鏡割り

日曜日の大安。猛暑の午前中。地鎮祭があり、じっとしているだけで、じわじわと汗が噴き出てくる、スーパーホットな日曜日だった。だれもが額にしたたる汗をハンカチで拭きながら、神主さんの祝詞を聞いていた。皆で、一緒に、土地の神様にお声がけし、工事の安全無事竣工を祈るコトが、儀式化されているのが、日本文化の特徴のひとつなのだろう。施主と設計と現場が、工事を始めるに際し、少し親密になる、きっかけの儀式でもある。

施主の方が、初めての地鎮祭なので、勝手が分からず…..。というコトバを聞きながら、いままで、数多くの地鎮祭に参列し、鍬入れの儀式を執り行う役割も担ってきたが、自分自身の家はリフォームの連続なので、自分自身の家の地鎮祭を経験したことはなく、地鎮祭を経験する人というのは、ごく限られた、土地の神様の幸運に恵まれた人なのだろう…..と、日陰に身を寄せあいながら会話をした。

地元の清見原神社の夏祭りは、7月31日と8月1日で、住吉さんとともに、大阪最後の夏祭りを締めくくる。ここ数年は氏子総代会のひとりとして、数名の男女の総代の方々と共に、地域の安全無事を祈願して、神社で参拝をする役割を担うようになったが、ドレスコードがあるわけでもないが、なんとなく、背広を着るのが慣わしで、連続する猛暑日のなか、背広の下のカッターシャツは汗びっしょりになっていた。

 

清見原神社の地区では、4台の地車がまちを練り歩く。総代会が終わり、会社に戻った仕事中に、地車の鐘と太鼓の音が近づいてきた。子供の頃から慣れ親しんでいるこのリズムを聴くと不思議に心躍る。ご祝儀袋を携えて、2階の事務所の玄関から、路面に降りると、大友の地車で、地車にのる顔見知りの責任者の方と目が合い、お互いに会釈をかわすと、皆で一緒に打ちましょぉ!と、地車を会社の前に駐めて、引き手も含めた、たくさんの方々と一緒に、さぁ、打ーちましょ!の掛け声とともに、大阪締めで祝いあった。

打ーちましょ」 パンパン「もひとつせ」 パンパン「祝うて三度」 パパン パン  地車の鐘太鼓の音と共に皆で一緒にやる大阪締めは格別に心地良い。横や後ろをみると何人かの社員も2階から下に降りて参加していた。毎年、地車とともに、会社の前で、近所の方々を含めた多くの方と一緒に、大阪締が出来たら楽しいだろうなぁ…。そうそう、昔は、「打ーちましょ」 パンパン「もひとつせ」 パンパン「よーいやさの」 パンパン それも最後は手をたたかず、鐘と太鼓のパンパンだったような気がするが、いつから、最後のリズムが変わったのだっけ? ま、進化したということで…。

そういえば、7月31日は、お祭りでもあったが、第五火曜日で、第一と第三火曜日の社員定例会議とともに、第五火曜日は、協力業者に参加頂いて、さまざまなジャンルの勉強会をし、その後、とんちゃん食堂を加工場で催す火曜日だったが、今回は、建築工事保険の勉強をしたあと、木村家のリフォーム工事を担当して頂いた、協力業者の皆さんの労をねぎらうコトとお披露目を兼ねて、「木村工務店のものづくりの仲間たち」とともに、木村家で、宴を催した。

 

「手仕事」という感覚を、家造りのなかに、刻むコトが、ひとつのテーマでもあって、職人さんたちのスケジュールが、暇になる時まで、待って、シゴトをして頂いたので、随分と時間が掛かってしまったが、うちの職人さんたちは、こういうシゴトができますよ!というショールームでもあるわけで、工事に関わった皆さんへの感謝の気持ちを分かち合う宴会ができて、少し気持ちが落ち着いてほっとした。これで家もだんだん落ち着いてくるのだろう。

そうそう、サプライズで、社員の皆さんが、樽酒を持ってきてくれて、夫婦仲良く鏡割りをした。「地鎮祭」「大阪締め」「鏡割り」と目出度いコトが重なった、珍しい週だった。thanks!

追伸
木村工務店のお盆休暇は、8月11日土曜日から8月17日金曜日の7日間です。8月18日土曜日より通常営業いたしますので、ご理解のほど、よろしくお願い致します。

台風一過

土曜日深夜。妙な進路の台風が、日本列島に、迷い込むように、大阪を通過し、朝起きると、庭の芝生の上は、楠木の落ち葉が超大量に散乱していて、寝ている間に、けっこうな嵐だったのだと気づき、いそいそと早朝からテレビを付けて、被害状況を心配しながら見た。

