。
玄関のサプライズチェアーに腰掛けながら、こんな椅子のような、カワイイ建築を造れたらええなぁ・・・・と、 素直にそう思った。
2006年10月22日
百貨店
カッターシャツのお仕立て券を贈答品として頂戴していて、それを交換する機会がなかなか持てなかった。百貨店まで行くのが、 ちょっとだけ、億劫だというのもあるのだが、なんというのかなぁ・・・・、休日に百貨店に行くのにも、それなりに、「勇気」がいるんだなぁ・ ・・・・。
アウトドアーに行きたいとも思った。ここ何回か奈良で仕事をしていたので、のどかな奈良の光景。そうだなぁ・・・、 明日香とか山辺の道なんていうのも、のどかでよさそうで、そうそう、以前にINAXの企画展で、 山辺の道にある土の小屋を写した写真があって、そんなの見るのもええのかなぁ・・・。なんて思いながら、息子にハイキングでもどおーって、 聞いてみたら、「僕はサッカーの試合に行くワーっ」と、か~るく、ふられた。
そんなわけで、「ええ加減に、百貨店に行かなアカンでぇー」という、奥方の猛烈なるプレッシャーを感じたので、 草や木々や山々や土の香りの、のどかな光景を見に行ったつもりの「心」で、人と物に溢れた百貨店に行くことした。 夫婦二人だけで百貨店に行くことなど滅多にない。
難波の高島屋に行った。なぜか、着くなりお腹が空いたと思った。そういえば、朝ご飯を食べてなかったけ。いきなり、 上の階にある食堂街に向かった。百貨店で食事をすることなどほとんどない。「福喜鮨」という屋号を見つけた時、祖父の事を思い出した。 そうそう、死ぬ前まで、お昼ご飯を食べに、高島屋の福喜鮨や大丸の吉兆によく行っていたなぁ・・・。それが、楽しみだったようだ。 そういやぁ、私は一緒に一度も食べに行ったことはなかったなぁ・・・。
そうそう、小さい頃、祖父は、1、2ヶ月に一度ほど、おもちゃを買いに百貨店に連れて行ってくれたっけ。今から思えば、子供に、 ひとりで、おもちゃを選ばせて、その間、1時間近くも、な~にも言わず、じ~っと、ベンチでタバコを吸って待ってくれていた。「もの」 の溢れた中で、「迷い」を繰り返して、「自分で決めて選ぶ」という、そういう事を教えるための教育でもあったのだなぁ・・・・と、 いまになって、ようやくわかる。自分の子供には、そんな事してないなぁ・・・・。
百貨店の福喜鮨で食べるのは初めてだった。中に入ると、いっぱいだった。流石に、年配者が多い。 祖父も同じような雰囲気で食べていたのだなぁ・・・・。店内は、しゃべり声はするものの、静けさがあった。それは、 カウンターの前で鮨を握る職人さんの「びしい~とした」雰囲気がそうさせているのだと思う。奥方に「うちの会社もこんな雰囲気かねぇ・・・」 と聞いたら、「ぜ~んぜん違うワー。まだまだやねぇ・・・・」とかる~く流された。私の話より、どうみても、 鮨にしか意識は向いていなかった。私が職人さんの「姿勢」に見とれている隙に、と~っくに食べ終えていた。
確かに、回転寿司のタ・マ・ゴとは全くちがう、タマゴ鮨だった。味に気品があるのだろうなぁ・・。そういうのは、 いったい何からうまれろのだろう・・・。素材だけなのだろうか・・・。技術だけなのだろうか・・・・。 ものづくりのハートが違うからなのだろうか・・・・。・・・なんていう考えが、ほんの数秒間だけ駆けめぐったが、「味」 以外の何か別のものも一緒に食べさせてもらったなぁという、満足感が、ぶつくさと言う心を一掃した。そして、私が、若いときには、 否定的に捉えていた、祖父の百貨店の中の老舗日本料理店好きという、その感覚を、それはそれで、結構、ええもんやなぁ・・・と、 そのハートの一端を共有できた気がした。
そうそう、シャツの券の話だ。実は、2枚たまっていた。1枚は難波のT百貨店、もう一枚は上六のK百貨店。 1日に2カ所もまわる事になってしまた。それが、全くそれぞれの雰囲気と対応の仕方が違うのが面白かった。確かにT百貨店はオシャレだった。 担当のおじさんもびし~っとしていた。綺麗に整理された冊子の写真を見ながらシステマチックに、丁寧な説明だった。寸法のあたり方というか、 メジャーの当て方がプロぽかった。K百貨店が、そうじゃぁ、なかった。というわけではないのだけれど、2つを比べると、 不思議にそんな感じがした。おそらく、K百貨店だけしか行かなかったら、そこまでは、思わなかったのだろうなぁ・・・。まぁ、 こんなもんかなぁ・・・・って。
