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2014年05月25日
「日本」という考え方
日曜日の朝、「まちのえんがわ」の縁側に置いてある、ワークショップで製作した椅子に腰掛けると、西風がすーっと流れて、心地良く、そうそう、昨日の土曜日にその椅子の背後の文庫本棚にある「街道をゆく 沖縄・先島への道」司馬遼太郎を何気なく手に取って読み出してみると、面白くて、「那覇で」という章では、「日本国家というのは、明治四年の廃藩置県で誕生した。それまでに歴史的日本というのが存在したが、それが近代の意味でいう国家でないことはいうまでもない。」なんていう文章があって、いや、もちろん、街道をゆくの何編かは読んでいるが、「沖縄」は読んだことがなかった。
立ち読みならぬ座り読みをはじめると、時折西風が心地良く揺らいで、気持ち良く、そのお陰で、快調に読み進む。昨今の日本国憲法の問題とか、沖縄問題や、中国や韓国の問題などなど、「日本」という国や文化、それに日本の歴史と「いま」と将来をどのように考えるかを、それとなく問われているのが、現状なんだろうが、「日本」を知るための奈良や京都ではなく縄文でもなく、沖縄をこんなふうに歴史的に捉えると「日本」を読み解くヒントになるのだと知ったのが、「私」にとって、読書が快適に進む面白さだったのだろう。そういえば、「鉄」や「黒潮」をこんなふうに捉えるのかと面白がって読んだ・・・・。
現場監督のオオムラくんが、日曜日の朝一番に現場に行き、そのシゴトを終えて、「まちのえんがわ」で、くつろぎながら立ち読みをしていて、それで、あとからきた「私」が、椅子に腰掛けて、「街道をゆく 沖縄」の話を先のように振ってみると、岡本太郎の「沖縄文化論」がエエ本なんですよね。と云う。そんなコミュニケーションがきっかけとなって、そういやぁ、街道をゆくの本を読んで、車に自転車を積んで、そのマチを自転車で走って、集落と建築を見て回って、日本について考えよ。それで、帰ってきて、また、その街道をゆくを読むという、そんな自転車旅どう・・・。なんて話題で盛り上がったが、これ、BSで火野正平がやっている「にっぽん縦断こころ旅」の、ま、パクリみたいなもんですけどね。
先週の日曜日の朝は、流石に鎖骨のチタン撤去手術の4日後だったので、自転車に乗らなかったが、今日の朝はちょっとこわごわ乗ってみると、なんとなく大丈夫そうだったので、そのまま走り続けた。日曜日の早朝にランニングすることで、中年太りと一週間のストレスを解消しようというのがコトの始まりで、それを「続ける」というコトが、面白い遊びでもあって、そんな2010年の9月から始めたのが、「まちのえんがわ」ワークショップがきっかけとなって、2013年から自転車になり、それが、朝だけでなく、昼とか、夜とか、まる一日とか泊まりがけとか、エスカレートして、やっぱり、朝だけの方が、他に時間が費やせるので、ま、ランニングは1時間も走れば充分だけれど、自転車なら2時間ほどかな。そんな訳で、朝6時から9時頃まで走って、11時頃に「まちのえんがわ」に腰掛けたところから、今日のブログが始まった。
そうそう、先週の日曜日は、「まちのえんがわ」で、イエタニさん主催による、版築プランター製作ワークショップがあった。
「女子」の鋸を引く姿が「男前」なのだ。カッコエエのだ。「日本」のものづくりのDNAは、ひょっとして「女子」にあるのではないのかとおもうほど、「ものづくりガール」のものづくりへの姿勢がエエのだ。男子は、もういちど、その心のおきどころを見つめ直した方がよいのかもしれない。確かに「日本のものづくり」も、過去の歴史と「いま」と将来を問われているのだな・・・。
2014年05月18日
結婚指輪
結婚指輪というのを左手薬指にはめていて、それが1985年の5月に結婚し、それ以来ずっとはめているのだけれど、その指輪を外して下さいと看護婦さんに言われたのが今週の火曜日夜の事。それで、外そうと試みるが、第二関節にひっかかって外れない。そうそう、昨年の冬に、奥方に促されて、衣類の収納の片付けをした時に、スチール製の網かごを別の場所に移そうとして、その時にスチールの網の間に左手薬指が挟まって、抜けず、指をこじて、第二関節を脱臼した。それをその場で、右手で左手薬指をつかんでグィッと元に戻したが、数時間後に猛烈に腫れ上がって、それから指輪が全く抜けなくなった。
