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2010年08月29日
朝マックならぬ朝カニ。
ほんとうに暑い。暑いなぁ。と、かなりクーラーが効いている事務所にいて、たまに外に出た時に、大騒ぎしている「私」に対して、現場で働いている職人さんが、「なに、ゆうてんのぉ。めちゃめちゃ涼しいところにいて、たまに外に出るだけやん。わしら、もう、ぶっ倒れそうやでぇ。この頃、毎朝、起きたら、この暑さの事考えて、憂鬱になるわ・・・・・」
昨日、木造の上棟式があって、職人さん達の真っ黒な顔を見て、「どこの海行ってきたん」と言うと、「あほ、何言うてんのぉ。仕事。この家の建前。決まってるやろ。今度、社長、1回、上棟の時の職人さんとして、雇ったるから。こき使うでぇ・・・」と。吉本新喜劇的トーク。
最近、家を雨に濡らさないために、上棟後すぐに、ブルーシートで、養生をするのだけれど、この暑さ、上棟式では、風が抜けず、サウナ状態だった。近頃のこの暑さを体感すると、「遮熱して、風が通り抜ける涼しい家」というのを本気で考えるようになるねぇ・・。それにしても、上棟という、この日本文化が大好きだ。世界の人にも伝えたいぐらい。職人さんや施主さんや神々に「感謝」するというのが素敵だとおもう。やっぱり感謝です。
───────────────────────── 2010年のお盆休暇 「能生」 ────────
暑い中でも、お寿司というのは、食べやすいし、美味しい。と、上棟式のお寿司に感謝しながら、食べた事を いまこのブログを書きながら、思い出すと、唐突に、「夏のカニ」の事を連想した。「カニ」は冬の食べ物だ。とおもっていた。
お盆。12日(木)の午後11時に大阪・小路を出発する。出発するまでの準備とか、家の片付けとか、いや、ほんとバタバタする。明日に出発を延ばそうかと、何度も弱気になるが、車の渋滞の事を考えると、とにかく、ムリムリ出発するのだった。
コンビニに立ち寄って、飲み物を買う。運転していて、疲れてきたり、めんどくさくなってくると、何か口に入れて、そのブツクサを解放してあげるのに、飲み物がちょっとだけ必要で、それにしても、家族で、ちょっとした飲み物や食べるものを買うと、意外な金額を支払っていて、このコンビニ商売のしくみと心理に唸る。
深夜のガソリンスタンドに立ち寄る。ディーゼル車なので、セルフサービスで入れるのも店員さんに入れてもらうのも、軽油なら、同じ金額です。と言われると、当然、店員さんに入れてもらうわけで、その店員さんの態度に好感がもてて、同乗の奥方も、子供も、気分エエなぁ・・・と、同時に呟いた。旅の気分まで盛り上げてくれて、サービスというものの、原点を垣間見るおもい。そうそう、普通ガソリンは、セルフの方が安かった。こういう、価格とサービスの設定方法というのは、どうやって決めているのかね・・・。などと、集中力が切れてくると、そんな事を考えながら車を運転するのだった。
コンビニやガソリンスタンドに寄っているうちに、高速道路に入るまでに、それなりの時間がかかる。高速道路の運転をしていて、いつもおもう事は、休憩とか、ガソリンとか、買い物とか、食事とか、そんな事に、油断していると、かなりの時間とお金を浪費している事に気付くこと。サービスエリアでのビジネスが、それなりに繁昌しているのかどうか、よくは知らないが、高速道路における、ドライバーと同乗者の心理的状況をあれこれ、分析しているのだろう・・・・。
2時間ほど運転して、深夜1時30分すぎ、北陸道の南條サービスエリアで仮眠をとる。サービスエリアは、満杯状態。仮眠をするのに、どこに車を停めるのかは、悩みどころで、経験のない時は、便所や売店の近くに停めた事もあって、そうすると、車の出入りが頻繁にある事と、車のドアーの開け閉めの音が、意外とうるさくて、眠れなかったりする。近頃は、長距離トラックが仮眠している、その数台のトラックの隙間に紛れ込んで、ぐっすりと眠る。最近、なんだか、車中泊が増えてきていると感じる・・・・。
