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2011年08月28日
テーブルを囲んでゆったりと時空間を共有する。
土曜日に、中古住宅を買ってリフォームをしたお宅に、食事に招待されて、大工のセンさんと設計のタカナくんと現場監督のツジモトくんの4人でお伺いする。二歳違いで続く3人兄弟の子供さんがいて、ご夫妻を交えて、長さ1800mmの無垢材のテーブルを9人で囲む。その皆で食卓を囲む雰囲気が、とっても楽しく嬉しくエエ感じだった。
あらためて、テーブルを中心にして人が集まってコミュニケーションをする時代だなとおもう。それにしても、接近した男の子三人の姿は、賑やかで逞しくて可愛らしい。これからの厳しい21世紀の日本を担う男の子が育っていかなくてはならないのだなぁ・・・・・・。ま、とにかく子供さん達に感謝。勿論ご両親にも。
8月15日お盆の早朝6時40分のフェリーで気仙沼大島を後にする。折角、ここまで来たのだから海岸沿いを仙台に向けて被災地を見ながら走る。という、そんなドライブもあるかもしれないが、家族3人とも、気分的に、そんな「ドライブ」をしたくなかった。それで、もと来た道を引き返し、一関ICから那須ICまで東北自動車道を一気に走る。
キャンプをした後に、真新しいシーツのベットに飛び込んだ瞬間の、あの何ともいえない悦楽的な感覚。布団はエエなぁ・・・とつくづくおもう。二期倶楽部というのが、今夜のお宿で、震災の前から奥方が予約をしていた。大阪で、那須なんていうコトバをいうと、那須の御用邸やな。なんていうツッコミが返ってきて、もちろん初めての土地。それどころか、「私」は栃木県初体験。埼玉や千葉にも通過以外には行った事がない。そういや、まだ、ディズニーランドも未体験ゾーンなのだ。
ホテルに泊まって、ゆったり食べる楽しみ。ゆったり寝る楽しみ。夜に、家族だけで、2時間近くもかけて、食卓のテーブルを囲んで、ゆったり食事をするなんていうのは、ほとんどない。朝など、1時間近くもかけて、ゆったり家族で食事をするなんて、皆無に等しい。確かに、今まで食べた中でも、美味しい料理のひとつだったけれど、美味な料理はテーブルに留まらせる手段であって、テーブルを囲んでゆったりと時空間を共有する事の方に力点があるのだ。と、この土曜日の9人の食卓を体験して、あらためて、そうおもう。きっとこの震災にあった人々も、ゆったりとテーブルを囲む時間を持ちたいのだろう。
さてさて今年も10月の週末に、コトバノイエのカトウさんプロデュースの元、木村家本舗を開催することになりました。今年のテーマは「オープンホームとライブラリーの七日間」です。昨年の「オープンハウスと古本」から少し進化して、ゆったりと過ごせる時空間を提供できればと計画しています。随時詳細をお知らせ致しますので、昨年お越し頂いた方は、また再会できることを。初めての方は、今年こそ是非、お会いしましょう!
2011年08月21日
ケセンヌマとツイッター
ツイッターやフェースブックというのは、面白いメディアだとおもう。まったくもって、くだらない呟きだが、そのくだらない呟きを自ら発することで、今までと違う、コミュニケーションが生まれたりする。
@kimutaka1木村貴一 Takaichi Kimura
夕刻、自宅を出発し、今、北陸道、富山立山ICを通過。新潟を経由し、気仙沼へ。
8月12日 HootSuiteから
こんなツィートを発したのは8月12日の夜の11時過ぎで、前日に、旅行に持って行く予定のこのノートパソコンの調子が悪くて、再インストールをしていて、その作業が長引き、深夜2時頃までかかってしまった。そんな状況下で、12日の午後7時に、旅行の準備も中途半端な状態のまま、無理矢理に旅立つ。奥方と中3の次男との3人旅。大阪から気仙沼、気仙沼から那須、那須から東京、東京から大阪。おそらく、次男と一緒にする、こんな旅行も、あと2、3回なのだろう。
そんな訳で、たった2時間ちょっと運転しただけで、睡魔がおそってきた。今までの旅は、何千キロあろうと、ほとんどひとりで運転してきたが、年のせいもあるのだとおもう。大阪から長浜のあたりで、運転を代わってもらうことにした。奥方も、こころよく引き受けてくれて、後ろの席で1時間ほど仮眠をし、目が覚めて、「いまここどこ」とあたりを見回して、寝ぼけ眼で、ツィートしたのだった。
ツイイターからは・・・
kotobanoie BOOKS+コトバノイエ
@kimutaka1 服部さんが気仙沼にいるはずですよ。気仙沼小学校だったかな。
8月13日フェースブックからは・・
8月12日 23:25 (HootSuiteから)
河田 昌裕 お気をつけて
8月12日 23:33
Mari Koga Have a safe drive and good time