鎖骨を骨折したのが、丁度1年前の5月で、結婚記念日と日曜日が重なった日の朝で、それが、私たちは今まで一度も結婚記念日に祝い事をしたことがない夫婦で、なのに、なぜかその年だけ、奥方が、フェスティバルホールのキースジャレットのコンサートに行くと言い出して、普段、全くキースなど聴かないのに、「私」に気を使ってくれたのか、祝い事をしようと言い出さない「私」に怒っていたのか、それは定かでないが、とにかく、そんな予約を数ヶ月前にした。で、このブログでも書いたとおもうけれど、その当日の朝に、自転車のアクシデントで、鎖骨を骨折したが、その骨折したまま、結婚記念日のその日の夜のフェスティバルホールのコンサートに行ったのが、おそらく一生の想い出となる、妙なコンサートだった。
そういえば、今年のフェスティバルホールのキースジャレットのコンサートで、観客の繰り返しの咳払いに対して、キースが演奏を途中で止めてタオルを投げ捨てて、舞台から立ち去ったそうで、プロとして大人げないという批判もあり、それはまったくそのとおりだが、観客の側にも、え、そこで、そんな手拍子をするのぉ…とか、え、そんな声援をそのタイミングで送るのぉ。とおもうような人たちもいて、一年前のコンサートでもそれが度々あって、それは単に私好みでないだけの事で、その上、ドォーンとした肩の痛みもあり、新しいホールの素晴らしい音響にも関わらず、私の内面だけは、しらけたムードになっていた。ライブコンサートというのは、観客と演奏者が一緒に作り上げる音楽のような部分もあって、特に昨今の、音の余韻や静寂のようなものを楽しむキースのピアノでは、観客の聴く姿勢と耳も問われているような気がするのだが・・・・。
骨折した鎖骨がチタンで補強されて一年が経過し、レントゲンで見ると骨はくっついているので、そのチタンを取る手術をする事になったのが、この水曜日の事。全身麻酔をするために、それに先だって指輪を外して下さいというのが火曜日の夜の事だった。自分で石けんを付けて試みたが無理で、そのうち、指輪を外すのは、案外、大事な事なのですよ。と言いながら、リーダー格の看護婦さんが、ローションのようなものを持ってきて、何とか指輪を外そうと、力強く、数回試みてくれたが、無理やわ。と大阪弁で苦笑しながら病室から出て行った。結婚指輪が、こんな大騒ぎになるのかと、妙に可笑しかった。
そうそう、結婚して半年ぐらい以降には、奥方が結婚指輪をはめている姿を見たことないので、指輪は切断してもらっても、ぜんぜんいいですよ!と看護婦さんたちに言い放っていて、奥方も心底その事には、笑いながらOKサインを出していて、この際、これを記念に、新しい指輪を買って!買って!と、ほんとうに喜んだ様子で、看護婦さんは、女性は、だいたいそんなもんですよね。と笑っていた。
手術当日の朝には、主治医がきて、指輪は糸かなにかで簡単に抜く方法がありますので、麻酔の時にやっておきますわ。と言って病室を去っていった。お昼過ぎに手術室に入って、右手の点滴に全身麻酔の液が注入され、麻酔の先生の、液でヒンヤリとするかもしれません。と言う声を聴きながら、自分が「落ちていく様子」をなんとなく眺めているうちに気を失っていて、おそらく2時間ほど後なのだろう、はい終わりましたという声とともに目が覚めた。前回の手術の時のように、とっても幸せな夢は見なかったが、「落ちていく様子」を眺めていた「私」のその時の状態に再び戻って、目が覚めていく様子を眺める「私」こなっていたのが、とってもオモロイ体験だった。「手術は上手くいきましたが、指輪は外れませんでした」と、微妙な意識の状態で言われて、予想外の一連の指輪騒動の結末に、嬉しいような、嬉しくないような、妙な気分が去来しながら、手術のスタッフの方々にお礼のコトバを発した。
こんなチタンのプレートとチタンのビスが、鎖骨に、このような形で入っていたらしい。確かに、ずっと微妙な違和感があって、こんな量の金属が、永遠に肩に残るのもイヤだなと撤去手術後の今にしておもう。それにしても、木造住宅の耐震補強工事で、柱や梁を金属プレートで補強するのと全く同じではないか!と、本日の「まちのえんがわ」版築プランター製作ワークショップの講師であるイエタニさんと語らっていると、骨は成長するからエエけど、木造の骨組みは、そのままやから、金属プレートを撤去する事でけへんな。っと言われて、なるほどなるほど。
