其の四




●昭和初期の旧郵便局付近より撮影、記録どうり みごとに何もない。[写真提供、米田さん]


●これが、今でも小路東3丁目15にある「ムクの木」。[平成9年撮影]


●大改修前、昭和60年頃の「腹見のだんじり」飾目は、獅噛(しがみ)、拝懸魚は、朱雀。隣懸魚は、松と猿。 「大阪のだんじり」より転載。発行/財団法人大阪観光協会


●[写真提供、木村工務店 場所/昭和39年頃、小路東2丁目、木村工務店付近より、北向きに撮影]



●昭和20年頃の小路スタイル、写真は当時の空気まで切取って、今に様々な事を伝えている。


●昭和40年頃、マイカー時代の到来。[写真提供、上2点共、西尾さん]


まちなみの歴史
[写真、最上段]
明治時代、民家の多くは皆農家で夜明けと共に田畑に出て、精を出した。畑仕事をしている時、大瀬の村はずれにある「ムクの木」に八丁笠が掛けられ、太鼓がトントン鳴らされる。すると人々は、仕事の手を止め家路に向かう。これは昼の食事が、できたという合図であった。
[写真、2段目]
平成9年の撮影だが、十分すぎるほどに存在感があり、昔の話を聞いて見ると、タイムスリップしそうな気分になる。  ムクの木より西は、ほとんど田畑であった。

[写真、3段目]
明治時代、祭というものもなくイベントといえば素人相撲で、村の人々は、中川や片江のだんじりにあこがれを感じた事だろう。腹見のだんじりは、明治29年頃、村の家々で収穫した米を持ち寄り、現在の価格に換算すると約1億円になろうというお金に換え資金にし、中古で買い入れた。今のだんじりは平成4年5月24日に小路東の地域の方々の援助で新しく改善した。 大瀬は腹見の小字だったのでこの頃は、今の「大三南」小路東3丁目16あたりに腹見のだんじり小屋があったのである。また、大瀬旧村南方百メートル(腹三北小路東3丁目9)には「八剣神社」があった。神社は明治42年大友の「小路神社」に合祀され、今はその宮跡はモータープルになっているが、わずかに周囲の地面より高くなっていてまだ境内であった頃の面影が残っている。

[写真、4段目]
大正から昭和にかけ、まだ荷馬車が肥料や荷物を運んでいた。今ほど家もなく、森田ポンプ(現、モリタ)から南は、ずっと田や畑で、平野の町明かりや関西本線の汽車の煙が見え、四天王寺の五重の塔が西日に照らされ見えた。天神さんのまつり太鼓も聞こえ、生駒山は、近くに見えた。旧大友万代跡地には、墓地があり軍需工場を造るために、墓を移動した。その時に大阪夏の陣、冬の陣で戦に倒れた武士の骨が掘り出された。その遺骨は光明寺でしばらく預かっていたが、見知らぬ人が持って行き、それっきりになってしまった。 道路はすでに舗装され、雨上がりに、路面が光り、違法駐車の車も見えない。こんな風景が、ちょっと昔に現実としてあった事を、写真は思い出させてくるれるから、不思議である。
[写真、5・6段目]
写真は昭和40年頃、マイカー時代の到来。日本全体が高度成長期真っ只中、戦後約20年で、夢が現実に近づいていった。何気なく撮影したスナップショットにそれぞれの人の想いが詰まっている。
其の一其の二其の三其の五其の六其の七其の八