そうそう、きょうの日曜日は、木村工務店のホームページに掲載されている建築写真の撮影者、写真家の多田ユウコさんによる、日光写真のワークショップがあり、太陽光のない日光写真ほど虚しいものはなく、前日から、大荒れの天気予報に、ドキドキ心配したものの、昼前からは、台風一過のエエ天気になって、これ最高っ!とおもっていたら、突然大雨が降ったりし、気まぐれ台風の余韻が残る気まぐれな天気に翻弄されたが、それでもなんとか、日光写真が青焼きされた素敵なトートバックが数々出来て、それゆえに、もう少し多くのひとに、この楽しさを知って欲しいワークショップだった。

     
台風接近の土曜日は、建築家集団の、ぼっこでっこ建築隊が、減築リフォームをした木村家にやってきて、ほたる食堂のほたるちゃんによる手料理を食べながら、建築談義で盛り上がり、13時から23時という超ロングな宴会となった。

とっても「ヘン」なところは、建築家なのに、皆が、ギターなど楽器を持参しやってくるわけで、10人ほどで、ダイニングテーブルを囲って、3時間ほど、語り合っていると、誰かひとりが、唐突にリビングにいって、ギターを鳴らし、歌を歌い出すわけで、そうするとそれに応えるように、また、だれかがテーブルから離脱し、リビングにむかい、ギターに合わせて、歌をうたいだし、その盛り上がり状況を判断し、またひとりがテーブルから離脱し、ソファーに座って、弦の張っていないギターをパーカッションとして叩きだし、ついには、何人かが参加し、ぼっこでっこ音楽隊となって、音楽が、空間に満ち足りるわけで、もはや、うまいとか、へたとか、好きとか、嫌いとか、そんなことではなく、生音が響く生活空間とその時間が心地良いのだと判断するのが相応しいのだろう…。
 

ある種のコミューンな状況となって、そんな「食べる、飲む、語らう、笑う、奏でる」のセッションが何セットか繰り返され、そのうち夜も更けてきて、ひとり帰り、ふたり帰り、三人帰り…と、参加者が徐々に減ってきて、残りの客人たちとは、アウトドアーのデッキで座りながら、語りあっていると、いよいよ台風の勢いが増してきて、庇のあるデッキに雨が吹き込んでくると、流石に宴会はお開きになった。最後の客人を送り出すと、建築家台風一過。音楽を伴う余韻のエネルギーが、木村家の空間を満たしてくれていることに感謝しながら、寝入ってしまった。

の前日の金曜日の午前中は、ツキデ工務店のツキデくんが、主催している秋山設計道場の建築家、秋山東一さんを伴って、数人の工務店仲間とともに、木村家を訪問してくれて、うちの長男の奥さんが作るカレーを一緒に食べながら、長男タカノリも一緒に参加して、工務店がつくる建築のコトをあれやこれやと語り合った。その工務店台風一過。木村家の空間に、秋山東一さんの語りと身のこなしが、素敵な余韻として残存することに感謝しながら、会社のシゴトに戻った。

「建築人」というコトバが、アキヤマさんから放たれて、「建築家」でもない「建築人」というコトバが、彷徨える台風のように「私」に接近し、その意味を考えてみた金曜日の夜だった…。

 

自転車を通じて…

猛烈に暑い日々。日中は外に出ないで下さい。くれぐれも熱中症に注意して下さい。死に至ることもある危険な暑さです。のようなアナウンスがあると、心配が倍増するので、早朝、自転車に乗るかどうか、一瞬ためらったが、生駒山の大阪側は、西向きなので、朝なら、日陰になって、まだまし、かなっとおもい、十三峠を往復する。それにしても汗だく汗だく。それでも数多くの自転車乗りやランナーが、ヒルクライムする汗だくの姿とすれ違うと、一瞬だけ、サウナで汗をかくような、心地良さを感じた。

大竹交差点に到着する手前の下り坂で、早朝から連絡を取り合っていた、ヒルクライムする小学校の同級生のニシノくんとすれ違い、そのまま、一緒に少しだけ坂を登り返して、玉祖神社の階段で休憩することにした。地元のおっちゃん2人が休憩していて、ほんま暑いねぇっと声を掛け合う。鳥居の手前の急勾配の階段に腰掛けて、西側に見える大阪平野を臨むと、ど真っ正面に、ハルカスが見えた。ちょっと墓標チックな硝子の面がスッとそびえていて、だんだん大阪に馴染んできた感じ。視界がエエ日は、淡路島と淡路大橋が見えるで。なによりも、夕焼けが、メチャクチャ綺麗やわ。っと4人が一緒に階段に腰掛けながら、オッチャン2人が語ってくれた。

そういえば、先日、木村家の吉野檜を納材してくれた、坂本林業のサカモトさんのお誘いで、大和八木駅前の近鉄百貨店の屋上ビヤガーデンで、竹中工務店さんの設計の方々と一緒に飲んで、ちょうど、アベノハルカスの担当の方だったので、いろいろな建築談義が楽しかったが、そのハルカスの写真を撮影された、スペイン在住の建築カメラマンのスズキさんもご一緒だったので、尚一層、ケンチク噺で盛り上り、印象深い夜になった。その時の出来事が、ハルカスの硝子面を見ながらフラッシュバックした。

