東京にて結婚式

東京六本木で結婚式があった土曜日。長男友人なのにどういう因果か、木村家家族全員が招待された。magosも一緒なのと婚礼用の服や靴など荷物が多いので、車で行くことにしたが、久しぶりに大阪と東京間を運転すると新東名高速道路がとっても快適だった。宴会場近くの六本木のホテルに宿泊する。9割がインバウンドのお客さんだな。

最上階に大浴場とサウナがあって、湯船の中に入って浴槽の縁にタオル置きその上にIPADを置いて中国語で相手男性と会話をするアジアンがいた。サウナの休憩室などで、若い子たちのたわいもない会話を延々と聞かされるつらさもあるが、浴槽のなかで延々と続く電話の会話もなかなかの強者だな。中国語が理解できないのが唯一の救いで、うわっすごっと心のなかで呟いていたが、注意するようなことでもなく、文化の違いなんだなっ。

先日の上棟式の祝宴で、大工仕事からでたコトバが話題になった。「いの一番」が、大工の棟梁の墨付けの最初を「い通りの1番」から始めるコトから来ている…なんていう話から、「気遣い」と「木使い」のコトバになり、「ろくでなし」というコトバは、大工さんは水平のことを「ろく」と呼んでいて、その水平がちゃんととれていないヤツを「ろくでなし」と呼ぶらしい……しらんけど。なんて続いた。国によって文化の成り立ちが、とっても違うのだとおもう。

長男友人の結婚式は、既に入籍をすませ、昨年暮に産まれたばかりの赤ちゃんも一緒で、結婚式独特の緊張感が全くない、気軽なパーティー感覚の現代的結婚式だった。最近多く見られる人前式で、司祭の役割は、2人の仲人がコスプレ姿で登壇した。終始、笑いがありヤジが飛ぶ会場で、私は、吉本新喜劇の舞台で演じる結婚式に、ある役割を担う演者として参加しているような感覚に陥った。新郎の私学中高の同級生たち、同期に入省した財務省の同期生たち、などなど50人以上の新郎の友人が参加する結婚式は珍しい。超真面目に、日本のため社会のためを願いながら働く若者たちだからこそ「結婚式」という「儀式」を茶化したかったのだろう。そんな全てを理解し受け止めることができる新婦と最近出会えたのが「縁」という奇跡だとおもう。

新郎のまるで親族のような立ち位置で参加した木村家家族全員だが、その縁が強く育まれたイベント事があった。彼らが、中学3年だったか高校1年だったか、とっても多感な学生だったその夏休みに、小さなハイエースのキャンピングカーに6人乗って、まず大阪から四万十川の源流地点に到着し、その水に触れ、そこから四万十川沿いにキャンプをしながら川を下った。焚き火をし、カヌーに乗り、ウナギを食べ、川で泳ぎ、温泉に入り、最終地点の土佐の海に辿り着いて、皆で海で泳いだ。その1週間ほどの旅がそれぞれの想い出に強く焼きついたのだろう。

旅のストーリーは、源流地点に触れ、上流部の急流にもまれ、中流部の早い流れを乗り切り、下流部の穏やかな川の流れに従いながら、大海原の海にそそぐ。そんな人生のような感覚をこの四万十川ツアーで一緒に体験し共有したかったのだとおもう。同乗者のひとりシンくんは、東京で有名受験塾の学園長になり、この祝宴の円卓の私の右横に座っていた。

その時の同乗者たちは、人生という川下りをしながら、ようやく海まで辿り着いた状況なのかもしれない。今、大海原で、もまれている状態なのだろう。漂う時もあれば、もがく時もあり、嵐もあれは、ドピーカンもある。目指す島を発見し、目標の島まで着いて、のんびりする時もある。島を目指したり、目指さなかったり。漂い続けるいま。きっと新郎は、多くの友人とのつながりに助けられ、海まで辿り着き、いま大海原で、もまれ、もがいている自分自身の姿を、素直なコトバで表現するのが照れ臭く「いちびり」の大阪人の結婚式として、徹頭徹尾、喜劇のオブラートで包み込んだ、感謝の表現にしたかったのだろう。

103歳と花

家の前の道路を生駒山が見える東の方角に300mぐらい進むと東大阪市になって、私達が住む大阪市と東大阪市の境目あたりに、一軒の花屋さんがある。花屋さんというか苗屋さんみたいな感じ。40年ほど前からあって、たいそう繁盛していたが、夫婦の高齢化に伴い数十年前に閉店された。それが、コロナ頃から、再び店がオープンし、高齢のおっちゃんひとりで、細々と楽しげに店を開いている。

