「脳に騙されず脳を騙す」

雨降って、落ち葉がいっぱい。美しい。でも掃除がタイヘンな季節だな。

「TJAR2022」は「トランスジャパンアルプスレース2022」の略らしいが、そのレースのドキュメンタリー番組「激走! 日本アルプス大縦断 2022」がNHKBSで2週間に渡って土曜日に放送されたのが先週と先々週のこと。前編を何気に見ると感動的で、長男家族と一緒に食事をした時にその録画を見せると、一緒に感動を共有できて、その後編を皆で一緒に視聴しようということになった。それぐらい小学生からシニア世代までの幅広い年代層を虜にする魅力があったのだろう。

オリンピックとかワールドカップとかそんなのは家族一緒に視聴したことがあったが、番組が始まる前に、うちの家の居間のテレビ前にゾロゾロ集まってきて、それぞれの居場所に座って一緒にトレイルランニングのスペシャル番組を視聴する。なんていう現象はとっても珍しいことだとおもう。そういえば、うちの居間に長男とその家族や次男が集まってくると、奥方や私も含めて、それぞれにとって居心地の良い居場所がなんとなく発生し、それぞれの定位置ができたりするのが、建築の現象としてとっても面白いなぁとおもう。

そのレースで、圧倒的なパフォーマンスでチャンピオンになった土井選手は、ヘッドライトにマイルストーンという製品を使用していて、いまそのマイルストーンの倉庫と事務所とプレゼンテーション的な場所を新築工事中で、土井さんは、そのアドバイザーも兼任しているらしく、そんな「縁」が応援度を強めていたのだとおもう。「一日一アルプス」というコトバが生まれたらしいが、一日で北アルプス、一日で南アルプスを越えたという。

運動能力としての圧倒的パフォーマンスが凄いのだが、彼が発するコトバも示唆に富んでいて、「” 脳に騙されず、脳を騙す “これまで経験してきたウルトラディスタンスで学んだことのひとつ。疲労が重なったとき、脳は防衛反応で身体を止めようと傾く。睡眠はそれをニュートラルに戻す。短時間の睡眠だけでも回復する(気になっている)のはそのせいだ。全て仮説だけど。だからウルトラディスタンスで意識することは、脳と上手く付き合うこと。限界を超える方法の1つと考えている。」なんてとっても魅力的なコトバだな。

「よく「長く動き続けられる動物は人間くらいだ」と言われていますよね。つまり人間はいい意味でも悪い意味でも、日常では脳で行動を制御してしまう。その制御装置を緩めれば、人間にももっと可能性が生まれるのかなと思います。あくまで持論ですが。」面白いコトバ遣いだなぁとおもう。そういえば「痛みが心の起源」というタイトルのNHKBSのヒューマニエンスという番組を視聴したことがあるが、「「痛み」は、もっとも原始的な感覚だ。このシステムこそ、実は「心の起源」なのではないかと研究者は言う。例えば、痛みは意外といい加減。脳の受け止め方次第でその感じ方が変化する。痛みは傷ついた患部ではなく、脳が生み出した、自身の危険を伝える警報信号だからだ。脳が生み出す感覚のため、失恋などで心が傷ついたときも、体が傷ついたときも脳は同じ反応をしていることもわかってきた。痛みと心の不思議な関係を妄想する」なんて番組説明にあったが、双方に共通する何かを感じる。

番組終了後、小学生低学年のマゴが父親に向かって、お父さんも出場したらどぉ!と軽やかにコトバを発し、父親がその言葉に詰まりながら、そんなん絶対無理やわ!と切り返すものの、マゴは腑に落ちず、誰もが挑戦できそうなイメージと憧れを抱かさせる、そんな土井さんの姿と他の参加者の人間の限界を超えていくパフォーマンにワタシも感動したが、それは「身体と脳と心の関係性と付き合い方」の実験を見ているようでもあった。

そうそうテレビ番組上ではなくネット上で知ったことだが、このレースのために荷物を軽量化するための道具と食料のチョイスと工夫にも興味深いところが沢山あった。建築という建物のスピーディーな完成を目指す「現場監督」にとっても参考になるような気がするなぁ。