大きな大きなクスノキの下で、木陰になっている、急勾配の階段に座って、大阪平野を眺めていると、背後の山から、涼しい風が吹いてきて、それがとっても心地良かった。暫く、同級生と、あれやこれやと、世間話をしながら、背中に感じる、ひんやりとした風を感じつつ、気持ちエエなっと語り合っていると、箒で、落ち葉を掃除しているおっちゃんが、この背後の山のすぐ近くに滝があって、その滝が冷気を運んでくれているんやで。っと教えてくれた。

 

今回の木村家のリフォーム工事では、実験的に、PSの冷暖房を導入した。クーラーほどの、圧倒的な冷気はないが、じっとしていると、心地良い、ひんやり感があり、この2が月ほど、使ってみると、PSのフィンに、扇風機をあてると、ひんやりした風が、それとなく空間を吹き抜けて、それが心地良いことに気付いた。山と滝と風の関係と同じなのだと、玉祖神社の天然記念物らしい長鳴鶏が、コケコッコーっと鳴き続けている声に覚醒を促されながら、心地良い風の仕組みを体感した。

そのあと、八尾に出来た、自転車を持ったまま入れるカフェ、フランシーの2階で、モーニングをしたが、猛烈の暑さと、スポーツで汗をかいたあとの、クーラーが効いた大きな空間で、自転車を眺めながら、サンドイッチを食べて、ラウンジソファーで寛いでいると、2人貸し切り状態だったので、まるで女子会のように、ダラダラとした朝の心地良い時間が、過ぎていった。

そういえば、海の記念日の連休は、しまなみ海道の生口島の宿「輪空」で知り合った6人で、自転車に乗ることになっていて、ところが、あの大雨の災害で、水道が復旧しないまま、2週間ほど経過し、宿は、休業状態だったが、常連のようななってしまっていることもあり、20リッターのポリタンクに水を満載し持参しながら、災害という出来事に気も使いつつ、お風呂は、大きな銭湯まで車で入りにいって、皆で宿泊することになった。まだまだ、あちらこちらに土砂崩れの土が道路に散乱している箇所があって、ほとんど観光客や自転車に乗る人達がいない、静かな、しまなみ海道だったので、観光収入としては大打撃なのだろう。夜な夜なワールドカップサッカーの決勝戦を見ながら語り合った、「状況」が記憶として残る旅となった。

  

自転車を通じた体験が重なった週だったな…..。

 

ハマユウ

梅雨が終わり、夏の始まりを宣言するかのように、木村家の玄関前のハマユウが開花した。蒸し暑い日が続く火曜日。昨年の暮れから療養中だった、谷岡大工の訃報が届く。癌の治療中に奥さんを伴って会社に訪問してくれたのは、ついこの間のような気がした。あの日、会社の応接間で、会話をしたあと、帰り際に、木村家のリフォーム中の工事現場に立ち寄って、若い大工のダイちゃんの腰ベルトが、床に、置いてあり、それをおもむろに手に取って、腰に巻き付けて、この重さがエエんやぁ。この重さがっ。と嬉しそうに腰に巻き付けた姿が、とっても印象的だった。その時の光景と笑顔が、一瞬、フラッシュバックした。

お通夜には、社員や大工の全員と元社員の4人が参列した。お通夜のあと、別席を設けて頂いたので、皆で、飲みながら、谷岡大工の思い出を語り合った。現場での掃除と、整理整頓が、いき届いた棟梁だった。いろいろなお施主さんから、タニオカさんタニオカさんと慕わられて、お施主さんに喜んで頂ける仕事をする大工さんだった。これまでの木村工務店の現場での大工工事への感謝とともに、ご冥福をお祈りしたい。

土曜日。関西大学の江川教授が、文部科学大臣賞を受賞し、その講演会と祝賀会が、関西大学梅田キャンパスであった。木造設計製図の講師として、お手伝いさせて頂いているのは、江川さんが、以前、現代計画研究所の所長だった時に、設計された、丹波篠山の今田町の住宅を、うちで施工したご縁からで、その後、目神山の集会室を設計されて、うちで施工することになり、そのお陰で、目神山での施工の機会が増えて、まさか、その後、エガワさんが、関大の教授になり、私が、そのお手伝いをするなど、まったく想定すらできない当時の状況だった。ごく最近は、江川研究室出身のハヤカワくんが、うちの社員になるなど、さまざまな建築的ご縁への感謝とともに、ますますのご活躍をお祈り申し上げたい。「隙間をデザインする」というのが印象的な講演だった。

そういえば、土曜日の午前中は、蒸し暑いなか、木村家の床材と天井材の吉野檜を製材納入してくれた坂本林業のサカモトさんが、京都のツキデさんと浜松のイシノマキさんの工務店仲間を連れて、木村家に遊びに来てくれて、あれやこれやと、建築談義をした。そうそう、先月も、サカモトさんが、ちょっと設計の人を連れて遊びに行きますわっといって、連れて来られたのが、飛騨高山のオークビレッジのウエノさんだったりし、ちょっと驚きながら、やっぱり建築談義をしたが、工務店のひとたちが共有できる、メンタリティーのようなものがあって、そういう、なにか、ハートに触れあえる、コミュニケーションが好きだなぁ…..。

