テラスハウス的ものづくりセッション

「ものづくりセッション」があった土曜日。おもに生野区で工場を持ち、ものづくりをする若い世代が、2ヶ月に一度、午後4時頃から、木村工務店の加工場に集まって、その参会者の4人ほどで、自分たちの会社の技術や商品やプロセスをプレゼンし、それを見聞きして、そのテーマに対して、その場の参加者それぞれが、アーダコーダと、共感や違和感や提案をコメントしながら、2時間ほどの時間を共有するワークショップで、その後の懇親会によって、お互いの距離感を縮めつつ、コミュニケーションを保つことで、持続可能なものづくり企業としての存続を、それぞれが模索しているのが、このセッションとしての面白さなのだろう。

Netflixの「テラスハウス」を視聴すると、 毎回、「番組が用意したのは素敵な家と素敵な車だけです。台本は一切ございません」というナレーションが流れて、シェアハウスに住む男女6人のドラマが起こるのだけれど、そのシーンに対して、YOUや徳井や山里など男女6人の芸能人がコメントを入れるシーンがあって、そんなのが、視聴者の共感や違和感や反感を助長させて、もちろん出演者にもエエ緊張感を与えているのだろうし、あんなファシリテーターが、いなければ、継続する番組として、視聴者を獲得できないのだろうな…..とおもうわけで。

「ものづくりセッション」も、なんとなく、「テラスハウス」と似通ったところがあって、ものづくりの雰囲気がある、できるだけ素敵な集まる場所と、設えが必要なのだろうし、素敵な車が、気分を盛り上げながら、人が、空間を移動する手段として、必要なのだとしたら、それぞれの企業の、ものづくりの情報が、その、ものづくりの工場から、いまここにいる参加者に届けられるためには、情報が空間を移動する手段として、プロジェクター上で、分かりやすくパワポや動画や写真でプレゼンしたり、整理整頓されたデータベースや、インターネットが、ものづくり情報の空間移動手段として、必要とされるのだろう。

そんな、素敵な家と車に替わるのような、共有できる空間と情報が用意されたうえで、台本のない、ものづくりの、セッションによって、人と人が出合い、技術と技術が出合い、技術とデザインが出合い、新たな、ものを、生み出す可能性を、参加者のそれぞれが、模索していて。それにしても、ナレーションというのか、コメンテーターというのか、ファシリテーターというのか、そういう立ち位置の役割が、そんな出合いの、触媒となって、その反応を引き起こしたり、促進したり、それに、プレゼンテーターや、視聴者に、エエ緊張感とリラックスを与たりする役目としても、その必要性を感じる昨今で。

テラスハウス的に、複数人で、多様な意見を述べるのが、面白そうで、そういう意味では、参加者のそれぞれが、必要に応じて、そういうファシリテーターの役割を認識し、自らが手を挙げて、その役目を演じることを求められているのが、セッションたる由縁なのかもしれない…..。それに、そのまま、その場所で、懇親会に移行できるのも、案外重要なことかもしれず、セッション後の空気感のまま、飲んだり食べたりすることで、その時、言えなかったコトや、言い過ぎたコトが、消化されていくようなイメージ。

そんなこんなで、今回は、このセッションを通じて、できた、タツミ化成工業の固城さんとシューズミニッシュの高本さんとの製品紹介の話題で盛り上がり、江原製作所の江原さんが、プレゼン用として、レーザーカットした、キャンプ用のネームプレートが共感を呼び、glass tailor 吉田さんが持ち込んだ、見た事も無いオモロイ眼鏡の話題が、これからのプレゼンのための、たたき台になったりし、20歳のデザイナー masisi designの赤松くんが、へら絞りの吉持さんに依頼して造った製品のプレゼンが、その製品に対する、さまざまなコメントやファッシリテートによって、参加者のそれぞれに、これからの、ものづくりのメンタリティーとして、起爆剤のようになりながら、その時のそれぞれの印象が、懇親会で、食物のように、消化されていくさまが、妙に印象的な土曜日の夜だった。

客人

秋らしい、とっても良い天気の連休。木村家へ、遠方より、二組の客人があった休日で、木村工務店のヒラボシ大工のお母さんと娘さんが、息子の造った家を見たいと、四国から大阪に遊びに来られて、芦屋で、堀賢太さん設計による住宅の新築工事のお引き渡しが、2週間ほど前にあったばかりで、その建物の大工担当がヒラボシくんだったので、自らがお母さんを車で案内したという。丁度、施主の奥さんも在宅だったらしく、家の中を案内頂いたそうで、お母さんは、そのコトに、とっても喜んでおられて、この場をお借りして、お施主さんにお礼を申し上げたい。

その後、うちのリフォームをした家に立ち寄って頂いた。減築リフォーム工事をするにあたって、2階を撤去する作業は、想定以上に、タイヘンな作業で、その作業を真面目にコツコツと、他の大工さんたちと一緒に取り組んでくれたのが、ヒラボシ大工で、特に、庇を1500mm持ち出して浮かすために、片持ちの補強梁を取り付ける墨付けとその作業や、庇の軒桁が8190mm柱なしで浮いていて、その軒桁を追っ掛け大栓という継ぎ手で繋ぐ作業を、ベッショ棟梁から任されていた。その時の写真が残っていたので、ダイニングテーブルのテレビ画面に表示して、アレヤコレヤと歓談した。

四国から高校卒業後、大阪の専門学校の大工技能学科で大工の実技を学んで、2級建築士を取得してから、木村工務店をインターネットで調べて入社した、社員となった大工で、ご両親にとっては、息子さんが、大工さんとしてどんなふうに働いて成長してるのか、特に、社員といっても、大工という職人気質な世界で、どんなシゴトをしているのか、想像できにくいゆえに、見てみたいというのは、当たり前の事なのだろう。

大工という職人さんが減少していく昨今。棟梁が弟子を取るという仕組みが、成立しにくくなっていて、それは、棟梁の賃金が、弟子を取りながら、自分の生活が営めるという、賃金体系でなくなってきたコトが、大きな原因なのだろうが、社員として若い大工さんを雇用し、ひとりの大工の棟梁に預けて、技術と職人としての心構えを教えてもらうと共に、会社の社員として、お客さんへの対応や、社会人としての心構えなど、会社組織のなかから学ぶ必要があるのだろうし、さまざまな心のケアーを含めて、会社の社員が、大工さんのための「ファシリテーター」となる必要性に迫られる昨今で、ちなみにweblioによると…..。

