其の五 「東小路小学校」の航空写真


●昭和30年当時の「東小路小学校」の航空写真[写真提供: 岸上さん]


●校舎もプールも時代と共に変ってしまった[写真提供:藤江さん]

「小路」の由来
隣の親元にあたる「小路小学校」百周年記念誌によれば、明治6年、「大友小学校」として開校され、通学区域は東成郡大友、片江、腹見、小路の4ヶ村であった。当時この区域の戸数は258戸で、生徒数はわずかに23名であった。この頃の学校周辺郡のようすを生野区史には「北に堤あり、南に森あり、平野に続く松原続きで環境はすこぶるよかった。」と記されてる。

東小路の校下は、もとは東成郡小路村字腹見であった。承徳2年(1098年)の浪速古図に腹見の文字が見られる。もともとこのあたりは、片江、中川あたりに比べると、約6、7メートル土地が高く、付近一帯の低湿地を一望の下に眺めることができたので、「原見」と呼ばれたのが、いつの頃からか、「腹見」と書くようになった。

この原見の中に一筋の小路があり、天武天皇が大和よりこの道を通って片江を経て生玉荘に行幸される途中、当地の風景を吉野にも似たりと言われた。小路の地名はこれに起因していると言われている。 村名はもともと中小路(なかおじ)と言われたのが、小路(おじ)となり、やがて「しょうじ」と音読するようになった。 大瀬町はもと、「おせ」と呼び、小路村字腹見の小字大瀬であった。元は、一帯水田の続いた土地でありながら、水利が悪く水に困った土地で、少し日照りが続くと干ばつになった。これを防ぐため、各地に池が多く掘られ、現在の本校所在地にも大きな池があった。昭和17年頃�この池の北側(現在の給食室付近)には釣り堀があって、天気の良い日には釣り糸を垂れている姿もあった。
(参考資料:大阪人)
   
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