奥方が、うちの庭に黄色のパンジーをほんのちょっと植えようと、その花屋さんに行って、「この黄色のパンジーを頂戴…..」とおっちゃんに言う。おっちゃんが袋に花を詰める所作をしている様子を眺めながら、「ところで、お幾つになりはったのですか…..」と尋ねると、「103歳!」という。「えっ…..!」と大阪のおばちゃんとして、驚きを2倍ほど誇張して表現すると、「わし、まだまだ元気やねん、おかあちゃんは93歳で亡くなったけど…..」という。「ご飯も洗濯もひとりでやってはるのぉ」と聞くと、「花屋の前はうどん屋とお好み焼き屋やってたから自分でご飯作ってるでぇ!」「そうそう、おねえちゃん、今日作ったお好み焼き持って帰り!」という。それで。お好み焼きを入れ物にいれて手渡してくれたわ! と感激が二乗ぐらいになった高揚した満面の笑みで、私に語った。

この出来事を自分の中だけで留めておけないぐらい凄いエピソードだったので、すぐさま長男奥方に伝えて、お裾分けすると、「こんな有り難い縁起もの大切に食べなダメですね。」と云ったそうだ。その話を聞いて、ワタシ、丁寧に丁寧に咀嚼することにした。フツウに美味しいお好み焼きだが、お金で買えない価値ある食べ物だな。とおもうし、食べたあと、「生きる」という凄さまでが、味覚に加わっていた感じがした。「103歳でもお釣りをちゃんと計算して渡してくれはったわ!」と奥方が云う。

今日の日曜日の早朝、3ヶ月ぶりに自転車に乗ることにした。家から東に走り、あの花屋さんの前を、ありがとっ!と呟いて通過し、生駒山の山並み沿いにある十三峠に向かう。途中、司馬遼太郎記念館の前を通過すると菜の花の鉢植えが咲いていた。これを見て春の訪れを感じたいがために自転車に乗ったような気もする。心拍数が過剰に上がらないケイデンスでゆっくり漕いで十三峠の坂道を登る。それでも駐車場についたら、はぁはぁと呼吸して酸素を取り入れた。しんどかったら、そのまま帰るつもりだったが、案外元気が残っていた。お好み焼きのお陰なのか。で、フラワーロードから朝護孫子寺まで走って、久しぶりの参拝をする。本堂横の陳列の生け花にはピンクの桜が生けられてその壺が黄色だった。財布を置いて「なむぜにがめぜんじん」と唱えると、お金が貯まるという銭亀堂には、3人のマダムが財布を置いてお参りしていた。

信貴山ライドでの建築的楽しみがひとつあって、開運橋のトラス構造の赤橋を下から見ることで、それも片持ちのゲルバー橋になっているところが、いつみてもカッコエエと惚れ惚れする。のどか村から葡萄坂を下って帰宅した。43km走行也。あちらこちらで、桜が咲く前の黄色の花の季節になっていた。「春〜よ来い」だな。

上棟式の祝宴が2週続いた今週。大工の棟梁や材木屋さんを中心に、あれやこれやと古いピソードがいっぱいでて、盛りあがって、式が終わり、会社に戻ると、社員の多くが、3階の食事テーブルに集まって、社内メンバーによる上棟式だ!といって祝宴をしていた。現場上棟式組が持ち帰った御神酒も加わると、さらにボルテージがぐんぐん上がっていった。家のためお施主さんのため職人さんのために祝う上棟式の祝宴のエネルギーが、その家に宿ればエエなぁとおもう。そうそう、簡易に作る上棟式のテーブルに、ひとつ花が置かれた。殺風景な現場の光景に、「花を添える」とは、こういうコトを云うのだな。

道路にドラマ

サンシュウの黄色のカワイイ花が咲いて、春が近づく気配。そうそう会社前にある長屋のピンクの梅も咲いて、桜が待ち遠しくなってきた。イエローとピンクの季節がやってきたね。

この梅を見て、自転車を停める人もチラホラいてはる。長屋前の梅が咲く、会社前にあるこの道路は、古くから南北に一直線に通っていて、この道路から一本西にある南北に走る内環状線が、放出方面から新深江までで止まっていた頃は、この会社前の道路が南北を繋ぐ唯一の道路だった。なので、それなりの数の車が通っていたし、自転車で行き交う人が多かった。ポツポツと商店も多かったし、今でもこの道路の南の端には、あのノーベル製菓の本社が残っている。

木村工務店に就職した社員の多くは、朝、出勤してくると、この南北の道を自転車で行き交う人の多さに驚き、中国みたい…..と呟く。今でも巽の方面から万代百貨店がある布施方面に向けて自転車で走る人が多い。近くに私学があり高校生も行き交う。電動ママチャリに、幼児を前と後ろに載っけた、逞しい主婦や主夫も、数多く行き交う。ちなみに、うちの会社からその道路を5筋ほど北に行った交差点を西に行くと東野圭吾さんの実家跡がある。

最近はベトナム人らしき人が多く自転車で通りすぎるし、個性的な大阪のおっちゃん大阪のおばちゃんもチラホラ。昨日の土曜日の朝は、会社からその道路を横切ろうとすると、歌声が聞こえてきた。「悲〜しみに〜出会う度〜あ〜の人を〜想い出す〜そんな時〜側に居て〜肩〜を抱〜いて、ほ〜し〜い〜と〜」と中村雅俊の歌を、なぜか、おっちゃんが、感情をたっぷり込めて歌いながら歩いていた。そういう気分の出来事があったのだろうか。路上でブルースを口ずさむ黒人のようで、思わず立ち止まって、拍手を送りたい気分だった。