ファシリテーションとは、参加者の主体性を促し、多様な人材から、それぞれの経験や専門分野を尊重しながら、各人の多様な意見やアイデア、動機などを最大限に引き出し、話し合いにおける相互作用のプロセスをより有効・有益にするための、働きかけを意味する。その結果、問題の解決、新たな創造、気づきや学び、相互理解や情報共有などを促進する。

ファシリテーションは、「目的達成」、「時間」、「人の力活用」という、トレードオフにある3要素を最適化しながら、議論や学習、交流などの進行を促す「機能」である。
このような機能を果たす人のことを、ファシリテーターと呼ぶ。ファシリテーター以外にも、その機能を部分的にメンバーで分担したり、(例:議論の可視化を別のメンバーが行う。)、設備・ツール類などで機能を補完したりすることもある。

ここ数年、しまなみ海道で、自転車に乗るために、「LINK輪空」という宿に、毎年宿泊をしていて、そこでオトモダチになった、東京と鳥取からの友人4人が、大阪の、それもど下町の、生野区小路の我が家まで、泊まりがけで遊びにやって来て、偶然にも4人が、外科医や歯科医や大手製薬メーカー役員や医療事務など、医療関係者だったのが、オモシロイシチュエーションで、うちの家を案内したあと、チリトリ鍋の「げんや」とバー「ソケット」で、JAZZ談義や四方山話で盛りあがる連休の夜だった。

そうそう、うちの大阪のおばちゃん代表としての奥方が、東京の癌手術の外科医に、ゴーヤで、膵臓の癌が消滅した、友人の例を紹介し、その話題が、漫才のボケとツッコミのごとく、感覚的感情的人生の大阪おばちゃんと、科学的職人気質的人生な外科医との、オモシロ可笑しい議論として展開し、うちの家の食卓のテーブルで、そんなアーダコーダが、深夜3時頃まで繰り広げられて、あー、とっても印象深い夜だった…..。

58歳と59歳の男女5人で、大阪の下町を歩く。全員が、還暦以降の生活に向けて、どことなく、憂いのようなものが、漂っているところに、こんなメンツでのまち歩きの面白さがあるとおもうのだけれど。地下鉄小路から鶴橋で降りて、あの迷路のような商店街を彷徨う。うちの奥方は、富田林の新興住宅地出身で、西宮芦屋の阪急沿線での結婚生活に憧れていたらしいが、30年以上もここに住んでいると、私以上に、鶴橋を知り尽くしていて、この道右、ここ左と、ロコな案内人となっていた。

鶴橋から環状線で天王寺で降り、リニューアルされて屋根形状が面白くなった天王寺の歩道橋から、ハルカスと通天閣を眺め、天芝の向こうに見える大阪城のようなラブホテルをさして、これが大阪城ですわ!という、ベタネタは必須で、建築関係者として、街づくり的に、あのコテコテベタベタな光景を受け入れるかどうかは微妙な問題だろうが、これこそが大阪的ですわ!と多様性として受けとめることはなんとかできそうで、ハルカスや通天閣やラブホテルを眺める天芝の、オープンスペースとしての良さを、多くの人達が享受している、そのエエ感じの姿を眺めつつ、通天閣まで歩いた。

じゃんじゃん横町をおっちゃんおばちゃん5人で歩きながら、串カツ食べたいし、立ち飲み屋に入りたいし、レトロな喫茶店でミックスジュース飲みたいし、将棋も打ってみたいし、コルク玉の鉄砲で的撃ってみたいし、スマートボールもやってみたいし、そんな気分にさせられるのが、通天閣界隈の面白さなのだろうが、それにしても、コテコテベタベタのあの「看板たち」こそが、大阪らしい魅力かと眺めながら歩いたが、この地をチョイスする「決断」をくだした星野リゾートは凄いな。

朝食が遅く、天芝のお店は、どこも予約待ち、串カツ屋は長蛇の列、40年ぶりぐらいの通天閣登頂を目指すも40分待ち、ここは歩いて、お腹をすかせてみようと、通天閣からそのまま歩き続けた。あの人通りでいっぱいだった、でんでんタウン日本橋は、ガラガラで、様変わりを寂しくおもい、ナンバ側のストリートだけは、電気屋さんより食べ物屋さんが増えて、若いおたくで、いっぱいなのに、ちょっとした疎外感で通過し、きっと9割がアジアの観光客で、店先で食べられる市場として急速に変貌する黑門市場の微妙な活気を、肩を触れ合いながら、感嘆とともに通過し、結局は、天王寺から地下鉄日本橋まで、そこそこの距離を歩いたことになって、ミドルエージ全員が足の疲れをはっきりと感じつつ、地下鉄で新深江まで戻って、「桃太郎」で、モダンいも豚玉のお好み焼きを食べて、大阪らしい味で疲れを癒やすことで、ようやく小路のうちの家まで辿り着いた。

客人と、大阪の「まち」を、会話を挟みながら、ウォーキングのように、そこそこの距離を歩いて、見て、食べて、飲むのも、エエもんだなぁ…..。

この日の思い出を見る

フェースブックに、「この日の思い出を見る」というメッセージが出る時があって、数日前に、6年前の思い出を振り返るメッセージがあり、それが、2012年の10月13日土曜日に開催した、「木村家本舗」という、うちの家をオープンホームするイベントでの動画だった。ひとつめは、夜の宴の様子→
もうひとつは、昼間の「道路」というバンド演奏によるガーデンカフェの様子→
その日のコトを、こんなブログとして書いていた。

今週の金曜日の夜のコト。デザイナーの美船さんが、味園ビルの1階で、プロダクト展を開催していて、うまく時間が取れたので、夜に、食事を済ませて、地下鉄で出向く。小路駅から日本橋で降りて、堺筋を歩いて南に向かうと、すれ違う人全員が、インバウンドの観光客ではないのかとおもえるほど、アジア人の行き交う人が多いのに、少々驚くが、ま、なんとなく、こういう光景にも、少々見慣れてきた感じ。

