全国の工務店のひとたちと過ごした二日間

木村家のリフォーム工事で、天井材として、吉野檜の柾目板を、坂本林業のサカモトさんが、納材してくれて、そのご縁で、その吉野檜材を皆に見てもらおうと、サカモトさんが、さまざまなひとを連れだって、木村家を訪問してくれた。そのひとくみに、京都のツキデ工務店の息子さんツキデくんが、建築家の秋山東一さんと共に訪問してくれて、その時のご縁が、ちょっと広がり、名古屋のコスモホームの鈴木さんが主催する、「秋山東一設計道場」というのがあって、ひょんなコトからそれを木村工務店で開催するコトになり、それが今週の23日24日の二日間の出来事だった。

道場終了後、秋山東一さんから、フェースブック上で、こんな表現を頂戴した。

 

 

加工場では、3時間、ひと言も喋らず、シーンとした雰囲気の緊張感のなかで、設計道場が繰り広げられた。後日、ワタシは、秋山さんのフェースブックに、こんなコメントで、表現した。

ゴールデンウィーク前の、とっても印象に残る、二日間だったが、さて、木村工務店では、4月28日から5月6日までの9日間、ゴールデンウィーク休暇を頂戴します。皆さん、素敵な、GWを!。

春エナジー

とっても気持ちの良い春らしい気候。ちょっと暑いぐらいの日曜日だった。本日は、絵本作家、谷口智則さんのワークショップがあって、靴に絵を描くワークショップだったが、ワタシには、靴に絵を描く。なんていう発想と感覚を全く持ち合わせていなかったので、最初は、どういうコト?っと、不安げにおもったが、「まちのえんがわ」スタッフのアオキさんの試作をみると、案外カワイくて、これいけそう!と感じると、20人の予約は瞬く間に満席になった。

 
 

たくさんの子供さんたちが参加するワークショップは、独特の活気感があって、ワタシのような年齢になると、こういうエネルギーに触れながら、子供達のために、何か印象に残るような、ものづくりの体験を共有できる、そんな機会を作るコトが、ワタシの楽しみにもなる、そんなワークショップを開催せんとアカンなぁ…って、考えたりする。

ま、それにしても、何よりもタイヘンなのは、タニグチさんで、参加者全員の片方の靴に、即興で絵を描くわけで、ちょっとした修行のような様相もあり、その一生懸命に絵を描く姿を眺めていると、あっ、オレも、一生懸命、ものづくりせんとアカンなぁ…と。子供達のエナジーとは別の種類のエナジーを受け取るのが、毎回、このワークショップの楽しみでもある。

そうそう、タニグチさんお住まいの古民家を木村工務店でリフォーム工事し、この6月頃に、テレビ番組の「十人十色」で、放映予定だそうで、よろしければ、皆さん、ご覧下さい。

4月のこの時期になると、いろいろな会合が重なるのだけれど、月曜日。お昼から生野区のオオツカさんとキムラーさんの3人で、5月19日日曜日の「空き家カフェ」の開催方法を話し合った。話が盛りあがり、うちの家に移って、庭を眺めながら、四方山話が続いた。火曜日。氏神さまの「清見原神社」の春祭があり、氏子総代会の数十人で参拝し、玉串を奉った。水曜日。野池さんが代表を務める暮らし向上リフォーム研究会は、「コアリノベーション研究会」と名称をあらためて、定例の研究会を木村工務店の3階会議室で開催し、温熱環境をシミュレーションできるリフォーム工事の見積書を討議した。その夜、「鰻の日」と名付けた、鰻丼を研究する3名だけの集まりが、堺の老舗、「鰻竹うち」であった。定期的に集まり、鰻を食べると、いろいろなコトに気付いてオモシロい。この話は、また別の機会にでも。木曜日。協力会社との「精親会第97回ゴルフコンペ」があった。ここ十年以上、年に2回しかゴルフをすることがないので、練習もまったくせず、成績は不甲斐ないが、それにしてもゴルフって、メンタルなスポーツだな。とあらためておもう。金曜日。「生野消防署の防火協力会」の会合が朝からあり、祖父の代からの引き継ぎなので、粘り強く出席を積み重ねることにしている。午前中早々に会合が終わったので、生野区の「食と農のプロジェクト」に参加した。お昼からは毎月19日に、木村工務店で、開催している「空き家カフェ」が、生野区民センターで開催し、想定以上に多くの方々に参加頂き、プロモーション活動に関して、あれやこれやとコミュニケーションした。この日の夜。毎月開催している、「大工ミーティング」があり、その後の「とんちゃん食堂」は、とんちゃんの還暦を祝う、「ひろみ食堂」と名付けて、うちの奥方が料理を作って、皆で、とんちゃんの還暦を祝いながら、あーだこーだと食べて飲んだ。