海の記念日は、かつては、丹沢の堀山の家で過ごすのが定番だったが、ここ数年は、しまなみ海道の生口島の輪空さんで過ごすのが定番になってきて、背後では、ベルギーとイングランドの三位決定戦が白熱していたり、ツールドフランスのシーズンでもあり、ま、とっても暑い日々だが、木村家のハマユウの開花と共に、しまなみ海道で、心身を癒やしてこようとおもう。

大雨的。

ホームページとメールのために利用しているレンタルサーバのZenlogic(旧ファーストサーバー)で不具合が発生し、ホームページへのアクセスとメールの送受信が出来ない状況が続いていて、皆さまにご迷惑をお掛けしている状況で…..。
6月19日より一部のお客様で発生している高負荷障害に関するお詫びとお知らせ平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。
2018年6月19日(火)より発生しております当社一部サービスでの高負荷障害につきまして、ご利用のお客様には長期間にわたり大変ご迷惑をおかけしておりますことを、深くお詫び申し上げます。
現在、高負荷障害が発生しているクラウド基盤を提供・管理しているヤフー株式会社と連絡を密に取りながら、復旧にむけた対策を実施しております。 ご利用中のお客様には大変ご迷惑をおかけし誠に申し訳ございませんが、障害対策の完了までお待ちくださいますよう、お願い申し上げます。
断続的に続いている高負荷状態改善のため、7月5日よりメンテナンスを実施しておりましたが、当初見込みより進捗が大幅に遅れているため、7月6日20時より、一時的にすべてのサービスのご利用を停止させていただきます。
すべてのサービスがご利用いただけないメンテナンス期間
7月6日20時00分 ~ 最長 7月9日08時00分 未定 経過観察中
※ 予定より早くサービスご利用が再開いただける場合にはご報告いたします。

ということで、大変ご迷惑をお掛け致しますが、ご理解のほど、よろしくお願い致します。

それはそれとして、梅雨明けかとおもっていたら、今週は、大雨が降り続いて、電車が運休になる日もあり、予定していた二つの打ち合わせがキャンセルになり、いや、そんなことより、広島など、想像以上に水害が大きいことに驚いたりした。そんなのが、オームの死刑執行の報道とか、ワールドカップサッカーなどで、なんとなく曖昧になっていて、気が付いたら大被害なのだと知る状況だった。

工務店という立場では、画面を見ながら、あれだけ床上や床下に浸水したら、泥は人力で地道に排除していくとしても、その後はどうやって、復旧するのだろうか…..。天井や壁や床は、もう使えないのだろうし、構造材は、泥が掃除できても、臭いとか大丈夫なのだろうか…..とか、地元の工務店のひとたちの工事を想像してみたりする。そういえば、最近のあの地震も、大阪市内での地震の感覚以上に、すぐ近くだと思っていた高槻や茨木での被害が、想像以上に大きかった事に改めて驚きつつ、一部の復旧工事に出向いたりしている。

土曜日は、「生野区ものづくりセッションVol4」という集まりが、16時から木村工務店の加工場であり、生野区で、ものづくりをする若手のひとたちを中心にして、数社のプレゼンがあって、デザイナーのひとたちも数人参加してくれていて、そんなさまざまな職種のひとたちと一緒に、あれやこれやと、コメントしあうのが、以外と楽しい。このセッションでの出会いによって生まれつつある製品の経過報告もあり、少しずつだが、それぞれが、なにかを創造してみようと、遊びのように楽しみながらも、本気でやっている。

その後の懇親会では、建築家の矢部さん設計で、木村工務店でリノベーションをした、ほたる食堂のほたるちゃんが、料理を提供してくれて、賑やかに語り合うことが、お互いのこれからのコミュニケーションの潤滑油になり、セッションと懇親会は、ひとつのセットのようなものなんだろう。最近、加工場の真向にある、木村家のリホームが、ほぼ完成したこともあって、懇親会後には、皆さんにきて頂いて、少しの間、寛いだ時間を過ごしたが、そういえば、ものづくりセッションにも参加して頂いている、大阪市立デザイン教育研究所が、1回生の授業の一環として、月曜日に木村工務店への訪問があり、木村家のリフォームを題材にしながら、そのものづくりの過程や、素材について、説明し、現地をみてもらった。いろいろな人が家に出入りし、体験してもらいながら、家が、人と人を繋げてくれる場になればとおもう…..。

そうそう、奥方が、大阪のオバチャン3人で、海外旅行をしていて、それぞれが、現地に知り合いがいて、そんなのを頼りに、逞しく旅する大阪のオバチャンなんだけど、それが、水曜日の夜、いつもとは違って、妙にか細い声で、ラインの電話で連絡があって、なんでも、関空に帰国するために、ニースでのトランジットに「失敗」し、50分前の到着で、チェックインをしてもらえず、タイヘンだぁタイヘンだぁと騒いでいた。木曜日の帰国予定が金曜日にずれ込み、大雨のなか、関空連絡橋の電車がストップし、孫も乗せて、車で迎えにいったのだけれど、疲れて帰ってくるのかとおもいきや、車のなかでも活気があって、お陰で、ニースで1日遊べて、モーニングも食べ、買い物も出来て、良かったわ~と、どこまでもポジティブな大阪のオバチャンたちだった。

