2004年05月09日
ゴールデンウィーク有田への旅(その1)
佐賀県有田の陶器市に行くため5月30日の夜、大阪を出発した。途中、広島県のサービスエリアで仮眠をとり、明け方、本州の西の端、
下関に到着した。
このまま一気に有田まで行こうかとも考えたのだが、8年前に初めて陶器市に行ったときの混雑した記憶が残っていたので、
今回は早朝に有田に到着して、たっぷりと一日、陶器市を楽しみたいと考えた。そこで、取り敢えず下関海峡を渡って、
門司を見学していこうということになった。今回の旅は私と妻と次男の3人、車はハイエースを改造したキャンピングカーだ。
駐車場に車を止めて門司レトロと呼ばれているあたりを散策した。アルトロッジが設計したホテルも見てみたかった。やっぱり、
日本人とは全く違う感性だなぁ・・・と感じながら、ホテルのロビーなども覗いてみた。500キロほど車に乗っていたことと、
天気が良かったことが幸いして、朝の散策は心地よかった。門司駅のレトロな建物とその構内、到着した電車と人の流れ、
それらが醸し出す雰囲気も心地良かった。
黒川紀章が設計したという高層マンションの展望台から下関海峡を眺めているうちに、なぜか、レンタサイクルを借りて、
門司の古い町並を走ってみようということになった。大人用は電動アシスト付きの自転車なので坂道も快適だった。
それを横目に見ながら小学校2年になる息子は、「なんで僕だけしんどいのやぁ」とダダをこねながら門司の路地裏の坂道をこいでいた。
私が住む大阪の下町と同じような長屋が続く裏通りがあり、細く曲がりくねった坂道が続く一角に民家を改造した雑貨屋があった。
そこに吸い込まれるように入ってしまった。店員がどこから来たのですかと言うので、大阪だと応えると、なぜかここは、
大阪から来る人が多いのですよね。長屋とかの光景が似ているからでしょうかねぇと言いながら、
お茶でも飲んでいってくださいと言ってお茶をだしてくれた。別に飲む気もなかったのだが、まぁいいかぁと思って座ったら、
息子がお腹がすいたと言いだし、ハヤシライスを注文する羽目になった。なんだか、
ヘンなところに吸い寄せられたなぁと一連の流れをニタニタして思い浮かべながら、注文はハヤシライス一つだけにして、そそくさと立ち去った。
海沿いを走っていると、船に自転車を乗せて九州の門司から下関海峡を渡って本州の下関まで10分ほどで行けることを知った。じゃぁ、
そうしよう。と話が直ぐにまとまった。息子にとってはちょっとした冒険旅行のような気分で、楽しそうだったに違いない。
船は思っていた以上のスピードを出して、波をバンバンかき分けて進んで行った。静かな九州門司の街から対岸の本州下関に渡ってみると、
賑やかなことに驚いた。唐子市場という市場の前ではお祭りをやっていて、ほんと賑やかだった。唐子市場ではとりたての鮮魚を売っていて、
造りにしたり、天ぷらにしたりして、その場で食べることも出来た。ちょうどお腹もすいていたので、
人混みをかき分けながらマグロや穴子の天ぷら、白子のみそ汁などなど、適当に買い込んで、海沿いのデッキまで持ち出し、食べることにした。
下関海峡を隔てる門司と下関の雰囲気の違い。海を隔てることによってうまれる文化の違いなどに思いを寄せながら下関海峡を眺めた。
こういう食事は、うちの奥方の満足度を高めるようだ。思わぬ出会いに喜んで、結構食べたはずなのに、
またも造りなどを買い足しに走っていった。ダイエットをするとか言う話はどこへいったんやぁ。
下関から門司へ戻るのには歩行者用の関門トンネル渡ることにした。自転車も乗せることが出来るエレベータで一気に地下まで下り、
海底トンネルを自転車で渡った。門司側についてエレベーターで地上まであがり、今、自転車で渡ってきた海峡を振り返って眺めると、なんだか、
妙な満足度が沸いてきた。下関海峡をぐるりと巡るサイクリングが、私に思わぬ印象を与えてくれた。
三時間ほどしか寝ていないのと、前日の仕事の疲れ、それに下関海峡を巡るサイクリングの疲れがたまって、急に眠たくなってきた。
疲れを癒すにはやっぱり温泉だなぁということになり、門司から近い北九州の山間にある温泉に行くことになった。途中、
持参したノートブックVAIOの液晶画面から表示が突然消えた。そういえば、そんな兆候がなかったわけではない、
1週間ほど前から液晶画面に時々横線が走っていたのだ。どうもハードディスクは大丈夫そうだが液晶画面が死んでしまったような・・・。少し、
憂鬱がもたげてきた。休み明けの仕事が出来なくて困るではないか・・・と。まぁ、しかし今更どうなるものでもない、
山の木々を眺めながら露天風呂に浸かり、ゆったりとした時の流れに身をまかし、疲れを癒すことにした・・・・。
午後も4時頃になり、そろそろ有田に向けて出発するため高速道路に乗ろうとすると、事故で九州道が通行止めになっていた。
渋滞の中で時間が過ぎていくのも辛いので、どうしようかと相談しているうちに、そうだ、博多の屋台でラーメンを食べようといいだした。
街歩きと食べ物のことになると奥方の実行力と決断は早い。
福岡・博多に行くのは初めてだった。空港と街が意外に近いのだなぁ思った。繁華街の中の駐車場に車を止めて、
もうほとんど暗くなってしまった博多の街をブラブラと歩いた。そうそう、キャナルシティの中庭も建築的な意味合いでは、体験してみたかった。
川沿いを歩いているうちに屋台の並んでいる一角に出くわした。予備知識もなく、どこが有名で美味しいのかもわからないまま、
今日は行列の出来る店で待つほどの忍耐力を持ち合わせていなかったので、たまたま席が空いていた屋台でラーメンを食べることにした。屋台・
川縁の席・川・ネオン・対岸の店舗・川をゆっくりと進む座敷船・人混み、それらが醸し出す雰囲気のせいもあってか、おでんも、
ラーメンも牛タンも美味しかった。食べ終わってから、やぱり奥方は、追加でぇ・・・とか言いながら注文を繰り返していた。
今日は天気で良かった。
キャナルシティーに足を向けた。アルトロッジといい、外国の設計者による建物の色づかいは独特で、その感性の違いは面白い。西洋の設計者は、
様々な素材を組み合わせた上に、こだわりのソースで味付けされたフランス料理のような、素材と色づかいが多い。
それに比べて日本の設計者は日本料理のように、
素材の持っている良さと色合いだけを最大限に生かして隠し味をちりばめて空間を表現しようとする傾向にあるのかもしれない・・・・。
なんてことを考えて中庭のベンチに腰掛けているうちに、お便所に行きたくなってきた。そうだ、昨日から一度も大便をしていなかった。
それに今日はチープなグルメを食べ過ぎて・・・・。皆さんはどうだかしれないが、私は、
自分の家以外の便所に行くとどうも用を足せない傾向にある。旅行に行くたびに、住宅の便所の設計は大切にせんとあかんなぁ。と考えるのだが、
実際、便所の設計に注ぐエネルギーは少ない傾向になってしまうことが多い。そんなことを反省しながらキャナルシティーの便所に入ってみると、
以外と綺麗で落ち着いた雰囲気だったので、それなりに事がスムーズに運んだのだった。めでたしめでたし。
夜も9時を回てしまった。今度こそ有田に向かうのだ。と言い聞かせて駐車場に向かった。途中、道を間違えて、
いかがわしい店と呼び込みの店員が待ち伏せている通りに入り込んでしまった。小学校2年生の息子が歩くにはまだまだ早すぎる通りだ。
きっとキョトンとした顔で歩いていたに違いない。こちらもバツが悪そうな顔をしながらわき目もふらず急ぎ足で通りを駆け抜けて行った。後で、
息子は私に、「変なとおりに迷い込んだなぁ。」と呟いた。きっと、息子も10年後には、
あのときの通りがどんな道だったかに密かにほくそ笑みながら、同じような通りをぶらつく時もあるのだろうなぁ・・・。
と考えながら歩いているうちに駐車場に着いた。
夜の高速道路を飛ばして有田に向かう前に川縁にあるスターバックスでキャラメルマキアートを飲んで福岡の街を後にした。
(つづく)
投稿者 木村貴一 : 23:40
2004年05月17日
ゴールデンウィーク有田への旅(その2)
有田の泉山駐車場にハイエースのキャンピングカーを泊めて一夜を明かした。前日の寝不足と疲れのせいもあり熟睡した。朝6時頃、
駐車場の管理人の車をトントンと叩く音で目が覚めた。夜中に到着して駐車代金を払っていなかったので、催促に来たらしかった。
流石に夜中には2~3台ほどしか車がなかったのだが、辺りを見てみると沢山の車で埋め尽くされていた。
生憎の小雨がパラパラとする天気だった。40リットルのリュックを私と妻のそれぞれが担いで、軍手なども忍ばせ、
雨具の用意を携えて歩き始めることにした。朝も早いこともあり、まだ店は準備中だった。有田陶器祭りの案内所で地図をもらい、
ついでにトンバイ塀の通りはどこかと訪ねると、道を教えてくれたついでに「朝ご飯がまだなら、
トンバイ塀の裏通りを歩いていくと商工会議所に着くので、そこなら朝ご飯食べられますよ。」と親切に教えてくれた。
朝の散歩もかねて裏通りをぶらつきながら朝食を食べに行こうということになった。
裏通りは小川も流れる静かな通りだった。ブラブラ歩きながら有田は山あいにある町なんだなぁとあらためて思った。
細く曲がりくねった道とトンバイ塀。道沿いに並ぶ民家と陶器工場。小川のせせらぎ。町の背後にある山。
登り窯の不要になったレンガや窯道具を使って造られたトンバイ塀の独特の質感。こんな雰囲気と質感の壁を住宅建築で使えたらいいのになぁ・・
・・と。先日、本屋で手にしたルイスカーンの住宅の中にある石造りの暖炉の壁。イサムノグチの庭園美術館の塀。岡山にある閑谷学校の石塀。
そんなのをフラッシュバックさせながら歩いた。
裏通りから路地を覗くと表通りの店先に陶器を並べはじめている様子が伺えた。そろそろ町が動き出してきたとい雰囲気だった。
その様子につられてか、眠たそうにして歩いていた奥方が、突如として活動的になり、裏通りから見ても何となく雰囲気のある店構えの「つじ信」
というお店に路地裏から飛び込んでいった。
一番最初にゲットした陶器はその店で目に付いた60センチほども長さのある船型の真っ白な器であった。
これをかわきりに沢山の陶器を買うことになってしまった。
帰りがけにはそれぞれの40リットルのリュックが満杯になり両手には袋と箱を携えていた。帰り道、
登山の時よりも重たい荷物を担いで歩いているお互いの姿を笑い合いながら、何でカートを持ってこなかったのかと、お互いのせいにして、
ようやく駐車場にたどり着いたのだった。
今回の陶器市では「白」の器を探そうということになった。絵柄があってもごく控えめな絵柄。そういえば巷では、「白」
が流行っているのかもしれない。車にしてもホワイトエディションなんてあり、家電製品もホワイトで統一されたシリーズがある。
建築でも感じの良い白い部屋や白い建物も多い。
そうそう、話は戻って、駐車場に紅白の幕を張った商工会議所の食事スペースで手作りのおにぎりとおでんとうどんの朝食をとり、
食堂の人達の明るく元気な声に送り出されて、買い物モードへと突入していった。ふったりやんだりの小雨にもかかわらず人出は多い。
何でもこの日は18万人だったそうだ。
人気のある深川製磁や香蘭社は人でごった返していた。建物や内装の雰囲気もいいので、人が多くても案外、居心地は良かったりする。
賑やかな店が立ち並ぶ通りの中で静寂な雰囲気の「辻絵具店」という店が気になって吸い込まれるように入った。独特の「赤」
を使った茶器が印象的だった。暫く眺めていると、ご主人らしき人が話しかけてきた。恐ろしく澄んだ目をした人だった。
職人気質のかたまりのような風貌と目。大工の中でも腕だけでなく人格にもたけた棟梁が持つような身のこなしと雰囲気が漂っていた。「赤」
の絵の具に関する製造やそれにまつわるエピソードを聞かせていただいた。今回の旅行での最も印象深い人との出会いであった。
辻昇楽さんという息子さんが制作した湯飲みがあった。深川製磁にある上品で繊細なタッチと色づかいの有田焼とはまた違う、
自由で太いタッチの赤絵の湯飲みだった。その店を出た後もその赤の絵の具の話が気になって仕方がなかった。
一通り陶器市を見終わった帰りがけにもう一度その店に立ち寄りその湯飲みを買った。それが、今回の陶器市での一番高い買い物でもあった。
家に帰ってから、手に入れた陶器を全部並べてみた。受験を控えて家で留守番をしていた長男に、ひとつだけ好きなものをあげるから選んだら・・
・と言うと、直ぐにその赤絵の湯飲みを指さした。それはちょっと・・・・・。
私たち夫婦にとっては楽しかった陶器市なのだが、一緒に連れてこられた小学校2年生の息子にとっては、どんな印象を残したのだろうか?。
最初の1時間を過ぎたあたりからダダをこねだした。「あーしんどい。」「もーいやや。」「もう絶対行かへんでぇ。」その度に、
小さなおもちゃを買い与えたり、ラムネを買ったり、アイスクリームを買ったり、ポテト、かき氷・あ~・・・・
その辺で見つけた子供の喜びそうでチープなものは何でも買い与え、なだめすかした。それでも、
香蘭社では気に入ったデザインのお茶碗をちゃっかりと自分で選び、今では毎日の食事に使っていたりするのだ。かれこれ6時間ほど経過した頃、
息子は「もぉー、絶対、温泉に行く!」と強くアピールした。そうだ。荷物も肩にくい込んで痛い。そろそ引っ返して、ゆっくりと休みたい。
私も温泉につかりたい。
山を歩いている時は「なんでこんなしんどいことを・・・」といつもブツクサ言う奥方は町歩きではなぜか軽快である。
まだまだ陶器市に未練があるらしい。そういえば、7年ほど前、屋久島で7時間ほどトロッコ道を歩いて縄文杉を見に行って以来、
山歩きは引退すると宣言した。ところが町歩きは7時間歩いても一向に疲れないらしい。ちょっと口惜しそうだったのだが、
流石に荷物が肩にくい込んで、畑仕事をして荷物を背負って家路にかえるおばあさんのような歩き方になっていた。荷物の重さには弱いらしい。
ようやく、3人の意見がまとまり駐車場に向かうことになった。それでも、気になる店に寄りながら帰るものだから、息子は「約束が違う、
まっすぐ車に帰ると言ったやろ!」と・・・・・・。
今回の陶器市は上有田駅から有田駅まで歩いて、帰りは電車で戻ろうと計画していたのだ。しかし有田駅まではたどり着けず、
市役所まで歩いて駐車場に引き返すということで、私たちの陶器市は終わった。有田陶器市の何が楽しいのか良くわからないのだが、兎に角、
不思議に何だか楽しかったのだ。
有田から30分ほどのところにある武雄温泉に行くことになった。ゆっくりと、長い時間、温泉につかりながら次の予定を考えた。息子は、
旅行に来て、まだ、全然遊んでいないと言う。そうだ。子供にとって遊ぶと言うことは自然の中で動き回る事なのだ。
私も山々や木々に囲まれてゆったりと時間を過ごしたい。やっぱりキャンプだなぁ。それじゃぁ、阿蘇までへ行こう。ということで、
明日も雨模様なのだが、阿蘇の大自然に包まれて過ごすことになった。 (おわり)
投稿者 木村貴一 : 00:58
2006年05月07日
五島列島の旅(その1)