ちなみに、その道路の西側にある、うちの庭の南側には4階建てのマンションが建って、そのベランダが道路に面して、そこからうちの庭を覗かれ、丸見え状態になったのは40年ほど前の出来事だった。当時、祖父母が健在だったので、祖父母の寝室は南向きの縁側付きで、その縁側の向こうに南向きの庭があり、とっても快適そうだったが、ある日、その庭前の道路に面した2階建ての工場が移転し、その跡地に、くだんの4階建てマンションが建って、祖父母の寝室は丸見え状態になった。

それで、自分達の庭に、自分達で、目隠しを兼ねた、杉を植えることになった。その杉が徐々に成長し、目隠しとして効果を発揮するのに10年ほど掛かったとおもう。今では、かなりの目隠しになり、そのお陰で、木々に囲まれた庭になってきたし、さらにその目隠し効果を補足するために、常緑である竹を植えたのが、20年前のコト。そんな目隠し効果抜群の杉だが、最近は花粉が舞い散り、花粉症を引き起こす杉になって、うちのmagosもその花粉症で悩んでいる。世の中の因果関係というのは摩訶不思議複雑怪奇だなとおもう。

和泉市で新築した店舗付き住宅の上棟の宴があった水曜日。コロナ禍があってから、上棟の儀式はするが、宴は催さないことがほとんどになってきたが、今回は大工棟梁を主役にした宴を設けて頂いた。もう既に外壁下地のモイスを貼った空間なので、構造材だけが森のように林立する、昔ながらの上棟式の光景ではないが、それでも、木造住宅を施工している工務店としては、最も心躍るひと時でもある。

それはそれとして、その宴で、施主のご家族全員が、乗馬をするのだという話で盛りあがった。ある日、イベントとして、上棟式を催しているこの家の前の道路を、娘さんたちが乗馬したのだという。ご両親は車で後を追い、馬の糞の始末をして回ったのだそうだ…..。私、頭の中で、この壁のシートの向こうにある道路で起こった、そのドラマのような光景を想像したし、そういえば、私が小学生の頃は、うちの会社前のあの道路にも、一年に何度か、ロバのパン屋さんが、通過する日があって、「ロバのパン屋はチンコロリン、チンコロリンとやって来て、アンパンジャムパン…..」という歌が聞こえてくると、ワクワクしたし、屋台を引くそのロバの糞が落ちる光景に、あ然とした想い出が蘇った。

道路にドラマが宿っているな…..とおもう週だった。

追伸
今日の日曜日。YouTubeを視聴していると、お勧めに「マイルス・デイビス・カムバック・ジャパン・ツアー’81」が流れてきて、何気に視聴すると、「若いミュージシャンのエネルギーが、俺の想像力を駆り立ててくれる。彼らに自由を与えてやり、即興で作曲していく、音楽とはフィーリングとリズムで自由に描いていくドラマだ。」なんていうクレジットが出てきて、その「ドラマ」というコトバに影響されたブログだな。とおもう。

さまざまなシチュエーションで食事を共にした週。

住宅相談会とサヤカリーを開催した青空の日曜日。

新築の相談にお見えになった家族代表のご主人Aさんは、おひとりでお見えになるのかとおもっていたら、親戚の引退された元設計士の男性と元工務店の女性の同伴でお越しになった。プロの方々からそれなりに期待されながら家づくりをするのは、身の引き締まるおもいもあるが、それはそれとして有り難いコトでもある。

ここ数年、大手ゼネコンの設計部の方の自邸を設計施工したり、その方の知り合いの家を設計施工したりする例が、一定数有って、設計といっても、プロの設計の方のプランを元に、一緒にコミュニケーションしながら実施設計を進めていくわけで、工務店の設計部の特徴は、設計士と同じ部屋に見積のプロが存在しているコトで、コストバランスを常に検討しながら設計が出来るところに工務店の設計者の強みがあるのだ。と、あるコンサルの方とお話しをしている時に、指摘され、あらためて気付かされる出来事あって、そんなコトバを想起しながら打ち合わせに参加した。

春の訪れを気配させる晴天の日曜日だったので、想定以上に沢山の方々が、サヤカリーを食べに来られ、完売して、お断りする状況だった。工務店なので、飲食に精通しているわけでもなく、2月の寒い日曜日は、ほんとにお客さんが少なく、カリーも余るぐらいだったのに…..。天候と陽気というのは、人の食欲を活性化させるのだな。あらためてその日の気象条件が飲食に影響するのだと教えられた。そうそう寒さや暑さ対策として透明カーテンを設置して、快適性がアップしたのか、皆さん長居してくださった。プチリニューアルで、「カリー&コミュニティー」としての「まちのえんがわ」になった。

