其の一 |
カエルの学校 |
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現在の校区は昭和15年頃には東成区腹見町と言い、当時は東小路小学校はなかった。今の東小路小学校には大きな池があり池の端の畑には菜の花や金盞花(きんせんか)が咲いていた。 池は他にもあり現在の新生中あたりに四角池とか三角池と言うのがあった。 「鮮魚館」のある場所に小路小学校の分校ができ、大瀬町と腹見町の児童は、そこへ通った。 昭和18年に東小路小学校が建ち、分校の生徒達が移って来た。池を埋めて建てた学校は、ぬかるんで大変だった。雨が降ると校庭は水びたしになった。 |
ぬかるんだ校庭にはコークスのガラが埋められ、コークスの上にコークス。またコークス。うっかり転んだら手も膝も傷だらけ血だらけであった。トイレも暗くて粗末で気味悪かった。お化けが出ると聞いていた。「赤い紙やろかー。」と。 家から少し離れた空地に大きな土管が並べてあった。腕白な子供たちは、その上を飛んだり走ったり中をくぐって鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだ。夕暮れになると心細くなり俄かに家が恋しくて我先に走った。 第20号「腹二だより」 ”我が街”より一部省略 赤沢久美子さん |
※「コークス」 石炭の燃えかすのこと 赤沢さんの同窓生の話によると当時の学校のようすを「なんきん、長靴、蛙の学校」と表現しているほどで雨が降ると蛙が跳びはねていたらしい。男子と女子は別々のクラスに分かれ、(男女組は昭和22年頃から)1クラスに60名ほどがいた。しかし教室は8つでその内1つは校長室兼職員室だったため約1400名もいる児童は2部に分けられ、まだ分校にも児童は通っていた。 |
子供たちの衣類は親の着物をつぶしてもんぺを作ってもらいそれを着ていた。頭にはシラミをわかし、トラホームにやられて目やにだらけで、防火演習などをして勉強をした記憶がないという。 また、戦中戦後は、食料難を防ぐため今の新今里公園に東小路国民学校の畑を作り、児童は、クワを片手に先生と共に、軍歌を歌いながら、そこまで歩いて行き大豆などを植えて飢えを凌いだ。 |
●昭和14年:第二次世界大戦はじまる ●昭和15年:日独伊三国軍事同盟・砂糖・マッチなどの切符制がはじまる ●昭和16年:太平洋戦争突入・小学校を国民学校と改める。米が配給制 ●昭和17年:衣類が切符制になる、11月10日大阪市立 東小路国民学校創設 |
●昭和18年1月15日 小路国民学校より児童1396名23学級職員25名で開校 ●昭和20年8月15日終戦 ●昭和22年4月1日 大阪市立東小路小学校と改名 |
■備考[昭和16年] はやり歌
「めんこい仔馬」 「そうだその意気」 ベストセラー 詩集「智恵子抄」高村光太郎 |
[写真提供]赤沢久美子さん [写真備考]昭和18年度 ・4年房上学級 |
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