「カスタマイズ」

雨降る日曜日。たまの雨もエエ感じ。雨降りだから本でも読もう。なんて気分になるのかと想っていたら、そうそう今日は生野祭りがあって、今回から運営者が変更になったようで、いままで何十年も裏方としてステージを作っていたその作業がなくなったが、知り合いの出店や運営のスタッフの方々にお声がけに行こうとおもっていた。そしたら水圧転写ワークショップの「ビッグワンズ」のマツイくんからメッセージが来て「自転車のチェーンカバーの塗装が完成したのでお昼から持って行きます!」ということだった。

自転車の話題が続いてしまうが、「ブロンプトン」を購入すると、乗るという楽しみだけでなく自転車を「カスタマイズ」するというコトに面白さがありそうだった。2段変速、3段変速、6段変速の選択肢があるなかで、ワタシは2段変速をチョイスし自分の脚力にあったギアー比に多段化する楽しみを段階的に楽しんでみようと考えた。純正のフロントのチェーンリングが「54」リアのギアー比が「12」「16」で、何週間か乗ってみると、「54と12」の組み合わせはワタシの今の年齢と脚力では重すぎて踏みきれなかった。それでリアーのギア比を多段化する前にフロントのチェーンリングを「50」に交換することにした。

そのチェーンリングにチェーンカバーというのが付いていて、その色が「黒」だった。販売店の方にうかがうと、これはアルミではなくプラスチック製品で「シルバー」色はないのですという返事で、確かにネットで調べてもなさそうだった。別に大した問題でもないのだが、遊びとして、それならチェーンカバーを外しタイヤのアルミの泥よけカバーも外して、ロードバイクのようなタイヤむき出しの精悍なスタイルにしようかとおもいながら、実物の自転車を夜な夜なしげしげと眺めていたら、ブロンプトンのフレームや純正部品ってブサカワイイ(ちょっとブサイクだけどなんだかカワイイ)デザインでデザイナーだなとおもえてきた。

よくみるとアルミの泥よけカバーのデザインもそれなりのデザインに考慮されているのだ。チェーンカバーのデザインもチェーンリングとの組み合わせでそれなりのデザインになっていてロードバイクなら必要とまったくおもわないチェーンカバーと泥よけカバーだが、ブサカワイイのだ。なら今回はそれを残すというチョイスにすると、やっぱりカバー類はシルバー色に統一した方がエエ感じにおもえた。何度も言い訳がましいのですが、黒のママでも無しのママでもどっちでもエエし、ほんとに個人的な趣味と感覚のお遊びなんですが、そんなカスタマイズ的なことをすると道具に「愛着」が湧いて「友達」のようになるのが楽しいのだとおもうのです。じゃぁチェーンカバーをどこかでシルバー塗装に出来ないものか…..と考えていた時に、偶然、水圧転写のワークショップの日がやってきた。

ワークショップが始まる前の昼食としてB級グルメ布施のサニヤンの焼きそばをテークアウトして一緒に食べながら雑談をしていた時、あっそうそう…..と、マツイくんに話題として持ちかけるため家から折りたたみ自転車を運んできて「このチェーンカバーが黒で、シルバー塗装ってできないものかなぁ。もちろんお金ちゃんと払うので」と尋ねると「一度会社に持ち帰ってどんなタイプのプラスチックか調べて下地処理がうまくいくのならチェーンリングと同じアルミ色にできるかもしれません」という快い返事が返ってきて、おもわず笑みがこぼれまくっていたワタシ。マツイくんとほぼ同じ歳の専務(長男)もワークショップサポートのために同席していたので、手伝ってもらいながらその場でチェーンカバーを外した。

お昼3時過ぎて雨が止んで、マツイくんが巽から自転車に乗ってうちの家まで完成品を持ってきてくれた。その場でチェーンカバーを取り付けて出来具合とか塗装によるひずみがないかお互いに確認する。もとの黒色のチェーンカバーにあったブロンプトンのデザインされたマークも消えずにそのまま残っていて、おもわずニヤニヤしているワタシ。奥方が奥から出てきて、えっ!どこが違うん!どこぉ!ふぅぅん!。もはやこの時のワタシにとっては褒め言葉でした。奥方も交えて珈琲を一緒に飲みながらあれやこれやと雑談をして「こんなのが『仕事』に発展したら良いのにねぇ」「住宅建築もカスタマイズの時代かもね」と語りあいながらこれまでの経歴を聞いたりしているうちに午後4時を回った。