生野区のものづくり企業の夫婦4組で、フレンチの食事会をした土曜日の夜。うちの家で、数えて6回ほど30代の上地くんというフレンチのシェフに来てもらって食事会を催したが、今回は同世代の経営者の夫婦の集まりなので、仕事のコト、将来のコト、子供のコト、悩みや喜びは同じような感覚。シニア世代になると、何よりも、美味しい食事を囲んで歓談することが、若い時以上に、良いひと時に感じるのが、共通認識。自分達の子供のような若いシェフが、この集まったメンバーに喜んでもらおうと、一生懸命メニューを考え、一生懸命食事を提供しようとする姿に共感しながら、アーダコーダオモロイ話で食事を共にするのが、こういうアットホームな食事会の良さであるとおもう。気が付いたら深夜2時だった。

高校時代の同級生の家のリフォームをさせて頂き、引き渡して1週間後の食事会が、近くの居酒屋で開かれた水曜日の夜。設計担当のツジムラさんと現場監督のシノダくんとプロデュースの専務タカノリが一緒で、電気工事はその息子さんが担当し、隣の敷地に、その息子さん家族の新築の上棟式が、明日の予定だという、とっても珍しいシチュエーションで、若夫婦とその3人の孫さんを含めたアットホームな食事会となった。息子さんのために新たに取得した隣の土地を提供する父親っていうのは、凄い甲斐性だな。とあらためておもう。上の写真は食事会が終わり、そのリフォームした家に、一緒に戻ったら、父親は、あれぇどこにいったのぉっと姿が見えず、どうやら無言で寝室に飛び込んで倒れるように寝て、明け方目が覚めて「なんで俺ここで寝てるのぉ」状態だったそうだ。楽しく飲んで勝手に寝てしまうドラマのような典型的父親像の、そんな同級生に敬意を表しておきたいと思う。

オーダーキッチン、クッチーナのモーリーショップの大阪支店長のフナモトさんに誘われて、スキーに行った雨降る先週の日曜日。雪になるのを期待したが、みぞれ交じりでビショビショ。インストラクターをやっていたと言うだけあってとっても上手。それでも午前中だけ休みなし途中停車なしで滑り続けるシニアスキースタイルに共感してくれた。帰りはスキー場で食事せず、近くの有名らしい蕎麦屋で、行列待ちして食べても、家には午後3時に帰り着いていた。蕎麦美味かったなぁ…..。そうそう、彼が20年以上前に営業担当者だった頃、二人で一緒にいろいろなキッチンを設計した。その同士のような繋がりがどこかに根付いているのだとおもう。

さまざまなシチュエーションで食事を共にする週だった。

昭和の呪縛からの解放

2月22日は猫の日だそうだ。なるほど。ニヤンニャンニャンなのか….それより、日経平均株価が1989年の大納会でつけた史上最高値の3万8915円を更新し、日経平均史上最高値になったのが、2月22日なのだ。と記憶される日にもなった。庶民の実感とはほど遠い感覚のように感じるが、日経新聞を読むと、ようやく株価は「昭和の呪縛」から解き放たれた。「今の株高は日本企業の実力に見合っている」とあり、昨年来の「海外主導の株高」にはこうした日本の変革への期待も入っている。と書かれてあって、その「日本の変革」というのは、金利がある世界になれば、ゼロ金利で生き延びてきた企業は存続が難しくなる。「人手不足は企業に効率化」を迫り、「産業の新陳代謝」が進む。「成長分野への人材移動」など経済全体の「資源配分を見直す好機」になる。ということらしい。

4ヶ月ぶりに「ものづくりセッション」が開催された土曜日。上の写真は開催者の行政マンの武田さんから拝借したが、ちょっと煙っぽい感じがするのは、懇親会のために、桃谷にお店があるカサディエッロの塚本さんが、加工場にあるピザ窯を使って、持参したピザ生地を焼いて、とっても美味しいピザを提供して頂いた。その薪の煙が充満しているスモーキーなセッションだった。

二人のプレゼンターの興味深いお話しを聞けたセッションで、生野区の中川で金属加工の工場を持つ、中村製作所の中村さんは、サヤカリーを食べに来てくれたり、ヨットを乗っている話や、週5日銭湯に通う話など、以前から何気に会話をして、面白可笑しくお話しを聞いていたが、あらためて、会社の沿革を聞き、どんな運と努力で商売が始まり、継続してきたかを聞くと、ドラマのようで楽しいし、先人達の「昭和の苦労」をあらためて知る機会でもあった。

最近、社長を引き継ぎ、会社の強みを再考し、曲げ金具に仕事を集中して、ホームページにもそのことを表現し、事業を再構築している姿を垣間見ると、中小のものづくり企業にも、「資源配分」を見直すなど「日本の変革」が始まっているのだな…..「昭和の呪縛」から解き放たれようとチャレンジする、若い姿のひとつだな。とおもえた。