五島列島に上五島と呼ばれる島々の集まった地区があり、 そんな小さな島に29もの教会があると知ったのは、 インターネットのおかげだった。なんで、 五島列島に教会を見に行くことになったのかと言えば、それは、 前にもブログに書いたのだけれど、ひょんな事から、クリスマスを教会で過ごし、 それが、それなりに良かったことと、その教会がヴォーリスが造った木造の小さくてかわいらしい教会だったことがきっかけだった。 それで、モダンな教会ではない、そして古い、しかも日本的な教会を見てみたかった。
3・4・5の三日間でどうやって、大阪から五島列島まで行って戻ってこれるのか、 調べてみた。あいにく、6日には同窓会があって、どうしても、大阪に戻る必要があった。1週間ほど前にフェリーの予約を調べてみると、 長崎から五島市がある福江島と呼ばれるメインの島に行くめぼしい便は、 どれも満席だった。それで、仕方なく、福江島を諦めて、佐世保から上五島を往復するフェリーに決めた。
3日の朝8時の便に乗るため、2日の夕方、大阪を出て、佐世保まで、730キロほど、走った。 佐世保港から 五島列島の有川港までフェリーで2時間30分ほどかかる。出航してまもなく、海がしけていて、かなり揺れた。 到着も10分ほど遅れた。息子は、酔って、吐いたらしい。私はそんなことも知らず、運転の疲れもあってか、まるで、 揺りかごにゆられているような気分になって、ぐっすりと眠りこんでしまった。
そうそう、どの教会を回るかが、なかなか問題だった。事前にインターネットから調べてみると、小さな島だけれど、 三日間で29もの教会をまわるのは、どうも無理そうだった。それで、どの教会を回ろうかとチェックしていくうちに、今、 文化遺産として登録しようとする動きがあり、その主だった教会を造っているのが鉄川与助という人物であるということを初めて知った。 その孫さんが制作しているホームページがあり、 設計施工という立場で教会を造っているのだと知ると、なんだか、私たち工務店と同じ立場の大先輩だと判ってきて、いっそう、 親近感がわいてきた。まぁ、そんなわけで、とりあえず、上五島にある鉄川与助が造った教会を全て見て回ることで、 今回の旅は良しとしようかなぁ・・・ということになった。
まず、頭ヶ島教会を目指した。石造りの教会らしい。途中にあった黒崎峠という所で休憩をして、島を眺めることにした。
展望台で広場を見つけた息子は、いきなり階段を引き返して、サッカーボールを取りに車に戻った。そして、
広場でサッカーのパスをさせられたのだぁ・・・。到着して、まだ、船に乗っているような気分がつづく中、
父親家業というのもなかなか辛いものがあるなぁ・・・とぶつくさおもいながらボールを蹴っているうちに、船酔い気分もとれて、それはそれで、
スカッとしてきたのだ。以降、「教会を見るのは遊びじゃぁないでぇ」と、まぁ、子供にとっては、しごく、
当たり前の正論をまっ正面からぶつけられ、各地で広場を見つけるたびに、
サッカーかキャッチボールかフリスビーのいずれかをすることとなった。
頭ヶ島教会は海岸のすぐ近くの山あいにある石造りの教会だった。あいにく、 工事中で足場におおわれていた。「ついてないなー」
なんて思いながら近づくと、石造りといいながらも、実に、 かわいらしい、 大きさと形の教会だった。いわゆる、
アカデミックな建築とは言えないのだろうが、写真で見る以上に、 かわいらしいスケールなのだ。 1919年(大正8年)
に落成とある。それにしても、こんなへんぴな場所に、よくもまぁ、 これだけのものを造ったなぁ・・・ と感心する。
確かに神社もお寺もへんぴな所にあるよなぁ。工務店という立場で考えてみると、
神社仏閣のように伝統的な手法とその職人技だけに頼る事が出来ず、
全く新しい教会建築をこんな場所でチャレンジしていくということを考えてみると、職人さんも大変やったろうなぁ・・・
現場監督も苦労したやろうなぁ・・・お金の工面も大変やろうなぁ・・・と、以後、鉄川与助の造った全ての建物と立地条件を見て、
そう思うこととなる。
中に入るとミサをやっていた。前に立っている牧師さんはどこかで見たことのあるような・・・、
と思っていると、奥方が、「フェリーに乗ってた人」そうそういえば、前に座っていたなぁ・・・。
マイクロバスで数十人と巡礼をしているらしい。以降、何カ所かですれ違うことになる。
内部は石組みの上にハンマービーム架構と呼ばれる木組みが表されており屋根を支えているらしい。それにしても、
なぜ祭壇の正面に窓がないのだろうか・・・・とちょっと違和感を憶えた。外に出て、ぐるっと回ってみると、窓を埋めた後が・・・。
建築中にな~んか、あったんやろうなぁ・・・と想像を巡らしてみた。
頭ヶ島教会の目の前は海だった。ちょっと散歩してみると、白浜遺跡と書いてある石碑があった。何でも、
縄文時代の遺骨と土器が発見されたらしい。こんな所にも縄文人が住んでいたのか・・・とおもった。まぁ、いつも思うのだが、
縄文の遺構のある所は、のどかで、平和な感じの場所が多いなぁ・・・と。近くに、小さな公園もあった。そんなわけで、息子から今度は、
グローブとボールを手渡された。まぁ、「イエス」というしかなかった。素直な「私」は教会でお祈りした効果かもしれない・・・・。
そんなわけで、奮発して、海岸べりで、サッカーもし、フリスビーもしたのだった。
お腹が空いてきた。五島うどんでも食べに行こうということになった。五島うどんは日本の三大うどんのひとつらしい。 五島列島を知るまで、そんな事は、全く知らなかった。フェリー乗り場まで戻れば、大きなうどん屋さんがあるという。 今きた道を戻ることにした。帰り道の坂から再び頭ヶ島教会を眺めた。
(つづく)
投稿者 木村貴一 : 21:10
2006年05月08日
五島列島の旅(その2)
五島うどんを食べた後、大曾教会を目指した。もうすでに2時をまわっていたのに、 1件しか教会をまわれていなかった。そもそも、五島うどんの里がいっぱいで、 なかなか順番が回ってこなかったのだ。 振り返ってみれば、今回の旅では、そもそも、カフェなんてものがなかったし、 コヒーが飲めそうな感じの良さそうな喫茶店すら見つけられなかった。 コンビニも2件ほど、見かけただけだ。 食事が出来そうなところも、あまり見つけられなかった。洒落た旅館もなさそうだったなぁ。
先ほど、頭ヶ島教会で会ったマイクロバスで巡礼している人たちが、先に食事をしていた。他にも客がいて満席だった。 とりあえず、土産物屋さんに立ち寄った。鯨を売っていた。 フェリー乗り場には鯨ミュージアムとやらもあり、鯨漁が盛んだったらしい。話しかけてみると、鯨の刺身が人気らしい、 パックになっていて、 ひとパック900円ほどだった。今夜のキャンプの食料に買った。ついでに、 他に食べるところがあるかと店の人に聞くと、 近くの商店街においしい店があるという。散歩がてら歩いて行くことにした。 なんとなく、奇妙な商店街だった。 アーケードがないからかなぁ、閑散としていた。まぁ、でも、そんな地元的な場所に、 よそものとして、突然、迷い込むそういう感覚が大好きだ。
囲碁屋さんの親父が店の前に出て、あんたがた、だれ? なんて表情で私たちの動きを見ていた。その近くに何となく、 おいしそうな店構えの料理屋があった。教えてもらった店だった。入ろうとしたら、本日は予約客でいっぱいです。と断られてしまった。えー、 折角、お腹空かして、歩いて来たのに・・・・。 大阪からわざわざ来てぇ・・・。なんて言う泣き脅しが通じそうにもなかったので、 そそくさと引き上げた。 やっぱり五島うどんの里に戻ることになってしまった。そんなわけで、かれこれ40分ほど待って、ようやく、 五島うどんにありつけたのだった。
意外に五島うどんは旨かった。 あまり期待していなかったのだが、讃岐うどんのような、 こしがしっかりしたうどんとは、全く違って、細麺で、しっとりとした、さわやかな食感だった。アゴだしというトビウオでとったダシを使い、 小麦粉のかわりに椿油を使って麺をのばしていくらしい。塩は五島の海岸で造られる天然塩を使う。土産物として売られている塩をなめてみると、 何ともおかしな表現だが、塩に甘みを感じるのだ。しょっぱいけれど、甘い、これを旨味と表現するのかなぁ・・・そんなわけで、五島うどんは、 おもいのほか、上品な味だった。
そういやぁ、時間がおしたもうひとつは、頭ヶ島教会からの帰り道に坂本龍馬ゆかりの広場というのがあり、 そこに立ち寄ったのだ。しかし、龍馬さんもどこにでも出没する人だなぁ・・・。その昔は、遣唐使として、空海もこの島に立ち寄ったらしい・・ ・。今回の旅ではそこまでは、追っかけられなかった。そんなわけで、時間を気にしながらも、スーパーに寄って、 今夜のキャンプの食材を買うことにした。ゆっくりとキャンプする時間もなさそうなので、今夜のメニューは白いご飯にお造りということで、 新鮮な地元のお造りを買い求めた。
何度か道に迷いながら、漁港が連なる海岸線を走ていると、
漁船越しにそれらしき建物が見えてきた。そうそう、この旅には、いつも教会を発見する喜びがあった。「あっ、見つけたぁ!」
と家族の誰かが叫ぶのだった。
大曾教会に着いたのは3時を回っていた。教会の扉を開けたその瞬間、感動がはした。 祭壇の上部にあるステンドガラスに夕日が差し込み、
神秘的な光が祭壇にそそいでいたのだ。時間帯も良かったのかもしれない、空間的な感動がそこにあった。そして、
ステンドグラス越しに見える海がまた、何とも言えない雰囲気を出していたのだ。
次の教会を見に行くことなど、
すっかり、忘れてしまって、椅子に座った。
しばらくの間、時間が止まってしまったのだ。
このままここに留まりたいという
誘惑を振りほどいて、
次の教会を目指すことにした。
そして、何よりも、そろそろ、
今日のキャンプをする場所を
探さなければならなかった。
投稿者 木村貴一 : 21:10
2006年05月14日
五島列島の旅(その3)
海岸べりを車で走っていると、奥方が「あっ、みつけた」と叫んだ。 入り江越しに青砂ヶ浦教会が見えた。レンガ造りの美しい教会だった。国の重要文化財指定とある。大曾教会を見た直後であったので、 内部のリブ・ヴォールト天井とよばれる天井の形状と高さに、似通ってはいるものの、かなりの違いがあることを初めて知った。 今回の旅では、鉄川与助の造った教会を数えてみれば、10件も見たのだが、同じ天井のものはひとつとしてなく、 それぞれがそれなりにバリエーションが違っていた。
もうすでに、夕方の4時半を回っていた。見学をしていると、信者の方々が集まりだした。なにやら、毎日、夕方からミサがあるらしい。 村全体が、教会を中心とした、生活のリズムが出来上がっているようだった。奥方がなにげなく言った。「ここには、 不良とよばれるような子供はいてへんのかなぁ・・・」「うちの子に足らんのはお祈りなんかなぁ」なんて言うつぶやきを聞いたのだろうか、 息子が姿をくらました・・・・・。
背後から、息子がカメラをかして、と声をかけてきた。 そして私を撮った写真がこれだ。 大曾教会では正面から夕方の光が差し込んでいたのに対して、青砂ヶ浦教会では背後からステンドガラス越しに、神秘的な光 が差し込んでいたのだ。
外に出てみると、ぞろぞろと、村の人々が教会の坂を
立ち話をしながらゆくりと登ってきていた。
一緒にミサでも受けたいという気持ちもあったのだが、
息子はもう、教会巡りは限界のようだった。
それで、キャンプ地を目指すことにした。
新魚目のふれ合いランドとい所に着いた。近くに温泉もあるらしい。きれいな公園だった。 息子は爆発したかのように公園を駆けめぐり出した。その間、管理室を探して、オートキャンプが出来るかどうか聞いてみた。どうも、 テント泊かロッジだけらしい。あいにく、今回はテントを持ってこなかった。もう一度掛け合ってみると、「駐車場ならOK。 洗い場を使わないのならタダでいいよ。使うなら500円」と素朴でやさしそうな管理人が言った。
もう5時半になっていたので、駐車場で、十分だった。それに、けっこう、 それなりに素敵な場所だった。キャンプをする人からは邪道だと罵られせそうだが、時間をかけたくない時は、炊飯器を使う。 15年ほど前に、仕事の出入り業者のガス屋さんにプロパンガス用の3合焚きの炊飯器を探して貰った。それに、 キャンピングガスのボンベをつないで、炊く。まぁ、15分ほどで、できあがるのだ。そりゃぁ、飯ごう炊さんの旨さにはかなわないけれどね。
お刺身にご飯という簡素な食事だけれど、自然の中で食べていると、旨いなぁと言いながら、 皆が食べてくれるのが、 それなりに嬉かったりするのだ。まぁ、それが、やっぱり、しんどいめをしても、 キャンプに来て良かったなぁと思える瞬間かな・・・・・。
夕焼けが始まった。そんなショーがはじまるような感覚だった。海岸まで散歩して、眺めた。「月と夕焼けやなぁ」と息子がつぶやいた。 ほんとうは、どこにでも、ある光景なのだろうが、都会に住んでいると、夕焼けの存在すら忘れてしまうのだなぁ・・・・。
車に戻ると夕闇の中で、いきなり、足下にサッカーボールのパスがきた。 ええっと思いながらも、思い切り蹴り返した。数十分後、本日最後の「お勤め」を無事終えて、空を見上げると、星空だった。しかし、 今日の一日は様々な「光」を見たなぁ・・・・・
とおもいながら、8時すぎにはぐっすりと眠っていた。
(つづく)
投稿者 木村貴一 : 21:10
2006年05月21日
五島列島の旅(その4)
港から出て行く漁船のエンジン音が、入り江に反響するその音で目が覚めた。うっすらと目を開けると、まだ、あたりは暗かった。 その音を聞きながら、寝ているのか起きているのかよく判らない状態がしばらく続いた。あたりが明るくなってきたのをなんとなく確認して、 起きることにした。時計を見るとまだ、5時前だった。いやぁ、それにしても早く寝付いたなぁと昨日のことを思い起こしながら、 あたりの景色を眺めた。漁船のエンジン音がおもいのほか大きく聞こえるのに興味を引かれて、海岸べりをぶらぶらと歩くことにした。 海岸と言ってもこのあたりは岩場だった。
すぐ近くに赤ダキ断崖とよばれる景勝地があって、船をつなぎ止めるコンクリートの丸い杭の上に腰掛けて、 しばらくその断層と漁船と空に飛び交う鷲と船着き場で準備作業をする漁夫を眺めて過ごした。 背後にはふる里創生事業で廃屋になっているコンクリートの建物があった。ふる里を創生するってぇ何? 公共事業ってぇ何? とそれとなく、 考えさせられた。入り江と漁港と集落と教会が織りなすこんな場所をなんと呼ぶのかなぁ。里山ではなく、「里海」とでも言うのだろうかなぁ、 そんな場所にあっては、実に、痛々しい建物だった。
コーヒーでも飲みたくなったので、キャンプ地に戻った。ガスバーナーに火を付けて、ドリップに落ちるコーヒーの滴を眺めながら、 昨日の教会の光を思いだし、漁船の音を聞いて、対岸の入り江の白い灯台を眺めていると、それが、キリストの像に思えてくるのだった。 そんな単純で気のせいな「私」をおかしく感じながら、コーヒーを飲んだ。
