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2005年08月28日

挑戦

24時間テレビを少し見た。「生きる」と言う事がテーマらしい。江ノ電に乗る事を夢にしている少年のドラマを見た。 不覚にも涙が浮かんでしまった。そういえば、家族で江ノ電に乗って鎌倉に行った事があったなぁ・・・。なんて、話していたら、「へぇー、 そぉなん、そんなこと、ぜんぜん、おぼえてへんワー」っと次男。「あぁぁ、折角、連れて行ってあ・げ・て、電車のミニチュア買ってあ・げ・ たのに・・・。」と、いやぁ、実に押しつけがましい父親としての私。かたや、江ノ電に乗ることを最大の夢として、 病魔と闘いながら生きた子供がいて、それを支え続けたお父さんが家族のために生きていた。・・・・・・・ちょっと反省する私。

新潟の地震で少年を助けたレスキュー隊の記録映像を見た。そういえば、その当時、ニュース映像を見て、感動したことをコラムに書いた。 その時の事を思い出した。レスキュー隊がテレビの中で語っていたモットーとしている言葉が「愛・技・絆」らしい。人間に対する「愛」 と人と人との「絆」を信じるという、その二つの言葉の間に技術の「技」が入っていた。技術がないと人を助けることが出来ないと。「愛技絆」 という言葉は「プロ」として生きていこうとするあらゆる人々と職業に通じる言葉だなぁ・・・・何て考えながら、 番組の中で流れるサライを聴きつつ、このブログを書いている。 テレビを見ながら、「挑戦する」って格好いいなぁ・・・・と。

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2005年08月21日

ギャップ

シュノーケルを付けてプカプカと海に浮かびながら珊瑚礁と絡み合って泳ぐ様々なデザインの魚を眺めていた。 よくもまぁこれだけ多様なデザインと色彩の魚を造り出したものだなぁ・・・・と、改めて、そのデザイナーの創造力に感心していたら、 鼻の中に水が入ってきて、そんなスーパーセンチメンタルな感情は吹っ飛んだ。そして、 まるで豚のように鼻をくんくんくんくんさせながら海の上でもがいた。

やっぱり、そのデザイナーの事を「神」と呼ぶのだろうかなぁ・・・。それとも自然(しぜん)(じねん)と呼ぶのだろうかなぁ・・・・。 なんて、真っ青な海、照りつける太陽で、脳天もいかれそうになりながら、真っ白な砂浜を歩いていた。お腹が空いたので、 海の家で何か食べようと砂に足を取られながらヨタヨタと歩いていたのだった。そしたら、いきなり、スピーカーからラジオ放送が流れてきた。 「地震が発生しました・・・・」「けが人は・・・・」「震度は6強・・・」と、いかにも、 拡声器という感じのスピーカーから音が流れるものだから、ちょっとしたドラマのような臨場感だった。 「なぁなぁ、おとうさん、 6強ってどうゆう意味?6弱とどう違うのぉ」と次男が聞いてくる。「えー、それは、つまり・・・」と知ったかぶりで答える私。どこで、 地震が発生したのだろう。大阪やったらどうしょ・・・自宅は大丈夫やろか・・・東京にいる長男は・・・と不安がよぎった。 沖縄の水納島という南の島の真っ白な砂浜での出来事だった。 「宮城県で・・・」「天井が崩落して・・・・」

建築という職業に携わっているものは、大なり小なりそうだと思うのだが、こういう災害時の放送は、自分たちの仕事のあり方を、 それぞれの内面に向けて、ずしんと問いかけてくる。まぁ、それがタコライスというものを食しながら、 海の家のパラソルの下で、プラスチック製の椅子に座り、目の前に広がるビーチパラソルの群れと海岸で寝そべる美女を眺め、 青い海で水しぶきをあげる子供たちの歓声の、その背後から地震放送が聞こえてくるものだから、状況から生じる「ギャップ」 がとても複雑な心境を生み出すのだった。大阪で起こっていたら、このまま直ぐ、帰らんとアカンやろなぁ・・・・ などと心は駆けめぐりだしたが、南の島の威力に一瞬にしてかき消された。

そういえば、ゴールデンウィークに青森県の三内丸山遺跡に行った。 あまりにも早朝に到着し、開場までに時間をもてあましたものだから、近くにある三内温泉の朝風呂に入ることにした。 ドーム屋根に埋め込まれたガラスブロックから入る幽玄な光。硫黄の臭い。朝日が差し込む窓。寝そべる人。湯治という雰囲気を満喫し、 湯上がりに休息所のソファーに腰掛けてテレビを見た。尼崎のJRの事故の様子を映し出す映像だった。何度か通過したことのある尼崎駅の様子。 その放映を見る湯上がりの東北のおっちゃんとおばちゃん。そしてやはり湯上がりの旅行者の私たち。 ソファーでくつろぎながら見る生々しい映像。それらの「ギャップ」が私の中にあるひとつの印象をつくりだした事を、南の島で思い出した。