むつみこども園の園長の杉本さんのプレゼンがあって、ものづくり企業ではないが、こんなこども園を「つくる」チャレンジをしている…..というのが趣旨だったようにおもう。なによりも凄いとおもったのが、「教室」を「まち」と名付けて、園児といっしょに、遊びを通じて、課題を見つけ、こども自ら解決策を考え、「まち」を育むのだという。大正時代から100年を超す幼稚園を、新たなこども園として「新陳代謝」し、次世代を担う「こども」を育てていきたいという、チャレンジ精神に溢れたプレゼンに、心動かされた。

昭和の呪縛からの解放が、あちらこちらで始まっていたのだな。

アサイラム

建国記念日の振替休日。コロナ禍があって、ワタシの新しいライフスタイルに加わったひとつに、ひとりスキーがある。一年に2,3回ほど行くようになって、それはそれなりに楽しい。今年は初めて。前日から雪が降って新雪を楽しみにしたが、カチカチのバーンの上に降り積もったちょっとした新雪という感じで、期待ほどでなく微妙だった。もはやカチカチのコブは滑りたくないので、雪が柔らかく、久しぶりにコブを滑ることにしたら、二日間ほど階段の上り下りで、筋肉はって、ブサイクな格好で階段を歩いていたとおもう。12時過ぎには滑り終えて、帰って、ビールでも飲みながら家でゆっくり楽しむのが、シニアスタイルのようにおもう。そうそう、今年、メガネでもいけるヘルメットを買ったが、思いのほか快適だった。

それで、家で本を読むとか音楽聴くとか映画視聴するとか、いろいろ楽しみ方があるが、最近NHK+とかNHKオンデマンドが気軽にパソコンで視聴できるようになって、ちょくちょく視聴する。「ワイルドライフ つながる小さな命たち 牧野富太郎と南方熊楠が見つめた日本の自然」なんていうのを何気に視聴した。

建築家の内藤廣さんが設計した牧野富太郎記念館はエエ建築だなとおもう。会社の研修旅行でも社員や協力会社の面々と一緒に見学した。牧野富太郎植物図鑑も原色の彩色したシリーズから知ったが、初版の白黒で解説付きを見たら、建築のスケッチをはるかに上回るカッコ良さだとおもった。牧野富太郎のフレーズで「綿密に見れば見るほど新事実」は好きなコトバで。建築を志すものにとっても、森羅万象をこういうハートで眺めたいものだなとおもうし「どうかみなさんも、植物に親しんでください。そして少しでも多くの知識を身につけてください。それが一生を通じ、どれほど人生を豊かにするかわかってもらえると思います。」なんて語られるとグッときて「親しんで少しでも多くの知識を身につける」なんていうのが、これからのシニアライフを豊かにするキーワードのようにさえ聞こえた。

シーラカンスアンドアソシエイツ設計の南方熊楠記念館には、訪問する機会を逃し続けている。「オガタマノキ、カラスノサンショウの大木、一、二丈のもの、自生のタラヨウ一丈余のものなどは、何の用もなきものゆえ、わずかに神社の森を asylum として今日まで生を聊(りょう)せしなり。」の asylum (アサイラム)というコトバにビビッと来た。アサイラムとは避難場所とか安全な場所とか聖域とかいう意味らしい。牧野富太郎と南方熊楠は同世代で5歳違いらしく、熊楠も「自然を綿密に見つめること..小さな菌糸が森とつながっていることを知る….」なんて語っていて、南方曼荼羅もカッコエエ図だなとおもう。

それはそれとして。「アサイラム」と聴いて、脳内で反応したのは、レコードレーベルのアサイラムのことだった。ジャクソンブラウン、イーグルス、JDサウザー、トムウェイツ、ネットドヒニーなどなど、20歳頃まで、それなりの数のアサイラムのレコードを買った。輸入盤でアサイラムのレコードなら間違いなさそうやから買っとこ。いまから振り返れば、そういう気分にさせられるのが「ブランド」だなとおもう。アサイラムが避難所や聖域だという意味なんて全く知らずに…..。何よりもレコード盤のラベルが、今も独特の「印象」として残っている

そうそう、後にジャズを聴くようになって、レコードレーベルとしての、ブルーノート、プレスティッジ、リバーサイドなどなど。時々、インパルス時代のコルトレーンのアルバムを聴きたいなぁ…とか。「インパルス!」のラベルもカッコ良かった。レコードレーベルで音楽を楽しむ楽しみ方も知るようになったが、「植物」には、そんな感じでは親しんでこなかった。あらためて、「植物と親んで、知識身につけて、人生が豊かになる」それっちょっと憧れるなぁ…..と、視聴した。

「良い建築を造るためのコミュニケーションの土壌」

初午祭を催した土曜日。木村工務店には精親会という1957年から68年間続く協力会社の親睦会があって、毎年2月の「初午の日」の前後に、会社のお稲荷さんに参拝し、安全祈願と商売繁盛を願う慣わしが続いている。コロナ禍の3年間は、参拝祈願のあとの懇親会を催すコトができなかったが、今年は4年ぶりに皆で宴会し、あーだこーだと親睦を深めた。