ま、それはそれとして、最後に残された金属問題は、結婚指輪は永遠に左手薬指にはまったままなのか?それとも何時しか切断撤去されるのか?それが大問題なのだ。
2014年05月11日
巡礼のような。
どことなく「ハラ」に不安のようなものと一抹の寂しさのようなものがある、そんな喪主としての葬儀が終わってから一週間が過ぎた。携帯電話のアドレス帳のデータが飛んだりし、なんか、「へん」な物事が起こったりするのも世の常なのだろう。
ゴールデンウィーク中の5月4日日曜日の早朝は、5月2日の葬儀後の個人的感情問題には、全く関与しませんわ。と「天」に言われているような、あまりにもエエ天気で、それで、その空気感に従って、普段と同じようにサンデーモーニングライドをする事にした。ただ、いまの状況を考慮して、家→十三峠→唐招提寺→薬師寺→大和郡山→慈光院でお抹茶を一服→法輪寺→法隆寺→藤ノ木古墳→カフェファンチャーナでモーニング→龍田大社→八尾寺内町→久宝寺緑地→「まちのえんがわ」 と、走ってみたら84kmほどになっていた。それにしても、朝一の誰もいない、ひとりっきっりの慈光院での、十二帖の書院から眺める、大和の景色と、心地良い風が吹くすがすがしさと、ほろ苦い一服の抹茶の味が、その日の「私」の心境にとってもフィットした、そんな追悼ライドとなった。
ゴールデンウィーク明けには、父が関係していた生野区役所や各種団体の方々に、ご焼香へのお礼の挨拶に廻る。警察署にも寄って、死期を早める原因になった、高齢者の運転免許更新で、どうも、自分が思い描いていたほど、運転がうまく出来ず、ほんとうに体力のないことにも気付いて、少しショックな表情で帰ってきた父は、その足で警察署に寄って、免許書の交付がされたかどうか確かめて受け取るコトをせず、そのまま家に帰って、その5日後に息を引き取った。それで、ほんとうに免許が更新されているのかどうかが気になっていたので、警察署に寄って、お聴きすると、確かに、平成29年3月まで有効の免許書は交付されていますが、本人が死去されていますので、免許書をお渡しする事は出来ません・・・と云われた。仏前に供える記念として置いてあげたいという気持ちが、ほんの一瞬だけ過ぎったが、それより、なんだか、とってもすがすがしい気分になって、良かった良かったよう頑張った。と、心の中で、呟いていた。
そうそう、それより、警察署に一緒に付き添ってくれはった、区役所の女性の方が、その免許書の交付の一連の出来事に、警察署の前で涙してくれた姿に、ほろりときた。なんでも、父が、がん療養中に市民表彰をもらう事になって、もうしんどいから出席せえへんわ。と言っていたのを、その表彰式にずっと付き添って、表彰状の授与を介護してくれたのが、その女性だと知って、深々と頭を下げずにはおれなかった。人生とは摩訶不思議なものだな・・・とつくづくおもう。
本来なら、ゴールデンウィーク中に、丹沢にある山小屋の「堀山の家」に行く予定で、30年来の年上の友人が小屋の親父として営む小屋でもあって、そういえば、雑誌BePalのニッポンのベスト山の宿の表紙にもなった小屋で、そこにはオトナの隠れ家的宿と持ち上げられていて、その身内のような「私」としては、嬉しいような、こそばいような・・・。ま、それはともかく、ほとんど毎年のように訪れていたが、流石に、この状況下では、行く気にもなれず、その旨を山小屋の友人たちに伝えていたら、その堀山の家の親父が、この週末に、お悔やみのために、突然、大阪にやってきてくれたのには驚いた。
今日の日曜日は、全く予定がなく、葬儀に関することが一段落ついたエアーポケットのような日曜日でもあって、それに、あの一週間前の日曜日と同じように、とっても心地良いエエ天気で、そんなこんなで、堀山の家の親父と一緒に、大阪の町を案内がてら歩く事にした。「まちのえんがわ」から歩きだして→ 地元、清見原神社 → 今里新地 → コーリアンタウン → 鶴橋の跡 → 鶴橋商店街 → 商店街の喫茶店ログハウスで珈琲とミックスサンドを食べ → 鶴橋から環状線に乗って大阪城公園駅で降り、偶然、水上バスの発車アナウンスを耳にして、船で大阪城中之島めぐりで周遊する事にした。元の場所に戻って、大阪城天守閣に行って、難波の宮 → 暗峠街道 → 延々と続く東成商店街 → 深江郷土資料館で菅笠を見て → 高井田 → 布施商店街 → 「まちのえんがわ」と約28kmの道のりで、実際に歩いた距離は16kmほどだろうか・・・。