こんな一連の流れが、「春のエナジー」なんだろうな。

スーパーウイングスとアトム

日曜日。同級生4人で、自転車に乗る予定だったが、朝の10時から雨の天気予報だったので、中止にすると、孫たちも、天気予報に従って、外出しない様子で、きっと、退屈だったのだろうか、朝の7時から、私のベットに、スーパーウィングスのジェット機のおもちゃを持って、なだれ込んできた。

このスーパーウイングスとうのは、ジェット機が変身ロボットになる仲間たちがいて、世界中の子供達に、心待ちにしているパッケージを、宅配のように玄関先に届けながら、世界各国の先々で起こるトラブルを、皆の力で解決していくストーリーなのだけれど、ガンダムのようだが、戦士ではないので、戦いシーンがなく、武器も持たず、平和的でほのぼのした感じで、デザインも「ずんぐりむっくり」で、カコイイ系というより、ちょっとカワイイ系。それが、韓国と中国とアメリカの共同製作というのが、かなり以外な感じがしたが、マゴたちは、Netflixの映像を見て、小さな変身ロボットになるジェット機のおもちゃを買ってもらい、毎日のように、遊んでいる。

ジェット、ジェローム、ミラ、ディジー、ポール、ドニー、ベロ、なんていう名前が、日曜日の早朝から枕元で、語られるのだ。寝間着のまま、片手にドニーを持たされて、飛べ!という。ジェロームとジェットはマゴが持って離さないので、マゴ好みだな。ベロが、見当たらずどこかにいってしまったと嘆いていたが、そのシマウマのようなストライプデザインのベロとグランドアルバートはプロペラ機で、ちょっとワタシ好み。世界の国々に宅配するという設定がオモシロく、子供の心を世界に向けていく。

ワタシは1959年生まれで、1963年に鉄腕アトムの放送が始まったらしい。うちのマゴと同じような時に、ワタシは、鉄腕アトムに夢中になっていたのだな。21世紀、人間と同じ感情を持ち、10万馬力で、正義の味方として悪を退治し、地球を守るロボット。ロボットゆえに差別もされる。そんな設定だった。その21世紀になった今、うちにアトムはいないが、irobotのルンバが居る。毎日、スケジュールを組んで、床掃除をしてくれて、それが、どんな場所をどんな面積で何時間働いたか、スマホに報告される。時々,ルンバの片輪が脱線しています。とか、エラー報告もあり、家では、ルンバちゃんと呼んで、頑張ってるなぁ!と褒めてあげたりして…。

家電製品の進化はオモシロイが、パナソニックのスイッチプレートのアドバンスシリーズも、リンクモデルというのができて、スマートホンや音声で、照明器具を多彩に操作出来るらしい。自動車税が、13年超えると値上がりされるのは、企業と政府の妙な関係性に納得しにくいが、14年ぶりに自動車を乗り換えてみると、ハイブリットとか電気自動車とかエンジンもののテクノロジーの進化もあるが、自動ブレーキやレーンキープや追従機能や交通標識認識システムなどなど、この10年のドライバーを支援するテクノロジーの進化に驚く。

マゴたちの今のアニメが、2050年頃の指標となるのなら、どんな世界観の時代になているのだろうか…。

しだれ桜と。

とっても気持ちの良い天気の日曜日。大阪の桜は、ようやく、満開か。いや、9.5分咲きか。なんだか、今年の桜は、ぱっ! と咲いて、満開にならない感じ。じっくり時間をかけるより、勢いで開花したほうが、桜は、綺麗なのかもしれない。建築工事でも、確かに、時間を掛けすぎるより、ある程度の勢いで、作った方が、出来映えが良い時があって、昨今の職人不足な建築現場では、勢い不足な感が否めず、今年の桜は、建築現場の昨今を反映しているのだろう。

「まちのえんがわ」の珈琲ワークショップで、ドリップ珈琲の入れ方を学んだが、じっくり時間を掛けてドリップしすぎると、雑味がいっぱいでて、勢いが良すぎると薄味で、ちょうど良いスピードで頃合いの量の湯をじわーっと注ぎ続けるのが良いようだが、桜も、温度変化が激しいより、適切な気温が、徐々に徐々に上がって、一気に気持ち良く開花するのが、綺麗な桜になるのかもしれない…。