黒門市場のゲートを左手に見ながら、右に曲がって、ひとつ目の通りの右側の角に、ユニバースの看板があって、そこに、「まちのえんがわ」でワークショップをしてくれている造園家のイエタニさんによる、オブジェのような木の鉢でできた植木がデーンとあり、そこが味園ビルなんだけれど、その少し手前の雑居ビルに、地下に降りる階段があって、そこに古くからのJAZZのライブハウスがあり、学生から社会人になった頃は、足繁く通っていた。きっと、その当時は、一気に、社会人モードになって、学生の頃に持っていた、ハートのようなものが、失われていくコトに、抵抗していたのだろう…..。

そうそう、当時、そこに、チーボーと呼ばれている女性がいて、時々偶然出会すのだけれど、歌うこともなく、ピアノを弾くこともなく、音楽に悩んでいるらしく、そこの常連の人や、ママや、ミュージシャンたちと、一緒にワイワイいって楽しく過ごす夜だったが、ある日、アヤドチエとして、超有名人になって、テレビに出て、ピアノを弾き、歌っている姿を見るようになって、驚くとともに、紅白歌合戦に出ている姿を見ると、ちょっと嬉しくもあった。

そういえば、そこの何人かで、ライブ・アンダー・ザ・スカイに出るマイルスを見に行こうということになり、昼間で、芝生でゴロンと出来る場所があるので、まだ長男が2歳ぐらいで、ハイハイから歩き出した時期だったが、奥方も伴って、一緒にコンサートを見にいった。赤いトランペットを持ったマイルスが、客席まで降りて来て、ブローしている姿が、とっても印象的なコンサートだった。

その、地下に降りる階段を、右手下に眺めながら、そんな思い出を走馬燈のように想い出しつつ、味園ビルに入ると、美船さんのプロダクト展は、素晴らしく、もはやアートとも呼べるプロダクトで、何気ない金物に、職人気質なコダワリを強く感じたんだけれど、そこで、顔見知りの沢山の人達と会って、アーダコーダと話している中に、なんか見た事あるような、初めてのような、もちろん私よりずっと若い男性がいて、ちょっと気になったので、横にいた、イエタニさんに、紹介して欲しいというと頼むと、その男性が、キムラさんでしょ!何年か前に、お会いしていて、実は、木村家本舗のイベントで、「道路」というバンドとして出演し、ベースを弾いてたのです!という。地下鉄に乗りながら、フェースブックの「その日の思い出を見る」のメッセージにより、「道路」の演奏の、その動画を再生していた直後だったので、えー!っと驚いた。

それにしても、これは、フェースブックが仕組んだ、必然なのか、偶然なのか、カコを振り返るという仕組みは、どんなアルゴリズムというか、AIと呼ぶのか分からないが、どんな「プログラム」として出来ているのだろうか。同じ時期の、6年前という時間と、いま、とは、なんらかの因果関係があるという、ビッグデータのようなものが、あるのだろうか…..。

この日の思い出が、ノスタルジーとなり、センチメンタルになる時もあれば、フレッシュなエネルギーに還元される時もあって、新たな活力の兆しを見出したような夜だった。

3「音」

瓦コースターワークショップがある日曜日だったが、地震被害と台風被害が相次いで、瓦屋さんの現状は、タイヘンらしく、うちの瓦屋さんも、現場の施工以前に、見積を出すコトが儘ならぬ状況で、それで、見積を出してもらうために、番頭さんをうちの会社に来てもらって、現場監督や設計担当者が撮影した写真と寸法を見せて、2時間ほど、缶詰状態で、見積をしてもらうという作業が、精一杯な状況で、そんなこんなで、瓦に関係するこのワークショップは、早々に中止となってしまった、そんな日曜日だった。

ワークショップが中止になったので、コトバノイエのカトウさんから、「The night of voice 02 at 箕面の森 」というポエトリーリーディングのこんなお誘いがあった…..

□ 催しのお知らせ

秋の夜に、言葉を聴く。
人の声の響きに、耳をすますひととき。

詩だけでなく、小説の一節や歌詞などを、ぼくの知っている素敵な人たちに詠んでいただこうということではじめたこのポエトリーリーディングなんですが、今年は縁あって箕面の滝道にある音羽山荘で行うことになりました。

音羽山荘は、大正15年に建てられた木造の邸宅と美しい石組みの庭園に4つの客室を配した和のオーベルジュともいえるちいさな旅荘、10月は箕面のシンボルともいえる紅葉がちょうど色づきはじめる一年でもっとも美しい季節です。

風のざわめき、虫の声、そして蝋燭の灯り。

古色豊かな庭園の夕暮れから夜にかけてのしっとりとした雰囲気の中で、きっとふだんあまり耳にすることがない「人の声の響き」を、五感で感じていただけるのではないかと思っています。

また、この音羽山荘では「美・感・結・味」をテーマにBOOKS+コトバノイエで選書させていただいた本棚「森のライブラリー」がこの秋に完成し、一般の方には開放することのないそのカフェ/ラウンジスペースも、このイベントのためにオープンしていただきますので、本の世界も合わせてお愉しみください。

コーヒーは、豊能町のカフェEmma Coffeeがスペシャルティコーヒーを、
フードは、音羽山荘の母体でもある音羽鮨から板前さんをお呼びして、お寿司を握っていただきます。
そしてもちろん、ビールやワインも。

それほど広くはない場所なので40名限定という募集なんですが、みなさまのご参加をお待ちしています。

どうぞよろしく
BOOKS+コトバノイエ 店主敬白

詠む人
中川和彦 / スタンダード・ブックストア
橋本健二 / 建築家
高橋マキ / 文筆家
室千草 / 映像作家
蓮池亜紀 / 設計事務所はすいけ
石崎嵩人 / バックパッカーズジャパン
鈴木晴香 / 歌人
川瀬慈 / 映像人類学者