ワタシ、パワポを使ってちょっとしたプレゼンをし、「工務店が造る住宅にとって施主から共感を得る新しい価値の住宅とは…」なんていうのを一緒に考えながら、どのようなお施主さんに、どんな立ち位置で家づくりをし、どんな価値を提供しているのかを確認して、「この家が大切に造られていると届くような現場」を一緒に造っていきたいものだなぁ…と共有した。とはいっても、プロフェッショナルとして「日々の仕事に淡々と力を尽くす」というのが最も大切な事だし、こういう職人さんの集まりでの最後の決まり文句のようにおもう。だたその力を尽くす方向性が、一緒の方向を向きたい!というワタシの願いのような、少々長めの挨拶だったようにおもう。

それはそれとして、工務店という立場での楽しみのひとつは、今回はどんな会場レイアウトにし、どんな食事を皆に提供し、協力会社の面々を、どうやっておもてなししようかと考えながら、一緒に会場を作り上げることで。今年は既存の4×8のテーブルを2分割にし、幅600mm長さ2400mm高さ630mmのテーブルとしてレイアウトした。食事や加工Barに関しては、それぞれの社員が「現場ブログ」に書いてくれるとおもう…

そうそう、百年企業が精親会会員のなかに4社あって「祝百年企業」ということで、それぞれの代表者の方々に表彰の時計付き盾を寄贈した。

株式会社岡房商店     since 1912
瓦寅工業株式会社     since 1917
株式会社浅田鉄筋工業所    since 1921
有限会社米田建材店    since 1923

精親会会長の岡房商店の岡本さんは、この初午祭が、協力業者の集まりの精親会のなかで、忘年会や新年会や研修旅行より、一番重要な会合だと語る。おそらくそれは、「考え方」を共有し、「良い建築を造るためのコミュニケーションの土壌」を68年の歳月をかけながら、徐々に育んできているからかもしれない。

「工務店ブルース」

もう2月。寒い日々。いやそんなに寒い日々でもなかったようにもおもう。どちらかといえば寒いのか寒くないのか微妙な日々が入り交じった感じ。庭のピンクの侘助がひっそり咲いて、春に向かう兆しを感じた朝。若い頃は全く気にしなかったのに、歳を取るごとに「一月往ぬる二月逃げる三月去る」そんな三ヶ月をしみじみ感じるようになった。特に1月1日夕刻にあんな大規模な地震があって、特異な1月が往ぬる。とおもう。

1月を振り返ると、4年ぶりに「お餅つき」をやって、131名の多くの方々に参加頂いて、お互いのエネルギーを交換したように感じ、今年も頑張るぞ!感が湧いてきた。新年会も復活して、5つほど参加し、そのうちの2つは、うちの家の食卓のテーブルを囲んだ新年会だった。「MOKスクール」という「まっとうな木造建築を普及させるための勉強の場」というフレーズが使われているが、そのスタッフのの方々と河豚鍋を囲んだ新年会を催した。工務店は、木又工務店の木又さん、大塚工務店の大塚さん、そして私。設計事務所のスゥイングの小泉さん。材木屋さんの橘商店の橘さん。という建築関係トントントンの組み合わせだった。それぞれ以前から何らかの関わりがあったのだけれど、今回、大工工務店として名を馳せている棟梁の木又さんは、うちの家に来たのが初めてだったので、木村工務店を案内したり、うちの先々代が関わって造作した数寄屋の和室の実物見学で、あーだこーだと大工目線で盛りあがった。下の写真は橘さんが撮影したその時のフェースブックに投稿された写真。(橘さん勝手に拝借ゴメン&Thanks)

それで、もうひとつ、ちょっと多くの方々に知って、使ってほしいけれど、なんだかんだ紹介する機会を失っていたひとつに、槍鉋仕上げの手摺があって、大道さんという槍鉋の面白さを伝えようと奮闘している大工さんが東成に住んでいて、その大道さんに依頼して、製作取り付けしてもらったのが、「吉野桧槍鉋仕上げ手摺」。ここ数年、magosが、その手摺を頼りにして、階段を上り下りし、より艶感が増してきたようにおもうのだけれど、その独特の手触りと質感の良さを体験してもらった。

そんな、工務店から見た、素材や納まりや工務店あるある話で盛りあがり、翌日には奥方から、何度も大声で笑い合っていたのが響いていたわっ!よっぽど楽しかったんやなっ!とのお言葉。工務店の悲哀というか「工務店ブルース」のようなものを語り合いながら、悲しみや苦悩の感情を一緒に笑い飛ばせたのが良かったのだろう…..。宴を終え帰る時のそれぞれの後ろ姿には、とはいうものの、日々のルーティンをコツコツやっていくしかないよね。みたいな雰囲気が漂っていた。