伊丹空港から那覇空港に着いてからレンタカーを借りることになっていた。連れて行かれた所はDFSギャラリア沖縄という免税店だった。 日本なのに沖縄だけに免税店があるらしい。 このレンタカーのシステムを近代的と呼ぶのかどうかは別にして、空港前のレンタカーショップとはかなり違ったシステムだった。 その商売の仕方とギャップにくらくら来そうだった。確かに奥方の目がキラッと輝いたのを、目撃はしたのだが、素知らぬふりをしてやり過ごし、 直ぐに車に乗り込んで出発をした。

アメリカにありそうなドライブスルーのある沖縄のハンバーガーショップゴーヤバーガーや、 ぬーやるバーガーとやらを買い込んで、ついでに、ipodも車に仕込んでホテルまでドライブすることにした。 高速道路を途中で降りて嘉手納基地でも見にいこうということになった。 RIMG1048道の駅嘉手納の屋上から基地が望めた。 ひとりのおじさんが基地についての説明をしていた。それを聞き入る2~30人の輪がそこに出来ていた。真っ青な空に強い日差し。 広大な基地。道の駅の前で奏でられ屋上まで鳴り響く、陽気だが憂いを含んだ沖縄民謡。 戦争と平和とアメリカの基地と原住民と戦没者と利権。それらが複雑に絡んでいそうだった。 3階の資料館を覗くと小学生の次男が設置されてあるデジタルのメッセージボードに向かって「平和に生きよう」と書き込んでいた。 誰が教えたわけでもないのに・・・・。

 

沖縄の水族館にイルカラグーンという施設があった。 ジャンプの練習をさせられているわけでもない、イルカが、ただただ、泳いでいた。といより、浮いていた。仰向けになってプカプカ。 うつ伏せになってプカプカ。おもむろに、ぐいーーと泳ぎだしてプカプカ。気持ちよさそうだった。 ホテルのプールでの私はまるでラグーンで泳ぐイルカのようだったかもしれない。仰向けになったり、うつ伏せになったり、泳ぎだしたり、 そしてとにかくプカプカしていた。ホテルの「もてなし」と「笑顔」 がよりいっそうプカプカ気分にさせてくれたのだろう。時折聞こえる戦闘機らしい爆音が、「リゾート」との「キャップ」を生み出し、 嘉手納基地とそこでのひとりのおじさんの姿を連想させた。

国際通りにある雑貨屋さんにこんなCDが置いてあった。 そのジャケットのおじさんの顔が嘉手納基地のおじさんの顔と似通っていた。 サブタイトルが RELAX TO THE MAGIC OF OKINAWA とあった。シンプルな三線の音をイヤホンで聞きつつ、 奥方の買い物をひたすらレストランで待ちながら・・・・、リゾート地としての沖縄は戦争の悲しみを受け入れ、超えていこうとする、 沖縄の人々と沖縄の土地が生み出す、ひと味違った「リラックス」なんだろうなぁ・・・・・などと思った。

沖縄から伊丹空港に着陸した飛行機の座席から立ち上がろうとしたその時、隣の通路の小さな子供が屈託のないすこやかな声で叫んだ。 「おとうさん、家に帰りたくないワー。」「もっと、もっと泊まっていたいワー。」っと。聞き耳を立てていた誰もが、 微笑みとともに心の中で頷いていたんだなぁ・・・・・・・。

 

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2005年08月13日

香り

朝起きて、やかましいぐらいの蝉の声と、抜けるような暑い夏空と、想像力をかき立てる入道雲を期待したら、全く曇っていた。暫くして、 しとしとと雨が降り出した。キャンプをしていると、雨にも、よく出くわす。雨に息づく木々。タープからしたたれる雨滴。 漂う物寂しさとアローンな雰囲気。スローに流れる時間。本とコーヒー。そして、それら全ての「香り」が漂う・・・・・。 時にはタープの下で過ごす雨のキャンプもなかなか味わい深いものがある。そんなタープの雰囲気を持ち込みたいと出来たのが、 我が家のデッキスペースでもあった。

来客があると、たまに、ほの かに木の香りがするね。と言われる時がある。うちの家の居間に入った時の感想だ。 リフォームしてから4年も過ぎると、住んでいる私たちは、なんとなくそんな感じもするかなぁという程度になってしまうのだった。  P1011107RIMG0952

夏みになるとなぜか長男の友達が入れ替わり立ち替わり、数名押しかけてきて、泊まる。デッキはバーベキュー広場と化し、 居間は18歳の若者に占有されてしまうのだ。皆がゴロゴロしながら、テレビゲームをしたり、だべったりしている・・・・・。 そんな姿を見ると、自分のその当時の事を思い出す。遠い昔のようでもあり、つい先日のようにも感じるのだ。そうそう、そして、 奥方は女将と化すのだった。