朝の5時台の高速道路の運転がエエ。道路も空いていて快適だし、それに空が白々してきて、エネルギーがわいてくる感じ。そんな訳で、5時頃、ムクッと起き出して、車を運転する。後方では、奥方と息子はぐっすりと寝ていた。いまにも雨が降りそうな、どんよりした天気。
16日に軽井沢で泊まるのに、北陸廻りで行こうと決めたのは、息子と海水浴をするためで、福井では、大阪に近すぎるし、富山あたりか、新潟あたりかと、インターネット上を彷徨っていると、糸魚川の近くの「能生」というところを知る。「ベニズワイガニ」とあって、夏でもカニが獲れて、食べられるのだと知ると、息子の一番の好物がカニで、海とカニが第一日目に揃うのは、息子の満足度が高いはず・・・・と、おもい、目的地を決めた。
朝8時前には、雨がパラパラしそうな「道の駅 能生」に到着していた。かにや横丁なるものを見て、少々、驚き、朝から、皆がタライ一杯にかにを買って食べているのを見て、もっと驚いた。流石の息子も朝からカニ食べるのぉと、呟くが、通りを2回ほど往復して、ようやく、家族の決心がつく、周囲の勢いに便乗して、カニを食べる事にした。朝マックではなく、朝カニ。時刻は午前8時47分。試食すると、ゆで方や塩加減によって、各店舗の味が微妙に違うのだ。地元の人が車で乗り付けて、買って帰った、その店でカニを買い、その場で、食べることにした。いまおもえば、自分の舌より、口コミを頼りにする、現代社会の消費者意識そのものの「私」ではないか・・・・・・・。
───────────────────────────────────── つづく ────────
同じ日本でも、大阪と新潟の能生での、食文化の違いは、オモロイ。気候風土というものが違う限り、食文化も違ってくるのだろう。そうであれば、これだけ、暑い暑い日が続くと、日本人全体の文化的な意識にも新たな変化が起こるということになるのだろか・・・。暑さが、変化の兆しなのか。「2010年が21世紀の始まりとちゃいますかぁ・・・」と言ったのは、確か、コトバノイエのカトウさんだったかな・・・・・。
2010年08月22日
残暑お見舞い申し上げます。
お盆休暇をどのようにして過ごすのか。いまの経済情勢を考えると、なるべくお金を使いたくないという気持ちもあって、かといって、家で、5日間、ゴロゴロしているのも、ストレスがたまりそうな気がする。それに、次男が、中学2年生で、「海」という言葉を発すると、「やったぁー」という声が返ってきて、おそらく、そんな素直な返事がもらえる、夏休みを、子供と一緒に過ごせるのも、残り3年ほどだろう・・・・・。
奥方が、今年は、クラシックな老舗旅館に泊まって、くつろいで、美味しい料理を食べて、勉強もするのだ。という。「建築」というものに携わっていると、ホテルや旅館に泊まるとう事が、何某かの刺激になって、もちろん、空間的な勉強にもなり、レーザの距離計を持ち出して、寸法を測定し、空間を数値として知るのは、私にとっては、オモロイ遊びのひとつでもある。
それに、何よりも、その「ホスピタリティー」を体験するのは、企業として、見習うべきものも沢山あって、どうせ、お金を出して、泊まるのであれば、それなりのホスピタリティーのあるホテルや旅館に泊まりたい。とおもう種類の「私」なのだろう・・・・・。
そうそう、それとは全く相反するけれど、車中泊というのが好きで、もちろん、あの寝心地の悪さは最悪的であるものの、それでも独特の魅力があって、止められヘンのだ。おそらく、旅館の食事の時間に縛られることなく、好きなときに食べ、好きな時間に起きて、旅立てる、という、時間を勝手気儘自由に使える楽しさが、その魅力のひとつだとおもう。