持ってきていた折りたたみ自転車が目の前にあったので、近くの集落までサイクリングしてみた。2、 3メートルの道幅のほどよい曲がり加減が続く道に、向き合うように家々が並んでいて、山の中腹まで続いていた。こじんまりした家々だった。 改装した家や新しい家はサイディング貼りになっているのを眺めていると、職業柄、考え込んでしまう。自分たちのふる里の町並みを造るのは、 どうあれば良いのだろうかなぁ・・・・・と。この上五島の家々を見ていると、自分たちの家より、まず、 教会を造るということにエネルギーと資金を使ったのだろうなぁと思えてしまうのだった。
適当なところまで行って、引き返す事にした。帰り道、村人のおじいちゃんとすれ違ったら、 シボレーの折りたたみ自転車に乗る見ず知らずのあやしい私に向かって、「おはようございます。」と笑顔で丁寧な挨拶をしてくれた。こちらも、 自転車に乗ってゆっくりと通り過ぎながら「おはようございます。」と丁寧に言った。そんな単純な事で、その朝の気分が実に爽快になった。
投稿者 木村貴一 : 10:21
2006年05月28日
五島列島の旅(その5)
朝食を食べた後、このキャンプ場で、一日中、テニスとローラースケートをするのだぁ。 と言い張っている息子を 強 引に車に押し込んで、 出発することにした。結果として、 それが子供にとって良かったのかどうか、未だに、葛藤もあるのだが、まぁ、とにかく親の身勝手で、そうすることに決めた。 最初に訪れた頭が島教会で29の教会を巡るスタンプ帳を手に入れた息子は、それを押すのがひとつの楽しみでもあった。 そんな事も少しは手助けとなって、しぶしぶ車に乗り込んだ。
出発してほどなく、昨日の巡礼者達のマイクロバスとすれ違った。ということは、私たちも巡礼者かな、なんてうっすらと考えながら、 車を運転した。この島に着く前に想像していた道路より、アップダウンと曲がりくねりがきつく続く山道を、現存する木造教会の中では、 県内でも最も古いといわれているらしい、江袋教会を目指した。
道中でコンクリートの教会を三つほど見た。意外なところに建っていたりするので、 探し当てる喜びはそれなりにあって、楽しかったのだが、 ひとつ間違えるとレゲエバーとか体育館とか結婚式場にもなりかねない危うさと、ちょっとした喪失感も感じてしまうのは、 鉄川与助の教会が、表面に見える空間以上に、その背後に潜む、職人の手仕事による努力と、 そのものづくりの苦労の過程を想像してしまうからなのかなぁ・・・・・。
朝の江袋教会には静謐なムードがあった。里山というか里海というか、 そういうシチュエーションの中にそれほど教会らしくない外観が、 謙虚に建っていた。花と山と海に囲まれた周辺の雰囲気も、 すごく、良かった。
家族で椅子に座って、少しの時間だが静かに過ごした。その中に置いてある絵本を奥方が手にとって、子供に読んで聞かせた。 がさつなうちの子供も静かに聞こうとするムードがその教会にはあった。
和室の長押の上にボールト天井が乗っかっている。そんなイメージだった。 色ガラスの上に欄間を作る要領で模様がデザインされいるそんな感じだった。大工と一緒に相談して作ったのかどうか定かではないが、西洋風の、 そして教会風の天井を作るのに、「座敷の竿縁天井の竿をボールト状に曲げて、天井板を貼ったら上手いこといくのとちゃうかぁー。 そんなことぐらい、ワシらの腕やったら、へのカッパやでぇー。」なんて、大阪弁での大工との会話があろうはずはないが、きっと、そんな感じで、 工夫と苦労を重ねて、作ったのではないのかなぁ・・・・・・。完成したときの「職人さんの笑み」が見えてきそうだった。
背面の出入り口の両脇に「ほほえみ」と書かれた額が飾ってあった。薄暗い教会から外に出ると、雲ひとつない青空。
山間から見える真っ青な海。集落。花。と、ほんとうに、微笑むような雰囲気だった。思わず、今日の天気に感謝した。
教会の坂道の脇の家の破風に黄色や緑の色が塗られていた。それが、妙に、印象に残ってしまった。そういえば、
頭が島教会の脇にある家も石造りで興味深かったなぁ・・・・。頭ヶ島も江袋も石垣の雰囲気が素朴で良いなぁ・・・などと思い起こしながら、
この島の最北端にある津和崎を目指すことにした。
(つづく)
投稿者 木村貴一 : 11:19
2006年06月04日
五島列島の旅(その6-3)
教会の正面に回った。赤い屋根の学校のような建物とグランド。そして小高い山の間から見える海。段々畑と教会と石垣と青い空。
やっぱり、何とも言えない、光景だった。教会の中に入った。今まで見た教会の天井と比べてみると、洗練されていないリブボールト天井だった。
これまで見た天井と比べると素朴な味わいとも言えた。別名コウモリ天井と呼ばれているらしい。まさしく、そんな雰囲気だった。
明治時代に建てられたとのこと。おなじようなことをおなじように何度もおもったのだが、明治時代に、こんな場所で、よく、
これだけの建築が出来たなぁ・・・。工務店の立場として、そのエネルギーに感心するなぁ・・・・・。
二人連れの60才はすぎていると思われる、ふつうの田舎のおじさんが教会の中に入ってきた。そして、 教会のおんぼろピアノの前に座って、いきなり、ピアノを弾き始めたのだった。 そのおじさんの容姿と流れるシンプルな音楽とこの教会の雰囲気がなんともおかしなマッチングをしていた。 (画像をクリックするとちょっとした映像が流れる・・・・・)
投稿者 木村貴一 : 08:03
五島列島の旅(その6ー2)
朝食の食パンがちょうど3切れ残っていた。パンと水筒だけを鞄に押し込んで、車を船着き場に止め、船に飛び乗った。
船は勢いよく水しぶきをあげて、対岸の野崎島の野首港に向かった。無人島に探検に行 くようで、けっこう、ワクワクした。
人は居ないのかなと思っていたら、島の船着き場には家族連れの釣り客が居た。
船着き場から島に上陸して、舗装された道を歩き出すと、目の前にダムの土手が見えた。川もないような島で、なんで、ダムなんだ。
と疑問に思っていたら、帰りの船で、船長が教えてくれた。対岸の島に水を供給するために水を貯めているらしい。対岸の島まで、
海底の中にパイプも通っているとのこと。「開発」という名の良くないイメージがよぎった。ちょっと、イヤな予感・・・・。
いきなり、ネットフェンスに囲まれた扉があった。なんでも、鹿から守るフェンスらしい。どちらかと言えば、
私たちが檻の中に閉じこめられていくようなイメージだった。ダムの坂道から十数人の家族連れが歩いて降りてきた。
皆が私たちに挨拶してくれる。どうも、キャンプか何かをしていたようだった。な~んだ、人がいるのだ。ちょっと、がっかりし、
そして、安心した。
ダムの横の公園を通過すると、また、ネットフェンスの扉が現れた。まるで、サファリパークに入るようだった。
フェンスの扉を通過して坂道を下る・・・・。 いやぁ、なんとも、かわいらしい教会の後ろ姿が・・・・・・。
この野首天主堂に至る、「道」としてのシチュエーションがあまり良くなかった。そのことが、感動を半減させたのかもしれないが、それでも、
何とも言えない、その独特の周辺環境と教会のかわいらしさが、じわじわと伝わってきた。みたこともないような光景であるのに、なんだか、
懐かしさを感じるのだった。
投稿者 木村貴一 : 08:04
五島列島の旅(その6-1)
海岸べりというよりは、曲がりくねった山あいの道をとろとろと走って、ようやくたどり着いた上五島最北端に位置する津和崎灯台は、 あたり一面を椿で囲まれた、眺めの良い岬だった。 なぜが、不思議と一輪だけ、ポツンと取り残されたように椿の花が咲いていた。きっと、 椿が咲き乱れる季節は美しいのだろうなぁ・・・・と想像していると、突然、黒澤明の映画、椿三十郎のクライマックスの場面で、 切り落とされた椿が水路からいっぱいに流れてくるシーンを思い出した。そんな、とりとめのない脳味噌を眺めながら、 すぐ対岸に見える野崎島をなにげなく、眺めた。真っ青な海と空の間に細長い姿で緑に包まれた島が浮いていた。 野首天主堂という教会があるらしい。 そうだなぁ、きっと、野首という、なんともおどおどしい名前が椿と結びついて、 侍の映画のワンシーンの記憶を呼び覚ましたのかなぁ・・・
そういえば、あの島の段々畑の中にポツンと教会が建っている印象的な写真があったなぁ・・・ 。意外とすぐ近くだなぁ・・・。行きたいなぁ・・・。と、まったく、脳天気な状態だった。
展望台から駐車場に下りる階段の景色が心地良かったので、階段を降りるという、その動作が楽しくおもえた。駐車場に着くと、 設置されてあった水飲みで、水を飲んで喉を潤した。突然、奥方が今朝、歯磨きをするのを忘れたんとちゃう・・・、なんて、 突拍子もなく言い出した。それで、家族3人で、海に向かって歯磨きをしたのだ。確かに、おかしな家族の光景だったと思う。 その写真を掲載しようかなぁとも考えたが、そんな、格好悪い写真、絶対、載せんといてぇーと、大阪弁で猛反対にあったので、 写真は止めとくことにしよう。
きっと、この陽気のせいだったと思う。津和崎港にある釣り船屋さんの前に車を止めて聞いてみることにした。 「対岸の野﨑島に行けますか」「10分ほどで行けるよ」「いくら掛かりますか」「片道1万円」「えー、高いね」「ガソリン代もかかるし」 「それだけの値打ちのあるところ?」と尋ねた。「まぁ、行ってみる価値は十分あるとおもうよ」と船屋の感じの良い兄ちゃんが答えた。片道、 といっても、あそこに置いてきぼりじゃぁ困るよな。往復で、2万円とハッキリ言てよね。なんておもいながら、車に戻って、 家族と相談することにした。息子は猛反対した。「そんなとこ、行かへんでぇー」と、朝の公園の一件が尾を引いているようだった。「そのお金、 自分で出すんやったら、行ってもええよ。」と現実的な奥方。
片道10分1万円、大阪から東京まで行ける値段だ。そんなに値打ちがあったのかどうか、 そのコストパフォーマンスは未だに疑問も残るのだが、それにしても、今回の旅行で、最も印象的な2時間の小旅行であった。
投稿者 木村貴一 : 08:05
2006年06月11日
五島列島の旅(その7)完
野崎島にいる時から写真を撮ることに嫌気がさしてきた。写真を撮っている間に 何か大切なものを逃しているような気がしてきたのだ。いまここの何かを逃しているのではないのかと思えてきた。そんなわけで、 なんだか、 写真を撮るのがめんどくさくなってきたのだ。きっと、このブログに旅の記録を載せようとする気持ちが、何とか、 写真を撮らせていたのだと思う。
旅はまだ続くのだが、教会を見て、買い物をして、温泉に入って、キャンプして、次の日また、教会を見て・・・と、写真も相変わらず、 ステンドグラスとリブボールト天井とレンガと光だ。読んでくれている人もそろそろ、飽きてきたことだと思うので、 この旅のブログもこの辺りで終えようと思う。
野崎島から冷水教会に向かった。 教会のまわりの植栽の手入れしていた信者の方が話しかけてきた。その話が興味深かった。冷水教会は木造の古い教会だった。 20年ほど前にコンクリートで教会を建て替えることがひとつのブームだったらしい。 この教会もコンクリートに建て替えようかということになったが、周囲の反対を押し切って、 この木造の教会に手を入れて修復して使うことにした。それが、今、この時期になって、修復したことを信者の方々が大変感謝し、 誇りに思っているという話だ。
別にコンクリートの教会が悪いわけではないと思うし、素敵なコンクリートの教会もいっぱいあって、憧れたりもするのだ。ただ、 こうやって何件かの古い教会を見て回ると、古いものに手を入れて修復して使い続けるという、その行為自体に潜むエネルギーによって、 教会の中に不思議な雰囲気が醸し出されるのを感じたりすると、その目に見えない力って、それはいったい何なのだろうかなぁ・・・ と思えてくる。
温泉に入って、キャンプしてという話はもうやめておくことにする。 キャンプをした海岸に十字架が立っていた。関西の海岸にこんなのがあると、少し異様な雰囲気に感じると思うのだが、 ここでは何の違和感も感じられないあたりが、五島列島の空気だなぁ・・・と海岸縁に座って眺めた。
翌日の早朝から福見教会に行った。
朝日を浴びたステンドグラスが虹のように光を放っていた。
土井の浦教会は木造の古い教会を買い受けて建てたらしい。それを最近修復したようだ。リニューアルオープンというような雰囲気で、
空気が綺麗に思えた。そんなことが影響したのだろうか、建物の寸法を知りたいと思った。建築屋さんの職業病かなぁ。
鞄に忍ばせたあったメジャーを取り出して息子に端を持たせて寸法をあたった。しばらくして、面白く思ったのか、私からメジャーを取り上げて、
寸法をあたりながら教会をぐるぐる回り出した。そんな子供が持つ、面白そうなことを遊びに替えてしまう力を見て、
忘れてしまっていた何かを感じた。
水ノ浦教会は白くて明るくてかわいらしい教会だった。
内部に入ると椿の花のモチーフがあった。
そうだ、ここは椿の島なんだなぁ。今まで見たステンドグラスも椿がモチーフなんだなぁ。
と考えながら昨日訪れた津和崎灯台からの景色を思い浮かべた。
旧鯛ノ浦教会のレンガは長崎の被爆したレンガを使用して建てたという。
レンガを見ながら「戦争と平和」を想像してみたら、
ジョンレノンのイマジンのフレーズが浮かんできた。
中は教会としては使わずに、図書館として利用しているらしい、
もったいないなぁ・・・・。
旅の締めくくりは、広場でのサッカーとキャッチボールだった。広場のベンチで横になると、
気がつけば30分ほどイビキをかいて寝ていたらしい・・・・。広場の隣に海があった。女子高生の黄色い歓声に誘われて、
私たちも足を海に浸けてみることにした。足の裏に伝わる綺麗な砂の感触と皮膚に伝わる海水の感触で、最後になってようやく、
身体が五島の海にきたのだと実感したと思う。
五島列島の旅はこれで終わるのだが、奥方の今回の旅の密やかな楽しみは佐世保バーガーを食べることだったらしい。フェリーの中で、
どの店に行くか大騒ぎをしていた。そんなわけで、フェリーで佐世保に舞い戻ると、米軍基地の近くにある「ひかり」
というハンバーガー屋さんに寄ることにした。もうすでに、午後7時近くだった。えー、なんとなんと、行列が出来ているではないか、
ちょっとした、カルチャーショックだった。奥方は並んで食べるという。流石に、沢山の教会を回ったおかげなのだろうか、素直に「イエス」
と答える私がそこに居た。1時間以上も待ってようやく食べることが出来た佐世保バーガーは、もはやファーストフードを通り越して、
スローフードだなぁ・・・・と米軍基地の前のベンチに座って食べおえた。(おわり)
投稿者 木村貴一 : 23:55
2007年05月06日
直島
何で、直島に行くことになったのか、 よく思い出せないのだが、昨年のゴールデンウィークの五島列島が楽しかったからかもしれない。兎に角、「島」 に行こうということになり、それが「直島」だった。昨年の12月にベネッセハウスのホームページを見て予約をすると、 オーバル棟の空き部屋はひとつだけだった。そういやぁ、スィートルームは空いていたかもしれないが、はなから、 自分達の泊まる部屋だという感覚がなかったので、眼中に入らなかった。どちらにしても、それほど人気があるのだとは、 全く知らなかった。