T百貨店では首まわり39.5といわれたのに、K百貨店では41だった。わずか2時間の間で1. 5センチも首が伸びるわけでもないのになぁ・・・・・。それと、店の照明の仕方が全く違っていた。K百貨店ではいまだに、 天井の照明に細長~い蛍光灯がずらりと並んでいた。どちらかといえば、白けた光の店内だった。T百貨店はダイクロハロゲンのまばゆい光で、 店内が輝いていた。気のせいか、店員の女性の顔色も違うように見えた。
この2軒の百貨店を同時に回ったことなどなかったので、ひとの持つ印象とは不思議なものだなぁ・・・と思った。いままで、 見慣れた百貨店も、私という人間と二つの百貨店の結びつきと、その組み合わせが変わることで、こうも様々な印象を持つのだなぁ・・・・と。 まぁ、どちらが、良くて悪くて好きで嫌いでは脇においといて、同じように、うちの工務店もお客様から見れば、他の工務店と比べられて、 様々な印象を受け取られているのだろうなぁ・・・・。いやぁ・・・今日は身が(首が)引き締まる思いがしたなぁ・・・・。
2006年10月15日
ヤングダイクス
社員のT桝くんから、ヤベッチのブログにシャチョォーの名前が出てきてるでぇー・・・・・。 なんて云う情報が舞い込んだ。どれどれ、と見ると mon, oct 9, 2006 に西大和の家でソトメシをしたらしい・ ・・・。設計事務所の方を「先生」と呼ぶのが通例かもしれないが、社内では矢部先生!の事をヤベッチと呼んでいる。 sun, oct 8, 2006 にはコトバノイエでもソトメシをしたらしい・ ・・。私もお誘いを頂いていたのだが、その日の夜、我が家でも、息子の幼稚園時の同級生の親子でソトメシをしていた。それで、行けなかった。 (また、次回、お誘いヨロシクネ。)
そんな、訳で、今日も、そして、先週の連休も、大阪では気持ちの良い天気が続く。建築させて頂いたそれぞれの家の皆さん、
如何お過ごしでしょうか! 我が家で楽しんで過ごして頂いているのでしょうか・・・・・? 私はといえば、まぁ、こんな按配で、
ちょっとした隙間から望める、ほんのささやかな「自然」をささやかに楽しんですごす休日だった。
そうそう、施工させていただいた皆さんの休日の様子を激写して頂ければ嬉しいなぁ・・・・。そして、 今後の設計と施工の参考になるアドバイスでも頂戴できれば、それはそれで、やっぱり有り難いなぁ・・・・・・。 うちのtanakaやkubotaにでも連絡してやって下さいな・・・・・。
その、ヤベッチのブログに、うちのヤング・
ダイクスの事が書かれてあったので、ちょっと紹介しておこうかな。この写真は、
狭小間口の1軒の家を手加工をするヤングダイクスだ。前にも書いたけれど、
自分たち二人だけの力で手刻みをして、家を完成させたいという、その思いがかなった家だ。その出来た家はこんな感じで、
ちょっとした棚なんかもこまめに作る。
写真の手前に写っているB處くんは、中学を卒業してすぐ、大工になるためうちに来た。ご存じのとおり、私は、 大学の建築学科をな~んとか、よ~やく卒業したので、大工の素養は全くない。小さい頃から身近に大工さんがいる環境で育った事で、 大工のニュアンスを伝えることが出来るかもしれないし、大工をプロデュース出来るぐらいだろう・・・・。自分で大工仕事が出来ないので、 ほんとうに残念な事だけれど、大工の「神髄」は「理解」出来ないし、伝えられない・・・・。
B處くんはもう、30近いが中学校を卒業してから今まで、ほとんど休んだことがない。1度か2度だけだと思う。彼の同級生が その後、 3~4人ほど、見習いとして来たが、誰も長続きはしなかった。そんな中で、彼は寡黙に大工仕事を続けた。 今ではもう70歳を超えてしまった二人の棟梁の仕事を「見て」そして「体で」学んだのだと思う。窓まわりの枠仕事などを丁寧に、 そして器用にこなす。何よりも、「大工仕事が好き」に見えるのが、見ていてすがすがしい。余計なことを「しゃべらない」のも、 「ええ」のかもしれないなぁ・・・・。ちょっとマニアックな大工といえるよな・・・・。
オレンジのシャツを着て刻んでいるのがSS木くんだ。お金の事は関係なしに、どーしても、 どーしても、手加工したいのだ。と申し出てきたのが彼だ。B處くんと同じく寡黙だ。 仕事中も打ち合わせの時も余計なことは一切しゃべらない。それでも、その体から「やる気」を発散させる。体つきがええのだ。 生まれ持っての大工の体つきだなぁ・・・・。