「音」が好きだったりし、音楽でも、歌詞の内容が邪魔だなぁ…..とおもう時があって、コトバとして理解出来ない英語の音楽に魅力を感じてた頃は、歌詞に惑わされない音楽に魅力を感じていて、徐々にJAZZが魅力的になっていった時期は、そんな嗜好の影響が大きかった頃なのだろうが、ま、それはさておき、言霊としての詩の魅力というのに心動かされて、胸に独特の波動を感じたり、涙目になる時も、もちろんあるわけで、ただ、今回のポエトリーリーディングでは、個人的な嗜好も反映して、音楽のコンサートのように接して、音としてのVoiceを聴いた。

そんなわけで、朗読した詩の内容がどんなのだったか、よく想い出せないが、それぞれの音としてのVoiceの記憶はそれなりに残っていて、箕面の秋の夜に、静かに鳴き続ける虫の声、川が流れ続ける水音、時折通る車の音、和蝋燭独特の「ゆらぎ」の音?、十三夜の月の音?、それらのバックグラウンドミュージックとともに、それぞれの歩んできた人生に応じた、Voiceとしての「音」を聴けたのが、じんわりと楽しい秋の夜長だった。あっ、それとともに、静けさも聴いた気分。

ジャズのビルエバンスのアルバム、ワルツフォーデビーが、あのNYのビレッジバンガードで、お客さんのざわめき、グラスの音、それらが背後に流れ、そんななかで、ピアノとベースとドラムのトリオが、表面的には静かな音楽として奏でながら、3人それぞれが、絡み合いつつ、内面的に熱いセッションを繰り広げていて、そんな「音」が魅力的だったりし、朗読を聴きながら、そんなコトを、一瞬、思い浮かべた。

午前中は、孫が通う体操学園の運動会があり、2歳児でも、走ったり、飛んだり、前転したり、踊ったり、リレーしたりする姿に、微笑みとともに、心洗われる感じがし、子供達のVoiceと見学する親たちの歓声の「音」に、心地良さを感じ、親の立ち位置の時は、渋々気味に参加していた運動会が、「ジー」の立ち位置になると、全く違った価値観の運動会になって、親の時に、こういう気持ちに、なぜなれなかったのかぁっ!とちょっとだけ反省してみた。

その流れで、自転車に乗ったまま、生野祭りを見に行く。毎年、生野祭りの舞台を造る仕事をしていて、そのわりには、当日の祭りを見たのは、2度ほどしかなく、久しぶりに会場に行くと、屋台やフリーマーケットと共に、生野区の地車が大集合し、地車囃子が、ポリリズムのようになって奏でる「音」の迫力で、心が躍るとともに、大人数で大阪締めをする「音」が、不思議と心地良く、もう少し何かのエッセンスが加わわれば、もっと多様な人達が楽しめるお祭りになるような気がして、それが、いったい、なんだろうか…..と考えてみた。

3カ所で、それぞれの、心地良い「音」を聴いた日曜日だった。

イエで。

10月のとっても気候の良い日曜日。建築家文ちゃんが、遊びに来ているよ!と「まちのえんがわ」のアオキさんから電話があって、縁側に赴くと、「シャチョウ自転車に乗っているかとおもってましたけど、イエに居てたんですね」といわれて、あれやこれや、それらしく、イエに居る事になった、言い訳のようなコトを語ってみたけれど、こんなエエ気候の日曜日、窓を開け放って、イエでダラダラ過ごしたい!というのが、本音なのだった。

体育の日の月曜日は、同級生のニシノくんと、柏原リビエールホールで待ち合わせをし、石川沿いから金剛山ロープウェーまでライドし、マス釣り場の手前にあるウッディーハートのパスタランチを食べて帰宅したこともあって、運動量とともに、それなりの満足感に満たされていたが、木曜日の夜、NHK BSプレミアムの「英雄達の選択」が「日本を生んだ戦い新視点 壬申の乱」で、それを見ていると、明日香に行きたいなぁ…..とおもえてきた。

日本の歴史の中でも、大化の改新や壬申の乱や藤原不比等の時代に興味がそそられるところがあって、それが、中大兄皇子が天智天皇で、大友皇子が弘文天皇で、大海人皇子が天武天皇で、その后が鵜野皇女の持統天皇で。中臣鎌足が藤原鎌足になりその子、藤原不比等が比ぶ者なき人物らしく、その娘宮子が、軽王子から文武天皇となった人と結婚し…..。それに難波の宮、飛鳥板蓋宮、近江大津京、吉野宮、飛鳥浄御原宮、藤原京、平城京とそれぞれが都を造り、伊勢神宮も出来て、もう面倒くさくなる構図で、昔からよく理解出来ず、そのまえに、物部守屋や蘇我馬子や聖徳太子や乙巳の変があり、そこに、唐、百済、高句麗、新羅の戦いと白村江が絡んできて、倭国から日本国として誕生する歴史なのだが、いつも頭の中が混乱している状況で、それゆえにそんなのが面白いのだろう。

ちなみに、うちで施工に携わっている、小路にある清見原神社は、天武天皇が、飛鳥浄御原宮から難波の宮に行幸する際に、清見原神社の場所に立ち寄って休憩し、吉野はどのあたりになるのだろうかと眺めたらしく、近くには、吉野見通りという地名も残っていて、天武天皇が崩御したあと天武天皇宮と称していたらしいが、そんな縁も、興味の素となっているのかもしれない。

前回のブログに書いた磯崎新の「資源のもどき」の「イセー始原のもどき」では…..『イセは強力なデザインする意志によって、あらたに創出された虚構というべきであった。決して自然な生成にまかして生まれたといった進化論的な視点で説明出来るものではない。背後に日本独自のものを組み立てねばならぬという政治的要請があったためである。』と建築的な視点を交えてのオモシロイ考察があり、『何年も繰り返される式年遷宮とは、すなはち始原のたび重なる反復である。』などなど、日本を形作るあの時代の歴史を垣間見るにあたり、歴史全体に煙幕のようなものが立ちこめていて、それゆえに興味がそそられるのだろう。

何回か明日香まで自転車で行っているが、できれば、今度は、下ツ道を通って、明日香、藤原京、平城京まで辿ってみたい、グーグルマップで眺めているだけの稗田と番条の環濠集落も自転車で抜けてみたい。そんな気分が週末にかけて沸々ともたげてきた。そうそう、自転車に乗ってみて最も気付くことは、難波の宮があった大阪から、明日香や平城京に行くのには、そこそこの峠を越えなければならず、それがとってもタイヘンで、大陸から難波津に着いて侵攻するコトを考慮すると、明日香に都を築く気持ちも、遠く大津の宮まで移転したいという気持ちもなんとなくわかる。