エネルギーを持てあます若者達が去った後、ガラガラという戸車の音と共に居間の引き戸を開けると、ほのかを通り越し、 もはやはっきりと漂うのは、若者のニオイだった。臭いともいえるのだ。香りと呼ぶのは、あまりにも上品すぎる表現だろう。 木の香りの漂う部屋は体育会系のクラブの部屋の雰囲気へと化していくのだった。そしてそれが数日間、まるで残像のように残る。その「香り」 から連想される残像が私の内面に青春時代の「思い」と共に、いまここでの私の現状を再認識させ、その若者のエネルギーが私の内面の「何か」 を突き動かしてくるのだった。

相変わらず外は雨。つがいのヒヨドリが木にとまり、ぴーぴーと騒ぎ立て、飛び去る。かわいらしい、 しじみ蝶が実にランダムな動きでやってくる。飛行機がその音と共に伊丹空港に向かっていく。なぜかトンボがすっうと飛んでくる。 ipodからランダムに音楽が流れる。そしてパソコンに向かう私。そんなムードでお盆休みが始まった。 RIMG0995

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2005年08月07日

聴く

「まぁ、聞いてくれ」と言う言葉で始まるマイルス・ディヴィスの自伝がある。ご存じのない方もいるかもしれない、 マイルスとはもう他界してしまったが、ジャズのトランペッターだ。この「まぁ、俺の話を聞いてくれ」 という言葉がジャズという音楽がどんな音楽かをひと言で表現しているといえるのかもしれない。 楽器を持っているそれぞれのミュージシャンが俺の話を聞いてくれと言いながら演奏しているかのようだ。漫才だって、そんな感じがする。 お互いが俺の話おきいてくれと主張し合い。ボケたりツッコミをいれたりしながら、ひとつネタとして完結していく。 ジャズの演奏も漫才と似ている。お互いの演奏を聴きながらボケたりツッコんだりしているかのようだ。でも、残念なことに、 私は演奏できないのでその真髄まではわからないのだ・・・・。そうそう、そんなことより、この「ブログ」という文化そのものが「まぁ、 聞いてくれ」という世界なんだと思う。

暑い日が続く。近所の人と道ばたで出くわすと、おっちゃんもおばちゃんも、いちように「暑っ~いでんなぁ・・・」 「ほ~んまに暑いなぁ」と言葉を掛け合いながら通り過ぎていく。「まぁ、ちょと聞いてくれ」と言うわけだ。そして、 昨日の晩もやはり暑かった。家に帰ると町内会の「盆踊り大会」が小学校であったので、誰も居なかった。どうしようかなぁと思うまもなく、 用意してくれてあったハヤシライスとビールをデッキに持ち出してDVDでも見ることにした。夕涼みも兼ねて、気分は野外シアターだ。 なんて気取ったりしながら・・・ね。

たまたま手に取ったのがマイルス・ディヴィスのDVDだった。1970年のワイト島のミュージックフェスティヴァルでの収録、 参加したミュージシャンが2003年にインタビューに答えている。既に4~5回は見ていると思う。何とも何とも不思議なことなのだが、 このDVDは私の長男が今年の3月の私の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。自分でチョイスしたらしい。そう言えば、長男が中学・ 高校生になるにつれ、私の持っている2~300枚ほどのレコードのうち、ジャズのマイルスやコルトレーンやミンガス、 それにロックのボブマリーやニールヤングと言ったレコードは長男に「渡った」。時代を超えて受け継がれる何かがあったのだろう。そういえば、 初めて長男を連れて出掛けたコンサートがお祭り広場で催されたライブアンダーザスカイに出演したマイルスだったのだ。 そんな事が影響したのだろうか、長男が高校を卒業する3月と重なる私の誕生日へのそれがお礼だったのかもしれないなぁ・・・・・。 喜びと共にちょっとした神妙な気持ちも味わったという、その時の記憶が今、蘇った。

ものづくりのプロセスの教科書はと聞かれると、マイルスディヴィスの一連のアルバムと答えるかもしれない。 マイルスの好き嫌いは別にしての事だが、2~30代には繰り返し繰り返し聞いた。それほどそのプロセスに刺激される部分が多かった。 このDVDでは本編も然るものだが、ボーナストラックにある参加したミュージシャンのインタビューも面白かった。キースジャレット曰く、 「バンドを率いたメンバーの中ではマイルスは最も耳が良かった。」ハービーハンコック曰く「彼には聴く才能があった。聴き方を知っていた。」 と。

仕事をしていると「聴く」と言うことがいかに大切な事であるか、様々な場面でぶつかる。「聴く」事が出来て初めて「まぁ、聞いてくれ」 と言えるのかもしれないなぁ・・・・・・・。

 

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