あともうひとつは、キャンプ。テントで寝るのは、あまり好きではないのだけれど、防虫ネットで囲われたタープの下で、GIベットの上に、寝袋の中に潜り込んで、外寝するのが、何ともいえない魅力があって、真っ暗な闇に包まれて、闇の怖さも感じながら眠りに落ちていく、あの感覚。フェードインのごとく鳥がさえずり出し、夜明けがやってくる、夜と朝の曖昧なあの時間帯の魅力。夏のキャンプでの外寝の魔力にとりつかれてからは、こんな調子で、今回の旅でも一泊だけ、嬬恋でキャンプをし、やっぱり、外で寝た。
食べる事には、猛烈な執着心があるわけでもなく、「あてがいぶち」でも、それなりの我慢は出来るのだけれど、それでも、大阪と違う、食文化に触れるのは、楽しいし、「うまいもん」を食べた時の満足感は、確かに、幸せを感じる。いま、こうして書いてみると、無意識下での、旅の原動力のひとつになっているのだろう。
「ケンチク」を見る事や「マチ」を見る事が、「シゴト」としではなく、単純に「スキ」だとおもえるようになったのは、ここ10年ほどの事で、それが、新たな旅の原動力にもなっていて、「遊びに来ても仕事のことを考えて・・・」とはまた違う感覚。それに、「ジョウモン」や「ホクサイ」や「バショウ」など、ミーハー的なファン心理も手伝って、それらが、旅へと誘う。
そうそう、何よりも「体を動かす」というのが、行動の原点にあるのかもしれない。夏の「泳ぐ」という楽しみは、この年になっても、大好き運動のひとつだし、「歩く」というのも楽しい運動で、山や川が、何よりも魅力的で好きなのだけれど、町歩きだって、かなり楽しい。「私」も少々大人になって、大型アウトレット店を「歩く」のは、それなりの苦行ともいえるのだけれど、それを楽しもうと努力している最近の「私」は、誉めてあげたいぐらい・・・・・。
それに、何にもまして、旅での長距離運転が、「私」にとってのモータースポーツであって、マラソンのごとく、出来るだけ長距離を休まずに走る事の達成感と満足感が、まったくの個人的な楽しみ・・・・。夏の旅の、いつもの一日目は、長距離運転とスポーツで、それは、トライアスロンのような感覚であって、とにかく、長距離を走りきり、その後、何らかのスポーツで、鼻から、いっぱいのCO2を吐きだして、鼻からいっぱいの酸素を取り込む事で、仕事モードや仕事のストレスが一気に解放されていくのだった・・・・・。
そんな訳で、旅の大本の原動力は、奥方が、軽井沢の万平ホテルで泊まるという。衝動であって、彼女に言わせれば、ただ単に、ゆったりと寛ぐためだけでなく、私や息子にケンチクとホスピタリティーの勉強をさせてあげているのよぉ。そういう寛大な心がそうさせているのぉ。という。なるほど。でも、ほんとかねぇ・・・・・。
息子の事や、その他、様々な旅への衝動が、複層的な歯車として、がっちりと絡み合うことで、ようやく、行動として、動きだす「私」。4月に予約をすると、8月16日だけ、部屋が空いていたのぉ。と奥方。その16日に軽井沢に泊まるために、13日に大阪を出て、どうやって、そこに、辿り着くのか、その「編集作業」が、私の役目であって、「めんどくさい」という気持ちを見守り、やり過ごしながら、グーグルマップとグーグルの検索で目的地をあーだこーだと考えたのは、出発の1週間前だった。まぁ、でも、やり出すと、その編集作業は意外と楽しいね・・・。
IphoneにあるTrip Journalというソフトを使って、このお盆の旅を記録した結果がこれで、「私」の様々な旅の衝動が、どんな形で、実現されたり、実現されなかったのかは、また別の機会ということで・・・・・。
