2006年01月08日
玉串奉奠
社員全員がスーツ姿で勢揃いして新年の挨拶する日、それが当社の仕事始めの日となる1月6日だ。「現場」 を中心に動く小さな工務店の社員のスーツとネクタイ姿を見るのは入社当時の面接以外ないのではないのかなぁ・・・・。兎に角、 正装をして皆で新年の挨拶をかわす。それはそれで、当社の中で長らく続く良い「しきたり」だと思うのだ。2時間ほどのミーティングをし、 皆で一年の抱負を語り合い、その後、地元の神社へ参拝する。そのあたりのくだりは、前にも書いたかな。 玉串奉奠 (たまぐしほうてん)という儀式をする時だった。席をたった瞬間、腰に違和感を覚えた。ぎく・しゃくした。 老人のような腰つきで歩くのを何とか、ぐぅいーっと修正しながら歩き、パンパンと柏手をうって、玉串を奉奠した。
今年は雪が多いということもあり岐阜の鷲ヶ岳スキー場に出かけた。私事になるが、 というより私事ばかりつらつらと書き並べて、「まぁ、聞いてよね」というのがブログなのだけれどね、長男と次男が10歳離れている。で、 10年前に長男とこのスキー場に来たときはスノーボードはまだ、ほんの少しだった。どちらかといえば、スノーボーダーはまだ、 邪魔者扱いのような感じだった。ところが、今はスキーの方が少なくてスノーボードの方が圧倒的に多い。何だか、スキーの方がダサイ (もう死語かな)って感じだ。この10年の変化は大きい。ホテルの夕食だって、ディナーのような雰囲気から、バイキング形式に変化していた。 確かにこの方が、お腹いっぱい食べられて、子供は喜ぶ。内容もそれなりに豪華だ。でもなぁ・・・・っていう気持ちも沸々と湧いてくる。 もう少し「落ち着いた雰囲気」で食事をしたいなぁ・・・。ライトアップされた雪景色などを見ながら・・・・なんて思うのはすでに、 年をくった証拠なのだろうかなぁ・・・・・。それよりもなによりも、この10年間でもっとも変化が大きいのは46歳になる私の肉体だった。
10年前に長男とスキーを滑っている時は筋肉痛はあくまで、筋肉が少し張っているという程度の感覚だった。ちょっとだけ「痛」 だなぁという程度であった。ところが、今、次男と滑る私の体からはもはや「痛」を通り越し、肉体からの「悲鳴」を聞いたのだった。 確かに筋肉が嘆いている声を聞いたのだ。リフトに乗っている時、リフトの滑車が支柱のあたりで響く、 ガタガタいう音に同調するかのように筋肉がギャーギャーとわめいていたのだった。
この40歳台とは中途半端な年齢でもある。若くもなく年寄りでもなく・・・・。40台前半はまだまだ「若者」よりだった。 ところがどうだろう、40歳の後半、しかもリフトの上で、自分の「老い」の姿をはっきりと垣間見た。 なんだか見てはいけないものを見たようだった。筋肉が衰えだし、「きしみ」だしていく様子を垣間見たのだった。それまで、幾分、 観念的だった「死」というものが着実に「肉体的な死」というものに向かっているのだと実感してしまったのだ。え、ちょっと、 大げさすぎるって・・・。しかし、 その肉体的衰えに反発するようにこころは若々しいままで生きたいものだという思いが湧いてきたのも事実だった。 この中年という年になると不思議に青春時代というものを振り返ってしまう。なぜなんだろう。まぁ、そんな出来事のひとつが先日のブログにも書いた。 それなりに一生懸命青春を生きたのだろうか・・・と反省するのだろう。 青春をよく生きたかどうかが役に立つのはこの年齢以降になってからなんだろうなぁ・・・・っと。この年齢以降、 こころに活力をあたえてくれるのが青春時代の生き方なんだろうなぁ・・・って、いまじぶんに反省してもなぁ・・・ もうどうしようもできないしなぁ・・・・なんていう嘆きも、あの時の肉体の悲鳴に含まれていたのかもしれない。
それにしても、我が肉体には逆らうように、せめて、 こころは若々しくありたいものだと願う一歩が老人のような腰つきの玉串奉奠であったのだと思うことにした。
投稿者 木村貴一 : 2006年01月08日 22:01 « 無垢という質 | メイン | 伝統的文化と過ごすお正月 »