うちの家のしだれ桜は、決して美形ではなく、日本全国に点在する、スター桜たちとは、ほど遠い存在で、自宅の庭にあるが故に、ごく少数のヒト達から褒められ、花見されているのだろうし、たまたま立ち寄った園芸店で売っていた膝丈ぐらいの桜の苗木が、こんなに大切に育てられて、こんなに成長し、ちらほらだった桜も、そこそこの満開の桜になってきて、まだまだ垂れる姿が美しいというほどの枝振りではないのだけれど、庭の象徴的な一本になって、きっとこのしだれ桜本人が、もっとも驚いているのだろう。

ヒトの想いとは不思議なもので、しだれ桜に誰よりも強い思いを抱いていたのが、うちの親父で、最初は庭の片隅に植えていたのを、20年ほど前に、リビングから眺められる中心において、毎年の成長を楽しみにしていたようで、リビングにゴロンとなりながら、夫婦仲良く桜を眺めている姿を目撃したし、社員や大工さんとの花見の宴を、何よりも楽しみにしていた。

もちろん、というのも恥ずかしい話だが、親の気持ち子不知というように、父の生前は、そんな想いを汲み取ろうとする気配すらなかった「私」で、亡くなってから、その想いを聴こうとする気持ちが芽生えてきて、リフォームの時に、「庭の桜とゴロンとできるリビング」だったビフォーの関係性を「庭の桜と大きなダイニングテーブル」というアフターな関係に変えて、朝食・昼食・夕食と、より多くの時間を、しだれ桜の木と関係性をもてるようにしてみた。

4月29日の金曜日は、ちらほら開花した程度の桜だったが、社員と大工さん手伝いさんとで、恒例の花見の宴を催した。4月3日は、請負契約のあと、建築家のヤベさんと建築写真家のササクラ夫妻と、短時間だったが、お花見ランチをした。4月4日は、建築家の秋山東一さんと名古屋のコスモホームの鈴木さんと、うちのタカノリの4人で、お花見ティータイムミーティイングをし、建築のコトを語り合った。4月5日は「まちのえんがわ 橋爪事務所」のハシヅメくんとその友人二人の、暇人三人組と呼ぶらしいが、オトコ4人のお花見ランチ会をし、30台の若いひとたちと、生き方について考えてみた。4月6日は、桜の季節に合わせて、祖父、祖母、父、母の法要を木村家兄弟家族が集まって催した。リフォーム工事が長引いたために、木村家で、仏壇をお参りする習慣から遠のいていたので、父のしだれ桜への想いをきっかけにして、兄弟家族が集まることになった。4月6日土曜日の夜は、いろいろな偶然が重なって、なぜか、孫のイッケイと二人だけで、ビールと冷たいお茶とおかきの夜桜の宴を楽しんだ。今日の、4月7日日曜日は、お昼からの住宅相談会が終わった後、夫婦2人で、縁側焼き肉お花見を、楽しんだが、早々に、孫二人が乱入してきて、とっても嬉しいような。ちょっと嬉しくないような。

今年の桜は、まだ、暫くもちそう。なので、しだれ桜の、縁を、もうちょっと、繋げていければ…とおもう。

還暦同窓会と新元号

庭の桜が5分咲きになった3月31日の日曜日。明日4月1日は、新元号が発表されるらしいが、そんな区切りに合わせるかのように、還暦同窓会があった日曜日で、住吉高校29期生百数十人が、昼の12時に、ミナミのホテルで集合し、久しぶりの懇親を深めた。高校卒業以来のひとも沢山いるわけで、誰だか、想い出せないひともいて、自分の高校時代の、在り様を、なんとなく、振り返りながら、仲間と一緒に過ごしているうちに、青春時代を再体験し、いや、おそらく、そんな再体験をすることによって、これからの人生をよりよく生きるエネルギーとなるのだろうが、2次会、3次会、4次会、5次会。最後は、一年に一度二度会う、親友三人で過ごしながら、この場に一緒にいるはずだった物故者を弔い、気付いたら深夜になっていた。いま、家に帰りついて、4月1日午前3時。寝て起きると、新元号と共に、あらゆることが、リセットされ、リフレッシュされるコトを祈って、これまでで、もっとも短いブログとして、眠りについて、再スタートを切ろうと思う。

  