建築雑誌を通じて見聞きしていた、最近出来た安藤忠雄氏設計の木造の宿泊棟「パーク」と「ビーチ」にも魅力を感じたのだが、 コンクリート造のオーバル棟のあの不思議な安藤建築の魅力により強く惹かれた。勿論、 建築雑誌を通じて見ていた地中美術館や家プロジェクトにも大いに興味があった。
と、書いたものの、建築雑誌以外の予備知識もなく、特に、アートに関する知識が乏しく、 ホームページで調べる時間もさほどなかったので、どちらかと言えば、行き当たりばったりの旅の始まりだった。 朝7時に宇野港フェリー乗り場に着くと、観光客よりも仕事関係の車両でいっぱいだった。時刻表を見ると、 6時台に2隻が出航しそれ以降は1時間おきに船が出ているようだった。どうも、7時台までは、観光客より生活と 仕事のための船として使われているのだろう。船室で、休んだという感覚を持つか持たないぐらいの、あっという時間で、直島に着いた。 到着したのは最近の建築雑誌で見ていた、妹島和代+西沢立衛 設計のフェリーターミナルだった。写真以上にええなぁ・・・、 なんて思いながらも後ろから押してくる車にゆっくりも出来ず、勢いに任せて、そのまま、町の中に走り出した。
島の状況が全く掴めないまま、とにかく、ホテルに向かった。予約を確かめながら、 ホテルの人に話を聞くと、何でも、地中美術館は3時間待ちになり・・・、もうこれからすぐに行って、待っている方がいいですよ。 と勧められた。観光客の少ない、ノンビリした島を想像していたのだが・・・・・。
地中美術館にチケット売り場がなく、少し離れた所に、 シャープなチケット売り場の建物があって、外壁のスレートをそこ目地で貼ってあった。 9時30分のチケット販売時には100人以上の人でいっぱいだった。9時前に着いた私たちは、前から5番目だった。 カメラの持ち込みを許されず、ロッカーに預けるように指示された。
地中美術館は建築雑誌で見るコンクリートの壁の存在感よりも、 実際は、コンクリートの壁で切り取られた自然に目が向くようなイメージが強かった。現代アートのように、 抽象化された自然を意識させられて、写真で見たイメージより、ずっと体感があって、良かったなぁ・・・・。
ゆっくりと見ていこうとすると、係員の人が、どんどんいっぱいになって、見るのに待ち時間が出来るので、早い目に、 こちらから見ていって下さいといって、案内されたのがジェームズタレルの「オープンフィールド」だった。
「光を体感する」というのは面白い経験だった。靴を脱いで、光の中に入って行くという体験はそれなりの驚きと感動があった。 奥方も息子もそして、私も同時に「ワー、凄い」と思わず、叫んでしまた。それほど印象に残る作品だった。もう一回と思ったが、気がつくと、 行列が出来ていた。
次の「スカイフィールド」 の空を見上げると、奥方が聞いてきた。「上に硝子があるの、ないのぉ」それほど、開口部がシャープなエッジで出来ていた。施工、 たいへん苦労したやろなぁ・・・と、眺めながら、切り取られた硝子のない空を見上げた。夕暮れ時に是非、訪れたいものだなぁ・・・・。
夜、ホテルの送迎車の中で、運転手のひとが、「はじめて、クロードモネ室に入って、ひとりきりで見た時、 足下が震えました・・・」と語ってくれた。それほど、クロードモネ室はモネの魅力と共に空間的な魅力もあったのだと思う。 大きな天窓があるはずなのに、自然光が直接目に入らず、間接光として柔らかい光が降り注ぎ、 コーナーのエッジがビシッとしている安藤建築の中にあって、4角にとられている大きめのRが、より光を和らげ、 足下の白いモザイクの大理石が身体感覚を促し・・・・。そんな印象だった。
行列に並んで、少し待った後、ウオルター・デ・ マリアの部屋を見る。今、家で、あらためて、その部屋の写真を見ると、コンクリートと石と階段と棒が目立っているのだけれど、 実際の部屋では、「光」の印象の方かより強かった。係員に聞くと、球とその余白の空間も含めて、完璧に計算されているとのこと。 細長く空けられた天窓は、東西方向に長いらしい。
地中カフェまでたどり着いてようやく、 瀬戸内海を目にする。ちょっと遅い朝食をとりながら瀬戸内の島々の美しい景色を眺める。まわりの人々にも、静かな時間が流れているようだ・・ ・・。
美術館を出て、駐車場に行くと、いっぱいの人だった。既に、3時間待ちらしい・・・。若いカップルが圧倒的に多い。家族連れは少なく、 熟年層はチラホラ、そして外人もチラホラ。確かに、この島には、 若い人を惹きつける魅力があるのだなぁと思う。前回の五島列島で見た、 自然と教会建築と光と文化が、この島には、現代的な形で、 自然と建築と光とアートと文化があふれているのだと思う。 意外だったのは、 小学校5年生の息子が素直に馴染んだ事だった。 不思議な思いを持ちながら、直島で買った本を眺めていると、 安藤氏の言葉に 「福武さんの直島で親と子が、芸術的感動を共有し、 心を通わせることができれば・・・・」と書かれたあった。 確かに、 親子で芸術的感動を共有できたよなぁ・・・・。
投稿者 木村貴一 : 16:49
2007年05月20日
家プロジェクト(直島その2)
直島で地中美術館を見たあと、
家プロジェクトに行くことにした。
駐車スペースを探している時、昔、建築雑誌で見た、直島町役場に出くわす。その日、それまで見た、
宇野港のフェリーターミナルや地中美術館やそのチケットセンターの記憶と比べてみると、「デザインって何かねぇ」と、
考えてしまうなぁ・・・・。
「古い家屋を改修し、アーティストが家の空間そのものを作品化したプロジェクト」が、 家プロジェクトらしい。通りには、それなりの人数の観光客が歩いていて、そのまわりの様子に従って、「たばこ屋」 さんでチケットを買う事にする。チケット販売をするタバコ屋のおじいちゃんとおばあちゃんに「直島の歩き方」を教わった。
島に訪れる前には、ひょっとして、古くからの町の住民とベネッセアートサイト直島が乖離しているのではないのか・・・。とも思ったが、 そんな風でもなさそうだった(実態は知らないけれど)。アートが町を活性化させる実験場でもあるのだろうか・・・。そして、 少しずつ活性化されているような雰囲気だった。
この木村工務店があり、私も住む、小路の長屋。かつては、玄関の戸を開けると、家内工業による「ものづくり」が突然、 目の前にあらわれた生野区や東成区の町並み。そんな町にも、試しに、「家プロジェクト小路」として、展開してもらえないだろうか・・・・ とさえ思えた。
まず、「角屋」 に行く。家の中の通常、畳の部分に、水が敷き詰められていて、薄暗い部屋の土間の水の中で、数字のカウンターが点滅していた。 ヨーロッパからの観光客とおぼしき、脚の長い金髪の美人2名と男性。私たち家族。他に4人ほどの男女が、静かに、 それを眺めて座る・・・・。内容はよく理解できないけれど、アートも含めたその空間全体に漂う、「静けさ」が良かった。そして、 こういう、さりげない民家の修復も、出来そうで、なかなか出来ないのだなぁ・・・・・と、職業柄、眺めた。
角屋を出て、坂道の階段を上がって、次のプロジェクトの「護王神社」 に向かった。 地下の石室を見るための行列が出来ていて、先ほどの、外人さんの後に並んで、15分以上は待った。 チケット改札員件、案内整理係のふつうのおじさんに話を聞く。もともと石室は、なかって、今回、新たに作ったのだとか・・・。 そんな事を考えると、大胆な「神社」の改修工事でもあった。町の住民と、上手くコンセンサスがとれたものだなぁ・・・・と、 やっぱり、職業柄、感心する。神聖さというよりはオブジェ的でもあった。柱の下の大きな一枚の石が、 石室の天井になっていると気付いたのは、護王神社を離れてからだった。
直島の道幅の狭い、町並みを散策しながら、「南寺」 に向かった。安藤建築とジェームズタレルのコラボレーションらしい。護王神社以上の行列が出来ていて、正直、驚いた。 30分近く待つ事になった。
不思議な体験だった。20人ほどが、前の人の肩に手をあてて、行列をなして進んでいく。ちなみに、私の前は息子。後ろは奥方。 息子の肩に手置いて、奥方の手が私の肩に載って、暗闇の中を進んで行く様は、自分の老後を想像させられた・・・・・・。
真っ暗だった。目を見開いて、見開いて、見ても、暫くは何も見えなかった。「突然」とよんで良いのか、「スゥーっと」と、 よんで良いのか、「何となく」とよんで良いのか、目の前に光りがあらわれ、まわりの人々が暗闇の片隅から、光に向かって歩いていく、 ざわめきが湧き起こった。光は最初からそこにそのように存在していたのだが、暗闇に目が慣れるまで、見えなかっただけだった。
暗闇で家族の位置関係を失わないように手を握りながら光に向かって進み、光に手をかざして、光を物質のように体験する。そして、 反転し、お互いがはぐれないように気遣いをしながら、出口の光を求めて、歩んでいくのだった。外に出ると、黒い板貼りの外壁、 軒の出の長い黒い庇、隣の土壁の塀と木、太陽の光、カップルの多い行列が目に飛び込んできた。「若い女の子とデートで行く方が、もっと、 ええんとちゃう」という、おじさん的なこころが去来するのをこっそりとやり過ごしながら、隣接する公園から建物を眺めた。
カッコイイ便所で用をたした後、町を散策しながら駐車場に向かった。「きんざ」
というプロジェクトは予約が必要らしい。何ヶ月も前からでないと、予約が取れないと。残念。ちょっと疲れたので、お茶を飲もうとするが、どこも、いっぱいで、行列が出来ていた。やっと、
「本村ラウンジ&アーカイブ」のソファーでくつろぎながら、パンフレットを眺めていると、「山本うどん」
といううどん屋さんがあって、地元では有名らしい。そんじゃぁ、お茶は諦めて、うどんでも食べた後、
ホテルにチェックインしようかと話がまとまった。
車窓から「作品」を眺め、昔 の建築雑誌に掲載されていた中学校の校舎を眺め、 フェリー乗り場から家プロジェクトまで、かなりの距離の道を歩いている、期待の入り交じった表情の沢山の人々を眺め、 007プロジェクトの展示を覗こうかと思いながらも、やっぱり何となくやり過ごし、再び、 宇野港フェリーターミナルの簡素でシャープな美しい建物を通り越して、山手のスーパーの一角にある「山本うどん」に到着した。
店の人にお勧めを聞くと、肉うどんだとか。夕食の事が頭にちらついて、家族3人で、 2杯のうどんを注文することにしたら、一口食べて、美味しかったのか、息子に全部食べられてしまった。それで、 もう一杯注文することに・・・・・。そうそう、 この直島は、岡山県ではなくて、四国うどんの香川県だったんだなぁと、舌で、 再認識したのだった。
投稿者 木村貴一 : 13:45
2008年05月04日
虹
いま、5月4日午後10時30分、ゴールデンウィ ークのまっただなかだ。皆さんは、どのようにお過ごしだろうか?
私は、このブログを改めて眺めながら、ゴールデンウィークの過ごし方を振り返ってみると、そうそう、ここ数年、家族と「旅」 をしていたのだなと、気付かされる。
まぁ、しかし、今年は、ちょっとした事情が重なって、家族での旅は、小休止。
それで、「友」と会うためと、少々メタボ気味になりつつある体を鍛えるために、ひとりで、丹沢に行って、知りあいの山小屋で、 友と語らうことにする。
5月3日は、生憎、関東地方は天気が悪く、丹沢は、時折、日が差さすものの、霧雨のような状態で、山を歩く人は少ない。歩いていると、 「虹」に出くわす。 遠くの虹を見上げた経験は何度かあるが、手が届きそうな直ぐ目の前で、虹を見下ろしたのは、はじめての体験だった。
こうやって、書きながら振り返ってみると、虹というのは、不思議で美しいものだなぁ・・・・・と、 その時の情景と感覚を再体験してみる。「虹に願いを」という言葉も、いま、思いつくが、その時は、そんなこと、全く、思いつかなかったなぁ・ ・・・。
写真をみながら、柏手を「パンパン」と打つことにする。
午前中は丹沢の塔ノ岳の山頂にいた。いま、大阪の自宅のここで、こうして、ブログを書く。そして、今日も終わろうとしている。「いま」 というこの感覚も「ここ」というこの感覚も「今日」という時間感覚も、虹のように不思議な感覚だなぁ・ ・・・。なんて考えながら、「今日」のブログはこんな状態で終わろうとおもう。お休みなさい。
そして、良い休暇を!
投稿者 木村貴一 : 23:57
2009年05月03日
北斎と富士とB級グルメ
つまり、ゴールデンウィークがはじまり、さしたる行くあてもなく、経済的な問題が云々されている、この時期、 当然ながらバブリーな旅行を望むべくもない。かといって、どこにも行かないのもストレスが知らず知らずに貯まり、それが、 突然の夫婦げんかに発展するのもつらい・・・・。
夫婦そろって、大阪生まれの大阪育ちのため、田舎がない。なんだかんだ、理由をこじつけて、旅行をするわけなのだ。 あの有名旅館に泊まりたい!!・・・とか。子供が喜びそうなので、遊園地やアウトドアーへ・・・とか。その他いろいろ・・・・。
ところが、偶然のような、必然のような、その「こじつけ」を見つけ出せれば幸いなのだが、「ネタ」がないときも、しょっちゅうあって、 そんな訳で、このゴールデンウィークも最初は「ネタ」がなかった・・・・。
一週間ほど前、どうしようかと悩んだ。まず、お金をあまりかけたくない・・・。あの「1000円高速道路」の誘惑もちょっと魅力的・・ ・・。そんな事を考えながら机の上に目をやると、コトバノイエのKさんから贈ってもらった「葛飾北斎」の本が、読みさしで、 置いてあった。
それを眺めているうちに突然思った。そうそう、富嶽36景が描かれているその場所へ行って、富士山に見守られてみよう・・・・と。 おもうに、北斎の描く富士山は、「見る富士山」というより、様々な人々を「見守る富士山」のように見えるのだ。
そんな訳で、今、大井川の河原で、このブログを書いている。取り敢えず、愛知県と静岡県で、
描かれている富嶽36景の場所に立ち寄りながら、富士山の麓を目指そうとおもう。
↑名古屋
↑豊橋・吉田宿
↑日坂宿
↑金谷宿
だいたい、今日は、こんな感じで、大井川まで到着した。ところで、今のところ、全く、富士山の姿形を拝めていないのだ・・・・。
そうそう、静岡県はB級グルメの県だそうだ。浜松は鰻だと思っていたのに「ぎょうざ」が凄いらしい・・・。富士宮のやきそばとか・・・・。
それで、お昼は浜松で「ぎょうざ」を食す。朝は、豊橋で、かまぼこのやまさの本店で、かまぼこを買って、食べた・・・・・。・・・・・。
そんな訳で、木村工務店では3日から6日まで、ゴールデンウィーク休暇です。お問い合わせ等の返信は7日以降となりますので、 ご理解のほど宜しくお願いします。私のゴールデンウィークは、北斎と富士山とB級グルメの旅で過ごそうとおもう。
それでは、皆さん、よいゴールデンウィークを!