ま、そんなこんなで、世間でも、会社でも、家庭でも、ちょっと特異な、週だった…..。

梅雨明けか

夏がやってきたような、そんな日々が続くここ2、3日。梅雨に入って、クーラーが掛かりだした頃から、喉にヘンな感覚があり、鼻水なのだろうか、何かが喉に引っかかって、喋り出すと激しく咳が出て、うまく喋れない日々が2週間ほど続いて、皆に不快を与えていた。

耳鼻咽喉科に行こうかとおもったが、風邪っぽい感じもあったので、インフルエンザでお世話になっている近くの内科に行くと、喉のアレルギーでないのぉっという診断で、抗生物質と漢方を投薬されたが、いまいち即効性はなく、1週間ほど過ぎて、かなりまし、になるにはなったが、微妙に咳き込んでいて、そうこうしているうちに、梅雨が明けたような、そんな気配すら感じる、積乱雲を、土曜日の昼過ぎに、阪神高速から眺めていると、なぜか喉も軽やかになりだして、喋り出して咳き込む事がなくなってきて、今日の日曜日の住宅相談会では、かすれ声ながら、それなりに快調にしゃべくりが出来て、きっと、これは、喉が、梅雨を感じていたせいなではないのか。とおもってみたりした。

ゴールデンウィーク明けに、毎年定期的に実施している会社の健康診断の人間ドック検査で、腹部超音波検査をおこない、前回と前々回に胆のうポリープの疑いと所見され、要経過観察という判定だったが、今年は、肝腫瘍性病変疑いと所見され、要精密検査と判定された。それで、奥方の母の80歳を超えた、同級生のお医者さんに報告書をお渡しして見てもらうと、血液の数値がいたって正常なこともあり、血管腫とはおもえないが、何であるかを判別するためには、近くの診療所に持っていって、MRIの検査を受けておいた方が良いよ、というセカンドオピニオンを頂戴し、そのこともあって、近くの内科で、喉のアレルギーとともに、人間ドック検査報告書をお渡しし、診断してもらって、MRIを受ける予約をとってもらった。

自転車で行ける距離の総合病院に出向いて、MRIを受ける紹介状を手渡す。鎖骨の骨折の時や親父の癌治療の時の病院でもあったので、それなら、直接そちらで診察と検査をやってもらったら良かったのかもしれないが、近くのかかりつけ医と総合病院が連携する時代らしい。MRIの検査後、結果を収めたCDを手渡されて、自転車で、近くのかかりつけ医に持参し、それをパソコンの画面で見ながら判断をしてもらう。結果的には、腫瘍ではなく、水分が含まれて白くなっているので…..大丈夫です。と解説があって、ほっとしたのだが、それにしても、MRIって、おもいのほか高い金額なのね。

こんな体調不良や、土曜日深夜の宴会や、日曜日朝の雨や、サッカーワールドカップや、そんなのが続いて重なり、そんなこんなで、日曜日の朝の自転車とも暫くとーざかっていて、今日は住宅相談会のある日曜日だったが、定期的に運動をしていないと、なんとなく体調不良に陥りそうで、それで、早朝に起きて、午前9時過ぎ帰宅予定で、葡萄坂を登り、のどか村で休憩し、朝護孫子寺をお参りして、フラワーラインから、裏十三峠を登り、展望台で小休止したあと、十三峠を下りて、家に戻ったが、もう既に暑く、汗がしたたり落ち、それにな~となく気怠く、まったく快調に走れず、午前中の相談会の間中、お昼過ぎまで、体力が回復しなかった。

それにしても、こんな、体の話をするようになってきたことそのものが、歳をとってきた、あかしなのだろうなぁ…..。そうそう、自邸というか、本宅というか、本家というか、その減築リフォーム工事が「ほぼ」完成で、今日の日曜相談会や前日の土曜日などなど、打ち合わせに来て頂いたひとに、それとなくショールーム的に見てもらう日々が続いて、なのに、生憎、奥方が旅行中で、それで、日々の食事や洗い物や洗濯を、長男の奥方や、奥方の母や、奥方の親戚のワカチャンとか、手伝いに来てくれて、大助かりで、それでも、せめて、掃除と片付けだけぐらいは、やる必要性に迫られるわけで、あらためて、主婦のタイヘンさを感じつつ、それに孫もしょっちゅう乱入し綺麗になった部屋を走り回る状況で、これから続く、ショールーム的ライフスタイルなんて、可能なのだろうかね。