ピザとイチロー

21日春分の日。朝は生憎の雨だったので、家で過ごす。本とか。音楽とか。なんていうイメージだったが、モーニング珈琲でも飲みながら、雨だし、夜は、孫たちと、薪ストーブで、ピザを焼くのもエエなぁ…と何気なく考えていたら、「まちのえんがわ」ワークショップで、生地造りからビザのワークショップを何度かやっていて、どんな配合で、どうやって生地を作るのかと、想い出そうとしてみたが、料理が苦手な私の記憶は曖昧で、全く想い出せず、そういえば、最近は、テレビ画面で、YouTubeを見るようになって、美味しいピザの作り方。と検索してみると、さまざまな生地造りの映像が次から次に流れて、視聴しているうちに、料理ベタな私でも、なんとなく出来そうな気分になってきた。「映像の力」ってすごい。

奥方もその気になって、材料を買ってくるわ!と家を飛び出していった。私は家に残って、そのあとも、ひたすらYouTubeから流れるピザ生地の作り方の映像を見続けたが、そういえば、映像のひとつに世界一のピザ職人が日本人にいることを知って、その方が修行したナポリのピザ屋さんがあり、そのナポリの親方の職人さんが、元いたお店が、アメリカ大統領ビル・クリントンが、訪れた店らしく、そういえば、ピザ好きの長男と、イタリア山岳都市旅行をした時に、そのナポリのピザ屋さんで、マルゲリータを食べたことを想い出した。そうそう、先週、Netflixに、Jazzのジョン・コルトレーンのドキュメンタリーな映像があって、その中で、ビル・クリントンが登場し、コルトレーンを語っていた。意外なところで、意外なひとと遭遇する。ピザとジャズに関わっていたクリントンか…。

テレビ画面を見ながら、分量を計り、小麦粉をふるい、ドライイーストや、水や、塩や、オリーブオイルや、混ぜて、こねる。こねるのタイヘン。前掛け姿がまったく似合わない私。夜に孫たちが、帰ってきて、発酵の時間が短く、中途半端なうえ、生地を上手く伸ばすことも上手くできず、ま、そんなこんなで、焼いて食べるものの、美味い!という声にならない味だったが、それでも、それなりのディナーとなった。なんというか、そういう、静かに、趣味的に、ものを作ったりする時間が、楽しいし、ある種、瞑想的な時間なんだろう。

   

  で、その夜。作り疲れで、眠りにつこうかと、おもったら、イチローの引退会見が、始まった。あらためて、凄いなー。球場の雰囲気の独特な感じ。選手交代を告げられ、ダグアウト前で、選手ひとりずつとハグをするシーン。まるでロックスターのようなアンコールに応えてイチローが登場するシーン。インタビューでのアナウンサーとの受け答え。間。あれだけ簡単にヒットを打っていたイチローが、最後の最後、簡単にヒットを打てなかった。そのことそのものが、素敵だとおもわせる、生身な感じがエエのだろうう。修行僧の万行と満行だなぁ…。

引退翌日の夜は、イチロー現役引退記者会見ノーカット版をYouTubeで見た。「努力」するエネルギーを皆に与えるよね。

黄・赤・緑

めまぐるしく変化する日曜日の天気。朝、曇っていたが、雨は降りそうになく、天気予報も曇りだったので、久しぶりに自転車に乗って、十三峠に向かう。司馬遼太郎記念館の前を通ると、菜の花の鉢植えが、街路に並べられて、美しい。2月12日が司馬遼太郎の命日で、菜の花忌として、好きだった菜の花を記念館に飾っていたのが、街に菜の花を咲かせよう!と周辺のまちまで、広がったらしい。ひとりの小説家の「好み」が、まちの人にも愛されて、まちが黄色く彩られる美しい光景が、シンプルな「まちづくり」の見本のようなもので、きっと、この黄色い景色を見たいという気持ちが強かったから、うっとしい天気にも関わらず、早朝から自転車に乗ったのだろうな…。

久しぶりに十三峠を登ると、やっぱりしんどい。体重が2kg増えたのも徐々に堪える。心拍数が170前後で、ハッハッいわない程度のスピードで、ゆっくり登った。駐車場に着くと、パラパラしてきて、天気予報は曇りだったのに….とおもいながら、家まで戻ることにし、同じ峠道を下る。桜は、まだまだだが、サンシュウの群落が黄色く咲き誇る谷筋のガードレールに自転車を駐めて、暫く眺めた。数羽のウグイスの鳴き声が、遠くで、こだまして、ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ、…、ホー….。まだまだこれからだな。どんどん上手くなっていくのだろうな….と聴いているうちに10分ほど経過した。