投稿者 木村貴一 : 20:24
2009年05月10日
再起動(北斎と富士とB級グルメその2)
ゴールデンウィークが終わり、ほんの4日ほど、家や会社を留守にしただけなのに、わずか暫くの間に、会社の前の「エゴの木」には、 白い花がいっぱいいっぱい咲き、石鹸のような、さわやかな香りを放つ。
家の庭のクスノキにも、葉っぱがいっぱい生い茂りはじめ、少々驚く。気が付くと、一本のタケノコがぐぅーんと伸びて、 2階の窓の目線の位置まで達していた。この春の4日間に、自然はそれなりの変化をし、「私」は、わたしたちなりの旅をし、漂った・・・・・。
「北斎と富士とB級グルメ」という、旅を「こじつけ」た。それは、ゴールデンウィークのゲームであり、楽しみであり、苦行であり、 休息であり、労働であり、勉強であり、快楽であり、何よりも「遊び」であって、私なりの悦楽でもあった・・・・・。
ただ、それに付き添わさせられた「家族」は、悦楽だったのか、どうだったのか・・・・・。確かに疑問。
奥方は、家の布団をそのまま車に持ち込んで、車での移動中は、ひたすら眠り続ける。そして私は黙々と運転。「B級グルメ」 に到着すると、むくっと起き出して、並んで、待って、食べることを苦痛とせず、高カロリーの食べ物を食べて食べて、 「家に帰ったらダイエットするわー」と叫ぶ。
中学生になった息子は、わけのわからない、はじめての土地で、いきなり、北斎の写真をもたされて、 写真撮影に付き合わさせられるのだった。体を動かすこと、イコール、遊んでいること、と等価な次男とは、大井川の河川敷で、 サッカーのボールをおもいっきりけり合い、キャッチボールをし、スケートボードで滑り、車に持ち込んだ折りたたみ自転車で、走る。 車の中では、寝る。プレステ。DS。ヘッドホーンで音楽。
長男は、いきなり、東京から彼女を連れて帰ってきて、キャンプに行くといって、私のテントなどキャンプ道具を車に積め込んで、 大阪から西に、四国に向かって、旅立った。「わたしたち」は、東に、名古屋に、静岡に、向かって、旅立つ。「それじゃぁ、6日に、お互い、 無事に、会おかぁ!」 と云って、それぞれの旅の無事を祈って別れたのが、5月2日の深夜のことだった・・・・・・。
深夜、ガラガラといえばガラガラだけれど、少々多いめの車の流れと共に、名神高速道路を走り、名古屋に向かう。途中、
新しくできた第二名神を乗り継ぎ、東名阪道路のパーキングエリアで、仮眠する。もちろん、奥方と息子は、家から持ち込んだ布団の上で、
寝息を立てていた。
意外にぐっすり眠り、なぜか5時に目が覚め、PAの便所で、すっきりしてから、おもむろに、第一チェックポイントの名古屋に向かう。
「尾州不二見原」という、こんな光景に出会えるはず・・・・・・・・・・・。
名古屋の中心街のそのあたりに行くと、「富士見橋」というのが、確かにあり、もちろん富士山が見えるわけもなく、 こんな5時台の朝早く、桶を造る、ものづくりの作業風景があるはずもない。もちろん、うろちょろする人もいない。取り敢えず、ここを、 今回の、「私の尾州不二見原」と、勝手に、決める。
それで、息子と奥方をたたき起こすことにする。、まぁ、何とも、迷惑そうな顔・・・・・・。確かに、その気持ちもわかる・・・・・。 それでも、撮影の助手を頼むと、意外にすんなり応じてくれたのは、「しゃぁないなぁ・・・!おとんの、このばかげた遊びに、まぁ、 付き合ったるわー」という、子供ごごろと見た。
奥方は、その一部終始を見ながら、「あほちゃぅー」と、ノーメークの顔で笑い、呆れ、のたまい、でも、「まぁ、しゃあないなぁー!!」 と、見守ることにしてくれた。 以降、だいたい、全ての場所で、こんな雰囲気で、撮影をすることになった。
周辺には、大きなお風呂屋さんがあり、マンションが建ち並び、材木屋さんのようなところもあったのだが、さて、今、ここでは、どんな、 「生きる人々の姿」が、あるのだろうか? そして、その姿を、小さな小さな富士山が見守ってくれているはずなのだ・・・・・・。
一台、黒のレガシーが、私たちの車の数メートル、後ろに停車した。「こんな時間に、こんな場所に、あんなふうに停車してる、あの車、 きっと、同じように、北斎の絵の場所を探している人に違いないわー」と、大阪のおばちゃんらしく推理する奥方だった。
「そやなぁ・・・」と、適当に聞き流しながら、次のチェックポイントを目指す。名古屋高速から名神に戻って、豊橋を目指し、 豊橋城の公園の駐車場の木陰の下に車を止める。
そよ風が車に流れ込み、奥方と息子は、気持ち良さそうに、ひたすら、眠っていた。私は、車の後ろのハッチを開けて、 折りたたみ自転車を取り出し、周辺の朝を巡る。
自転車でゆっくりと、走ると、足早に散歩をする見ず知らずの、おじさんが、「おはようございます」と元気な声をかけてくれた。素直に、 「おはようございます」と返す。なぜか、晴れ晴れして、気持ちエエ。その瞬間、五島列島での旅の光景が蘇り、 ダブる。
この第二チェックポイントの吉田宿では、こんな光景に出会えるはずだった。旅の途中に、 綺麗なお姉さんと富士山を見ながらお話しするのもエエなぁ・・・・とおもう。そんな不二見茶屋を探さなくては・・・・・。
まぁ、でも、これから先の工程も考えてみて、それに家族旅行でもある事だし・・・、とりあえず、ここを、今回の「私の東海道吉田宿」 としようとおもう。助手達は、快眠し、起こしに行っても、自転車が一台だけなので、ここまで来るのにたいへんなのだ。
絵のような手摺りもあることだし、横には、静かに本を読む見知らぬ人が、ひとり。お姉さんが手摺りに寄りかかって居ないのが、 誠にもって、残念なのだけれど、とにかく、ひとりで撮影する。
天気は良いのだけれど、「やはり」富士山は見えない。ところが、暫くして、なんだか富士山の方角が違うような気がしてきた・・・・。 それで、地図で、富士山の方角を睨みながら、撮影したのがこれ。
車に戻ると、それぞれが、代わりばんこに、自転車に乗り、散策に向かう。その小一時間ほど、私は朝寝をする・・・・・。 うっすらと目覚めながら、それぞれが、見た光景と印象を聴くと、不思議にも「ずれ」があり、そのことに、 それぞれの内面で起こるリアリティーというものを感じ・・・、いやいやそんなことより、朝食を探しに、街の中を車で彷徨することに決めた・・ ・・・。
ちくわのヤマサというのが、豊橋が本店だと、インターネットで知る。それで、その住所を見ながら、街の商店街に迷い込でみる。
「文政10年。以来180年、豊橋の地を中心にちくわなどの練り物を製造・販売してきました。 私たちの基本精神は「鉛は金に変わらない」ということ。一見本物に見える金のかたまりも、地金が鉛では決して本物とはいえません。 ちくわを作る場合でも同じ事がいえます。本物の味を作り出すには、原料の選別を始めとして、練り具合や焼き加減の判断、 その時々の気候に合わせた味加減など、職人の技を必要とします。原料、人、技術、全てが本物だからこそ生まれる「旨さ」。 これがヤマサちくわの求めるこだわりの味、伝統の味です。これまでも、そしてこれからも、変わらぬ精神で本物の味を追求し続けます」
と、インターネットに書かれてあり、木村工務店はどうなんだろう・・・と、 店舗の前に立ちながら、おもう。材料、人、技術、全てが本物といえるのだろうか・・・・。「旨い」建築を造っているのだろうか・・・。 と、顧みてみるのも、今の「私」の立場でもあった。
吉田宿のお城のまわりでは、学生達がランニングをし、ガーデニングか何かの緑のイベントがあり、その準備をスタッフがノンビリとし、 暫くしてそのイベントに沢山のおじさんやおばさんが集まって買い物をする。犬を連れて散歩をする人、釣りをする人、 地道の道ばたに座り込んで、話をするおっちゃん達、ベンチで本を読む人・・・・・・・・。そんなふうに生きる人々の姿を、小さな富士山が、 どの方角かで、見守っているはずだった。
国道を使って、浜松を目指す。国道沿いの遊園地に行く右折れの車で渋滞する。海岸沿いの国道に出ると、サーフィンをする人たちの姿。 浜名湖の近くでは、潮干狩りをする人達の姿。天気もよく、何だか、気持ち良さそう。サーフィンも潮干狩りもどちらもやってみたいなぁ・・・ と、自分がするその姿を想像しながらドライブする。
昼食を食べに、「浜松ぎょうざ」を目指した。「浜松の鰻」ではなかった。 B級グルメという言葉を初めて知った。 ご当地グルメともいうらしい・・・・。 インターネットで見て、取り敢えず、 「福みつ」という店の前に到着する。 普通の住宅街の中にポツンとある店だった。四国うどんの状況と似ていた。
数十人の並んでいる人を見て、ビックリし、「私」はめげる。そんな時、急に、元気を出すのが、奥方だった。 果敢にも列に並ぶのであった。一時間近くも待って、餃子にありつく。「私」には、ある種の苦行だなぁ・・・・。
王将の餃子の方がうまい。と息子が言う。私の手作りの餃子も負けてヘン。と奥方が言う。大阪人だから仕方ないか。 白ご飯とお味噌汁とこんがりとした厚い皮の餃子が定食となっていた。そうやって、ご飯とお味噌汁と食べると、なかなか、美味しい。 それにしてもだ、行列の並ぶ店のその魅力とその秘密を知りたいなぁ・・・・・とはおもう。
お腹がいっぱいになると、お風呂にでも入りたい。それは、日本人の遺伝子なのか・・・・。 第三チェックポイントは日坂宿だった。その途中の袋井宿に立ち寄って、お風呂にでも入ろうかと、家族会議をすると、 全員賛成で、 話がまとまる・・・・・。
昼の日中に入る露天風呂も気持ちエエ。奥方がお風呂から上がってくるのを、ロビーのソファーで、息子と待ちながらテレビを見ていると、 ちょうど、競馬の天皇賞が始まった。毛並みの良い馬が、鬣としっぽをなびかせて、疾走する姿は、美しい・・・・。 勝利した騎手の笑顔とガッツポーズを見ながら、この場所で、この人たちと、この天皇賞を見ている、このシチュエーションを不思議におもった。
そうそう、この旅のきっかけになったコトバノイエのKさんのゴールデンウィークのブログには、 全く違う、シチュエーションで、天皇賞を見ている様子が描かれてあった・・・・・。同時性・・・・。
現実の旅行では、一日で、大井川までたどり着いたのに、あぁ、ブログの世界では、
一日で、大井川まで、辿り付けなかった・・・・・。
背後では、社内のコンピューターサーバーの設定が手こずって、いまだに作業が続いている。再起動。再起動。 コンピューターサーバの構築作業も工務店と似たとろがあるよなぁ・・・・。
それはそうと、ゴールデンウィークが開け、何だか新年が始まったような気分で、木村工務店も再起動です。そして、 北斎と富士とB級グルメのブログ上での旅は、まだ続きます・・・・。
投稿者 木村貴一 : 21:44
2009年05月17日
保険(北斎と富士とB級グルメの旅その3)
保険会社の人が、尋ねてきて、火災保険を上手に選択すると、家のメンテをするのに、費用が出る項目が多々あって、中には、24時間態勢で、水漏れがあれば、駆けつけます。なんていうサービスもあり・・・・。家を守り、維持していくためとして、工務店さんから、是非、有用で、エエ火災保険を提案してあげて下さい・・・・・。
今週の前半の朝に、お会いした方との、そんな様子をふと思いだした。その大手保険会社の担当の方は、つい3年ほど前に、関東で、自宅を建てた。設計士と工務店と一緒に家づくりをした、その期間が、もの凄~く、楽しかったなぁ・・・・と、満面の笑顔で語ってくれた。週末に夜行バスで、家に帰るのが、何とも楽しみで・・・・。帰りすぎて、お金がちょっと・・・・・。
この背後で、奥方は同窓会同窓会とバタバタバタバタ、ガサガサガサガサと騒いでいる。時として、見たこともないような、カバンとかアクセサリーが出てくるのに、少々、驚いたりするのだった。息子は、家の前の道路でバスケットボールをしている。わりと、典型的な日曜日。
そういえば、つい最近、近所の子供達が、家の前で、バスケットボール遊びをしていて、うちの家の窓硝子を割ったらしい。もちろん、ゴメンナサイと、ちゃんと謝って帰って行ったという。それで、その窓硝子をなおすのに、うちの長年お付き合いしている三木硝子さんに連絡をして、直ぐに硝子を取り替えてもらった。
でも、その費用は、どうするのぉ。と、一瞬考えた。そしたら、奥方が、いま加入している、火災保険で、そのお金でるねん。それに一時金として、ほんのちょっとした、お金やけど出るのぉ。と言った。・・・・・。いまここで、そんなこんなの様々な事が、頭の中を、出たり入ったりしているのであった。
そうそう、「ゴールデンウィーク、北斎と富士とB級グルメの旅」だ。
袋井のお風呂屋さんで、湯船に浸かり、普段、全く見ることもない競馬を見て、レストランの椅子に腰掛けると、目の前が茶畑だった。ここは静岡だ。と、ようやく、気付いた。奥方が、突如として、「お茶」 「買ぅぅ」 と、まるで、外国人のような文法で、言葉を放つ。テーブルには、B級グルメの「袋井宿たまごふわふわ」がひとつだけ、ポツンと置かれ、皆で、少しずつ、食す。うまい!とは言い難いお味。まぁ、でも、この旅は、「経験」が、遊びなのだ。
もう4時近くになってしまう。次の目的地は日坂宿で、「遠江山中」で、こんな光景と出会うハズ・・・・。
ナビによると袋井から日坂宿までは、30分ほどだった。国道1号線を進むと、その1号線のバイパスが次々とあり、気が付くと、目的地付近を通り過ぎていた。引き返す。小さな集落の中をうろちょろする。製材所を見つける。進む。停まる。バックする。また進む。曲がる。停まる。進む。なんだか不審者のような気がしてきて・・・・、早々に見切りをつけて、今回は、「遠江山中」は、ここだとする。
「ここ、知りあいなん?」と奥方が突拍子もなく聞く。確かに、私は、工務店を営んでおり、そうそう、吉野には、今はもう、死語に近づいてきた、銘木屋さんが、親戚にあり、林業を営む吉野の山持ちさんが、親戚にあり、ちなみに、吉野川沿いにある、「こばしの焼き餅屋さん - Google 検索」も親戚であって、小さい頃には、数ヶ月に一度、吉野に住む親父のお兄さんが、そのやき餅を持って、大阪にやってくるのが、かなり楽しみだった。
こし餡が好きか、つぶ餡が好きか、どちらが「通」かで、いつも楽しく論議したものだ・・・・・。これもB級グルメ、ご当地グルメと呼ぶのだろうか・・・・・・。それはともかくとして、大阪からこんなにも「遠い山の中」に、知りあいは居なかった。
「木」や「お茶」を生業(なりわい)とする人々、が、この界隈には、何軒か、生活しているようだった・・・・・。出かけよう!北遠へ-ふるさと散歩道 「大鋸=おが」は製材に使われました なんていうホームページにも出くわす。この北斎の描いた絵を眺めると、巨大な木材の上に乗って、大鋸(おが)という鋸(のこ)を使う職人さんの、その「腰」の、あの「丸み」が、何とも、エエ感じ・・・・と、いつもいつも思うのだ。「リアルな何か」を感じるのだった。
そして、その絵を見ると、小学生の時に、描いた、家を建てる大工さんの絵を思いだし、その絵の中で、大工さんが、木材を2階に引き上げる作業姿の、その絵の、腰つきを、いつもおもいだすのだった。
それにしても、富士山は見えない。ほんとうに、この辺りから、富士山が見えるというのだろうか・・・・。そんな気にさせらがゆえに、見てみたいとおもった。どこかで、富士山が堂々と隠れて、見守ってくれている。ハズだった。
日が暮れていきそうな気配。やっぱり、今日は、大井川までは、金谷宿までは、目指そうと思う。旧の国道か国道1号線か、どの道を進むめば良いのかわからなかったので、なるべく、狭くて、曲がりくねって、ゆっくりと進む道を選択する。
曲がりくねった山坂道だった。近くに石畳があります。という標識が通り過ぎていく。時折、歩く人。あの「腰つき」で自転車をこぐ人。と、すれ違う。この道を走ってようやく、私たちも東海道五十三次の一部を走っているのだと実感がわいてきた。あぁ、今から思えば、金谷の町に寄り道すをるべきだったかなと、ちょっと、後悔する。
次のチェックポイントは、「東海道金谷の不二」だった。川を渡る。越すに越されね大井川を渡る。その当時の一大イベントに出会えるハズもなく・・・・・。後続車が後ろにピッタリとくっついていた事もあって、何だか勢いで、大井川を渡ってしまった。あぁぁぁという間の出来事だった。あっけなく島田宿に到着してしまう。
「情緒」は諦めて、兎に角、写真撮影だった。さて、どうして、写真撮影をすれば・・・・。そういえば、「蓬莱橋(ほうらい橋)」という木造の橋があるらしい・・・・。暮れていきそうな大井川沿いを走り、その木造の、とにかく長~い橋に辿り着く。以外と、まだ、多くの観光客が、その橋を渡っていた。橋を渡る通行料金を支払う。その時、おもった。あの高速道路の1000円は安いのだろうか・・・高いのだろうか・・・・・。
さて、その橋から、取り敢えず、撮影してみると、どうも方角がおかしい。「その方向、絶対間違ってるとおもうワ。」というダメだしがある。確かに・・・・。いったい富士山はどこに・・・。影も形も気配さえも感じられなかった。方角を変えて取り直す。
この橋を往復するのに40分ほどもかかった。人間の心理とはおかしいなものだなぁ・・・・。なんだか、途中で引き返すのが、「諦めた人間」と思えてきて、往復しなくては、「ダメ人間」のような気になるのだ・・・・・。ほとんどの多くのカップルが、語らいながら、仲良く手をつないで、往復していた。
帰りの改札所で、おっちゃんに、富士山の方角を聞いてみる。「ここ一週間ほど、まったく見えないね。橋の真ん中で見ると、山の上に富士山の美しい姿が見えるんですがねぇ・・・・・」と、その言葉を聞いて、富士山を見た気分にすることにした。
当時の人々は、この川を渡るのが、一大イベントだったに違いない。この川を渡る事で、いろいろな「決意」を固めたのだろうか・・・。富士山に見守られながら、川の真ん中からその決意を富士山に向かって誓ったのかもしれない・・・・と、ちょっとセンチメンタルな想像をしてみた・・・・・・・。
この後に及んで、旅行に来て、全く、遊んでいないぃ!!と、息子が、言い出した。体を動かしていない。と・・・・・・。えぇ、先ほど、歩いて、橋を渡ったのは、運動ではないのぉ。と問いかけるのはムダなことだと、最近気付いてきた「私」。
川と芝生と夕暮れの青空と飛行機雲と月と鉄橋と夕焼けが同居する中で、サッカーのボールを思いっきり蹴り。キャッチボールのボールが見えなくなるまですると、不思議にまた、お腹が空いてくるのだった。今夜は、この河川敷で、宿泊すると決め、食料を求めて、近くのスーパーに行く。「生しらす」とか、造りとか、お寿司とか・・・・、それに、朝方に買った変わった種類の「ちくわ」も・・・、それらを夕食として、ほとんど人のいない、大井川の河原で食す。
満腹感。それよりも、背後から迫り来るブログへの切迫感に観念した。その河原で、ノートパソコンを広げ、「あっぷ」したのが、「あれ」だった。もちろん、その直後、この長~い一日を終えて、寝られることが、何とも嬉しくて、あっという間に眠りについた。
投稿者 木村貴一 : 17:19
2009年05月24日
断熱(北斎と富士とB級グルメの旅その4)
