2009年10月11日
間伐
岐阜の山の中で、間伐を見学した。現場で携わる林野庁の方からの説明を直接聞くと、なんだか説得力があって、山を育て、守っている人たちは、素敵だなぁとおもえた。
これを書きながら、CO2を吸って光合成をし、酸素を出してくれる木々を、敢えて、間伐する方が、結果的に、CO2の削減につながるのだと、林野庁のホームページで確認していると、唐突にも、お金でCO2の取引量を売買しようとする話が、頭をよぎってしまい、CO2の話も、少々、胡散臭く思えて気そう・・・・・・。
それは、ともかくとしても、人の手入れが必要な森林では、「間伐」が森林を豊かにするのだと、現地を目の前にして、まるで講義ごとく、お聞きするのは、貴重な体験だった。それに、 ハーベスタと呼ばれる、ガンダムのような機械が、伐採されて手元まで引き寄せられた20m近い木を、ものの見事に、枝払いをし、3、4mごとに、切り落としていく姿は、圧巻だった。いやいや、もちろん、その前に、山の職人さんが、チェーンソーを使って、一本の木を、ものの見事に、切り倒した時には、見学者から拍手喝采が巻き起こって、素朴な山の職人さんの照れくさそうで、嬉しそうな姿が、印象的だったなぁ・・・・。
そう言えば、スイングヤーダというウインチのようなものを使って切り倒された木材を集積する作業を見ていると、頭の中では、諏訪の御柱祭の映像がおもい浮かんでいた。木の上に人々が乗って坂道を勇壮にかけ下っていく姿の木落という映像だ。それに、5年ほど前に訪れた、茅野にある尖石遺跡の前庭にあった御柱祭の柱のモデルを見た事も思い出していた。
今、このブログを書いている、その遠くから、秋祭りのための、だんじりの鐘と太鼓の練習音が聞こえてくる。地方によって、だんじり、だったり、御神輿だったり、その他、様々な祭りの形態があるのだろうけれど、木を集積するために、ワイヤーに引っ張られた木が、山の傾斜を、ずるずると、勢いよく、下り、引き出されるその様子を間近で見ると、山で、一本の「木」を切り出して、山だしをし、「柱」とする祭り、そういううものが、産み出された雰囲気を、何となく感じ取れたような気がした。きっと、そんな祭りを通して、木を大切にし、森を大切にしてきたのだなぁ・・・とおもう。
山で一本ずつ植えられた、苗木が、下刈りや間伐という地道な作業を通して、「木」として成長し、山から引き出され、製材所で製材されて、「木材」となる。それが、やがて、設計と施工によって「木組み」として、成就する。それらを一連の流れとして、現地で、全て、体験できたのは、素敵な体験だった。
家づくりの過程の中の、その「木組み」に支払われた、施主のお金というものが、勿論、床板や壁材や天井材などの無垢の板材も含まれているのだけれど、そういう費用が、間接的には、山の一本の苗木や、「間伐」の作業費となっている訳で、そのお金が、山を育て、森を育み、ひいては、川を育て、海を育て、山の幸、海の幸の恵みを与えてくれているとも言える、そういうダイナミズムな関係性の中で、貢献出来る企業でありたいなぁ・・・・と、あらためて願った。勿論、少々怪しげな、CO2削減にも協力出来るという訳。
今回の岐阜の旅行では、グリーンウッドワークという取り組みに出会う。 建設業界では、乾燥されていない木をグリーン材というような呼び方をするのだけれど、グリーンウッドのグリーンとは、生木の事を指すのだという。
「削り馬」や「足踏みロクロ」と呼ばれる、手作りの道具を使って、機械を使わずに、「生木」を加工する事で、木のスプーンやお椀、椅子などを造る、取り組みだそうだ。
「生木」の方が木を加工しやすくて、細い部材で椅子などを造れるし、誰もでが簡単に取り組めるのだと聞くと、とっても新鮮な感覚を持った。大工が身近にいる環境で育つと、大工というものは、プロのスポーツ選手のように、出来るだけ早い時期から、体で覚えることによって、通用し、人様からお金を頂戴できるのだぁ。というような、雰囲気が、あって、「木」を扱う世界というのは、職人的なイメージが強い。
確かに、大工は、「生木」を嫌い、「乾燥した木」を頼むでぇ。と、口癖のように言う。人工乾燥すら、嫌い、天然乾燥でないと・・・・・という大工もいる。それだけに、木工、乾燥、職人、というイメージの結びつき強かった。
「間伐」材などの生木を有効に利用しつつ、誰もが簡単に「木工」が出来る取り組みが、「グリーンウッドワーク」という意味でもあるらしい。「私」も少し体験してみると、実に、「おもろい」。技術も勿論必要なのだろうけれど、どちらかと言えば、木の陶芸のような感覚で、時間を忘れて、没頭していきそうな印象だった。
大工のような職人的な世界と、素人が簡単に木工が出来る、このような世界が、「乾燥材」と「生木」という考え方や、「木」というものの利用方法や価値観に対して、また、職人的な技で造られた家具と、素人的に造られた家具が、お互いに補完しあうような関係性になれば、いろいろな幅が出来て、楽しいだろうなぁ・・・・。
うちの会社でも、大工さんに、「足踏みロクロ」や「削り馬」を作ってもらって、素人的な木工にも取り組んでみようかなと思う。施主の方が、完成した自分の家のテーブルの前に、自分で、造った、素朴な椅子に座る姿を想像してみる・・・・・・。
それは、そうと、森林を育てる、下刈りは、人間の赤ちゃんと同じように、最初の方が、手間がかかって、大変なんだと聞くと、なるほど、と妙に、納得する。間伐だって、間伐をしないと、お互いが窮屈になって、光が差し込まなくなって、木の成長が止まっていくのだという。その話を思い出した今、あーー、うちの家の中も、そろそろ、「間伐」せんとアカンものが、いろいろと、あふれ出していて・・・と、いま、まわりを眺め始めた。ところ。
投稿者 木村貴一 : 2009年10月11日 21:29 « 読書の秋 | メイン | 心のどこかに »