掃除と地震とサッカー

月曜日の朝、いつものように掃除をする。マキタのコードレス掃除機を使い、会社の2階事務所の床から、3階会議室の床へと、ひととおり掃除をし、1階の加工場におりて、職人事務所を掃除をする。そのあと会社すぐ近くの倉庫に向かい軽く掃除をして、倉庫の前にある、うちの自宅の玄関扉を開けて、庭へ行く。

母親が認知になり、1年ほど経過してから、庭が荒れ出して、母親が庭の掃除をしてくれていたことにようやく気付き、それから、庭の掃除をするようになった。いつもと同じように、その月曜日の朝も、庭の落ち葉を掃いている時だった。ガタガタときた。床が左右に大きく揺れる。庭に面する、長男家族が住む、古い住宅の木製建具が、ガタガタガタガタガタガタと大きな音をたてている、幸い長男の奥さんと子供たちは、奥さんの実家に帰っていなかったので、少しだけ心の余裕があった。それにしても大きく床が動くのがわかる。揺れる時間が短くて良かった。震源地はどこだろうか。ここで、こんなのだから、震源地はかなり凄いだろうなとおもう。阪神大震災や東北の震災の時の揺れた瞬間がフラッシュバックした。

掃除の時、もう何年も、マキタのコードレス掃除機を使っていて、つい1週間ほど前に、ベッショ大工が、シャチョウこれ使ってみて下さい、とサイクロンタイプになるアタッチメントを渡してくれた。これが、なかなか良い。ゴミ捨てが格段に楽になった。が、アタッチメントの部材分だけ掃除機の長さが長くなって、そうそう、家では、ダイソンを使っていて、普段はほとんど使う事がないが、奥方が旅行に出掛けて、その間、使ってみると、ダイソン掃除機の竿の長さが長いのが、便利といえば、便利だが、マキタの竿が短いのに慣れているので、なんだか掃除しにくい。バッテリーの時間も短い。でも、床板の素材を痛めない感じでよくゴミを拾うヘッドがエエのだなぁ。それに比べて、マキタのヘッドはシンプルすぎて、だからこそ、現場向きなのだろう。

なんて、このブログを書きながら、ワールドカップサッカーの日本対セネガルを見ている。一喜一憂する戦いで、あ~勝てたかも。残念。いや引き分けでも凄い事なんだろう。ワールドカップが始まるまでは、日本戦だけを見るイメージだったが、いざ始まってみると、日本以外の試合もついつい見てしまうのは、修練を積んだ選手たちが必死で戦う姿に魅せられるからだろうか…..。

そうそう、地震に備える気持ちが再び活性化してきた今週だった。

餃子。

とってもエエ天気でエエ気候の日曜日。久しぶりに予定がな~にもない日曜日だった。前日の土曜日に、美味しい餃子屋さんがあるから一緒に食べに行こうと誘われて、大東にある丸正餃子店本店へ行く。初体験。午後3時から予約受付で、午後5時に来て下さいと言われ、その時に、何人分食べるかを「宣言」するらしい。打ち合わせが長引いて、出発が遅れ、ぎりぎり午後5時2分に到着し、お店の扉をガラガラと引いて中に入ると、カウンターだけの店で、席に着くなり、4人前二つと3人前一つの事前に予約した3人分が、用意されていて、ジャストインタイムで、カウンターの上に置かれた。小ぶりの、こんがり焼き色がついた、いかにも美味しそうな餃子を眺め、カウンターに座って、前を見ると、カウンターの前には、丁稚奉公のような感じの若い男の子と女の子が、餃子の皮をとっても丁寧に包んで、木箱の上に丁寧に並べていた。その背面の壁に、餃子とビールとだけ書いたメニューが印象的だった。

店主らしき年配のおっちゃんが、鉄板の上に、丁寧に沢山の餃子を並べ、焼き始めると、フライ返しに油か何かを付けて、餃子の上に垂らしていく、そのうしろ姿が、魔法の棒で、呪文を唱えているように見えて、いかにも職人気質を感じる、身のこなしと体つきで、餃子を並べたり、返したりする時に、踊ってるようにリズムをとるその後姿が、どちらかと言えば呪術的にさえ見えたのは、その体型と身のこなしにもよるのだろうが、餃子専門店の老舗として、何十年もひたすら餃子を丁寧に焼き続ける年季の入った職人さんの姿が、とっても魅力的だった。こういう商売の方法もあるのだなぁ…..。これはこれで凄いなぁ…..。と、お店に漂う、ちょっとした緊張感とともに、薄皮の美味しい餃子を食べた。

  

川西で打ち合わせが終わった帰り道、阪神高速の法円坂で降りて、先日リフォーム工事をし、「まちのえんがわ」で、珈琲ワークショップも開催して頂いた、ルプラ珈琲さんに立ち寄り、自宅用に、ブラジルのフクダトミオさんの豆を焙煎してもらいながら、あれやこれやと四方山話を楽しむ。ルプラのニシミネさんと知り合ってから、うちの会社でも、珈琲豆を、月に何度か郵送してもらって、社内で、社員の数人が、豆を引いて、ドリップ珈琲を楽しむようになって、私もここ1年ほど、休憩時に、毎日のように、会社のミニキッチンで、ドリップ珈琲を楽しむようになった。