そんな訳で、木村工務店の夏休みも終わり、それでも、まだまだ、残暑が厳しいのですが、社員一同、この暑さを吹っ飛ばす勢いで、がんばって参りますので、読者の皆さん、木村工務店への変わらぬご愛顧を賜りますよう、よろしくお願い致します
2010年08月15日
お盆休暇
お盆休み中である。
「私」は、長野県の小布施という町にいて、それには、いろいろな理由と原因が重なっての事だけれど、まぁ、そんなたいそうな・・・・。こうやって、この地のこの宿で、ノートパソコンに向かっている、「私」を、不思議な気持ちで眺めてみる。
朝起きて、町を散歩する。栗の木があって、栗の実が、道に落ちている姿が、「私」の住む大阪の小路とは全く違って、情緒があるなとおもう。蝉が鳴き出すと、それが、ミンミンゼミで、いつも聴くクマゼミの合唱と違って、あっ、新鮮。旅の目的のひとつは、いつもと違う、新たな、「印象」を受け取りたいだけなのかもしれない・・・・。
その宿には、図書室というのか書斎のようなスペースがあって、最近の宿の「流行」のひとつかもしれない。倉を改装した窓ひとつない空間に、大きなテーブルが真ん中にデーンとあって、四方を本棚がとり囲む。最上段には、酒瓶がずらりと並んでいて、造り酒屋などが母体となっているグループが経営しているらしい。本と酒瓶が不思議な関係を醸し出す。
朝風呂に入って、朝の散歩に出掛け、その帰りに、ちらっと、「書斎」を覗いてみる。まだ午前6時30分。誰もいない。当たり前と言えば当たり前。なぜが、その空間に吸い込まれてしまい、本棚を眺める。本棚を眺めて、時々不思議におもう事は、興味をひく本の、左右にある2、3冊の本の題名も眺め、その何となくの、その本との関係も含めて、その本を手に取って引っ張り出すかどうか、無意識に決めている「私」を発見する事。
そんな訳で、何冊かを手にとってパラパラと眺め出す。そして、テーブルに、その2、3冊置いて、椅子に座る。一冊だけ引っこ抜く事もあれば、その左右の何冊かも一緒に引っ張り出すこともある。そのうちの一冊の中をおもむろに読み出す。パラパラ。パラパラ。そんな事を2、3回繰り返しているうちに、気がついたら1時間も経過していた。早朝の「本屋」さんでの本読みというのが、初体験で、とっても新鮮な印象を食したような気分。
こんな感じで、本屋さんが近くにあれば・・・ともおもうが、宿泊客という囲い込みの場があってこそ、成り立つ事なのだろう・・・。不特定多数の人には無理が多いのかね。きっと、ちょっとしたSNS的な本屋さんと言えるのかもしれない。あっ、そうそう、友達の友達が集まる本屋さんとか、人と人がつながる本屋さんとか、そんな感じ、どうかねぇ・・・・。
そんなこんなで、朝食を食べ終え、お部屋の書斎的なテーブルにノートパソコンをおいて、ブログする、いまとここ。もう少ししたらチェックアウトして、次の「地」を目指そうとおもう。それでは、ちょっとヘンな表現だとおもうけれど、突っ込まないでほしい。
「皆さん、魂が安らぐお盆休暇を!」
2010年08月08日
花火
「花火」と書き出す。そういえば、いつの時代から、花火が発生したのかと思い、ウィキベディアで調べてみる。すると、火薬、鉄砲伝来という言葉に出会う。不思議な感覚。なるほど、花火は火薬との出会いであったのか。
どういう訳か、私の脳内リンクは、火薬が、白川郷を結びつかせる。毎年、社員や協力業者が集まって行く「修学旅行」で、白川郷を訪れたのが、2007年の6月の事で、その村落の美しさに共感するものの、なぜ、こんな陸の孤島のような村が、それも、大きな家として、「豊か」。なのかと、疑問におもっていた。きっと、何かの大きな経済活動があったのだ。それが、穀物なのか、養蚕なのか、そしてそれらが特別な製品であったのか・・・と。案内の人が、火薬の原料になる硝石を生産し、そのために大きな家と土間が必要だったと聞いて、この村の豊かさを生みだした、経済活動の謎が、なんとなく理解できた。