あっそうそう生野祭りに行かねば…..。早くいかないと撤収しているかも…..と言われながら、玄関でマツイくんと別れて、シルバーのチェーンカバーを取り付けたばかりのブロンプトンで生野祭りの会場に向かう。会場の手前から閑散としたムードにあれぇとおもいながらロート製薬本社裏の会場に到着すると、もうすでに業者が来て舞台やテントの撤収作業をしているシチュエーションだった。

そんなこんなの雨の日曜日になった。

玄関に折りたたみ自転車という選択肢

自転車でブラブラ散策するのにとっても良い季節。奥方と二人で大阪城まで自転車で散策しどこかでランチしようということになった文化の日。

前回のブログに自転車のコトを書いたが、ワタシ、街乗りは電動ママチャリを愛用していた。奥方は買い物に自転車で5分の布施にその電動ママチャリを借りるわょ!といって使うことはあったが、車大好きなので、自分の愛車で身軽に運転し買い物にでかけていた。結婚以来、自分の車を持ち続け、次にどんな車を買うか車を迷う楽しみを楽しんでいる姿に何度も遭遇した。ワタシは、恥ずかしながら、いままで車のディーラーに行って車を試乗したこともセールスを受けたこともなく、今乗っている車はインターネット上の資料とYouTube上のその車に乗った感想を参考にして、まったく試乗せずに買った。とはいっても車を運転すること、特に長距離を運転することは好きなのだ。

で、そんな奥方が、コロナ以降、健康のため運動のためと称してその電動ママチャリを使う頻度が急激に増えだした。ワタシは生野区役所など近隣を用事で行く時には電動ママチャリを愛用していたが、そんな時と重なって小競り合いが勃発することが増えた。最近は電動ママチャリって、どこまでも行けて楽しいよね!と言い出す始末で、大阪城前にあるキューズモールまで電動ママチャリで行ってトレーニングや買い物をする日々がどんどん増えている。

かなり前のブログでも書いたが、ワタシの書斎だった場所が徐々に侵攻され今は完全に奥方の領土になってしまったが、代わりに食卓のテーブルの端にMacを置くことが容認されて、そこがワタシの居場所になった。それはデザインとしてテーブルに置かれているMacがカワイイと奥方の好みに合ったからだとおもう。この事例を考慮すると、電動ママチャリも奥方に明け渡すことになる日が急速に近づいているのは明白で、さて新しく買うワタシ用の街乗り自転車はどうすれば良いだろうか…..と悩んでみる。

住宅設計で車の駐車スペースを設計するのは案外ムツカシイテーマだとおもうが、自転車置き場も本気で設計するとやっぱりムツカシイテーマだとおもう。ただ自転車はなんとなく駐めることができるので成り行き任せみたいなところもあって、うちの家がある生野区のような密集市街地での自転車置き場は誰もが苦労していて、最近の電動ママチャリはホイルベースが長いので、なお苦労する。仕方なく「道路」を利用しているところも多いとおもう。うちの場合は自宅の道路を隔てた前に会社があってそこに電動自転車置き場がある。ちなみにロードバイクを中心に自転車で通勤している社員が6名ほどいて、自転車置き場もメーいっぱいな状況でもあった。

そんなこんなで「ブロンプトン」という英国生まれの折りたたみ自転車を購入する事になった。これにはあるべつの偶然が作用したのだがその話はまた何時か。うちの家をリフォームした時、玄関にロードバイクを置くためにその置き方のデザインを考慮して自転車を置こうと画策したが、奥方の猛反発に屈し、庭の軒下の隠れた隅っこに置く事になった。今回はちょい乗り的に頻繁に乗る自転車を庭に置くのも不便で家の玄関に置けるのが最良なのだが、玄関の大きさと普通の自転車の大きさのバランスをどう設計的に考えてもうまくいきそうになかった。