ユニマットさんが、オフィスに珈琲の機械を導入するビジネスを考えたと聞いた事があるが、合ってるのかどうか?最近のサードウェーブ的な流れからすると、オフィスで、自分で豆を引いて、自分でドリップ珈琲を入れる、落ち着いた時間そのものが、休憩時間の楽しみとなるような、そんなドリップ珈琲コーナーが会社にあっても良さそうに想うようになったのも、ニシミネさんと出会ってからで、珈琲で地域の活性化をいしている人として、最近、テレビにも何度か出演していて、写真の焙煎機は70年前のフジローヤルの焙煎機らしく、老舗の珈琲専門店のあらたのアプローチを垣間見る想い。

  

自宅のリフォームにあわせて、15年ぶりに、液晶テレビを買って、テレビ設置用の家具を作り、壁掛け設置する作業を、うちの協力会社で電気工事を担当してもらっているMK電気のカヤくんにお願いしたが、最近は、LANケーブルや、HDMIケーブルを2本も3本も仕込んでおく必要があり、その配線のための配管スペースがそれなりの大きさが必要で、新しいテレビには、HDMI端子が4つある機種もあって、HDMIケーブルの頭がそこそこ大きく、3つも4つも先行配管するのが、大変な作業だと知る。

偶然にも、サッカーワールドカップが始まった日に設置し、ポルトガルとスペイン戦を大画面で見ながら、職人的なレベルの高いプレーにみとれつつ、ピッチでそれぞれの選手がプレーしている姿を見ているうちに、3、4人がかりで、大型液晶テレビを壁掛け設置するのに格闘している作業がフラッシュバックして、配管スペースとDVD等の置き場や棚の中の配線処理の設計が案外面倒くさい作業なのだと、棚の中を眺めつつ、餃子の職人さんたちも、珈琲の焙煎も、面倒くさいことを、面倒くさがらず、丁寧にするのが、大切なコトなんだと、口の中に、あの餃子の具材の甘みが蘇ってきて、魔法使いのような餃子の職人さんの後ろ姿に刺激をうけた土曜日の夜だった。

仏壇の旅

仏壇を中心に、リフォームのプランを考える。なんていう、そんな発想を持ったことなど、全くなかったが、祖父祖母が亡くなり、親父も亡くなり、母親まで亡くなると、兄弟姉妹が集まって、仏壇に手をあわす機会というのが、それなりに大切なコトだと理解してきて、ところが、その仏壇が、ハレの場としての座敷になく、それは数寄屋の座敷で、床の間はあるが、仏間がない、いわゆる大工と祖父が、そういうちょっと変則的で、カッコエエスタイルが好きだったからだろうが、それで、離れにあった祖父母の寝室だった和室に、仏壇が鎮座していた。

祖父母が亡くなると、寝室だった和室は、仏壇に手をあわすためだけの和室となり、それも離れだったので、廊下を歩いて、敷地の一番奥まったところまでいくのが、ちょっと奥の院的な感覚で、足繁く通うような仏壇とはなっていなかった。そのうえ、父も母も亡くなると、母屋は無人となり、しかもその母屋に仏壇がなく、離れにあり、なんというか、母屋は空き家な状況で、お正月に、ハレの場としての数寄屋の座敷に、家族でお屠蘇をするためだけの母屋になり、ましてや、私の兄弟姉妹が集まり、先祖に感謝するような雰囲気の「家」ではなかった。

このまま母屋は、永遠に空き家のままになってしまうのか…..とおもっていたら、長男が、東京から帰ってきて、木村工務店に入社し、結婚もし、同居して住むという、いままで、全く、考えた事も無いチョイスが、ハプニングのように降って湧いてきて、それなら、同居しつつも、私たち夫婦が、母屋に移り住むという、至極当たり前のような選択肢を模索するようになった。

母屋であるのなら、仏間があり、その仏間が、代々受け継がれていくのが、オーソドックスな日本的で、それなら、この数寄屋の座敷に、なんとかして、仏間を造る必要性を感じ、プランを模索しはじめた。南向きの床の間の一部に、強引に仏壇を置くという手法もあるのだろうが、それは、建築的な美意識からすると、良しとは出来ず、ならば…..と考えると、東向きに片引き襖戸があり、その一部を改修して、仏間を造るのが、この数寄屋の座敷のデザイン活かす、唯一のプランに思えてきて、ところが、その仏壇を置こうとする丁度その位置に、2階に上がる階段があり、仏間を造るのなら、階段を撤去して、新たな位置に階段を付け替える必然性に迫られた。

「減築」というコトバが、「増築」というコトバ以上に、格好良い響きになってきたのは、ここ数年のことだとおもうが、2階建ての住宅の2階を撤去して、平屋にするというコトに、ほんとうにメリットがあるのかどうか。それは、おいおい判別されるのだろうが、我が母屋は、階段を付け替えるプランを考えるより、階段を撤去したついでに、2階も撤去する。という減築をチョイスすることにして、母屋には、保存した座敷に、仏間が配置され、リビングキッチンをリニューアルし、ダイニングは大人数で食事ができる大テーブルが配置されることになって、離れが私たちの寝室になることになった。