家に戻って、お風呂に入って、ワークショップでルプラ珈琲のニシミネさんから教わったように、ドリップで珈琲を入れて、モーニングを食べていると、勢いよく雨が降ってきて、天気予報がハズレたぁ…自転車に乗り続けなくて良かったぁ…とおもいながら、庇から雨が落ちる様子を何気なく眺めて過ごす。日本映画に、軒から雨滴が、したたり落ちるシーンがあるが、最近の住宅は、樋を取り付けるので、家の中から、ポトポト雨が落ちる姿を見ることは、ほとんどなく、それで、うちの家の、リフォーム前からあった中庭に、樋のない小さな庇を取り付けると、壁を伝う雨が、庇からポタポタと、落ちるシーンが生まれて、「中庭」というプランが持つ性質からしても、「眺める」という納まりを優先する部分もあるので、偶然性も含めて、リビングのソファーから、雨を眺める中庭となった。

そうそう、今週、還暦の誕生日を迎えて、庭を隔てて同居する、長男家族の孫と一緒に、ケーキのローソクの灯火を吹き消したが、流石に、50歳の響きと60歳の響きは、かなり違う気分で、還暦誕生日の一日前は、ほんのちょっとセンチメンタルになりながら、今までのコト、これからのコトを、それとなく考えてみたが、誕生日当日は、あたりまえにフツウなわけで、「赤いちゃんちゃんこ」と「赤い帽子」を身にまとい、2人のマゴと両手を握って、ハッピーbirthdayを歌ったのが、確かに、記憶に残る誕生日となったが、生まれ変わって、リセットボタンを押して、リスタートをきれたら嬉しいと、願う気持ちもあるわけだが、数日たち、淡々と粛々と日々が過ぎていき、いま、雨滴が落ちる様子を眺めながら、ありきたりに「いまとここ」をしっかりと生ききるしか….なんていう気分。

帰省していた次男は、設計事務所のアルバイトが、提出期限が迫って忙しく、戻ってきて欲しいとお呼びがかかったようで、還暦誕生日を振り切って、東京に戻っていったが、誕生日に、建築の本を私にプレゼントしてくれて、まさか、息子から、建築の本をもらうなど、想定外だったので、この雨があがるまで、その本を読んで過ごした。

 

    

昼過ぎて、雨が上がった頃を見計らって、造園の家谷さんが花宇さんと主催する植物の展示即売会に、奥方と味園ユニバースにいく。とっても雰囲気のエエ、気持ちの良い空間。元気の良い植物の力って凄いね。手頃な価格で欲しいのは売約済みだった。これっっとおもうやつは、高価すぎて、すぐに買う決心がつかなかった。奥方が、手頃でフツウな植物を3つほどゲットして、法善寺横町近くのインデアンカレーを食べて、地下鉄小路駅の階段を上がると、夕立のように激しい雨が降っていた。

雨上がり、夕日に照らされて、テーブルの上で、ゆらぐ、木々の葉っぱを眺め。めまぐるしく変化した天気を可笑しくおもい。さまざまな色を見た日曜日に感謝した。もうすぐ春分だな…。

うつろい

春に一歩ずつ近づく日々。うちの庭では、ピンクの花を咲かすワビスケは、2月から、蕾を毎日、土の上に落とし、どことなく侘しげに、咲き続けている。サンシュウは、ようやく黄色い蕾をつけて、徐々に開花中で、サンシュウの黄色い花を見ると、そろそろ桜の、ピンクな季節を待ち望む日々になってきた。うちの家で稼働中の「PS HR-C」という除湿型放射冷暖房機器の温水の温度は、2月は、45度で運転していたが、いまは、40度を切って運転中で、一日2万WH近く使っていた暖房の電力は、1万WH近くになって、消費エネルギーで、季節を感じるようになった。

 