以前からインターネット上では気にはなっていた折りたたみ自転車「ブロンプトン」なのだが、ある日曜日の夕方、ロードバイクで散歩している途中、偶然その販売店の近くを通ってふらっと立ち寄る。車は試乗したことないのに、そのブロンプトンという自転車に試乗してみると、よく走るのに驚いた。電動でなくても大丈夫そう。なによりも折りたたみの素早さ快適さが秀逸でその折りたたんだ姿がとってもカワイイかった。でその場で即決することになった。

家に持ち帰り、最初はワタシもけなげに庭の軒下に折りたたんで置いて袋に入れていたが、数日して家の玄関にそぉっっとその自転車を折りたたんで置いてみた。すると帰宅した奥方が、カワイイ!と第一声。これやったらカワイイからここに置いてもエエよぉ!と、めでたく奥方の好みに適合し、玄関に自転車の居場所が生まれた。そんなこんなで電動ママチャリは完全に奥方が私の所有ですと宣言がなされ、ブロンプトンはワタシの自転車として玄関で共存できるようになった。そんなわけで、めでたく二人で自転車散策ができるようになって、ランチにありつけ、自転車でブラブラと帰宅する文化の日だった。

折りたたみ自転車を玄関に置くという設計もありだとおもう。

カモフラージュ柄

秋の霞。霞は春で霧が秋らしい。

自転車に乗るのにもいろいろあるとおもう。ワタシ、電動ママチャリが好きで、親父が残した電動ママチャリを愛用する。生野区や布施あたりをウロウロするのには最高。あのブサイクなスタイルがエエとおもうし、サスベーとよばれる傘が立てられる棒もついて、ちょっとした雨でも乗っていける。体を起こした姿勢が楽だし、周囲がよく見える。ただあの姿勢なのでペダルに力が伝わりにくいが、電動化によって漕ぎだしが圧倒的に良くなって、かなりの金額がするカーボンフレームの漕ぎだしと同じだとおもう。パット入りのレーパンをはかなくても乗り心地は快適だが、スピードはでないよね。近場ウロウロが最適。

ロードバイクでちょい街乗りはワタシにとってはツラい。周囲をキョロキョロ見ながら走る感じではないし、地面の凹凸による振動がもろに体に伝わるし、シートも固いのでレーパンを履かないとお尻がツラい。でも、それなりの服装で走り出せば、地面から伝わる振動すら心地良いし、スピードもでて、20kmぐらいの距離を走るのはなんてことないし、峠だってちょっと頑張れば越えられるのが魅力的で、1日の行動範囲が50km圏をはるかに越えて広がる。建築的には峠を越えて集落を眺められるのが楽しい。想わぬところに集落があってこんなところで集まって生きているのかという姿に接するのが楽しい。

電動ママチャリはただの乗り物的だが、ロードバイクは暫く乗っているとスポーツ要素が高いことに気付く。スポーツ的ゆえにちょっとしたチェレンジ精神が毎回必要になってくる。それゆえに楽しかったり辛かったり。なんてぐたぐたこんなことを書きはじめたのは、今日は久しぶりに13時30分から始まるワークショップがある日曜日で、それまでの時間をどう過ごそうかと考えた。朝風呂朝サウナも気持ち良いが、天気も良さそうで気温も自転車に最適な感じ。今月初め能登で数人でイベント感覚で自転車に乗ったが、ワタシ的には10kmランニングするぐらいの感覚の朝を過ごしたい。自転車的には40kmぐらいなのか、スポーツ的に体にちょっと負荷をかけて楽しかったなとおもえる朝になれば… 朝練はキツいイメージ強いし、朝ヨガぐらいな感覚で走れればエエかな。と走り出す。

十三峠をゆっくりゆっくり登って、信貴フラワーロードを走って朝護孫子寺へ。ワタシ、自転車に乗っていてもこのお寺に参拝するのが好きで毎回立ち寄る。今日は12年に1度の秘法結縁とやらで本堂の扉が閉められた中で真言密教最高の儀式がおこなわれていると云う。どんなかな。と気になるが、それより本堂がのぞめず木製の折れ戸でビッシリと閉められている姿に趣を感じる。柏原の葡萄畑の方に降りていく、龍田古道里山公園手前の葡萄畑から大和盆地を望めるところで腰掛けて、コンビニで買ったおにぎりと珈琲を飲む。秋なのに霞立つ感じが、のどかで平和な感じがして、ここまで来て食べて飲んでのどかな景色眺めてようやく朝ヨガ的気分になれたワタシ。冒頭の写真の気分を表現するためにこんなに文章をダラダラ費やしてしまった…..