家の断熱というものをどのように考えるのか・・・・。そんな事を、あらためて、勉強してみようという事になり、社員や大工さんや手伝いさんを交えて、野池さんに、講習会を開いてもらったのは、今週の事だった。
それは、省エネ改修促進税制 とやらが、4月1日から創設されたのだとか・・・・。次世代省エネ基準が等級4で、それは・・・・。等級3が、通称、新省エネルギー基準と呼ばれ、それがつまり・・・・・。それぞれの壁の断熱材はグラスウール相当で、これぐらいを入れる必要があり、天井は・・・、床は・・・・。と、野池さんが語ると、大工が、「グラスウールかぁ。あれ、カユイからイヤやなぁ! 大工の体に悪いのは、住んでいる人にもエエことないでぇ!!」と。椅子席から、ヤジを飛ばす。皆から笑いがわき起こると共に、「なるほど」と、なんだか納得したりして・・・・。
そんなこんなの、吉本新喜劇風の、ベタなやりとりや、ヤジが飛び交う、講習会ではあったものの、次世代省エネルギー基準とやらが、ほんとうに、この大阪を中心とした、関西の住宅にとって、相応しい基準なのかどうか・・・・。確かに、それは、間接的に、CO2削減に貢献し、地球環境に貢献するのだろう・・・・。まぁ、とにかく、そんな事が、住宅の善し悪しを決める基準のひとつになるのら、それぐらいの事は、いつでも簡単にクリアー出来る、その態勢は、整えておきたい。と、おもう。
最近のリフォームでは、断熱性能を上げたいという要望と、耐震性能を上げたいという要望は、ベーシックな事柄になってきているようだなぁ・・・・・。なんて事と、新型インフルエンザと白いマスクと休校の学生達とそれらが及ぼす経済への影響と家にいる子供の姿が支離滅裂に錯綜するのだった。
そうそう、「ゴールデンウィーク、北斎と富士とB級グルメの旅」の続きでも・・・・・。
大井川での宿泊は、列車が鉄橋を渡る音が、時として、うるさく、2、3回、眠りから引き戻されそうになる。いや、それは、「風情」だと思えば、それなりに、「フゼイ」でもあった。夜の9時頃に寝るなんて事は、年に、数度の事で、流石に、目覚めは早く、夜明けと共に、鳥の合唱があちらこちらから聞こえてきた・・・・・・。
折りたたみ自転車を取り出して、川沿いを一時間ほど散策すると、家族も起き出し、息子はスケートボードを取り出して、ゴロゴロと滑り出し・・・。そん事をしている間に、お腹も空いてきて・・・・。そんな通常とは違う朝だった。
次のチェックポイントは「駿州江尻」で、それは清水港の周辺で、富士を見る予定で、国道を使っても1時間もかからない距離で、到着まで○○分です。と、ナビが、女性の声で、それが、親切か不親切かは別として、伝えてくれていたとおもう。
とりあえず、製紙工場の煙突から出る煙を眺めながら、出発した。その大きな工場を見て、「そうそう、このあたりは、パルプで有名なんや」と、「現役」の息子が、社会科の知識を言うと、そうそう、習ったワ・・・・と、夫婦そろって同時に発声し、少々の見栄などもはりながら、朝早くのガランとした島田の町を通り抜けた。
朝ご飯を探しに、取り敢えず、焼津港に立ち寄ってみる。朝の7時過ぎなので、開いてる店は、マクドナルドとか・・・。流石に、そこで、食べる気は起こらず、それは、今回の旅は、B級グルメの旅でもあって・・・、それじゃぁ、マクドナルドは、いったい何級なのぉ・・・と、考える事ぐらいにとどめておいて、通り過ぎる。
焼津港周辺をうらちょろして、諦めかけた頃に、開いてる店を見つけた。漁業組合が経営しているのだろうか、朝の8時前だというのに、満員で、地元の人らしき人や、観光客らしき人、ライダーなどなどが、ぞくぞくと、入ってきた。結局、朝食が出てくるまでに30分ほど待つことになる。
朝から、丼もんを食べた記憶がないのだけれど、とにかく、廻りの人々の食べる勢いと、その皿のその美味しそうな雰囲気に圧倒されて、マグロが入った三色丼とやらを食べる。目の前の同じような観光客が注文した桜エビのよせ揚げを見て、あぁ、それにすれば良かった・・・と、恨めしく思えるほど、美味しそうに見えた。それにしても、待ちくたびれたことを帳消しにするほどの、かなりの満腹感と満足感。
だいたい、満腹になると思考回路もだらしなくなりだし、道路標識にあった、「登呂遺跡」というのに、反応してしまい、予定には全くなかったのだけれど、ちょっとだけ、寄り道をしてみようという気が起こる。まぁ、考えてみれば、この旅全体が寄り道のような旅でもあった。
縄文の遺跡には、野や山や川や海や湖があり、風光明媚で、あちらこちら、それなりに巡ったのだけれど、弥生の遺跡には、あまり馴染みがなかった。あらためて、見ると、それは狩猟採集でなく、水田だぁ。稲作だぁ。とおもった。
ほんとうに、その当時の木組みが、こんなふうであったのかどうかは、定かでなく、疑問の余地もあるのだけれど、木組みの、小屋組の、原型のような展示だなぁ・・・・と、考えながら、水田跡のあぜ道を歩いていると、気になるアプローチに出くわす。
芹沢美術館というらしい。アフリカの造形という展示をしているらしい。朝食におもわぬ時間がかかり、予定外の登呂遺跡に立ち寄り、もう既に10時になっていたのだけれど、寄り道ついでにもう少し寄り道を・・・と、おもわせるほど、ちょっと、ぞくっとするアプローチだった。今回の旅では、「感動的な富士山」を見ることはできなかったのだけれど、何よりもの感動は、この建物だったのかもしれない・・・・・。
入り口に入りると、石とナラらしき木組み風の天井が不思議な融合をし、やっぱり、ぞくっとする。受付の人に設計者の名前を聞くと、 白井晟一 だと・・・・。そうか・・・。そういえば、五島列島を旅行し佐世保に立ち寄った時に、親和銀行を見忘れた事に、少々後悔した事を思いだした。写真撮影してもいいですか、と聞くと、観覧者に迷惑でないようにお願いしますと、笑顔で、快く応じてくれる。
不思議な世界感だった。展示の関係か、自然光が入らないように、窓にカーテンがしてあり、そのため中庭の池がみえなくて・・・、光が入った空間が見れなくて・・・、それが、何よりも残念だったのだけれど、見学して良かったなぁ・・・・、寄り道して良かったなぁ・・・・と、おもえた。
そうそう、近くにあった移築された芹沢邸が、最近の工務店がつくる、木組みの家づくりの原型のようでもあって、それはそれで興味深くもあり・・・・・。
そんな訳で、ブログ上でもクドクドと寄り道をしてしまい、まったく、先に進まず、そろそろ、この旅のブログも疲れが見えはじめ、もっと、端折って書いて、次回で終わりにしようとおもうものの、富士の旅のはずなのに、富士の写真がほとんどなく・・・・。いやぁ、最後まで、その写真をお見せできそうにもなく、あぁ、「おち」がない事にも気づきはじめ、その自分自身と、この旅のブログへの焦燥感なども、少々わいてきたりして、ちょっとした、断熱状態に陥りそう。そういえば、新型インフルエンザからは断熱したいねぇ・・・・。
という事で、唐突ですが、冒頭の写真は、芹沢美術館でのラウンジからの庭の眺め。そこで頂いたお茶が、その部屋の雰囲気と相まって、美味しく感じたなぁ・・・・・。
投稿者 木村貴一 : 23:54
2009年05月31日
桜えびの味(北斎と富士とB級グルメの旅その5)
この光景に出会うのが、次の予定だった。「北斎富嶽三十六景駿州江尻」。ところが、想定外の行動が連続し、この旅は、北斎の旅であった事すら、すっかりと忘れていた。流石に、12時をまわる頃になると、内面のどこからか、何かが突き上げてきた。「そろそろ決めた目的地を目指せ」 そんなふうに指令されているようだった。これは、「私」が、適当に決めた、遊びなはずなのに・・・・。
まぁ、それでも、その感覚に突き動かされようとおもう。次の目的地は清水だった。すぐ近くなのだけれど、海沿いのいちご街道を走ると、のろのろと渋滞していた。その遅~い流れに身を任せながら、IPODのイヤホンを耳に差し込む。ランダムに、そして、おもってもみない、選曲が繰り返される音楽を楽しみながら、ちらっとバックミラーで家族を見ると、奥方も息子も、それぞれがIPODで音楽を聴いていた。おかしな光景だな・・・。
「三保の松原」に寄り道をしてみた。どう考えても、駿州江尻の絵は、三保の松原で描かれた絵には見えないのだけれえど、確か、中学生の頃、家族と訪れたその記憶と、今も残るその時の写真の楽しそうな光景が、そうさせたのだとおもう・・・・・。
以外と、観光客が多い。大きな松。黒い砂浜。笑顔。いわゆるビーチとは違う独特の景観。以外と以外と幸せそうなムード。それで、ここを、今回の駿州江尻にしようともおもい、富士だとおもわれる方角に向かって撮影を試みる。が、どうも違う・・・・。この北斎に登場する人物は、「生きる」人々なのだ・・・・。ふじやまは、どこだ・・・・。
まぁ、とにかく、近くの神社に立ち寄って、祈願でもしてみようと、何となく、足が神社に向かった。「ぼくは、富士山が見えますようにと、祈ったでぇ・・・」「おとん、と、おかん、は、何を祈った・・・」と。えぇ、おとん。そんな呼ばれ方するのかぁ・・・・。
もう少し粘ってみようと、清水港周辺をうろうろする。清水エスパルスの臨時駐車場に入って、接岸する船を横に見て、海から富士山の方角を眺めてみる。・・・・・・。
あっ、うっすらと、富士山が・・・・・。目をよぉーくよぉーく凝らさないと見えないのだけれど・・・・。息子は、え、どこどこ・・・と、急遽、メガネをコンタクトに入れ替えて確認した。このおかしな写真撮影を呆れた様子で、車から眺めていた奥方も車から這い出して、喜喜として海からの富士を確認する。
写真には写っていないので、手を加えてみる・・・。嘘のようで、本当に富士をみた・・・。
港で働く人々や風が舞い上がる街道を行き交う人々の姿は見れなかった。ノンビリとゴールデンウィークの釣りをする家族の姿を富士山が、ひっそりと見守っていた。風で吹きすさび林立する木立はみれなかったが、対岸には作業を休んでいるクレーンが何本も林立していた。そして、富士山が、うっすらと、見守っていた。
北斎のこの絵には、わざと、傘で顔を隠して描いているようだった。そして、他の絵も、顔を見せないように描かれているシーンも多い。今回の旅の撮影も、それに、従って、顔を隠した撮影にしてみようとおもう・・・・。 次の目的地は「江尻田子の浦」で、時間的には30分ほどの距離。それで、国道で目指す。
由比に近づくにつれ渋滞し、渋滞の車の正面に富士山が、時として、ハッキリと、時として、うっすらと、見え隠れしていた。渋滞と富士山を眺めているうちに、そうだ。桜エビだ。桜えび祭りだと理解してきた。
すでに時刻は2時。朝、焼津で、食べ過ぎた事もあって、空腹ではなかったが、その店で見た、桜えびの釜揚げの姿がちらついていたので、漁港に立ち寄ってみる。何だ、祭りは日曜日に終わっていたのだ。それでも、本日も既に桜エビは売り切れました。との表示があり、やっぱり人気があるのだなぁ・・・・・。
売り切れるほどの人気なら、是非、食べてみたい。由比の町に立ち寄ろうと、脳内が呟いたのだとおもう。B級グルメの「静岡おでん」を諦めただけに、やっぱり桜エビを食べよう! と、奥方も急に活気づいて・・・・。ところが、どの店も、満員で、それも、6組も7組も待つ店ばかり、奥方は闘志満満なのだけれど、私と息子は、何度か懇願して、諦めてもらう・・・。
それにしても、諦めきれない様子の奥方の後ろ姿を見ながら歩いていると、3組待ちの店を発見し、「ここどぉ」と指示がでて、こういう時に、素直に従うようになったのは、最近の事で、きっと、それは歳のせいだとおもう・・・・。
それでも20分ほど待つ苦行が必要で、そして、その末に出される、ざるそばに一枚の桜えびの釜揚げを見ると、このために、かれこれ、一時間近くも・・・・と、おもうと、何だか、腹立たしい気持ちにもなるのだが、とりあえず、気を取り直して、食べよう・・・・・。
と、確かに、美味い。 あぁ、丼にした方が良かったかなぁ・・・。いや、もう何枚か頼んだほうが・・・・。などと、「旨味」には勝てない、げんきんな「私」がそこにいて、この苦行を受け入れて良かったかなと、それとなく、奥方の判断に感謝するのだった。
そんな訳で、一転して、由比の町が好きになり、駐車場に向かって、町を歩きながら、息子が、「海があって、川があって、富士山があって、桜えびがあって、ノンビリした町があって、ここに住んでもエエかなぁ・・・・」と、呟いた・・・・・・。
そんなこんなの、由比の町と桜えびと旅の話を、新築の打ち合わせ中のお施主さんに語ると、その奥さんが、曰く。私、その町の出身です・・・・・と。小さい頃から当たり前に、いつも富士山があって・・・・、大阪に来て、久しぶりに郷里に帰り、久しぶりに富士山を見ると、富士山っていいなぁ・・・・。いい町だなぁ・・・・と。・・・・・。
次の週の打ち合わせ日の事、郷里からわざわざ桜エビを取り寄せて、打ち合わせに持参してくれた・・・・。その「桜えび」の味は、「美味い」と「感謝」と「旅の思い出」が交錯する味だった・・・・。
PS
それはそうと、本日と明日、会社の研修旅行、別名、慰安旅行とも言いますが、社員と協力業者の人々を交えての催しがあります。それで、月曜日は、臨時休業となりますので、ご理解のほど、よろしくお願い致します。
そんな訳で、前回の決意と違って、今回も、この旅のブログを完結する事が出来なかった。記憶もそろそろ薄れかかっているのだが、「続く」となりそうだなぁ・・・・。
投稿者 木村貴一 : 00:33
2009年06月14日
場所性(北斎と富士とB級グルメの旅その6)
むしむしする。夏が近づいてきた気配をそれとなく感じる・・・・。そういえば、数日前に、梅入りだと、宣言されたようだ・・・・・。
生野区のN邸の前を車で通過しようとすると、たまたまご主人が、家の前で、水槽を洗っておられ、 声をかける。それで、屋上に、ズカズカと上がらさせて貰って、それは、1年ぶりぐらいのことであり、その屋上緑化の成長ぶりを見て、あぁ・・・、エエ感じ・・・と、しばしの間、和む。
建て売り住宅が建ち並び、高いフェンス越しに、家々の屋根を眺めながらの、屋上の景観は独特で、生野区的でもあり・・・・。その水槽には、カメさんがいて、施主のNさんは、亀平ブログ なるものも運営している、カメ好きで、それに、この建物を設計した林敬一さんもやっぱり、そういった類の好き者で・・・・。そんな訳で、この住宅は、設計者と施主とそれに私たち工務店の三者がうまく絡み合って出来上がった家かなぁ・・・・・と、夕日を背に浴びながら、脳内が呟いていた・・・・。
堺で、タカヤマ建築事務所設計による木造住宅の上棟があり、大工さんというのは、 まぁ、なんとも軽やかに、梁と梁の間を飛び跳ねながら、渡っていくものだなぁ・・とおもう。
なんて事を書き出してみると、脈略もなく、あの「全盲のピアニスト」のテレビでの映像がよぎる。鍵盤の上を飛び跳ねるような軽やかなあの指。そして何よりも、それを支え続けている家族のあの姿。全力の全盲のあの「姿」と「音」から、その「背景」まで、なんとなく想像してしまい、少々目頭が熱くなった・・・・。
大阪の平野区の「平野郷」の中に、正業寺というお寺があり、うちの会社が建築した建物ではないのだけれど、そのお寺や家のメンテナンスに、何十年間も出入りさせて頂いている。いま、ダイニングキッチンのちょっとした、リフォーム中で・・・・。それはそうと、その門は、平野郷で一番古い門だという。いつも、そこにお伺いする度に、その門を眺める。そして、その門を造った、名もなき大工の技とセンスを見て、エエなぁ・・・・・・・・と、いつも、溜息をつく。
溜息・・・・。そう、富士山が現れない、「北斎と富士とB級グルメの旅」の話を完結するべきものなのかどうか・・・。 出発の前日に、こんな地図を作成し、10カ所の富士山の写真を貼り付け、そのうちの9カ所を廻ろうと計画した。1日目に4カ所ほど廻り、2日目のこの日には、4カ所を廻る予定だったのだが、予定外の行動ばかりが続き、せっかく見えかかった富士山も「桜えび」に時間をとられて、すっかり雲の中に隠れ、夕方近くになっても1カ所しか回れずにいて、それでも、脳の中では、取り敢えず、その場所に行き、写真だけでも撮ろうよ。と呟いていたのだとおもう。
北斎のこの絵は「東海道江尻田子の浦」で、それらしき場所に行くと、釣りをする人がいて、レジャーボートが停泊してあり、それらしき方角に人々を見守る富士山がありそうな気配・・・・・。きっと、北斎は、このあたりに出没したのだろう・・・。
そういえば、由比には安藤広重の美術館があり、今回は時間的な事もあって、見学しなかった。それは、北斎も安藤も同じような富士山を描いているのだけれど、北斎の描く富士山は「富士山を見ている人々を見ている富士山」、「富士山の絵を見えいる「私」をその富士山が「私」を見ている」、そんな描かれ方なのだとおもう。それは安藤広重にはないような視点なのかもしれない・・・・・。
車で少し行くと、「駿州大野新田」だった。それらしき場所を車でうろちょろして、探す。ますます天気が悪くなり、それらしき方角の富士山は、見えそうな気配が全くなかった。
この写真のすぐ横には、日本製紙の巨大な工場があり、煙突からモクモクと煙が噴出し、何とも言えない臭いが周辺に立ちこめていた。「この周辺の人って、この臭いをずっと嗅いでいるのぉ・・・・」と、奥方が、心配するほどの臭いが、かなり離れたところまで、臭っていた。
北斎の絵のように荷物を運ぶ馬の姿はないが、道路上には、大きなトラックが、何台も何台も走り続けている。写真撮影の背後に走り続けるトラックの音と振動を感じながら、「場所性」というものが、きっとあり、場所の持っている記憶というものがあり、それは、遺伝されるのだと、その時おもった。
生物的な遺伝をする遺伝子を「DNA」というらしい、文化を遺伝する遺伝子を「ミーム」というらしい。場所性を場所の記憶を遺伝する遺伝子は、何と呼ぶのだろう・・・。と、その臭いに辟易とし、とにかく、その場から、一刻も早く脱出したいという気持ちに、そわそわしながらも、脳内ではそんな考えが、くるくると駆け巡っていた。
日が暮れそうだった。駿河湾沿いに沼津から三島に向かう。「駿州片倉茶園ノ不二」がその目的地だった。ところが、そんな雰囲気の場所はまったく、見あたらない。富士山の方角も見当違いなのかも知れない。近くに新幹線が通過する陸橋があり、新幹線の通過する姿を見ながら、撮影をしてみる。
それにしても、この北斎の描くような、楽園的な茶園など、全く見あたらなかった。きっと、このあたりでは、その場所の記憶は遺伝されなかったのだ・・・・。いや、この絵に近い「場所」が、どこかにあるのかもしれない・・・。とにかく北斎の気配すら、富士山の気配すら感じる事が出来なかった。それに、ほとんど日も暮れて、探そうという気力も、ほとんど残っていなかった。
そんな訳で、あとひとつの北斎「山下白雨」の富士を残し、B級グルメは富士宮焼きそばを残して、日が暮れてしまった。それで、夜の三島の町をうろちょろしながら、鰻を食べることにした・・。なんで、三島で、鰻やねん、なのだけれど・・・・。
投稿者 木村貴一 : 23:51
2010年05月02日
さぁ!さぁ!さぁ!さぁ!