あらためて、火薬をウィキベディアで調べると、火薬が → 「元寇」「種子島」「南蛮貿易」「織田信長」「長篠の戦い」「江戸時代」「鎖国」「五箇山」「白川村」「明治維新」「富国強兵」「ヨーロッパの火薬技術」「日本独自の火薬技術」「下瀬火薬」「日本海軍」「日露戦争」「戦後」「隅田川花火大開」と連想されていくのがオモロイ。
花火大会が、軍事と平和の産物であったのか。と考えてみる。そういえば、いま、こうしてブログを書いている、このコンピューターも、それにインターネットも、元々は軍事技術から産み出されたという。
今週、野池学校という講習会があって、「家づくりの理科」というお題目だった。家づくりに関わる、理科的な問題。それは、温熱や結露などなど、そういうものを、雰囲気的と感覚的だけで、とらえるのではなく、理科的に、定量的にキッチリと整理してみようよ。という試みで、家づくりを考える上で、この貢献度は、かなり大きい。
その講習のなかで、今の省エネは、結果的に一次エネルギーである石炭や石油などが削減できる事によってその省エネ度が評価されているのだ。という、あらためて、頭の整理を促す話。ただし、原発に使われるウランの消費は、一次エネルギーの削減に換算されていないよ。と、頭の整理整頓を促す。
その話を、いま、突然、思い出す。花火が火薬と軍事と平和に結びついた事が、なぜか、先日のニュース報道でのヒロシマと、アメリカ政府のその対応を思いださせ、それが軍事から平和への真偽は別として、原子力爆弾から原子力発電への流れを、唐突に連想するに至る、私の脳内の伏線は、野池学校での、その話の断片が原因であった。
省エネルギーは、電気エネルギーの削減が、大きく関与し、電気をつくりだすための水力発電や火力発電や原子力発電と、そのために巻き起こる環境問題を想起させる。それらの問題に、結論を持ち得ていない「私」がいて、それでも、出来るだけ、送電される電気エネルギーを使わない生活。自然エネルギーを活用した生活が、様々な問題を解決させる道のひとつであると、「私」が呟いていた。
戦争と軍事と鎖国が白川郷の経済活動に結びついていた時代を想起すると、いまという時代が、平和と環境問題とグローバル化によって、あらたな経済活動がうまれる時代となり得るのだ。そんな努力目標にしようよ。と解釈すれば良いのだろうか・・・・・。
「花火」がとんでもない話になってしまった。全く理路整然としない、論理的な火傷になってしまった感じ。ほんとうは、10年ぶりで、PLの花火大会を見に行き、40分ほど歩いて、PLのゴルフ場の間際で、花火を楽しんだ。そんな話の予定。
花火を見た、この10年間の大きな違いは、花火の「量」が半分ほどに減ったと感じた事。また、花火の種類の変化。「量」から「質」の変化に変わろうとしているのかもしれない。いまという「時代」と「経済」の影響が、大きく反映しているのだろう。それよりも、最も印象的だった事は、若いカップルが多く、なによりも浴衣をきている女性が目立って、多かった事。きっと、若い人たちの中に、今までと違う、新たな「文化」的意識が、あるのだろう・・・・。
そう言えば、昨日の淀川花火大会に、中津にある、設計のコンドウさんから、ツイッター上でのお誘いがあって、出向くつもりであったものの、当日の朝に、仕事関係の人の突然の訃報連絡があり、午後7時からのお通夜をしめやかに参列するに至り、コンドウ事務所に到着した時は、淀川の花火大会は、完全に終わっていた。
花火を見れなかった事は、ほんとうに、残念だったけれど、地下鉄で出会う、たくさんの女性の浴衣姿が、心を和ませてくれたのだ・・・。thanks 浴衣の女性達!
PS:木村工務店では、お盆休暇を頂戴します。皆様、素敵な夏休みを!