本日のワークショップは「水圧転写」という技術を使ってクロックスにカモフラージュ柄を転写するワークショップだった。参加者は身内ばかりな感じ。アウトドアー好きがカモフラージュ柄のクロックス履いてお揃えのカモフラージュ柄のアウトドアー用品でキャンプを楽しんでいるという姿を想像してみたが、そんなふうには人が集まらず、コンビニへ行くときに履いていくカモフラージュ柄のクロックスっていうイメージになった。ついでに製作したカモフラージュ柄のスイッチプレートが良かったかなぁ…..

自然、植物や土など同化し、自然に溶け込むような迷彩柄のことをカモフラージュ柄というらしい。ワタシ、庭掃除用シューズとしてカモフラージュ柄クロックス履いて、植物や土と同化しながら庭掃除をしようとおもう。

「新米」

庭のキンモクセイが橙色のカワイイ花を咲かせ冬がやってくる紅葉前の穏やかな秋。日曜日の午後3時過ぎ、大阪城と難波宮跡周辺を自転車で散策すると、それぞれが思い思いに土の上にシートを広げ寛いでいる雰囲気がとってもエエ感じ。女子会が目立つな。男子はどうしているのだろうか。ゴルフとか登山とか釣りなのか。そうそう急に外国人観光客が増えてきた。それも東洋というより西洋な観光客が目立つ秋。

もうひとつ秋の訪れを実感する出来事があって、長男奥方の実家から送られてきた「新米」を食す。甘いそして美味い。おかずと一緒にご飯を食べるのがもったいないとおもえるほどお米そのものの旨味に笑顔がこぼれる。ここ数年、年がら年中ダイエットしていると吹聴するわりにはその効果に落胆を繰り返している奥方だが、こんな美味しいお米やったらお茶碗山盛り一杯食べたくなるわ!我慢せな。と言いながら、きっとこっそりお茶碗いっぱい食べているのだとおもう。それぐらい美味しい。ここ1ヶ月だけがほんとうに美味しいらしい。この歳になってホンマモンの「新米の旨味」をようやく知った大阪生野にしか住んだことのないワタシ。

そういえば秋の味覚のひとつ「松茸」を能登の珠洲で食す。前回のブログで金沢で鮨を食べたその前日は珠洲にある「湯殿さか本」という、かなりコダワリの強い宿に泊まった。その宿に同級生は知人と二家族で宿泊予定だったらしいが、一緒に行く予定だった家族がキャンセルになって私たち夫婦を誘ってくれた。偶然というコトバがあるように、私はたまたまその前日からウィリエールという自転車メーカーのキタムラくんのお誘いで能登の珠洲に宿泊し自転車に乗るコトになっていたのだ。奇遇ともいうのだろうか。

その宿のホームページには「特別普通に。もしかしたら、さか本は大いに好き嫌いを問う宿です。なにしろ、部屋にテレビも電話もトイレもない。冷房設備もないから、夏は団扇と木立をぬける風がたより。冬は囲炉裏と薪ストーブだけ。そう、いたらない、つくせない宿なんです。泊楽 さか本はなんにもありません。申し訳ありません。・・・・」と書かれてあって、そのとおりの宿だったが、食事も特別普通な旨味で美味しかった!と表現すれば良いのかもしれない。その朝食に松茸が入った土瓶蒸しがでる。それが朝起きがけの体に染み渡った。いままでで一番印象に残るフツウじゃない朝食で、秋の訪れを感じる朝になった。

そうそう秋晴れの土曜日。こんな峡谷のような一角で地鎮祭があった。テントの奥に見えるのが心斎橋商店街のアーケード。朝9時30分開始だったのに、この写真の裏の雑居ビルからカラオケの漏れる音がそこそこの音量で聞こえ、神主さんの祝詞奏上とシンクロナイズした。流石ミナミ! デザイン監修がナカジマさん、設計はAR設計のシモカワさん、構造設計はシモヤマさん、施工キムコーというこのチームで、ここに木造「木組み」の店舗が建つ予定。