Forward to 1985 energy life というアクションプログラムがあって、1985アクションという、家庭でのエネルギー消費量を賢く減らして、1985年当時の電力消費のレベルにすると、原子力発電をなくせる電力消費になる可能性があり、断熱気密が高い住宅を造り、パッシブなエネルギーを利用することで、冷暖房費を削減し、家庭の電力消費を現在の半分に減らすと、1985年当時のエネルギーになって、省エネをしつつ、暖かい、涼しい、居心地の良い、温熱環境の住宅を造ろうという取り組みで、そのサイトにアクションナビというサイトがあり、全国の住宅の温熱環境の計測結果をシエアーしているコーナーがあって、そこに、うちの家の温熱環境を公開している→。部屋の温度変化と電力消費をデータとして集めて、まだ、半年ちょっとで、一年を経過してみないと、分析できないが、体重測定とおなじようなもので、ちょっと不安で、なんだか楽しい。

もともと、この1985アクションは、東日本大震災がきっかけで生まれたプログラムで、3.11が起こったあと、その直後の4月に、このアイデアを主催者の、野池さんが、居酒屋であれやこれやと話して、その時、私は、工務店の1階の駐車場に、路面店としての縁側のようなものをつくるアイデアを話し、そこで、ノイケさんから、「まちのえんがわ」というコトバがうまれた。そういえば、土曜日の夜、BSプレミアムを見ていると、全編4Kドローンで撮影された、「女川 いのちの坂道」という東日本大震災のドラマがやっていて、何気なくみたら、最後まで引き込まれて、グッときた。久しぶりに、震災の時のコト、地震のコト、津波のコト、そして、ドローンで高い位置から撮影される地盤を嵩上げして復興していくまちの景色によって、建築のコトを考え、そして「人生」というコトを考えさせられた。

土曜日の朝、うちの家を3Dカメラによる撮影があって、内部を歩き回れるリアルな映像として表現されるらしく、どんな仕上がりになるのか、楽しみだが、ドローンによるドラマ撮影とか、建築設計図のBIM化とか、建築を表現する手法が、どんどん進化しているのを肌で感じる一日だった。

土曜日のお昼からは、吉野檜のサカモトさんが、W大学建築学科のF教授を連れて、吉野檜の天井と床を使った、うちの家の見学にお越しになって、なんでも吉野材の需要拡大を目的とした奈良プロジェクトというのがその研究室と奈良県であるらしく、大阪での公演会のついでに、立ち寄って頂いたようだが、とっても奇遇だったのは、前日の夜、うちの次男が東京から帰省し、家に居たが、次男は、その建築学科に在学中の3回生であり、唐突に、自宅の、テーブルを挟んで、目の前に、教授が座っているという、世の中の縁と偶然性は、とっても、不思議なものだなぁ…。

住宅相談会があった日曜日。午前中のAさんは、ひとり住まいのシニアな女性で、マンションの水回りはそのままで、収納と内装を改善して、居心地の良い住まいにし、快適な老後を過ごしたいという、ご要望で、若い世代のリフォームもいろいろあるが、シニアな世代が、快適な老後をすごすための住まいを模索している案件も数件あって、何れもが、素材と収納と温熱環境に対する関心度が高い。

午後からのBさんは、奥さまと1歳半のお子さんを連れ立ってご相談に来られた。生野区のある地域で、予算2500万円で土地を購入して新築をお望みで、建て売り住宅でも、ムツカシイ購入価格なのだろうが、建売住宅とは違う雰囲気の家を所望しておられて、それなら、建売住宅として建てにくいような、2間間口を切る小さな土地を低価格で購入し、車の駐車を諦めて、小さな木造2階建てを目指してみれば、個性的で小さな良い家が出来る可能性があるかもしれない….と、そんなコミュニケーションになった。

「うつろう」なんていうコトバが、ふと浮かんできた、そんな今週末だった。

花粉症と珈琲

日曜日の朝、起きて、声を出すと、かすれてかすれてガラガラ声。季節の変わり目の、きっと花粉症なんだろうが、鼻水がズルズルし、喉がイガイガして、そんななか、昨日の土曜日は、「生野ものづくりセッション」あって、そこで、司会進行の役割を担っていたので、喉が弱っている時に、きっと声を使いすぎたのも原因なんだろうが、誰もが、えっっ!というような顔をする、そんな声しか発声できず、なのに、今日の日曜日は、今年最初の「まちのえんがわ」ワークショップで、ほんとうに聞きづらい声のまま、ファシリテーターの役割を担って、三分の一ほどしか語れず、流石に、動作でサポートするしか出来なかった。

「まちのえんがわ」で、珈琲ワークショップを開催することになったのは、上本町の喫茶ルプラのニシミネさんが、ある日「まちのえんがわ」ワークショップに参加頂いて、そのご縁が繋がって、喫茶の上階にある自宅と焙煎所をリフォーム工事させて頂くことになった。