ちなみに、私は、プレカット加工より手加工のほうが精度が高いと思う。キッチリとした手加工で建てられた木組みはプレカット以上に 「締まり」が良い。歴然とした差があると思う。例えば、構造計算値に材と材の締まり具合が数値化出来て、 キッチリとした仕口による手加工はプレカットの何倍増にする。な~んて、なれば嬉しいなぁ・・・・。 適切な仕口と精度の高い手加工はSE工法をしのぐ・・・・。 な~んて決まれば、手加工も増えるかなぁ・・・・・。まぁ、しかし、それはちょっと無理なことだな。
数年前からもうひとりヤングダイクスの仲間が増えた。SZ木くんだ。やっぱり寡黙だ。見た目が、おとなしい。 覇気がなさそうにも見えなくもない。いまのタイプの若者だな。ところが、頼まれた仕事は、誰よりもキッチリと丁寧にするのだ。
私と同い年の大工で、A山棟梁の息子で、小さい頃からお互いに顔なじみの、通称、「小棟梁」は、ヤングダイクスに 「オレはダイクとして一番を目指す。オマエらもイチバンを目指せぇ~~」と、いつもいつも宣う。彼は、いろいろな意味合いで、 野球の清原のような存在だ。ところが、うちのヤングダイクスたちは「イチバン」には全く興味を示さないのだった。 ナンバーワンよりオンリーワンを目指すらしい・・・・・。ちなみにA山棟梁親子は、 70代の棟梁と40代の子棟梁と20代の息子さんと三代にわたって、うちの大工として木村工務店を支えてくれているのだった。
まぁ、まぁ、そんな訳で、皆さん、うちのヤングダイクスをよろしくお願いします。
2006年10月08日
てったいさん
先日のブログで、狭小間口での地鎮祭のことを書いたのだけれど、
今度は、一体全体どこに地鎮祭のテントを設置すれば良いのかぁ・・・・・・と、思い悩むような小高い山のような場所で、地鎮祭があった。
もう3軒ほど施工をさせていただいている、石井良平建築研究所による目神山での住宅だ。
2間×4間のテントが設置出来る場所を何とか「開拓」して、ぎりぎりテントが設置された。地鎮祭の後、テントを取り払うと、 ちょっとしたキャンプ場のようだった。テントを張って食事でもすれば、気持ちええだろうなぁ・・・・。夜景も綺麗だろうなぁ・・・・。と、 設計図を眺めると、気持ちの良さそうなデッキテラスが設計されている・・・・。完成が楽しみだなぁ・・・・。
という楽しい気持ちと共に、こんな場所で、無事に施工できるのか・・・・と、喜びと、工事の心配事が心に去来し、
施工者にとっての地鎮祭の日というものは、その心配事を二礼二拍手一礼のパンパンという柏手の音と共に、
ポジティブなエネルギーに変換する日でもある。・・・・と思う。
それはそうと、設営されたテントの所まで行 くのに、登山道のように山道が作られた。
えーらそうに、設営場所や山道を造った。と書いているものの、実際の作業をしたのは、とーぜんながら、私でも、現場監督でもなく、
うちの「松ちゃん」と「淺やん」と「スーパーT」さんだ。通称、そう呼ばれていて、もう一人「よっしやん」もいる。「うちの」
と書いたが、当社の社員じゃぁないけれど、長年、「手伝い職」として、うちにずーっと、来てくれている。
地方の工務店ではどのように呼ぶのかしらないけれど、私たちは古くから、「てったいさん」と呼んでいる。施主の事を「おせっさん」
と呼ぶようなニュアンスに近い。敬意と親しみを込めているのだなぁ。「てったいさん」の場合は「おせっさん」に比べて、
ちょっとした敬意と親しみという「ちょっとした」がつくのかもしれない・・・・・・。そんな訳で、けっこう苦労しながら、そして、
なかなか芸術的?な地鎮祭の設営地を作ってくれた。基礎工事で壊されるのがもったいないぐらいだなぁ・・・・・
(^_^)
その「てったいさん」とはどんな職人さんなのかといえば、所謂、何でもする職人さんだ。ちょっとした解体工事、ちょっとした土工事、 ちょっとした型枠、ちょっとした鉄筋の組み立て、コンクリート打設、ちょっとした足場、ちょっとした溶接、ちょっとした左官工事、 ちょっとした外構工事、片付け・・・・・・その他何でも・・・・。「ちょっとした」がミソなのかもしれない。 専門職の職人に依頼するのには数量が少ない仕事を、多機能工として、現場を助けてくれている。あっ、そうそう、 それと人柄も大切かもしれないなぁ・・・・。現場を和やかな雰囲気にする役目もあると思う。