自分の事を「発する」というのは、なかなかムツカシイもので、「私」にとっても、まったくもって、得意ではないのだけれど、なんらかの「貢献」をする。ということが必要とされる、この時代においては、待ち受ける情報より、まず、自らが自らの情報を発信することで、新たなコミュニケーションを作りだす事が、求められているのかもしれない・・・・。そうそう、今、こうやって振り返ってみると、ひとつのコメントは、ニューヨークに住む、知り合いのJAZZシンガーからで、それを北陸道の富山あたりで読んでいるのだから、不思議といえば不思議。ツイッターやフェースブックというのは、確かに、新しいコミュニケーションのツールだとおもう。
目が覚めてからは、奥方と運転を代わり、走り、仮眠し、また走り、福島あたりの渋滞に巻き込まれ、運転を代わってもらい、また走り、一関のインターチェンジを降りたのが10時頃で950kmほどのドライブだった。一関から気仙沼の国道を走る間に、突然、携帯電話が鳴る。いったい、誰、仕事?、と思っていたら、grafの服部さんからの電話で、ツィッターが取り持つ縁で生まれたコミュニケーションだった。
先ほどまで、気仙沼にいたのだが、今、一関から電車に乗るのだという。ほんとうにすれ違いだった。ほんの数十分前まで、一関を通過するついでに、JAZZ喫茶ベイシーを一見したところだった。もちろん、こんな朝にジャズ喫茶が開いているわけがない。聞くと、気仙沼で子供達のための家具を作るらしい。また食事でも。と会話しながら、それぞれの旅へと向かう。
気仙沼のフェリー乗り場で、気仙沼大島でボランティアをする上野くんと落ち合い、grafの服部さんとの間を携帯電話でつなげて、ちょっとしたハブの役目をする。関西に住む、「私」を含む3人が、この東北地方の大震災と貢献と携帯電話とツイッターによって、なぜだかよく理解できないが、「ケセンヌマ」という縁で繋がる不思議。
さてと、「東北と地震と津波と建築」をどのように理解したらよいものか・・・・・。津波や地震に強い建築を造るという以前に、どんな場所に住むのか、どんな場所で仕事をするのか。何を職業としてそこで住むのか、もしくは仕事をするのか。そこで、どんな自然災害のリスクを負って住むのか、もしくは仕事をするのか。気仙沼では、そんな問いと思考が脳内を巡っていた。
「沈黙」が覆っていた。車から降りて写真を撮るなんていうムードと気分じゃなかった。それでも、車の運転席から、窓ガラス越しに、数枚だけは、撮っておきたいという、外者の微妙な心境・・・・。
聞いた話だが、ある漁師が言うのには、「海からの恵みものを頂戴して生活をしてきた。この津波も海からの頂き物なのだ。だから・・・・」と。海に生きる人たちは、そういうリスクを背負って、海と共に生きてきた、逞しい人達なのだろう。そんなリスクを負う必要がないひとは、津波という自然災害の大きなリスクを伴う場所に住まない方がエエのだろうし、そんな場所を住宅地として開発しない方がよいのではないか。旧市街地以上に新市街地のより悲惨な状況。「傲慢」さというコトバ。それらが、その場所での思考回路だった。
沈黙とともに、フェリーで気仙沼大島に渡って、キャンプをしながらこんな夜のツィートをした。 家族3人とウエノ君で、焚き火と満月の下で語り明かした夜でもあった。
kimutaka1 木村貴一 Takaichi Kimura
焚き火と満月の夜 ow.ly/i/fHPc
8月13日
2011年08月14日
沈黙
お盆休暇が始まっていて、木村工務店では、13日から17日まで、休暇を頂戴している。そんな訳で、今年のお盆はどうするかと考えている時に、野池学校や暮らし向上リフォーム研究会の事務局をしている上野さんと親しくなり、彼は、建築の設計を生業としているのだけれど、ボランティア活動も高校生の時から続けているのだという。それで、いま、気仙沼大島でホランティアをしているのだと・・・・。
そんな話から、いろいろな状況が、前後したが、結局のところ、気仙沼大島で、キャンプをしながら、タープの下で、このパソコンを打っている「私」のいまとここ。「私」は、ボランティア活動の経験がないので、どちらかといえば、ボランティア活動をしている人をボランティアしにいくような感覚。ウエノくんは、テントに寝泊まりしながら、こんな感じでパソコンを使っている。テントの中には、建築の本がちゃんと置いてあるのが、笑える。いやいや、ちょっと感激する。
勿論、いま、この時期に、東北に行くのには、それも、ほとんど、観光なのだけれど、確かに、ハードルが高い。風評もいろいろあって、まるで、放射能を浴びにいくようないわれ方もされて、息子など、おとうさんやおかあさんは、年がいっているからエエけど、俺、まだまだ若いから・・・・。なんていう風評の影響が誠しやかにはびこる。確かに、行く場所にもよるのだろうし・・・・・。