そんなこんなの縁で、珈琲のワークショップを開催するようになって、「建築」とは、全く繋がりがない、「珈琲」なんだけれど、「まちのえんがわ」ワークショップでは、「職人さんに触れる」「道具を使って材料とコミュケーションをする」「親切丁寧にものをつくる」というテーマがあって、ニシミネさんは、焙煎の職人さんであり、バリスタという職人さんでもあって、そういうホンマモンの職人さんと一緒にワークショップをする面白さがあるわけで、それに、ドリップで珈琲を入れるためには、さまざまな道具が必要で、前回は、ネルドリップを製作し、珈琲を入れたのだけれど、今回は、3種類の豆を使って、それぞれがドリップした味をもとに、その豆をブレンドして、オリジナルブレンドを作るワークショップで、まさしく、「道具を使って材料とコミュニケーションをする」遊びでもある。

毎回、この珈琲ワークショップが面白いのは、同じ道具、同じ豆の分量、同じ豆の挽き方なのに、参加者の、それぞれの入れ方で、味が替わる体験がオモシロく、ドリップする丁寧さや、ドリップ時間の長短など、ものづくりに潜む心のあり方、メンタリティーそのもので、味が替わる体験を楽しみ、シェアーするコトが、ものづくりに潜む面白さに触れるコトそのもので、そんなのが、ワークショップの持つ魅力なんだろう。

ニシミネさんと知り合ったお陰で、会社にドリップコーナーを設けるコトになって、ルプラさんに珈琲豆を定期的に注文し、メール便で届くようになり、社内で、豆を挽き、ドリップする所作が、リラックスタイムとして、機能するようになった。なによりも、私自身が、それまで、ドリップで珈琲をいれるのは、アウトドアーの時だけだったが、家をリフォームした時に、ドリップコーナーを設けて、珈琲を入れるのが、ライフスタイルの一部となり、振り返ってみれば、「まちのえんがわ」ワークショップの縁で、ロードバイクやドリップコーヒーを楽しむコトになって、参加者の皆さんや講師の方々に感謝申し上げると共に、皆さん、今年も「まちのえんがわ」ワークショップをご愛顧賜りますよう、よろしくお願いします。

 

さて、明日の朝は、声が回復しているのだろうか…。花粉症の季節。春だな。

 

節目

冬から春に移り変わろうとする、穏やかな日曜日。暫くぶりに体重計に乗ると、2kgほど増えていて、運動を怠って、食べ過ぎると、てきめんに太る。なので、日曜日の朝だけは、自転車に乗ろうかと一瞬おもったが、服に着替える気もせず、そのまま布団の中で眠ってしまった。そうそう、土曜日の昨晩は、吉野檜のサカモトさんの縁で、うちの家で集まるようになった、T工務店関連の若い設計者の方々7人と、夜遅くまで飲んで食べて「建築読書会」を催した。予想外に楽しくて、きっと、朝まで、その余韻が残っていたのだな。

運動の代わりにサウナで汗かいて痩せようと、スーパー銭湯の朝風呂に行くと、男湯はいっぱいだった。日曜日の朝に、ストレスを、お風呂で解消しようという、同じようなメンタリティーのオトコ達が多いのだろう。ま、そんなサウナで、抜本的に体重が減るはずがないことを、あらためて再確認したようなもので、やっぱり運動が必要な「年頃」なんだ。コメダ珈琲でモーニングを食べて、コーナンでちょっとしたもの買って、家に帰って、ソファーに座ると、唐突にJazzが聴きたくなった。日曜日の予定がな~にもなく、それゆえに、そんな空白な瞬間に、ふとシゴトのコトが気になって、シゴトが上手くいっている現場と、おもうように行かない現場と、そんなのが交錯している時に、こんなJazzyなメンタリティーになるのだろうか…。

コルトレーンな気分になって、iphoneのSpotifyから、アルバム「クレッセント」をチョイスし、Spotify Connect で、リビングのソニーのテレビに接続して音を出す。リビングのテレビには、真空管アンプとコンパクトなスピーカーを設置し、そこから音が出るようにセッティングしているので、微妙な音のニュアンスが判別できる、最低限なオーディオ装置で、「クレッセント」は、コルトレーンが、アルバム上で、神を目指すような音楽を演奏する前の、ある「節目」のようなアルバムで、よく聴くアルバムのひとつ。このアルバムを聴くと、エルビンジョーンズの微妙なシンバルのニュアンスが聴きわけられるオーディオ装置でありたいとおもうが…とりあえずこれぐらいで我慢しておこうとおもう。