土曜日のお昼。吉野の坂本林業のサカモトさんのコーディネートで、タケナカコウムテンの若い設計の方々が、数名でお越しになって、皆で、カレーを食べながら、建築談義で盛りあがった。気候も良かったので、窓を開け放ち、10人で、テーブルを囲んで過ごす、心地良いひとときで、その余韻が暫く「空間」と「私」に残っていた。それが、日曜日の朝、明日香に向けて自転車に乗る気分以上に、イエでダラダラ過ごす心地良い日曜日を味わいたい…..という気分となった理由なんだろうな…..。

本頂戴記

ここ数年、本を買うきっかけを失っていて、なんとなく本と出会う機会が少なくなってきたひとつに、新聞を取ることを止めてみて、ネットのお陰で、全く不便を感じることかない世の中だが、なんとなく新聞の広告や書評を見て、それが本を買うきっかけになっていたなぁ…..とおもうわけで、そのものズバリの本を買わなくても、それが微妙な刺激となって、本を買っていたような気がするわけで、本を手に取るに至る刺激が少ないと、TSUTAYAの枚方や梅田に行っても、綺麗で美しく気持ち良い空間で、本を手に取るわりには、いまいち購入まで至らないことが多く、Amazonでポチりと購入することがほとんどになってきた昨今、自転車の走行履歴のように、本屋さんに入店すると、手に取った本履歴のようなものがIotの技術によって記録されて、家に帰ってから、それをあらためて眺めながら、Amazonで購入したいともおもったりする。

それに、3年ほど息子家族と同居していたので、お互いの居場所のようなものに気を使いながら生活していた感じで、本を読んだり音楽を聴いたりすることに、微妙な躊躇いがお互いにあって、同居の間は、本や音楽から遠ざかっていたが、ここ数ヶ月、庭を隔てた向かいのリフォームした家に移り住むと、不思議と、音楽と本と映画が、私の居場所というか、テリトリーのなかで、復活してきた。

なので、偶然か必然か、お盆前に、3人の方から、3冊の本を頂戴することになって、積極的に本を求める気質が喪失しているここ数年の「私」にとっては、とっても有り難い贈り物で、一冊目は、「まちのえんがわ」の本をコーディネートしてくれている、コトバノイエのカトウさん夫婦と一緒に、うちのイエで食事をする機会があり、その時に「人間のための街路 B・ルドフスキー著 平良敬一訳」を頂戴した。最近の「まちのえんがわ」の本棚のテーマは、「界隈」で、ま、そんなこともあって、まちと関わりを持つようになってくると、書店の本棚から手に取って眺めた程度だった本が、あらたな価値観が与えられて、「私」の手元にやってきたような感じがして。そうそう、その本に刺激を受けたからだろう、ネット上で、何かの書評を読んでいるときに、リンクで磯崎新の書評に飛び、そこのリンクにあった「資源のもどき 磯崎新著」をクリックすると、Amazonにとんで、買ってしまったりした。そんなのが、いまの本の買い方なのだろうな…..。

二冊目は、大阪市立デザイン研究所の生徒さん達が、「まちのえんがわ」と、うちの家の見学に来られた時があって、その先生が、自動車メーカーのMAZDAのデザインに関わっている女性で、数日後、一緒にお話しする機会があって、とっても印象に残る時間を過ごした。後日、「MAZDA DESIGN 日経デザイン廣川淳哉著」が送られてきた。帯には、「デザインがブランドとビジネスを強くする」と書かれてあって、工務店という立ち場として、イエのデザインをどうするか…..。カイシャをどうしていくか…..。と読みかえる切迫感に迫られるのが「私」の立ち位置でもある。

三冊目は、昨年、長男の同級生で、ベルリンに在住するユウトのアテンドで、息子二人とユウトのオトコ4人で遊んだベルリンの3日間は、良き想い出となったが、その時、機会があれば、紹介するよと言っていた、ベルリン在住の日本人の方の完成したばかりの著作を送ってくれた。「ベルリン・都市・未来 武邑光裕著」で、「ポストシリコンバレーの世界は、ベルリンの「ネオヒッピー」と「コモンズ」から始まる」とあった。名だたる建築家が建てた新しい建物のことでなく、シュプレー川沿い近くの古い建物を新しい用途にリノベーションした、そのまちの雰囲気と、人々が面白い、そのベルリンをみて、日本をどうおもうのか!とユウトが問うてきた。

こういう「ギフト」を通じて、新たな印象と刺激を受ける時代なのだろう。あらためて、本を頂戴した3人の方に感謝したい。

台風24号の日曜日

台風24号の接近で、今日の日曜日の「まちのえんがわ」タイルワークショップは、土曜日の午前中に中止の情報を流すことになって、確かに、あの台風21号以上の台風が、大阪を通過するという台風予想が延々と流れ、不要不急の外出を控えて下さいというアナウンスがあると、致し方ないわけで、何よりも、百貨店なども休業を宣言し、交通機関も早々に運休を決めるなど、災害対応に対する世の中の流れが、一気に安全側にシフトされて、そこまでしなくても…..。と思う気持ちと、これで良いのだ…..。とおもう気持ちが微妙に交錯するわたしの内面だが、あの台風21号の被害状況を常に想定すると、その都度の台風の現実的な「いま」の状況に応じて、対応するのは、不特定多数のリスクが伴いすぎて、ムツカシイから致し方ないのだろうな…..。

そんなこんなで、家で、一日中、台風情報を見ながら待機して過ごす日曜日。といいたいところだったが、建築家の今津さんから、自邸のオープンハウスのお誘いを頂いていたが、ワークショップと重なっていたために、断念の旨を伝えていたところ、うちのワークショップが中止となり、それに、午前中の天気は、曇ってはいるものの、風も強くなく、穏やかだったので、夫婦でお伺いする事にした。そうそう、丁度、2週間ほど前に、照明のナガトミさんと、家具のシラサカさんと、設計のイマズさんと、息子のタカノリとで、リフォームをしたうちの家で、食事をする機会があって、その席で、オープンハウスのお誘いと、建築家の青木淳さんの講演会のお誘いがあり、それで、3日程前に、その講演会をご一緒し、公演後、ニューミューヘンで、建築談義をして楽しい夜を過ごしたこともあったので、なおのことだった。