ミナミやキタやアベノではない大阪のマチを一緒に巡りながら、あれやこれやと語らい続けた。そういえば、ゴールデンウィークからの一連の出来事が、とりとめのない巡礼のような気がしてきた。いや、なぜか、「巡礼」のごとくなってしまうのが、「私」のいまここの置かれた状況なのだろう・・・・。
2014年05月04日
生きる姿勢
5月2日、朝、9時過ぎ、左手でポケットから数珠を出すと、突然、切れて、数珠の玉がポロリと5つほど落ちた。縁起悪ぅ。っと次男が言う。紐に数珠を通すが、老眼が強くなってきて、息子に手伝ってもらいながら落ちた玉を全部入れたが、切れた紐の部分を結ぶだけの余裕がなく、使える状態に修復しなかった。なのに葬儀の集合時間が30分後に迫っているので、あたふたしていると、奥方が、そうそう、お父さんの部屋に行って借りてくるわ。と言い、別棟の親父の部屋に走っていって、暫くすると、戻ってきた。全く同じ色柄で、玉の大きさがもう少し大きくて、上等そうな数珠。これからは、俺のを使え!っと言われたような気がした。
4月30日午後4時40分、木村工務店の代表取締役会長であり、私の父でもある、木村正一が、満82歳の生涯を閉じた。昨年の2月に胃がんであると告知され、胃を全摘手術をし、暫くして退院した後は、会社にも毎日のように出勤していたが、この3月18日に腹水に溜まった水を抜くため再入院した。4月4日の枝垂れ桜花見の宴には外出許可をもらって、私が病院まで迎えに行き、少しよろよろしながらも参加して、自ら買った枝垂れ桜が大きく成長し満開のその姿を納得しながら椅子に腰掛けていた。4月22日に退院することになり、可能な限り家で療養しながら癌と闘い癌と付き合って過ごす事になったが、4月25日、どうしても運転免許書の更新に行くと言い張って、私の弟に付き添われて、3時間の講習と実地を受けたと云う。しかしながら、そのことで、一挙に体力を消耗し、家に帰ってからはぐったりした様子で、翌日の夕方、救急車で、再び病院に運ばれ、4月30日、静かに息を引き取った。
最後まで「生きる」という姿勢に拘りをみせた、それはそれで天晴れな父だったとおもう。そういえば、満84歳で亡くなった祖父は食道楽で、亡くなる前日の朝に、黒門市場に買い物に行き、好きな食材を買って、お昼にそれを食べ、夜に、お腹が痛いと言い出して、入院し、翌日に静かに息を引き取った。祖父も父も二人とも、如何にして「生きる」か、その「姿勢」を問うたのだとおもう。
亡くなった木村工務店会長木村正一の功績の中で、二つばかり・・・
↑ こんな言霊を残していて、「親切丁寧」は木村工務店の社員と職人の目標でもある。
↑ このロゴは、デザイナーに依頼することをせず、木村正一自らが、何年間かけてデザインした。特に左の会社のマークは、「木村」という文字を「続け字」として崩して書いて、それをデザインしたんや。と言っていた。木村工務店の「継続」の想いを形に表現し、願ったのだとおもう。
父は、ゴルフと車とお酒が好きだった。特にお酒の「席」が好きだったのだとおもう。社員と協力会社が一緒に行く慰安旅行では、膝を付き合わせてお酒を酌み交わす昔ながらのお膳のスタイルに断固として拘った。お酒の席では、家族と同じように、誰に対しても必ず、一言二言の苦言を呈した。人を叱る事が出来る、近所の怖いおっちゃんのような昭和なタイプの父だった。胃を全摘手術した後に、あと4、5年は生きるつもりや、オリンピックを見る事はでけへんとおもうけどな。と言ったので、何気なく葬儀の事を聞くと、おじいちゃんと同じように会社の加工場でやってくれたらエエわ。と呟いた。
予想より遙かに早く訪れた4月30日夕方の突然の死。ゴールデンウィークがさし迫っていたので、一気に、5月1日夜7時にお通夜、5月2日午前10時30分に告別式を加工場で執り行った。そんな事情もあって、お声がけする時間的余裕がなく、案内を出来なかった皆様には、私のご無礼をお許し頂きたく、また、ご会葬頂いた皆様には、この場を借りてお礼を申し上げます。
合掌
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