それでも縁があって、ウエノくんが、フェリーの予約をしてくれたりして、気仙沼発の午後2時40分のフェリーに間に合うために、前日の夕刻に大阪の自宅を出発して1000kmを走る。そして、到着した気仙沼の町には「沈黙」の空気が漂っていた・・・・。
↑ 気仙沼大島の津波被害の様子をレクチャーしてくれるウエノくん
↑ 海岸に流れ着いた家の梁や柱かあった。燃え跡もある・・・・
この木を見ていると、いろいろのでき事やかつての生活まで想像してしまう・・・
↑ 海水浴客がいない、日本で1、2を争う綺麗な砂浜。いつかは人が戻って来るのか。
多くの瓦礫は撤去されたが、暫くすると、また瓦礫が打ち寄せてくるらしい・・・
そんな訳で、この夏の旅はもう暫く続く。
皆さんにとってエエお盆休暇でありますように。
2011年08月07日
受け継がれる職人気質
木曜日の朝、ふらっと、左官屋の阪井さんがやって来た。いや、正確に言うと、もと左官屋さんで、もう15年以上前に引退をしているサカイさんで、それは、年齢的な事ではなくて、これからは、左官屋さんの仕事はどんどん減っていくし、その上、二人の息子さんが、医者になるといって、医学部に行っしまった。左官屋を継がない。それで、廃業する事にした。というのだった。
そのサカイさんのお父さんは、丸坊主の大きな体の人だった。私がまだ、小学生の頃、その左官屋さんのサカイさんと、材木屋さんの岡房商店のオカフサさんの先代社長が、二人で木村工務店にやってくると、私を呼んで、お小遣いをくれた。それは、子供にとっては嬉しいハプニングであって、そんな事が何度もあったと、鮮明な記憶として残る。
いま、50という年齢になって、その出来事を思い返すと、それは、左官屋さんや材木屋さんが、仕事上での木村工務店の先代や先々代の社長に対する感謝であったのだろうし、それが、その孫としての私へのお小遣いとして表現されたのであろう。また、立派に育ちや!という、メッセージでもあったのだろうとおもう。
「三つ子の魂百までも」というコトバがあるが、小さな時に受けたそういう恩のようなものは、大きくなっても潜在意識のどこかに潜伏していて、材木屋さんや左官屋さんに対して無意識に好意的な印象を持っている「私」に気付く。もちろん何らかな形で、その恩をその左官屋さんや材木屋さんの次の世代の人に、返そうという、目に見えない力に動かされている時があって、悪意に取れば、マクドナルドの子供戦略的だが、そこは意識して好意的にとらえ、その好意を返せる機会には返しておこうという気持ち・・・・。
大学を卒業して、木村工務店の現場監督をしている時には、その左官屋のサカイさんに、皆がノブちゃんと呼んでいたのだが、左官職人の考え方や癖を教えてもらい、左官仕事の技術を端から見る機会に恵まれたのは、今にしておもうと、有り難い事だった。
ところが、そのノブちゃんが、息子さんにその左官技術を継がせず、左官という職業を放棄した事に対して、微妙な憤りを感じていた。いや、ほんとうに、その木曜日までは、ノブちゃんの先代に対しては、お小遣いをもらったという、懐柔されたのかも知れないにしても、それなりの好意持っていたが、ノブちゃんには、左官という職業の面白さを教えてもらいながらも、憤りを感じていた。
ノブちゃんは、蓬莱のアイスキャンデーと共に、古びた箱を携えて、数年ぶりにフラリと会社にやってきて、なんでも、倉庫を整理していたら、真っ新のこんな「箒目」というものが出てきて、これは、漆喰に、これを使って模様を付けていく道具で、昔昔は、こういうものを使って、壁に模様を付けたのだ。と解説をしてくれた。私は、未だに、木村工務店の事を忘れずに気に掛けてくれて、わざわざ届けてきてくれた、その気持ちが嬉しかった。
弊社の会長を含めた三人で雑談をする。ノブちゃんの息子さんの話に及ぶと、長男の方は、医者でも研究の方に従事していて、論文がサイエンスやネイチャーという雑誌にも掲載されて、アメリカ在住で日本とアメリカを行き来して、講演も数多くしているのだと。
そんな話を聞いているうちに、そうか、日本の職人的な気質とそのハートは、左官職人には受け継がれなかったが、左官職人が持つ、根気強さとか、粘り強さとか、手先の微妙な力感覚の繊細さとか、そういう気質が、医師として、受け継がれたのかもしれないなぁ・・・・・。と思えてきた。
表面的なスタイルや職業は違っても日本の職人が持つ、そのハートや気質が、職種を変えて受け継がれていくのだなぁ。10数年前の「私」の浅はかな憤りをちょと恥じた。
Thanks 三代にわたるサカイさん。
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