さぁ、ゴールデンウィークが始まり、木村工務店では5月2日(日)~5月5日(水)まで、休暇を頂戴しているのだけれど、なかには、休み中も動いている現場が一件だけあって、その現場監督と職人さんには、たいへん有り難くおもうと共に、こうして、休暇をとっている私事に、少々の気後れのようなものを感じていて、そんな訳で、「無事を事とする」という老子の言葉をまさに、いま思い出した。現場も遊びに出掛けた社員もそれに、これを読んでくれている方々や私も含めて、無事を最大の出来事としたゴールデンウィークであるように祈りたい・・・・。
そうそう、「私」は、まず、諏訪に行くことにした。それは、昨年のゴールデンウィークの北斎の旅の続きをしようと考えた訳であって、諏訪から甲州の北斎を辿って、箱根まで行こうと計画しているという訳。いやいや、実は、さしたる旅の目的があるわけでもなく、ほんとうのところは、ただただ「漂いたい」のだけれど、それとなく、旅としての、エエカッコをして、目的をひねりだしたというのが、本音だとおもう・・・・・。
それで、出発して間もなく、車中で、今度の旅行、どうおもう。と聞くと、奥方は「仕方なしにあなたのばかげたことに付き合うのが半分以上・・・。まぁ、楽しくないわけではない・・・けどね。」と、煮え切らん返事。息子は、「富士山が全然見えへん富士の旅やからな」と全く、的を得た応え。
そんな訳で、今回も、諏訪で描かれた北斎のこの光景の富士に出会える事がスタート地点だったのだけれど、いつものように、もはや「私の旅」では、富士山が見えるハズがないのだった・・・・・。
ところが、こじつけで、行く事に決めた 諏訪の町では、7年に1度の「御柱祭」の真っ最中で、町が、独特のムードに包まれていた。それに、ちょうど、「里曳き」のその祭りに出くわし、これが、何ともいえない、活気と、おごそかな魅力があって、まさしく魅了されてしまった。移動はせず、その場から離れられなくなって、何だか、すっかり諏訪の町が好きになって・・・・・。
「木」というもに対する敬畏。町ぐるみでの一致団結。木遣り、活気と静けさ。勇壮さ。荘厳さ。祭りというものの原点を見たような気がした・・・・。 「さぁ!さぁ!さぁ!さぁ!」という皆で発するその掛け声が、いまだに耳元に残っている・・・・・・。
祭りから、エエ活気をもらって、それなりに元気なのだけれど、体はたいへん疲れているような気配・・・・。そんなわけで、今日は、もう、ここらで、ぐっすりと寝たいとおもう。皆さん、エエ、ゴールデンウィークを!
投稿者 木村貴一 : 22:02
2010年05月09日
旅の出合い(北斎富嶽三十六景 甲州 )
今朝、起きて、新聞を見ると、諏訪の春宮の御柱祭りで、ワイヤーが切れて人命が・・・という記事が、目に飛び込んできた。このゴールデンウィークの最初の目的地は諏訪で、5月1日の夜中に出発し、中央道のサービスエリアで仮眠をして、5月2日の早朝の最初の到着場所がその春宮だった。
駐車場に車を止めると、祭りの準備で、鳶職らしき人たちが沢山集まっていた。その姿を横目で眺めながら、鳥居の手前にあった手水で手を清め、神殿に向かうと大きな注連縄があって、その横を通り抜けると、本殿らしき、檜皮葺きの独特の個性的なデザインの神殿に出会う。
お賽銭を入れ、2礼2拍手1礼をし、お参りをする。後から、いかにも、「ぼうしん」という雰囲気の鳶職風のおっちゃんが、こなれた身のこなしで、お参りをした後、グリーンの養生ネットが張ってある側に向かい、佇んで、何かの段取りをしだした。
御柱祭の事を聞くために、近寄って、声を掛ける。「どこに行けば見ることが出来ますか」と聞くと、「今日は、本宮の方で里曳きをやっていて、ここ春宮と秋宮は、来週が本番。私は、7年に一度のこの祭りがこれで、11回目で、いまや、ここの最長老。もう84歳になった。これから、柱を建てる場所を掘る段取りをしているところ。もう少し、柱を建てる位置を移動しようとおもってるの。あとで、若いもんがいっぱいやってくるので、その準備。やっぱり、柱を建てるのを見るのが、一番だけれど、ま、里曳きもよいわな。本宮の方は角が二本建ってるからね。こっちは、角がないの。・・・・・・」「あそこに、ワイヤーを張って建てるの・・・・・」「写真撮ってもかまわんよ。テレビにも映ったりしてるからね。・・・・・・」「気をつけてかんばって下さい・・・・」「いい旅をね・・・・」なんていう会話をして別れた。
旅の初日の偶然のタイミングで、心がさわやかになった・・・・・。その、春宮で事故があったというのが、今朝のニュース。それを新聞で、私と一緒に見た奥方の第一声は、「あのおっちゃん、どうしてんるんやろ・・・・・。」私の脳裏にも、あの笑顔と、あの体つきと、あの身のこなしが、浮かんだ・・・・・。あの「祭り」で味わった歓喜も蘇ったが、何とも言えない、怖さも忍び寄った・・・・・。それが、旅の出合いというものだな・・・・・・・。
そうそう、去年と同じなら、富士の見えない富嶽36景北斎の旅は25年ぶりとやらのゴールデンウィークの晴天に恵まれて、奇跡的に富士山が見えた。東海道をお上りさんするのではなく、中山道をお上りしたのが良かったのだろう・・・・。息子への富士の見えない富士の旅という汚名も少し返上し、あらためて富士の美しさとその迫力に出会った。
写真の精度と腕前は相変わらずエエ加減だが、諏訪湖以外では、よく見ると、富士山が映っているわけで、この写真のよしあしはご勘弁頂くとして、その8カ所の絵が持つ、「場所性」だけは、何となく、肌で感じる事ができた・・・・・。
↑ 諏訪湖にて
↑ 見延山の手間で渋滞に巻き込まれて・・・見延山まで行かず途中で撮影。
↑ 南アルプス市の富士川付近で、どこかわからないので、もう諦めて、ここらで、撮影。
↑ 石和のフルーツ園から撮影する。iphoneにも登録しておいたけど・・・・。
↑ 御坂峠と川口湖から撮影。きっと、これ、北斎流の合成写真で、洒落だね。
↑ 山中湖付近の別荘地から撮影。富士のデフォルメの仕方が凄い。朝焼け見たいね。
↑ 籠坂峠のとある場所で、こじつけで撮影。
↑ 箱根の美術館の駐車場から苦し紛れに撮影。
北斎を出汁にしながら、下諏訪温泉、縄文の湯、ほったらかしの湯、箱根の湯など4つほどの温泉に浸かり、諏訪大社の春宮、秋宮、本宮、前宮や箱根神社と5つほどの神社にお参りし、御柱祭と出合い、吉村順三や藤森先生や伊東豊雄やクラシックな建築と遭遇し、縄文のアイドルには出会えなかったけれど、その縄文「場」をほんの少し体感し、それに、鰻や蕎麦や鳥もつ煮やフランス料理と、ちょっとだけグルメした。意図した出合もあるけれど、半分は、偶然の出合い。
↓神社にお参り。
↓祭りの周辺。静寂と木遣りとブラスバンド。
↓木遣りとともに黄色い集団が迫り通り過ぎる。男気を感じたと奥方は表現した。感激!
↓意図的だったり偶然だったりして出会った建築
↓尖石遺跡・山梨県立博物館・釈迦堂遺跡
さまざまなリズムが複層的に組み合わされるポリフォニーな旅をしてみたい。というのが、今回のテーマだったかどうかは、旅行が終わってからおもう事で、とにかく、「私」は、想定外の「出合い」と新鮮な「印象」を持つことを切望し、流れ、漂いたがっていたに違いない・・・・・。
投稿者 木村貴一 : 23:48
2010年05月16日
ゆったりと過ごす。
最高にエエ季節。青空とさわやかな風。家の窓を全開にして過ごす、この心地良さ・・。ゴールデンウィークに「旅」をして、「旅」の持つ麻薬のようなあの魅力。それはそれで捨てがたいけれど、奥方が旅から帰りついて、いつものように言う決め台詞「やっぱり我が家が一番」を、きっと多くの人が、そう感じながら、ゆったりと過ごしたのだろう・・・・・。
ゆっ たりと、自由に、くつろぐ・・・・。と、まぁ、自分の家に対する不満点なども、少々出てきて、こうしたいなぁ・・・とか、ああしたいなぁ・・・とか、自分にとっての居心地の良さそうな居場所を造りたくなってくるものだな。これって、「私」の性なのかね、いや人間のもつ「サガ」なのかね。
設備機器を交換したり、家具を買いそろえたりするだけでなく、自分たちのライフスタイルにあった、それぞれにとっての居心地の良い家づくりには、是非、木村工務店のスタッフや、職人さんや、私と一緒に、家づくりをしましょう!。などと、宣伝もたまには・・・・・よろしくおねがいします。
さて、朝起きて、朝風呂に入って、デッキのベンチに座りながら、コンピュータをつけ、朝刊を読み、パンと珈琲を飲む。さわやかな気候の時は、デッキで、くつろぐのは確かに快適。それも家族で揃って食べるのも確かに良いが、それぞれが、てんでばらばらの場所で、それぞれの朝食を食べるのも時には、とってもエエ感じ。私はデッキ。奥方はキッチン。息子は食卓。それぞれの存在感を感じながらの「ひとり」も良い。
暫くして、薄暗いコーナーのソファーにいって、ごろつきながら、本を読む。個人的には、少々薄暗いところで、本を読むのが好き。「大工道具の歴史」という本が、妙な縁で、舞い込んできて、これを、ゴールデンウィークのお供に連れ立ったのだが、結局、読むタイミングを逃し、いまここで、思い出したように、続きを読み出す。
「・・・・・室町幕府成立のころから将軍家大工とよばれる大工の最高を位にあって、しかも広い視野と教養人としての知識・感性を要求される人間があらわれてくる。そうしてやがて彼らは、大工としての実際の技術から離れて将軍家の芸術顧問のような立場に立つようになった。」
「それに代わって実際の技術上の指導者として棟梁という職種が登場し ・・・・・・・・ きびしく洗練された寸法比例からは、彼らがいかに高度な審美眼をそなえていたかがうかがえる。私は将軍家のパトロネージのもとに成立したこの御大工から、日本におけるアーキテクト(建築家)の発生をみるのであるが、・・・・・」
なんて話を、なるほど、と感心しながらも、眠たくなる。これもいつものことで、しばしソファからずり落ちながら、15分ほどウトウトする。これが、また、実に心地エエのだね。
お昼は、軽く、たこ焼きでも食す。近くにできた、若い兄ちゃんが作る、ちょっと工夫したたこ焼き。家から5分ほどの廻りに、たこ焼き屋さんやお好み焼き屋さんが、10件以上は軽くあって、そこで店を出すのだから、それなりのチャレンジャーなんだ・・・・・・。
昼だというのに、それに、こんなエエ天気でエエ気候だというのに、どこにも行きたくない気分。家で楽しみたい。テレビも見たくない。が、「たかじんのそこまで言って委員会」だけは、なぜか見てしまう。日曜日のこんな時間帯に、楽しみにテレビを見てしまうわけで、録画までして見るのはこれぐらいかね。
テレビが終わって、音楽でも掛けてみるが、音も聞きたくない気分。ただただ日が暮れていくのを無為に過ごす。そんな訳で、夕食をとって、龍馬伝だけは見て、このブログを書き出した。それで、ここまで、書いて、「ゆったりと過す」と、タイトルを決めようとしたところで、突然、ゴールデンウィークに宿泊した箱根のFホテルでの行き届いた接客とホスピタリティーを思い出した。確かに、企業としても見習うべきものを感じた。
ホテルにチェックインし、暫し、部屋でくつろぎ、日本で最初にできたホテルのプールとやらに入って、泳ぐ。それから、お風呂に入りに行く。浴衣でうろうろできるようなホテルでもなく、もちろん、靴を履いて行く。
ところが、お風呂から出ようとすると、なんと、私の靴がない・・・!誰かが間違ったらしい・・・・・。それで、フロントに電話をして、スリッパを持ってきてもらい、部屋に戻る。暫くゴロゴロして待つが、靴が見つかったという電話もない。このまま、朝まで待つのか・・。食事の時間も迫る。食事も浴衣で行くようなレストランでなく・・・。ひとりだけ部屋のスリッパで行くのだな・・・・。と、流石に、ちょっと、カッコ悪いかなと思い始めた。
それで、フロントに電話をすると、2、3回のやりとりがあって、車で、靴を買いに近くのホームセンターまで、一緒に行きましょう。靴代は出しますので、と言う。もう履ければ何でもエエですよ。と言ったのだが、ホテルの人も困ってそうだった。それでここはひとつ、ゆっくりとくつろぎたいという、そんな気持ちは捨てて、息子も連れだって、靴を買いに行くことに「決意」した。
息子はなんで、付いていかなアカンのぉとふて腐れていたが、きっと凄いクラシックカーに乗って靴を買いに行けるのだ・・・・と適当な事を言って説き伏せた。まぁ、こんなヘンな経験はできないし、それに、思い出の運動靴になりそう・・・。この一部終始を奥方は腹を抱えて笑って見ていた。それはまるで、三谷幸喜の映画の一場面のようだったのだろう。窓からその一部終始をビデオ映像に収めようとしていたくらいだった・・・・・。
結末は、あっけなかった。エレベーターでロビー階に降りると、その前で、間違った私の靴を履いた人が、歩きにくそうにしながら、私が、部屋のスリッパ姿で廊下を歩いている様子を見て、声をかけてきた。「あのぉ・・・。ひょっとして・・・・。・・・・。普段、お風呂には靴で行かないものですから間違ってしまって・・・と。・・・」私も、普段、靴で、お風呂には行かないですけど・・・・などとは、決して突っ込まなかった。
まぁ、フロントまで、おかしな二人のコンビで歩き、靴を交換してもらい、一件落着する。三谷幸喜のような劇的なストーリー展開もなく、あっけない幕切れだった。もっとも残念がっていたのは、窓から、ホテルの玄関の様子をわくわくしながら見ていた、奥方だったとおもう。その姿を想像した方がオモロイかも・・・・。
そんな、わけで、接客とか、ホスピタリティーとか、対応とか、そういうのは、とっても、難しいものだなぁ・・・・とあらためておもう。ホテルはつかの間ではあるものの、ゆったりと過ごす時間と空間とホスピタリティーのような「何か」を提供し、それに共感する。工務店も、ゆったりと過ごせる家を造ると共に、そういうホスピタリティーのような「何か」も求められている時代だな。とおもう。
投稿者 木村貴一 : 22:40
2010年06月06日
体験して気付くこと。
「何でも見てやろう」 その本の内容はすっかり忘れてしまったが、このタイトルだけは記憶の中に留まった。大阪弁で、いうところの「まず、やってみなはれ・・・」「とにかく、見てみなはれ・・・」が、「旅」のもつ魔力のひとつだとおもう。
そのタイトルから感じるほどの、どん欲さを私は持ち合わせていないものの、インターネットが普及すればするほど、その情報だけで、「わかった」気になりがち。知識と五感による体験がシンクロナイズした時に感じるあの感覚。それを「理解」と呼ぶとするのなら、その感覚の魅力を知ると、体験したら知りたいし、知ったら体験したい。そして、「理解」に辿り着きたい。あの感覚を味わいたい・・・・・。
