冬から春に移り変わろうとする、穏やかな日曜日。暫くぶりに体重計に乗ると、2kgほど増えていて、運動を怠って、食べ過ぎると、てきめんに太る。なので、日曜日の朝だけは、自転車に乗ろうかと一瞬おもったが、服に着替える気もせず、そのまま布団の中で眠ってしまった。そうそう、土曜日の昨晩は、吉野檜のサカモトさんの縁で、うちの家で集まるようになった、T工務店関連の若い設計者の方々7人と、夜遅くまで飲んで食べて「建築読書会」を催した。予想外に楽しくて、きっと、朝まで、その余韻が残っていたのだな。
運動の代わりにサウナで汗かいて痩せようと、スーパー銭湯の朝風呂に行くと、男湯はいっぱいだった。日曜日の朝に、ストレスを、お風呂で解消しようという、同じようなメンタリティーのオトコ達が多いのだろう。ま、そんなサウナで、抜本的に体重が減るはずがないことを、あらためて再確認したようなもので、やっぱり運動が必要な「年頃」なんだ。コメダ珈琲でモーニングを食べて、コーナンでちょっとしたもの買って、家に帰って、ソファーに座ると、唐突にJazzが聴きたくなった。日曜日の予定がな~にもなく、それゆえに、そんな空白な瞬間に、ふとシゴトのコトが気になって、シゴトが上手くいっている現場と、おもうように行かない現場と、そんなのが交錯している時に、こんなJazzyなメンタリティーになるのだろうか…。
コルトレーンな気分になって、iphoneのSpotifyから、アルバム「クレッセント」をチョイスし、Spotify Connect で、リビングのソニーのテレビに接続して音を出す。リビングのテレビには、真空管アンプとコンパクトなスピーカーを設置し、そこから音が出るようにセッティングしているので、微妙な音のニュアンスが判別できる、最低限なオーディオ装置で、「クレッセント」は、コルトレーンが、アルバム上で、神を目指すような音楽を演奏する前の、ある「節目」のようなアルバムで、よく聴くアルバムのひとつ。このアルバムを聴くと、エルビンジョーンズの微妙なシンバルのニュアンスが聴きわけられるオーディオ装置でありたいとおもうが…とりあえずこれぐらいで我慢しておこうとおもう。
次は、なんとなく「節目」というニュアンスで、マイルスの「ネフェルティティ」をSpotifyからチョイスした。レコードに針を落とす作法も、トレイにCDを置いてトレイが機械に吸い込まれていく感覚も、どれも捨てがたいが、最近はもっぱらiphoneでスクロールしながら、Spotifyのアルバムをチョイスして「次に再生に追加」をクリックする所作になって、時代の移り変わりを感じながら、これはこれで楽しい。「ネフェルティティ」も時代の移り変わりの節目にあるようなアルバムで、若い頃は、全く理解出来なかったが、年齢と共に聴く回数が増えて、エレクトリックなマイルスになる前のアコースティックな節目としてのマイルスで、テーマだけをウェインショーターとユニゾンで吹いて、それが真ん中に定位し、左側のハービーハンコックのピアノと右側のトニーウィリアムスのドラムがアドリブでしのぎを削るさまを、オモシロイとおもえるようになるまで時間がかかったし、マイルスが、オーラのようなもので、アルバム全体をコントロールしていく姿勢を楽しめるようになるのに、人生の経験と年齢が必要だった。
そうそう、土曜日の夜のコト。昨年の11月に、檜な縁で、うちで10人ほどの宴会を催し、そこで、建築話で、とっても盛り上がり、どんなきっかけだったか、とにかく、ケネス・フランプトン著「テクトニック・カルチャー」という分厚い本があって、というより、そういう本があると、その時教えてもらって、それを皆で読んで、語り合うコトになった。4000円ぐらいのその本は既に廃版で、中古で2万円以上する本になっていて、想像通り難解なわけで、3章だけを読んで集合!といわれても、20歳近く離れた若い設計者に比して、経験力は増え続けるものの、読解力は低下するいっぽうで、ま、なんとかひととおり目を通す程度で臨んだが、参加者全員が同じように難解だと感じているさまを見て、誰もが安堵感に包まれながら、穏やかな読書会になった。だれかれとなく気になっている文章を読んで、それを聞き、それにツッコんだり共感や違和感を口走ったりしながら、誰もが声を発しているうちに2時間があっという間に過ぎた。鍋を囲み、お酒を飲みながら、建築話が終電前まで続いて、想定以上に楽しかったので、次回も続くコトになった。
で、日曜日の今朝、モーニングを食べながら、SNSを見ていると、松岡正剛のこんなメッセージが、昨晩の読書会のタイムリーな出来事とシンクロして、目に止まった。
◆ぼくがなぜこんなにも本と交際してきたかということを、春を迎える前に述べておく。まずなによりも、本を読むことは思索を深め、自身の構想を多重立体的にしていくにはきわめて有効なのである。
◆われわれの思索というもの、なかなか充実しにくくなっていて、たえずワインディングや拡散をおこす。理由がある。第1に脳は自活できない、第2に内言語はぐるぐるまわる、第3に確信と連想の区別がつかなくなる。このせいだ。
◆そこで本を読むと、本が手摺りになってくれるのである。
◆本にはいろいろな著者たちの言葉と流れがすでに示されている。これは、未知の町には通りがあり、通りには歩道や信号があり、進むにつれて周囲にさまざまな店や看板が並んで待ってくれているようなもので、われわれはこれらを通過しながら何かを考えることができるようになる。本を読むとは、その流れを手摺りにして、自分の考え方の筋道と脇道を見極めたり、勝手な連想や妄想を広げているようなものなのだ。ぼくは本を思索のストリートガイドのようにしてきたのである。
◆もちろん、・・・・・
確かに、「本を読むとは、その流れを手摺りにして、自分の考え方の筋道と脇道を見極めたり、勝手な連想や妄想を広げているようなものなのだ。」昨晩の読書会は、その本によって、新しい手摺が提供され、その手摺を、ちょっとだけ握った気分で、その本が、遠くにさまざまな看板や店がある情景を垣間見せてくれたなぁ…とおもえるわけで、それを、ひとりでなく、皆で一緒に、「テクトニック・カルチャー」なストリートを歩いた夜だった。そういえば、音楽のアルバムも、本を読むように聴いている感じがするわけで、本を読むことが思索を深めるのなら、音楽を聴くことは、感情を深めてくれる手摺なのだろうか…。
季節も、仕事も、節目を超える、そんなパワーが必要なんだな….。