離れの仏壇を移動して、母屋と庭続きで、長男夫婦と同居している、私たちの住宅にある和室の客間に、仏壇が仮設置されて、リフォーム工事が開始されたが、うちの大工さんたちが、お客さんの現場と現場の間隙をぬって、施工をするので、まったく職人さんたちが、作業をしない時期が、2ヶ月以上もあったりし、それに、2階を減築する作業が、想定以上に大変な作業で、手間が掛かり、おもうように全く工事が進捗せず、いつしか職人さんたちから、「小路のサクラダファミリア」とあだ名されるようになり、そのリフォームの期間中に、孫が二人も出来て、ひとりめの孫イッケイは、同居の中で、2回の誕生日を迎え、ようやく、3回目の誕生日は、「母屋」でお祝いが出来そうで、そんなこんなで、離れの仏壇は、同居する家の客間に、2年以上も旅をし、そして、ようやく、母屋の座敷に辿り着いたのが、この金曜日の朝の出来事だった。

土曜日。私の兄弟姉妹とその家族が集まって、お坊さんにきて頂き、仏壇の移設を祝う読経が、その数寄屋の座敷に響いて、旅する仏壇に、ようやく居場所が出来た日だった。

クロヨン

クロヨンを見た。先週の社員と協力会社との研修旅行は、立山黒部アルペンルートで、長野県の扇沢駅からトロリーバスに乗って、黒部ダムに到着し、220段の階段を登り、展望台から眺めると、その壮大さに圧倒された。幸い天候にも恵まれて、残雪の残る山々、森、深緑の水面、それらを背景にした、コンクリートの塊。人間の力って凄いなぁ…..と、感動する。

天候のお陰でもあるのだろうが、バスの移動中、プロジェクトX挑戦者たちの黒四ダムを見て、輸送トンネルを造る苦労と破砕帯を突破する諦めない挑戦を見ると、なんとなく目頭が熱くなり、また、コンクリートのダムを造るために、クレーンとバケットでコンクリートを搬送する難しさとその作業量の多さに、凄いなぁ…..とため息をついていたが、そんなビデオを見た後だけに、コンクリートの塊の黒四ダムの背景にある、ものづくりとしてのクロヨンに、心が動かされていたからだろう。

それにしても、コンクリートの造形としても、想像していた以上に、カッコ良かった。ゆるやかなアーチ形のダムの両端に、ウィングが張っているからカッコエエのだろう。ウイングとアーチのダムが接する角が、裾野のように張って広がっていく立体感が、雄大に感じさせるのだろうか。工事が始まってから両端の岩盤でアーチを支える力が足りないからウィングを付けたらしいが、コンピュータで図面を書けない時代に、おもいのほかオーバーハングした3次元的な立体造形のアーチとウィングが造れたのは、設計士や現場監督や職人さんたちの現場力が凄かったからなのだろう。トンネルを掘るひとたちだけでなく、型枠大工や鉄筋工だって、苦労したに違いない…..。

トロリーバス、ケーブルカー、ロープウェーと、乗り物を乗り継ぎ、雄大な山々の景色とその変化を眺める楽しさ。というか、ただ乗り物を乗るコトそのものが楽しい…..という子供の時の楽しみ方を想い出す旅でもあるのだろう。室堂平で、雪の壁を体験したが、なによりもの驚きは、黒部も室堂平も外国人観光客の多さだった。ここが、こんなに、インバウンド人気なのか!と驚くとともに、「ディスカバージャパン」なんていう古いコトバを想い出した。インバウンドの人気の場所によって、日本人が、日本の良さを見直し、再発見する時代なのだろうか…..。

そういえば、研修旅行の一日目は、黒澤明の夢の最後のシーンのロケ地にもなった、大王わさび農園の美しい湧き水の上をゴムボート進んだが、黒部ダムは、破砕帯の水に苦しめられて、あらこちらで、水が流れる様子を垣間見、「水」とういのが、日本的なキーワードのひとつなのだと、気付かされた旅でもあった。

そうそう、内藤廣設計の岩崎ちひろ美術館も見学したが、美術館に行くと、展示物より、建築が気になり、それが、大事なテーマのひとつであり、この研修旅行の目的なのだが、特別展として、「ヒロシマ」というテーマの展示があり、原爆のコトを書いた当時の作文と、遺留品の芸術的な写真と、絵が、コラボして展示してあった。その展示室を、うちの20代の若い二人の大工が、仲良く一緒に並んで、その原爆についての作文をじっくり読み、なんともいえない表情と立ち居振る舞いをする、その二人の若い大工の姿が、とっても印象的だった。

クロヨンも、クロサワも、若いダイクスも、なんらかのハートに突き動かされて、ものづくりを続けているのだろうな…..。

 

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