学生時代には、有り余るほどの贅沢な時間があって、何もしないで過ごす方が圧倒的に多かった。無駄に時間を費やしたともいえるが、確かに、何もしない楽しさを知ると、それはそれで、一種の麻薬的な魅力があって、動き回る事があほらしく思えた。ただ、それも、自分だけのための、ある種の貪欲さだと感じる日がやってきて、それで、その麻薬的な魅力を断ち切って、誰かのため、自分のため、社会のため、その他、何だかんだ、複層的な歯車が、微妙に絡み合って、物事が動き始める・・・・・・。
なんていう、くだりを書いてみたくなる心境って、これ何だろうかね・・・・。
まぁ、そんなわけで、「旅」をする。何でもエエから、兎に角、体験をしたくなるわけ。ゴールデンウィークやお盆やお正月やその他・・・・。それで、体験してみて、初めて気付く事が、あるときにはあり、ないときにはまったくなにもない。
理由はいろいろあるのだけれど、5月3日の朝の8時前に、吉村順三さんが設計した八ヶ岳高原音楽堂の前にいた。一度見てみたいとおもっていた、憧れの建物でもあった。その場所は簡単に見つける事ができず、レストランに行って、尋ね、ようやく辿り着いた。
まず、駐車場からのさりげない八ヶ岳音楽堂と書いた看板とそのアプローチの仕方。そのさりげなさが、カッコ良かった。こういうたぐいの事は、体験してみないとわからない範疇の事なんだろう。きっとかなり考え抜かれてあるのだ・・・・・。
屋根のその美しさは、建築雑誌で見ていて、写真のとおり。なんていう、当たり前の感想になってしまう。、いや、もしくは、写真以上の美しさ・・・・・とか。その屋根の線の美しさは、「樋」がないからこそ、生まれてくる、カッコ良さが、多分に影響している・・・・。
が、よくよく見ているうちに気がついた、正面玄関の屋根の部分だけには、樋がちゃんと、あって、玄関から入る人には、雨があたらないようになっていた。それは、最初からそうだったのか、後からそうなったのかは、知るよしもないが、そういうところに、人間味のあるデザインだなと、ひとりほくそ笑む。それに、その樋の水を落とす落ち口の樋のカットのデザインにシビレる。また、その水が落ちる足下の機能と、さりげないデザイン性にも味わい深いものがあった。
内部には入れないとおもっていたが、偶然にも、早朝のヨガ教室をしていた。こんなところで、ヨガができるのなら、是非、是非、やってみたい。それに少々羨ましい・・・。そのヨガ教室が終わるのを静かに待ち続け、その先生に、許可を得て、内部を拝見する。天窓の美しさ。それに音楽堂というだけでなく教会堂のようなムード。確かに十字架も飾ってあったが、十字架が影響しているだけではなかった。 それに音響効果を考えた、機能美。それが見事なデザインとなっていて・・・・・・・。まぁ、とにかく体験してみないと気付かない事が、わりと沢山あって、例えば、大地と建物が一体となったその関係性とか・・・、などなど、いろいろあるが、とりあえずは、ここらへんにしておこうとおもう・・・・。
そう言えば、その前日に、諏訪の御柱祭を見ながら、見学した藤森照信さん設計による、神長官守矢史料館では、その便所近くにある窓を覗くと、その山側の畑の中に、同じ設計者による高過庵という、ツリーハウスが 見えた。そういう、粋な計らいに、なんだか、ニヤッとさせられる配慮があって面白い。それに、足下廻りの、大地との一体的な関わりをもった設計は、実物を見るまでは、そんな部分に感心させられるとは思っていなかっただけに、体験して良かったな。という仕分けの範疇に・・・・・・。
実は、これが、長ったらしい前置きで、つまり、本日の6月6日(日)と明日6月7日(月)の二日間に渡って、社員と大工さんと協力業者が一緒に研修旅行に行く。それは、とにかく、何でもエエから、一緒の体験を一緒にしてみよう。という旅。これが基本であって、そんな訳だから、その研修内容には拘っているところが、あるようでなく、ないようであるという程度。あっ、コミュニケーションを学ぶ。というのも大切なテーマだね。
そうそう、こだわりがあるとすれば、唯一絶対は、バスに詰め込まれて旅行するのだ。というこだわり。この伝統だけは守り続けられ、かれこれ50年ちかく続く・・・・。バスに拘る理由のひとつは、とにかく、バスの中で、二日間飲み続けたいという御仁が数十名近くいて、これだけは、不思議と先輩から後輩に引き継がれていくのだった。確かに、もっと、引き継がなければならない、技術とか伝統があるはずやろ!と読者からのお叱りやツッコミがあるのかもしれない・・・・・・。
それでは、マズイので、今回の研修は、にんべんに「木」と書いて「休」。人と木の寄り添い方がテーマ。 皆で、飛騨の山で林業をみたり、その他・・・。まぁ、その模様は、ツイッターで随時、ツィートされるかもしれない・・・・。ということで、6日と7日の二日間、会社はお休みを頂戴します。特に、月曜日は電話やメール等の連絡がとれませんが、ご理解頂きますよう、よろしくお願い致します。
投稿者 木村貴一 : 05:48
2010年06月13日
日本的なもの。
伝統とか日本の文化とか。そんなテーマを大上段に構えてみるつもりはないものの、サッカーワールドカップを見ると、「日本的なもの」ということをたまには考えてみたくなる。というよりも、単純な話、南アフリカのスタジアムから聞こえてくる、あの、ハエが何万匹も一斉に耳元の廻りを飛んでいるかのような、あの音。あれには、文化というものの大きな違いを感じさせられる・・・・・。
いや、ひょっとして、あと2週間、あれを聞き続けると、快感に変わっていくのかも・・・。2週間後のブログで、あの音がもはや快感。と書き始めている「私」がいるとしたら、いや、どうなんだろう、そういう人間のもつ体質って怖いねぇ。2週間後の「私」が楽しみ。
「縄文」の遺跡のある「場所性」が好きで、できるだけ、「旅」の訪問地に組み込む。山の幸、海の幸が豊かそうで、風光明媚な場所が多い。まぁ、最高のキャンプ地ともいえる。先日のゴールデンウィークには尖石遺跡に立ち寄った。ところが、到着が午後5時頃になってしまい、縄文の土器や土偶を見る事は出来ず、縄文のアイドル達には会えなかったのが、残念といえば残念。
それでも、意外な出合いがあって、この遺跡の建物の図面を引いたのが、堀口捨己であったという事。ほんとうに縄文当時、こんな建物だったのかねぇ・・・・と、考えてみる。それにしても八ヶ岳の山々を背景とした気持ちのエエ、キャンプ地。こんな場所性があってこそ、自然との付き合い方があってこそ、あんな土器や土偶が生まれるのだろう。現代と違う内的な豊かさを垣間見るとともに、日本的なもののルーツを感じる・・・・。
先週の日曜日と月曜日の二日間、社員と大工と協力業者の旅行をし、その見学のひとつに刀鍛冶の実演を見る。それを見学していると、ものつくりの背後に見え隠れする「たたら製法」による鋼も含めて、日本的なものつくりって、何だろうかねぇ・・・・・と、考えてみたくなる。
岐阜の林産地におもむき、木の伐採やハーベスタといわれるガンダムのような機械が豪快に木の枝を落とし、寸法切りする姿に感激したが、切ったばかりの切り株にチェーンソウを置きながら、木の切り方をプロ的に説明してくれた、その職人さんの顔や体つきやその情熱と雰囲気に日本的なものをより強く感じた。
それよりも、もっとも日本的なものを、あらためて感じたのは、夜の宴会だった。大広間にお膳を並べるという、これぞまさしく前時代的なオーソドックスなスタイル。浴衣に着替えて、あぐらをかいて座る。「膝をつき合わせたコミュニケーション」というスタイルにこだわるのは弊社の会長。もちろん、私も受け入れている。というよりも今の時代にとっては、日本的なコミュニケーションを学ぶための、ある種の食事会のようなもの・・・・。
「私」は正面の席に、えらそうな顔をしながら座る。座ったままの宴が進み、頃合いになると、うちの一番若い社員のTが左手にグラス右手にビール瓶を持って、誰よりも先にやってきた。誰に、そんな事を教わったのだろうか、どの先輩かが、そういう事を教えたのだろう。それで、「これからもよろしくお願いします」と、にこやかな笑顔と共に頭を下げながら、なんと、右手のビール瓶を私に渡し、左手のグラスを前に出して、ビールをついでもらうスタイルをとる。少々私も面食らった。その瞬間、横に座っていた、協力業者の会長のオカモトさんが、「おいおい、それは違うやろ!」と真顔と爆笑をまぜながらつっこむ。
それで、Tは、何となく、間違ったスタイルなのだと感づいたようだったが、その勢いも手伝って、私は笑いながら、ビールを丁重にTのグラスに注ぐことにした・・・・。それで、その後、Tから返杯を受ける。Tに悪気やしゃれっ気があった訳でもなく、ごく普通にTが考えた、お酒の席での社長と若い社員とのコミュニケーションの取り方だったようだ。
それにしても、こんなスタイルのお酒の飲み方がうまれたのは、いつ頃からかね。縄文人は、すでに、こんなスタイルで、杯を酌み交わしていたのかね。南アフリカの人々はどんなスタイルでお酒を酌み交わすのかね・・・・・。
膝をつきあわせて、杯を酌み交わすようなスタイルが、いま、大まじめに必要とされているとは思えないが、そういうスタイルを軽やかに「遊ぶ」ことで、ある種の打ち解けや仲間意識がうまれるのも事実。日本的な方法というものをあらためて、模索したいね・・・。
投稿者 木村貴一 : 23:51
2011年05月01日
3・11以前のゴールデンウィーク
ゴールデンウィークがやってくると、旅に出たくなる。個人的で、もっとも大きな要因は、ここ大阪市内の生野区で生まれ、育ち、この場所を離れた最も長い期間が2ヶ月ほどしかなく、おそらくそれが原因だと思うのだけれど、時々、無性に、まだ見ぬ場所に憧れるのだった。それに、建築という仕事をやっていると、現場というのが、土曜日でも工事をしているので、連続して堂々と、皆で、一斉に休めるのは、お盆とお正月とゴールデンウィークぐらいなもので・・・、いや、実は、あれやこれやとそれらしい理由をつけて、旅に出ているだけで、旅そのものに麻薬的な魅力があるのだとおもう。
まぁ、そんな訳で、ゴールデンウィークに、どんなところに旅をしたのだろうかと振り返ってみようと思った。おそらく、振り返ろうという、そんな気にさせたのは、3・11の東北地方の大震災の影響だとおもう。このブログを書き出したのが2004年で、その2004年から2011年までのゴールデンウィークの旅を調べてみると・・・。2004GW「有田」・2005GW「東北」・2006GW「五島列島」・2007GW「直島」 ・2008GW「丹沢」・2009GW「北斎と富士とB級グルメの旅」・2010GW「北斎と諏訪と甲州と箱根」 だった。よく見れば、記録から欠落しているのは「東北への旅」で、2005年の3月から5月までの3ヶ月間ほどは、ブログを書く事を滞っていた時期だった。
そういえば、あの震災の直後に思いだしたのは、2005年のGWの東北への旅の記憶で、奥方も同じように旅の記憶を思い出したのだと言う。大阪から車で、猪苗代湖に行き、キャンプをし、磐梯山を巡って一気に北上して青森まで向かい。三内丸山遺跡を見学してから南下した。乳頭温泉に浸かり、遠野で偶然知った風力発電を見学し、宮沢賢治を訪れ、わんこそばを食べ、帰りには、初めて東京暮らしをする事になった長男の下宿を訪れた。そんな楽しい旅の記憶と共に、5月の大阪と東北の寒暖の差に驚き、花粉症なども併発して、体調を崩し、苦々しい経験が、身体の記憶に刻まれた旅でもあった。それでも、何時かは東北地方の太平洋側の海岸線を北上しようとおもっていたのだが・・・・。
2004GW「有田」
10年ほど前に長男と行った有田陶器市の楽しかった記憶が残っていて、その時は、有田から阿蘇へ行ってキャンプをした。この年は次男を連れて、下関と門司を巡ってから有田の陶器市で白い陶器ばかりを買った。会社で今使っている湯飲みは、その時買った、湯飲みだなぁ・・・・
2006GW「五島列島」
森小路教会を設計施工することになり、その勉強も兼ねて、というより、それをダシにして、五島列島の教会巡りをした。ほんとうに楽しかった。、機会があれば、また五島列島に行きたい。特に野崎島での記憶は鮮明で、強烈な印象が残る・・・・
2007GW「直島」
車中泊かキャンプばかりしてきた旅で、久しぶりにホテルに泊まった。泊まるのなら、オーバルかとおもって、チョイ見栄をはって宿泊したのだった。今までの旅では観光地で若者を見かけなかったが、直島は、若いカップルがいっぱいの観光地であり、何よりも、その事に一番驚いたし、若者を惹きつける建築力というものを考えさせられた・・・・
2008GW「丹沢」
次男が中学受験をする事になり、そのためにはゴールデンウィークも塾で勉強するのだという。お父さんが家でゴロゴロしていると邪魔なので、どこかひとりで遊びに出掛けてと奥方から申し渡された。それで、友人が山小屋を営む丹沢へ出掛けた・・・・
2009GW「北斎と富士とB級グルメの旅」
2004年以前は、「縄文の遺跡のある場所」というのが、個人的な旅のモチーフだったが、今までの旅と違う新たなモチーフが欲しかった。また、次男も中学生となり、一緒に旅行するのも、あと数回かと考えて、もう少しアカデミックな旅がないものかと模索しているうちに、好きな北斎をモチーフにして富嶽三十六景の描かれた場所を探す旅はどうかと思いついた、それにB級グルメも絡めてみようと・・・・・
2010GW「北斎と諏訪と甲州と箱根」
2009GW「北斎と富士とB級グルメの旅」が、バカみたいだが、かなり楽しかった。いや、楽しかったのは、「私」だけで、奥方と次男は、バカみたいな旅に付き合わされているだけやでぇ・・・と、ニコニコしながら言う。それに奥方は、年も年で、旅館に泊まらない旅は辛い。こうなったら、クラシックホテルを予約するので、それに合わせて、旅程を組んでね!という強い要望が出た。B級グルメはそこそこにして、建築を体験する事を付け加えた。今までで、最も密度の濃い旅だったとおもう・・・・。
2011GW
そんな訳で、今年はどうしようかと考えた。3・11以降のゴールデンウィークなのだ。それに、次男も子供から少年への道を歩み始めていて、それぞれが、それぞれなりの予定があるのだと言う。中学3年の次男曰く、「まぁ、しょうがないから、一泊二日だけ、お父さんに付き合ったるわ!」なのだそうだ・・・・・。
という事で、木村工務店のゴールデンウィークは以下の日程で頂戴致します。皆さんにとって、有意義なゴールデンウィークでありますように!
投稿者 木村貴一 : 23:54