逃げる2月。そんなこんなの日々のルーティンをコツコツやっていければとおもう。

「能登」

祖父から父へそして私に引き継がれ参加している「生野防火協力会」の新年の会合があった金曜日。おもに、ガソリンスタンド屋さんや塗料屋さんやお風呂屋さんなどなど危険物を取り扱うお店や倉庫などを有する会社の代表者の方々が集まって、生野区の消防行政を間接的にサポートする団体で、年に2度ほど会合がある。今回は能登地方の地震が発生し、その日のうちに輪島まで救助活動に出向いた生野消防署の担当の方のお話しを聴く機会を得た。

消防自動車で車中泊し、後方部隊の支援によるテントで寝泊まりし、2日間ほどかかってようやく現地に到着して、救助活動をしたそうだ。生の現場でのお話を拝聴すると、被災者の方々への感情の高ぶりと共に、救助活動に赴く消防署職員の方々のメンタリティーを知る機会になって、ちょっと目頭が熱くなるおもいだった。工務店の立ち位置を鑑みても、倒壊から免れる建物、大規模な火災から免れる街づくり、日本の木造の密集市街地の課題がまだまだ沢山あることにあらためて気付かされた。

そんな刺激もあって、なんとなく、「私」と「能登」との「縁」を振り返って、その訪問地の地図を眺め、ホームページにアクセスしてみた…..。

①の「千里浜なぎさドライブウェー」は、学生の頃、車に乗るようになって、砂浜の海岸線を車で走り抜ける爽快な映像に憧れて、奥方とドライブし、その海岸で泳いだ。それ以来、何度かいろいろなシチュエーションで走っているが、ネットで調べてみると通行止めになっているし、進入路が崩壊して復旧の目処がたっていないという。

②の「能登半島国定公園内の大島キャンプ場」夏休みには、子供達やその友達も連れて、おそらく5回以上、宿泊日数15日以上は、海水浴キャンプを楽しんだ。今振り返れば、小中学生頃の多感な時期の子供達だったなぁとおもう。もう30代の後半になって、それぞれ、どうしているのだろうか。

波のない日は沖の島まで遠泳したり、波のある日はボディーボードしたり、自転車で海岸や自転車道路を走ったり、夕日を眺めたり、焼肉食べ焼きそば食べ、松林の中に張ったタープの下で昼寝をした。台風が通過する暴風雨の夜を過ごしたこともあった。ある時、最終日はちょっとエエホテルに泊まろうと、海岸沿いを北上し、輪島の朝市に寄って、③の「白米千枚田」を眺めた。人の手によって丹念に作られた棚田と海の光景は、記憶に残る映像だなとおもう。

その「③白米千枚田」を眺めた後、④の「ランプの宿」に宿泊した。キャンプ生活で真っ黒な爪、焚き火の匂いが染みついた髪と服、そんな状況からの宿泊だったので、こぢんまりしたリゾートホテルはとっても心地良いなぁ…..としみじみ思った。それ以降、奥方の強い願いがあって、キャンプの最終日はこぢんまりした良いホテルに泊まることになった。それから十年後にもう一度「ランプの宿」に宿泊したが、どんどんリゾートホテルとしての風格がついていく姿を垣間見た。そういえば2022年にサイクリングの途中で、駐車場の上から眺めたら、日本3代パワースポットというのぼりがたなびいていた。震災で休業をしているが、そんなに大きな被害がなかったらしい。震源地に近い場所なのに地形とは、とっても不思議だなとおもう。

⑧の「真脇遺跡」には、列柱が円形に林立する姿を見たいがために「②大島キャンプ場」の帰りなどに何度か見学に行った。その駐車場で車中泊をしたこともある。縄文遺跡は山の幸が豊かなところだけでなく、海の幸が豊かなこんな場所もあるのだと知った。当時は、まだまだシンプルな遺跡公園だった。数年前に竪穴式住居も復元されたそうだが、地震では無事だったようだ。

⑤⑥⑦⑨は2022年の10月にサイクリング仲間と一緒に能登の北部を自転車で巡った。自転車で走った道路は寸断されガタガタのようだ。その時に珠洲で宿泊した⑥の「田崎荘と近くの見附島」はグーグルの地図をクリックすると臨時休業と表示されてあり楽天トラベルのホームページには口コミで被災を悲しみ応援するメッセージが書かれたあった。なによりも軍艦島ともよばれる見附島は崩落して無残な姿になっているそうだ。その看板の前で自転車を置いて撮影した写真を以前ブログに掲載した。もはや観光地でなくなってしまうのだろうか…..いつかワタシ、地震の威力を垣間見るために、以前の写真と見比べながら訪れるかもしれない…..。

「⑨の能登島」も自転車でぐるっと周回したが、震災による断水の報道をみると、同じ島の中でも「県水エリア」と「自己水エリア」に別れているとあった。あの日、海岸沿いを一周する予定だったのに、道を間違えて島の真ん中のアップダウンのある小高い丘の尾根沿いをヒイヒイいいながら自転車を漕いだ。どうもそのあたりが、水道の分岐線のようだ。下の写真は能登島にある、建築家・毛綱毅曠による能登島ガラス美術館。美術品に被害があるそうだが、建物はどうなんだろうか…..。そういえば金沢21世紀美術館も被害で休館とのこと。