2010年08月01日
音と断片と間
断片的に思い出す事があって、それは、先日、ツイートした「朝、セミの大合唱を聴く。ブブゼラのあの音が懐かしいね・・・・・。」今朝も、セミが五月蠅いぐらい。セミが5月のハエと同じだ。というのも不思議な表現だが、ブブゼラのいらだつような音を聞いていると、それも頷ける。セミの鳴き声が、ブブゼラと南アフリカとワールドカップサッカーに結びついてしまった。そういう、私の脳内の「リンク」がオモロイ。
「昨夜、BSで、ワールドサッカー、スペイン対オランダの再放送を見た。試合終了後、しばらくして、「could you be loved」が流れ出した。ボブ・マーリー。今回の南アフリカ大会での「新鮮な印象」は、スタジアムに流れる、ブブゼラとこの曲だった。」というツイートをした。
ボブ・マーリーの大阪公演を、それも二日間も見に行った。というのを時として、自慢してみる「私」がいて、いや、もちろん、真剣に自慢をしている訳でもなく、単に、話題性として、話す訳なのだけれど、それとともに、その年頃の精神状態のありようなどが、蘇ってきて、それだけではなく、二回も一緒にコンサートに行ったその友人のひとりが、自らの命に自らが終止符をうった。という、釈然としきれない、事実が、ほんの数年前の出来事でもあって、あのスペイン戦のノーフォイッスルを聞いて、しばらくして、会場内を包むように流れだした、「could you be loved」が、それらの事を断片的に蘇らせる。
もちろん、そんな事に感傷的になっている年でもなく、「私」のどこかに、それらの断片がやってきて、それにしがみつこうとするわけでもない、また、囚われてみたいわけでもない「私」もいて、通り過ぎていくことも含めて、ただただ見守る。
昨晩、大学時代の友人達と会食する。25年ぶりのヤツも。「シカゴを聞くと、ヘンマツちゃんを思い出すわ・・・」「スティーブンビショップが、あいつの車に乗ると、いつも流れていて・・・・」「ウエザーリポートを聞くと、オオカンダの事を思い出すわ。あいつ、どないしてんのぉ・・・」なんていう、会話が飛び交うのは、年寄りになった、歴然とした証拠であるものの、「音」が、ある断片を蘇らせるのも事実。
松尾芭蕉の「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」は、カッコエエ俳句だと、憧れるのだけれど。蝉がブブゼラと結びついてしまい、その蝉の鳴き声がようやく止んで、「静けさ」を満喫している、いまここの「私」と、蝉の音が岩にしみいるほどの静けさと結びついているバショウさんの「いまここ」での境地の違いは、果てしなく大きいか・・・・・。
「音」が、ある断片と断片の「間」に存在する、何かの深淵。奥深い谷のような何か。無。そういったたぐいの「間」に存在する何ものかの、架け橋となる「音」。そういう瞬間に、ある快感が存在している・・・・・。
久しぶりに会った友人たちに、「あの時と、全く、変わってへんわ・・・。」「髪の毛の色は、白いけれどな・・・・。」などと、言われるのは、嬉しい事であるものの、「私」の成長はどうなってしまたのか、と自問してみたくもなる。
その中の年下の友人のヒロトくんが、ハワイで、設計事務所をしていて、彼の里帰りが、この集まりを産み出したのだけれど、彼に、ハワイで、工務店するわ。と、酒の席の冗談の話題とすると、「いやぁ、止めといたほうが、エエですわ。訴訟社会ですから、何でも訴訟になりますから・・・」「施工者は、設計図どおり、施工するだけで、例えば、不具合があっても、設計図どおりにやったから、責任は設計者ですから」と、「確かにその通りですけど、それだけではない、何かが「工務店」というものづくりにはあって・・・、けど、アメリカではしんどいんとちゃいますぅ・・・」「・・・・」
彼は、アメリカの設計者。私は日本の工務店者。前提は、お互いどうしを好意的にとらえようとしているのだけれど、この話には、多くの考えるべき事が含まれていて、でも、それ以上、お互いに話を発展させなかった・・・・。そして、いま、それらが、酒席の「音」の断片として残る。いつか、その断片と断片の間に存在する、奥深い谷を探索したいとおもう・・・・・・。
いま、蝉の鳴き声が全く消えて、静けさという音。時折吹く風で、葉っぱが揺らぐ音。風鈴の音。遠くから、祭りの「だんじり」の太鼓と鐘の音が聞こえてくる。夏の日差し。そんな日曜日のお昼間。でんねん。
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