秋らしい、とっても良い天気の連休。木村家へ、遠方より、二組の客人があった休日で、木村工務店のヒラボシ大工のお母さんと娘さんが、息子の造った家を見たいと、四国から大阪に遊びに来られて、芦屋で、堀賢太さん設計による住宅の新築工事のお引き渡しが、2週間ほど前にあったばかりで、その建物の大工担当がヒラボシくんだったので、自らがお母さんを車で案内したという。丁度、施主の奥さんも在宅だったらしく、家の中を案内頂いたそうで、お母さんは、そのコトに、とっても喜んでおられて、この場をお借りして、お施主さんにお礼を申し上げたい。
その後、うちのリフォームをした家に立ち寄って頂いた。減築リフォーム工事をするにあたって、2階を撤去する作業は、想定以上に、タイヘンな作業で、その作業を真面目にコツコツと、他の大工さんたちと一緒に取り組んでくれたのが、ヒラボシ大工で、特に、庇を1500mm持ち出して浮かすために、片持ちの補強梁を取り付ける墨付けとその作業や、庇の軒桁が8190mm柱なしで浮いていて、その軒桁を追っ掛け大栓という継ぎ手で繋ぐ作業を、ベッショ棟梁から任されていた。その時の写真が残っていたので、ダイニングテーブルのテレビ画面に表示して、アレヤコレヤと歓談した。
四国から高校卒業後、大阪の専門学校の大工技能学科で大工の実技を学んで、2級建築士を取得してから、木村工務店をインターネットで調べて入社した、社員となった大工で、ご両親にとっては、息子さんが、大工さんとしてどんなふうに働いて成長してるのか、特に、社員といっても、大工という職人気質な世界で、どんなシゴトをしているのか、想像できにくいゆえに、見てみたいというのは、当たり前の事なのだろう。
大工という職人さんが減少していく昨今。棟梁が弟子を取るという仕組みが、成立しにくくなっていて、それは、棟梁の賃金が、弟子を取りながら、自分の生活が営めるという、賃金体系でなくなってきたコトが、大きな原因なのだろうが、社員として若い大工さんを雇用し、ひとりの大工の棟梁に預けて、技術と職人としての心構えを教えてもらうと共に、会社の社員として、お客さんへの対応や、社会人としての心構えなど、会社組織のなかから学ぶ必要があるのだろうし、さまざまな心のケアーを含めて、会社の社員が、大工さんのための「ファシリテーター」となる必要性に迫られる昨今で、ちなみにweblioによると…..。
ファシリテーションとは、参加者の主体性を促し、多様な人材から、それぞれの経験や専門分野を尊重しながら、各人の多様な意見やアイデア、動機などを最大限に引き出し、話し合いにおける相互作用のプロセスをより有効・有益にするための、働きかけを意味する。その結果、問題の解決、新たな創造、気づきや学び、相互理解や情報共有などを促進する。
ファシリテーションは、「目的達成」、「時間」、「人の力活用」という、トレードオフにある3要素を最適化しながら、議論や学習、交流などの進行を促す「機能」である。
このような機能を果たす人のことを、ファシリテーターと呼ぶ。ファシリテーター以外にも、その機能を部分的にメンバーで分担したり、(例:議論の可視化を別のメンバーが行う。)、設備・ツール類などで機能を補完したりすることもある。
ここ数年、しまなみ海道で、自転車に乗るために、「LINK輪空」という宿に、毎年宿泊をしていて、そこでオトモダチになった、東京と鳥取からの友人4人が、大阪の、それもど下町の、生野区小路の我が家まで、泊まりがけで遊びにやって来て、偶然にも4人が、外科医や歯科医や大手製薬メーカー役員や医療事務など、医療関係者だったのが、オモシロイシチュエーションで、うちの家を案内したあと、チリトリ鍋の「げんや」とバー「ソケット」で、JAZZ談義や四方山話で盛りあがる連休の夜だった。
そうそう、うちの大阪のおばちゃん代表としての奥方が、東京の癌手術の外科医に、ゴーヤで、膵臓の癌が消滅した、友人の例を紹介し、その話題が、漫才のボケとツッコミのごとく、感覚的感情的人生の大阪おばちゃんと、科学的職人気質的人生な外科医との、オモシロ可笑しい議論として展開し、うちの家の食卓のテーブルで、そんなアーダコーダが、深夜3時頃まで繰り広げられて、あー、とっても印象深い夜だった…..。
58歳と59歳の男女5人で、大阪の下町を歩く。全員が、還暦以降の生活に向けて、どことなく、憂いのようなものが、漂っているところに、こんなメンツでのまち歩きの面白さがあるとおもうのだけれど。地下鉄小路から鶴橋で降りて、あの迷路のような商店街を彷徨う。うちの奥方は、富田林の新興住宅地出身で、西宮芦屋の阪急沿線での結婚生活に憧れていたらしいが、30年以上もここに住んでいると、私以上に、鶴橋を知り尽くしていて、この道右、ここ左と、ロコな案内人となっていた。
鶴橋から環状線で天王寺で降り、リニューアルされて屋根形状が面白くなった天王寺の歩道橋から、ハルカスと通天閣を眺め、天芝の向こうに見える大阪城のようなラブホテルをさして、これが大阪城ですわ!という、ベタネタは必須で、建築関係者として、街づくり的に、あのコテコテベタベタな光景を受け入れるかどうかは微妙な問題だろうが、これこそが大阪的ですわ!と多様性として受けとめることはなんとかできそうで、ハルカスや通天閣やラブホテルを眺める天芝の、オープンスペースとしての良さを、多くの人達が享受している、そのエエ感じの姿を眺めつつ、通天閣まで歩いた。
じゃんじゃん横町をおっちゃんおばちゃん5人で歩きながら、串カツ食べたいし、立ち飲み屋に入りたいし、レトロな喫茶店でミックスジュース飲みたいし、将棋も打ってみたいし、コルク玉の鉄砲で的撃ってみたいし、スマートボールもやってみたいし、そんな気分にさせられるのが、通天閣界隈の面白さなのだろうが、それにしても、コテコテベタベタのあの「看板たち」こそが、大阪らしい魅力かと眺めながら歩いたが、この地をチョイスする「決断」をくだした星野リゾートは凄いな。
朝食が遅く、天芝のお店は、どこも予約待ち、串カツ屋は長蛇の列、40年ぶりぐらいの通天閣登頂を目指すも40分待ち、ここは歩いて、お腹をすかせてみようと、通天閣からそのまま歩き続けた。あの人通りでいっぱいだった、でんでんタウン日本橋は、ガラガラで、様変わりを寂しくおもい、ナンバ側のストリートだけは、電気屋さんより食べ物屋さんが増えて、若いおたくで、いっぱいなのに、ちょっとした疎外感で通過し、きっと9割がアジアの観光客で、店先で食べられる市場として急速に変貌する黑門市場の微妙な活気を、肩を触れ合いながら、感嘆とともに通過し、結局は、天王寺から地下鉄日本橋まで、そこそこの距離を歩いたことになって、ミドルエージ全員が足の疲れをはっきりと感じつつ、地下鉄で新深江まで戻って、「桃太郎」で、モダンいも豚玉のお好み焼きを食べて、大阪らしい味で疲れを癒やすことで、ようやく小路のうちの家まで辿り着いた。
客人と、大阪の「まち」を、会話を挟みながら、ウォーキングのように、そこそこの距離を歩いて、見て、食べて、飲むのも、エエもんだなぁ…..。