次は、なんとなく「節目」というニュアンスで、マイルスの「ネフェルティティ」をSpotifyからチョイスした。レコードに針を落とす作法も、トレイにCDを置いてトレイが機械に吸い込まれていく感覚も、どれも捨てがたいが、最近はもっぱらiphoneでスクロールしながら、Spotifyのアルバムをチョイスして「次に再生に追加」をクリックする所作になって、時代の移り変わりを感じながら、これはこれで楽しい。「ネフェルティティ」も時代の移り変わりの節目にあるようなアルバムで、若い頃は、全く理解出来なかったが、年齢と共に聴く回数が増えて、エレクトリックなマイルスになる前のアコースティックな節目としてのマイルスで、テーマだけをウェインショーターとユニゾンで吹いて、それが真ん中に定位し、左側のハービーハンコックのピアノと右側のトニーウィリアムスのドラムがアドリブでしのぎを削るさまを、オモシロイとおもえるようになるまで時間がかかったし、マイルスが、オーラのようなもので、アルバム全体をコントロールしていく姿勢を楽しめるようになるのに、人生の経験と年齢が必要だった。

そうそう、土曜日の夜のコト。昨年の11月に、檜な縁で、うちで10人ほどの宴会を催し、そこで、建築話で、とっても盛り上がり、どんなきっかけだったか、とにかく、ケネス・フランプトン著「テクトニック・カルチャー」という分厚い本があって、というより、そういう本があると、その時教えてもらって、それを皆で読んで、語り合うコトになった。4000円ぐらいのその本は既に廃版で、中古で2万円以上する本になっていて、想像通り難解なわけで、3章だけを読んで集合!といわれても、20歳近く離れた若い設計者に比して、経験力は増え続けるものの、読解力は低下するいっぽうで、ま、なんとかひととおり目を通す程度で臨んだが、参加者全員が同じように難解だと感じているさまを見て、誰もが安堵感に包まれながら、穏やかな読書会になった。だれかれとなく気になっている文章を読んで、それを聞き、それにツッコんだり共感や違和感を口走ったりしながら、誰もが声を発しているうちに2時間があっという間に過ぎた。鍋を囲み、お酒を飲みながら、建築話が終電前まで続いて、想定以上に楽しかったので、次回も続くコトになった。

で、日曜日の今朝、モーニングを食べながら、SNSを見ていると、松岡正剛のこんなメッセージが、昨晩の読書会のタイムリーな出来事とシンクロして、目に止まった。

◆ぼくがなぜこんなにも本と交際してきたかということを、春を迎える前に述べておく。まずなによりも、本を読むことは思索を深め、自身の構想を多重立体的にしていくにはきわめて有効なのである。
◆われわれの思索というもの、なかなか充実しにくくなっていて、たえずワインディングや拡散をおこす。理由がある。第1に脳は自活できない、第2に内言語はぐるぐるまわる、第3に確信と連想の区別がつかなくなる。このせいだ。
◆そこで本を読むと、本が手摺りになってくれるのである。
◆本にはいろいろな著者たちの言葉と流れがすでに示されている。これは、未知の町には通りがあり、通りには歩道や信号があり、進むにつれて周囲にさまざまな店や看板が並んで待ってくれているようなもので、われわれはこれらを通過しながら何かを考えることができるようになる。本を読むとは、その流れを手摺りにして、自分の考え方の筋道と脇道を見極めたり、勝手な連想や妄想を広げているようなものなのだ。ぼくは本を思索のストリートガイドのようにしてきたのである。
◆もちろん、・・・・・

確かに、「本を読むとは、その流れを手摺りにして、自分の考え方の筋道と脇道を見極めたり、勝手な連想や妄想を広げているようなものなのだ。」昨晩の読書会は、その本によって、新しい手摺が提供され、その手摺を、ちょっとだけ握った気分で、その本が、遠くにさまざまな看板や店がある情景を垣間見せてくれたなぁ…とおもえるわけで、それを、ひとりでなく、皆で一緒に、「テクトニック・カルチャー」なストリートを歩いた夜だった。そういえば、音楽のアルバムも、本を読むように聴いている感じがするわけで、本を読むことが思索を深めるのなら、音楽を聴くことは、感情を深めてくれる手摺なのだろうか…。

季節も、仕事も、節目を超える、そんなパワーが必要なんだな….。

 

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