オープンハウスは、沢山の建築関係者がいっぱいだったので驚いた。道路にも溢れ出るほどの人で、台風接近の影響で、午前中にお邪魔しようと、皆が、そう考えていたからだろうが、それにしても多くの人が集まっていた。これからの家のスタンダードだとおもえる、嫌みの無い素敵で居心地の良い木の家だったので、誰もが、立ち去りがたく、滞在していたからだろう。うちの長男タカノリも家族で参加していたので、そこで顔を合わせ、そのあと、台風の接近を気にしながら、現地近くのイタリアンで、ランチをした。孫と食べるランチは、ガサガサして落ち着かないのに、なんだかとっても楽しい。

お昼からは、台風情報と過ごす一日となった。夕方が大阪に台風接近する本番らしく、その開演を心配しながら待つような心境で、テレビで台風状況を確認しながらゴロゴロしていると、孫イッケイがやってきて、レゴやなんだかんだ、床の上に広げて、遊ぼうと誘ってくるので、マイルスの音楽を、アルバムのラウンドアバウトミッドナイトから一曲だけ選曲して聴きはじめ、それから年代を追って順番にアルバムから一曲ずつチョイスして聞きながら、台風情報を気にしつつ、一緒に遊んだ。ちなみに、18アルバム18曲、ビッチャズブリューで、力尽きた。そうそう、先日の食事会の時に、照明のナガトミさんが、ブルージャイアンツというジャズを題材にした漫画があり、それが面白いので、読んでみてっ!と勧められて、初めて、kindle を使って、その漫画を10冊ほど読んだところだったので、そんなのが、潜在意識として潜んでいたからだろう…..。

台風21号被害の問い合わせが200軒ほどあり、そのために3週間ほど、現場監督と設計担当が、緊急な作業に手を取られて、現在進捗中の工事にも影響を及ぼし苦慮する状況で、そのうえ、この台風24号の被害が重なると、あらゆる工程が、深刻な状況に陥るので、夕方からは、ほんとうに心配しながら、NHKの台風情報を見続けた。幸い、直撃は免れ、風雨もたいしたことがなく、ほっと胸をなでおろす夜となって、どこかに、拍子抜けのような感情もあり、ワークショップ開催できたかも…..なんておもう気持ちも沸々してくるが、いや、でも、これからは、こういう、不要不急の外出を控える、災害避難待機休日が増えてくるのだろうな…..。

巡る。

連休が、2週連続で続く9月。土曜日に打ち合わせが多く3連休とはならないが、たまたま、自転車に乗る連休となって、奥方とウィリエールのキタムラくんと3人で安曇野に行く。昨年に引き続き2度目だが、今年は、安曇野から松本までライドした。奥方が参加すると、40キロちょっとの距離を食べて飲んでブラブラするのが、丁度良く、集落と集落の間にある、稲穂が金色になびく田んぼや蕎麦の畑の間を通り抜け、町に入って、黒い松本城を見ると、ヒューマンなスケール感に、カワイらしさを感じる。それに比べれば、大阪城や姫路城は巨大なスケール感の良さなのだろうな。

途中から鰻を食べようということになって、自転車で走りながらも、口は鰻の口になっていたが、12時過ぎに、松本城下の、「うなぎのまつ嘉」さんに到着すると、既に売り切れだった。10時30分頃から入店待ちで並んでいるらしく、それに、鰻の仕入れが良くないときは店を開けないらしい。凄い商売だな…..。それで、まちをブラブラすると、閑散としているのかとおもいきや、インバウンドの観光客が多いのに、凄いねぇ…..と感心し、アジア系よりウェスタン系が目立ったような気がしたが、それに、シニアな日本人カップルが多かったなぁ。そうそう、伊東豊雄の松本文化会館も外観だけみたが、周辺環境を知ると、なぜあの外壁なのかと考えてみた。

安曇野の二日目は、木崎湖から白馬まで往復50Km弱をやっぱり食べたり飲んだりしながらライドする。宿泊した「宿なごみの」の料理は美味しく満足感があったが、前日に鰻を食べれられなかった口惜しさが、なんとなく口に残っていて、白馬では、蕎麦を絶対食べるぞ!みたいな口に、3人がなっていたわけで、ま、ちょっと卑しいといえば卑しいわけで、そんなのが人間の持つメンタリティーなのだろうが、食べログから「林檎舎」をチョイスして行くと、蕎麦って、あの、いつものつゆで食べるものとおもっていたが、くるみだれ蕎麦が美味しく、3人とも蕎麦の追加を頼んで、昨日の口惜しさから解放された3人だった。

冬は、何度も八方でスキーをしたが、夏の八方は初めてだった。八方は、日本で一番良いゲレンデスキー場だとおもうが、夏は閑散としていた。みそらの地区の「サウンドライク」で珈琲とケーキを並んで待って食べたが、それでも、夏の白馬のまちに軽井沢のような活気はなかった。橋から眺める夏の八方も独特にエエ感じだし、意外に、オリンピックジャンプ場が良かったが、八方が、軽井沢になりえないのは、なぜなんだろうかね…..。まちと建築のありようが、なんとなく、いまいちな気がしたが、何を変えれば良いのだろうか…..。夏向きな建築じゃないのだろうし、住民の意識にも、何かの違いがあるのだろう…..。なんて、そんなことを考えながら、白馬のまちを自転車で巡った。

ここ数日、雨が続き、台風被害の養生作業が何軒か残っていて、養生作業中に落下した職人さんがいた。というよその職人さんの情報もあって、うちの職人さんたちに聞くと、足に力がメチャメチャ入ってますわ!と云っていて、養生を焦らず無理せず気を付けよう!と申し合わせたりした。そんななかの、連休日曜日の今日の早朝は、久しぶりに天気が良く、先週に自転車は乗ったが、奥方と一緒だったので、距離は走れず、それに、食べて飲んでで、消費カロリーより取得カロリーのほうが圧倒的に多く、運動になった気がせず、それで、朝から自転車に乗る。