⑤は同級生と宿泊した「湯宿さか本」で、ホームページには「特別普通に。もしかしたら、さか本は大いに好き嫌いを問う宿です。なにしろ、部屋にテレビも電話もトイレもない。冷房設備もないから、夏は団扇と木立をぬける風がたより。冬は囲炉裏と薪ストーブだけ。そう、いたらない、つくせない宿なんです。」ある意味とんがった宿だし、料理にも建築にもコダワリが強く、それゆえ記憶に残る宿だった。あらためてホームページを覗くと…..

⑦は「宗玄酒造」でその「⑤湯宿さか本」で宿泊した帰りに立ち寄って日本酒を3本買った。海岸近くで立派な趣のある酒蔵だった。被害がかなりあったそうで、ホームページには →

そうそう、⑤の近くに能登燃焼器工業というのがあって、そこで製造される七輪を七輪本舗というサイトから買って、とっても重宝している 秋刀魚を焼いている写真はそこの七輪で、一年に何度かは、串刺しの焼き鳥を買って、この七輪で焼き鳥を焼いて皆で楽しむ。そこのホームページを覗くと…..

冒頭の「生野防火協力会」での挨拶のなかで、生野区の銭湯の60%ほどは石川県出身の方々だそうだ。珠洲や七尾では、井戸水などを使っている銭湯が、再開し、無料で開放しているところが数軒あるという。あらためて震災の被害の大きさと、その苦悩を知るし、ワタシ、それなりに能登との縁が深かったなぁ…..とおもう。

「構想」

「お餅つき」の土曜日。

あらためて「お餅つき」って、「協働作業」だなっとおもう。餅をつくひと、餅を返すひと、っていうのは、わかりやすい花形の二人だが、お米を蒸す担当者がいるし、熱湯を常に沸かして、臼を綺麗にし臼の温度を下げないように保つ担当者もいる、うちには、廃材の薪があるので、蒸す用とお湯用の竈を二つ用意して火をくべる。案外タイヘンなのが、餅を丸める作業。つきたての餅を切り分ける担当者がいるし、その餅を丸める作業も忍耐力を伴う作業で数人でないとタイヘンだな。餅米の段取りとか前日のお米とぎとか、なによりも会場での人員配置や道具の設置や片付け保管も含めて、その全体を構想し、サポートするスタッフがあってようやく成立する。

そういうのがとっても面倒くさいが、やってみると面白いし、終わったあとは疲れた感がただようものの、その翌日に、つきたてのお餅を食べて、じわっと美味いなぁ感が溢れてきて、また来年もやろかうかな…っていう気分になる。「工務店」というのは、「ものづくりのチーム」のようなもので、お餅をつくるという協働作業を通じて「ものづくり」の「チーム感覚」を「共有体験」できるところに、社員研修的な要素も宿っているようにおもう。

関西大学の建築学科での講評会に参加した火曜日。3、4人のチームで集合住宅の設計をする課題で、私の立ち位置は、ものづくりとしての建築をサポートする立ち位置なので、プランに言及することはないが、具体的な敷地での集合住宅の課題になってくると、建築を学ぶ学生でも、その敷地での「マーケティング」と「イノベーション」という、そんなコトバを使って、住まい手や建築を構想し、プランニングしても良さそうな時代になってきたようにおもう。それはそれとして、終了後は、講師の矢田さん米谷さん下山さんと共に、それなりの数の学生たちと一緒に居酒屋で飲んで、楽しい時間を過ごした。次の日、エラそうなコトバ使ってヘンなコト言わんかったやろか…..なんて、ふとよぎった朝のワタシ。

クッチーナというキッチンを製造販売するモーリーショップの社長さんとそのスタッフ4名の方々と一緒に、うちの家で食事会をした木曜日。ひょんなことから、20年近くモーリーさんとの縁が続いて、それなりの数のクッチーナのキッチンを使っている。現社長さんとは住吉高校出身の先輩後輩の関係性であることが判明し、縁が深まって、スタッフの方々がこの日を段取りしてくれた。食べて飲んでいると、一緒に出来るコトを構想してみたりもするが、東京では、へぇー、あの芸能人の家もクッチーナ、えっ、あの人もっ、この人もっ。なんて芸能ネタで盛りあがるのが、やっぱり楽しい。それより、そのひょんな縁というのは、2002年にビフォーアフターに出演した時に、テレビを視聴していたモーリーショップの役員のお母さんが、あそこの工務店に営業に行ったらどぉ….っていうのがきっかけだったそうだ。今もこんな感じで縁が続いているのは有り難いコトだとおもう。

ま、多種多様な能力と個性をもったひと達と一緒に「チーム」になって「ものづくり」を「構想」していく。なんていうのをあらためて考えてみた今週だった。

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