木と左官仕事で出来上がる家であれば、設備機器と設備工事(電気ガス水道)以外、「うちの」大工さんと手伝いさんだけで、 まるまる一軒の家は出来てしまう。そんな訳で、リフォーム工事の場合などは、解体からちょっとした基礎、その他もろもろ、ほとんど、 「仲間内」で工事が出来てしまうのだ。
そう言えば、もう4年ほども前になるが、ビフォーアフターに出演した時は、収録日の関係があって、1回目の時は1ヶ月の工事を2週間、
2回目の出演の時は2ヶ月の工事を3週間で作り上げた。「おせっさん」に協力して頂き(その時はご協力、有り難うございました)、
施工中の全ての現場を中断させていただいて、木村工務店の大工と手伝いのオールスターを投入した総力戦だった。まぁ、
今から振り返ってみても、よーやったほうだなぁ・・・と。もう、かなりの時間が経過したので、その時の思い出話でも書いてみようかなぁ・・・
・・。
その、テッタイ の松ちゃんに頼んで、古い木造3階建ての文化住宅の持ち出しの通路に、バスケットゴールを取り付けてもらった。
頼まれれば何でもこなすテッタイの松ちゃんは、バスケットゴールだって、取り付けてくれるのだぁ・・・・(*^_^*)。
この木造3階建ては古い。私が産まれる前から存在している。建築基準法で木造3階建てが認められる、ずーーっと以前の建築だ。 いつの頃か、消防法的にも建築基準法上も木造の3階が認められなくなり、それ以降、3階は閉ざされたままになっている・・・・。 阪神大震災の時も無事だった。震度4ぐらいなら、普通にきっちりと作っていれば、ちょっとした損傷はいくものの、どーってことないようだ。 でも、震度5や6となると、ダメだろうなぁ・・・・。
傷みが著しい、この3階建て文化住宅を取り壊すことになった。それなりに、気に入って住んでくれていた、 おっちゃんやおばちゃんが数ヶ月前に出ていた。この建物は、私の祖父が木造2階建て文化住宅が建ちはじめた時代に、 木造3階建てに挑戦して造ったようだ・・・・・。文化住宅や長屋等、お上の力に頼らない、民間の工夫と活力によって、 さまざまなナニワの文化が築きあげられてきたのだろう・・・・。ナニワからそういう活力と工夫が失われていく・・・・。 それを新たに担うのが、私たちの世代でもあるのだが・・・・・。
取り壊すまでの数週間、この3階建て文化住宅は、バスケットゴールの「巨大な支柱と観覧席」としての最後の役目を果たすことになった。
子供達の最大の楽しみは、ベランダに上がって、リングに向かって、スーパーダンクシュートが打てる事だ。テッタイの松ちゃんが、
そこまで考えていたかどうかは定かでない・・・・・・。
2006年10月01日
バカ棒
「バカ棒っていったい何ですかぁ。」と、弊社のH嬢が驚いた口調で聞いてきた。H嬢と書くと、 何ともいかがわしい雰囲気がするので、ひろ嬢と呼んだほうが、ええのかもしれない。社内で最も高い最終学歴で、いわゆる、 院卒というやつだ。
社内に無造作に立てかけられていた「棒きれ」を指さして 、「このバカ棒が」と教えていたのが、 当社のF氏で社内で最も高年齢の大ベテランだ。そうそう、正確には、会長と呼んでいる、私の父が社内にいて、年齢は72だったのか・・・。 だいたい、そのあたりの年齢になると、もう、親の年も正確にわからなくなり、どうだってよくなってくるものだ・・・・ (*^_^*)
F氏の年齢も正確に思い出せない。確か、68、いやぁ、69か。兎に角、けっこうな、年齢なのだが、社内で一番大きな声でしゃべって、 一番活気がある。定年退職をしたのだが、技術力が目に見えて、低下していくような雰囲気だったので、昨年からまた、指導にきてもらっている。 戦後の建築業界の技術の発展と共に生きてきたような人だ。ちなみにF氏は、私が産まれる1年ほど前に木村工務店に入社して、私が、 赤ん坊の頃にぐだぐだと寝ぞろをいっていると、その車の助手席に乗せて、現場に連れて行き、寝かし付けてくれていたらしい・・・・。当時は、 のんびりと大らかな世の中で、古き良き時代だったのかもしれないなぁ・・・・・。
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