十三峠を越えて奈良に行ってみる。薬師寺の横を通り抜け、東に走る。しばらく走って、北向きに進路を変えて、奈良町を通り抜け、猿沢池をくるっと回って、奈良公園の中を突き抜けて、東大寺南大門の前にでる。9時過ぎ、ひとが多い。インバウンドでいっぱい。凄い。転害門を通り抜け、途中、植村牧場で休憩をすると、自転車乗りの地元の年配のおじさんが、何度も東大寺に行くけど、インバウンドが増えてから、朝の早い時間から観光客が多いわ。という。日本人の旅館の習慣やったら、朝、お風呂に入ったり、朝食ゆっくり食べて、ゆっくり宿を出るひとが多いけど、習慣が違うからやろね。と。なるほど。

奈良少年刑務所跡の奥まったところから、東大寺の屋根が綺麗に見えるよ!と案内してくれて、そのオジサンと別れた。それにしても東大寺の屋根は美しい。そのまま木津川を走り、流れ橋のところで、お昼前で、淀川を通って帰ろうかともおもったが、天気もよく、先週の影響か、もう少し距離を走りたい気持ちもあって、そのまま、流れ橋をわたり、伏見の寺田屋の前を通過し、伏見稲荷から三十三間堂を通り抜け、東山ドライブウェーを超えて、南禅寺の前に至る。カイジンがいっぱい。いろいろな民族のひとが、日本を訪れて、いろいろなガイジンと出会えるのは、エエなぁ…..と私はおもう。そうそう、流れ橋から広大な田んぼの中を抜けると安土桃山城を眺めながら走る場所があって、こんなところを通り抜けたであろう戦国時代の武将の気分に一瞬タイムスリップした。

銀閣寺横、金閣寺横、龍安寺横、仁和寺横を通り抜け、ようやく嵐山に辿り着いた。凄いひと! 河原のベンチで休憩するひとの、四分の一ぐらいが、外国の観光客なのが、国際的で、エエとおもう。それにしても、流石に疲れ、ゆっくり休憩した後、淀川河川の自転車道40kmほどをひたすら走り抜け、毛馬のこうもんから、大阪城の横を通り抜けて、家に辿り着いたのは午後6時すぎで、170kmも走ったのは初めて。少々、お疲れですわ。

編集と融合と発酵

台風21号の余波で、その対応に追われる一週間で、雨が降り続いていたために、おもうように養生作業が進まず、現場監督も設計担当も手伝い職の職人さんたちも、通常作業が滞り、なんというか、地に足がつかない状況だったが、それも今週で、ほとんど収束する様相で、といっても、これからが本番で、保険対応の見積作業に追われるのだろう。

そういえば、保険対応の見積は現状復旧が基本だそうで、この際、仕様を変えて…..なんていう気持ちが沸き起こるのが人情で、ま、そんなのが、見積作業を複雑化させるのだろうし、いや、それにしても、現状でも職人さん不足なのに、地震や台風がよりその状況を複雑にし、この先、うまく対応出来るのだろうかと不安になっているのが、いまの工務店に関わる人達のメンタリティーで。そんな意味では、この連休が、ひと息付けて、エエ休みとなって、エエ間合いとしてリフレッシュできればと願う。

そうそう、なんだかんだと打ち合わせがあった土曜日だったが、夕方に「ほうば」という韓国料理のお店に食事に行った。予約が取れないお店らしく、予約していた方と一緒に行く予定のひとが都合が悪くなり、それで、うちの奥方と私にお誘いがあって、棚からぼた餅的状況だったが、私は、な~んとなくついて行くぐらいの軽いのりで参加した。

そういえば、偶然のことながら、予約していた方の屋根が、この台風21号で被害に遭い、この食事会の前に、その養生作業が出来たのが、食事の気分を少々盛り上げてくれたのだろうし、そうそう、お店に入る前に、1階のベーカリー店の前で、リフォーム工事をしたお施主さんとすれ違って、お互いにすれ違ってから、ひと呼吸置いて、想いだしたように、振り返って、あっあっ木村さん、あっあつご無沙汰です!なんていう出合いが、食事前のテンションを上げてくれたのだとおもう。それにしても、どれもが新鮮で斬新で美味しい料理で、辛みに心構えをしながらテーブルに座ったが、最初に出てきた15種類のナムルの味から、甘みのような旨味があり、日本的イタリア的韓国料理とでもいうのだろうか、そんな料理が最後まで続いた。

なによりも驚いたのが、その予約をしてくれた方が、食事が終わり帰る前に、次の予約をお願いすると、来年の3月だと告げられたことで、それでも、その3月にどんな気分になっているか、食べたい気分なのかどうか、わからへんけど…..、なんて云いながら予約して、別のテーブルのひとも帰り際に予約をしていて、そういえば、先日のモダンスパニッシュの「FUJIYA1938」も隣のテーブルのひとは、食事終了後、次の予約を取っていたが、そんなのが、流行っているお店のひとつのステータスなんだろう。そうそう、ほうばさんは、午後5時から予約の食事が始まるのが新鮮に感じたなぁ…..。

イタリアンなのかフレンチなのかスパニッシュなのか。日本なのかイタリアなのか韓国なのか。そんなのが上手く編集され融合し発酵までした料理に、新鮮さを感じて、沢山のお客さんが生まれ、商売繁盛する姿を垣間見たりするわけで、住宅建築も、そんなさまざまなスタイルを編集し、融合を通じて、少しの時間の経過とともに、発酵という現象まで起こった家造りが、求められているのだろうか。と考えてみたくなる食事だった。工務店としての在り様にも新鮮さが求められているのだろな…..。

台風21号

台風21号が接近するという火曜日の朝。百貨店が早々に休業を決めて、電車も午前中で運休するらしく、かといって、工務店という立ち位置の私たちが、平日の明るい時間帯に休むというのは、不自然で、会社か現場で待機するのがフツウなコトだろうし、それで、現場養生を済ませた現場監督は、午前中に会社まで戻って待機しながら、パソコンに向かってデスクワークをしていた。

午前中は、テレビを付けて、台風情報を聞きながら、そうそう、ほとんどの現場監督と設計担当者が会社に居たので、お客さんの打ち合わせ室として利用している応接間のプロジェクターを55インチの液晶モニターに交換する作業を数人で決行し、わりとのんびりとしたムードが漂う会社の雰囲気で、明るい昼間の時間帯のプロジェクターの映像が視にくく、それが液晶モニターに変わって、見やすくなり、台風のお陰で良かったわ…..ぐらいのムードだった。

台風接近にも関わらず、ほとんどの大工さん達は、それぞれの現場で作業をしていたが、お昼のテレビでは、四国に上陸した台風が、神戸方面に上陸するらしく、芦屋で新築工事中のベッショ大工チームに電話を入れると、意外と、のんびりとした雰囲気だったので、NHKテレビの情報を教えて、すぐに会社に戻るように伝えた。他の大工さん達は、大阪市内、吹田、茨城、東大阪だったので、台風が通り過ぎるまで、現場で待機しながら作業をするということだった。

お昼過ぎ、南の空が少し明るくなってくると、社員の数人が、台風の目とちゃいますかぁ!と言いながら、わりと余裕の笑顔をみせていたが、午後2時頃になると、徐々に風雨が強くなりだし、会社の窓越しに、解体予定の長屋のブルーシートの屋根養生が見えていて、この勢いでは、そのブルーシートが飛びそうだったので、何人かで監視を続けていた。その数分後、猛烈な勢いの突風が吹き荒れ始め、あっっ!という瞬間に、そのブルーシートが空に舞い上がった。それを見るやいなや、本能的に、数人の現場監督と私が、会社から飛び出して、そのブルーシートを確保するために道路に出た。

体が飛ばされそうな嵐の中、電線に引っかかった、そのシートを確保しようとしていたら、突風が吹き荒れ、瓦やトタンやポリカや木材が、空から降ってきて、屋根に登ってその作業をしていたタカノリのすぐ横をかすめっていった。ヒヤッとした瞬間だった。なんとか無事に数人でシートを回収し、数メートル先の会社に戻ると、シャッターがレールから外れ、道に瓦やトタンや木材が散乱し、飛来物が命中したのだろうか、会社隣の住宅の木製建具の硝子と、会社前の戦前の長屋の木製建具のオールドな窓硝子が割れて、道路に散乱していた。幸いにも、現場から戻って、加工場で作業をしていたベッショ大工とヒラボシ大工とモリ大工が、突風のなか、バラ板とベニヤで、その2件の窓を塞いでくれた。

3階の窓から周囲を監視していたタナカくんが、4階屋上の保育園のフェンスが倒れて落ちそうになっているという情報を届けてくれたが、何人かと道路に出てみるものの、吹き飛ばれそうで、道を歩くこともままならず、暫く待機するしかなかった。窓から外を見ると、時折、トタンや木材や断熱材が空に舞い上がり飛んでいた。午後3時半頃になると嵐が収まってきて、それで、社員皆で、保育園の屋上に行って、一気にフェンスを回収する作業をした。屋上庭園にあった遊具が風で飛ばされて、隣の屋根の上に落下し、建物と建物の間に挟まっていた。近くの内環状線から消防車や救急車のサイレンが鳴り響いて幹線道路も異常な事態になっている雰囲気が漂い、誰しもが、フツウでないコトが起こっていると、ハッキリと認識するようになった。

午後4時半頃になると、風雨が収まり、社員皆で、会社周囲の道路の散乱物の片付けと掃除を始め出すと、近所の人達も道路に出てきて、道や路地に散乱した物を一緒に片付けた。会社裏の道路には、鉄骨造3階建て建て売り住宅の屋上パラペットが、飛来物に当たったのか、5mほどの長さのパラペットごと道路に落下していて、それを数人で担ぎあげて、軽トラックに積み込んだ。そんなこんなで、軽トラック3台分ほどの散乱物を片付けたが、環境局に電話をすると、あまりにも件数が多く、いつ引き取れるのか、判らないそうで、駐車場の一部が散乱物置き場と化した。

風雨が落ち着いてから、多くの電話が掛かりだした。屋根瓦が飛んで、養生して欲しい…..という電話を中心に、翌日水曜日の朝からは、電話が鳴り止まず、150件を超える依頼があって、手伝い職の松本組も2班に分かれ、現場監督と設計担当者も自ら養生に奔走した。本来なら、瓦屋さんや、板金屋さんが、養生するのだが、大阪の瓦屋さんは、先頃の地震による、高槻方面等の復旧がままならず、それに、この台風で、ほとんどパニック状態のようで、電話応対だけで、まともに作業することが出来ない状況らしい。ちなみに、「まちのえんがわ」で、10月に予定していた瓦コースターワークショップは、こんな状況下で、ワークショップをする時間と心の余裕がないとのことで、中止となった。

なかには、古い知り合いの方から電話があり、壁が崩落し、隣地に飛散しているので、何とかして欲しいということで、自転車で行くと、昔、あんたのおじいちゃんに建ててもらった家やで、お金無い時に頼んで、ちょっとずつお金を払ってくれたらエエで、というて、建ててもらったんやぁ。という50年ほど前の祖父の仕事に出会ったりした。

行政でブルーシートを配布することになって、とっても有り難い対応だが、案外、ブルーシートによる養生は、プロでも、なかなかムツカシく、土嚢袋に砂や瓦を詰めて重しにするにしても簡単にはできない。うちでも現場監督を中心に、タイベックといわれる透湿防水シートと気密防水テープを使った養生方法を使っていて、その方法があちらこちらで「流行」の気配で、とくにホームセンターでも購入出来る気密防水テープで、割れた瓦に貼り付けるなど、簡易な方法なので、利用し易い。

生憎、ここ2,3日雨が降り続き、養生作業が全く進まず、また仮に養生作業が完了出来ても、その後の、特に、瓦屋さんの対応は、全く日程が定まらず、やきもきする状況で、それでも台風被害状況をデータベース化し、なるべく協力会社の職人さんにスムーズに対応してもらえるように、バックヤードの作業は進捗中ですが、台風被害によるお困りの多くの皆さんには、建築業界全般の、現場監督と職人不足への、何卒のご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。

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