現場監督は最古参のムラカミさんと新人のオオウエくん。と書いた途端に、「新米」は食べると甘くて美味いのに、「新人」は青臭いなんて表現もあるほどまだまだ淡泊な感じがするが、なぜ「新人」のことを「新米」と表現するのか、不思議におもえてきた。ググると『「新前」説「純白お米」説「江戸にお米が集まった」説「前掛」説』などなどに遭遇する。新米のように旨味のある味のことでははなく、新米も新人も取れたて入社したての「フレッシュ」であることが共通点なのか。

なんて。今年の秋はこんな感じの秋なんです。

「右手」

生野区小路のまちに地車の鐘や太鼓の音が一日中鳴り響く秋祭りの日曜日。コロナ禍が明けたファンファーレのようであり、まちの活気を取り戻す音色のようにおもえた。道を挟んだ会社と家の前に地車が停止する。日曜日なので社員は休みだったので、夫婦二人だけで道路にでて「さぁ打ちましょ!」の掛け声とともに皆で一緒に大阪締めをする。昔は近所の沢山の子供やおじいちゃんやおばあちゃんが道に出てきて地車を見送ったものだが、ほとんど人の姿がない昨今。ちょっと寂しい。地車の鐘や太鼓の音色と威勢の良い掛け声が響き皆で大阪締めで安全無事を祈る「まち」として活性化してほしいなとおもう。

↑ そうそう木村工務店の塗装工事を担ってくれている山本塗装のヤマモトさんが日曜日なので大友の地車を曳いて、和やかな笑顔を振りまいてくれた。それにしても大きな右手だなぁ。この手で数々の家や店舗の塗装をしてくれているのだな。

「手」繋がりなんだけど、月曜日の祭日、高校時代の同級生イナモトくんのお誘いで金沢の「小松弥助」で鮨を食す。ほんとうに予約のとれないお店だという。カウンター席越しに90歳を越えたという大将が握るフワッとやわらかいシャリの鮨が右手の手の平にのっかり差し出される。ちょっと緊張して力が入ってシャリを握りつぶしてしまわないかと心配しながら手渡しで受け取とると、大将が右手親指を立ててグッドサインをする。美味いでぇ!というサインかとおもったらありがとう!という感謝のポーズだという。口に入れフワッとした旨味を堪能してワタシも右手親指を立ててありがとう!のグッドサインを返す。

カウンター越しに眺めるネタを切る右手の包丁さばきに絶妙な入射角とリズム感があり左手の柔らかく鮨を握るリズムも加わるとその全身から繰りだされる一定のリズム感に見惚れてしまう。食べ終わって若い板前さんと会話しながらそんな印象を伝えると、おまえリズム感が悪い!とよくおこられるのです。っと笑顔で答えたくれた。その時、2年前に他界した沖棟梁が鋸を挽き鑿を玄翁で打つ時のリズム感を大切していたことを想いだした。沖棟梁が加工場の一角に座り込んでひとりひっそりと「鋸の目立」てをしていたその時の心地良いリズムとその所作がフラッシュバックした。

お店にはピシッとした空気感があるものの緊張感が漂うわけでもなく皆が和やかに会話しながらリラックスした笑顔でお寿司を食べ幸せな気分にさせてくれる、その老齢の域に達した職人仕事の在り様を垣間見た。帰りがけは、板前さんがわざわざカウンターから出てワタシのカメラを持って、大将も加わり板前さんと一緒に皆で「はい弥助」とコトバを発しながら親指を立てて皆で記念撮影をする。そんなちょっとチャラいイベント感も楽しみながらできる高級寿司店にある種の凄みを感じた金沢の昼食だった。そうそう夜は営業せず朝から3交代制の営業で午後5時過ぎに終了するという。営業スタイルも現代的なのだ。

アウトドアー薪ストーブを囲むスタイル

涼しさを通り越して寒いと感じた今週。雨の週末だったなぁ。

うちの家の雑誌取材があって、カメラマンの方の撮影にあたり、コーディネターの方やライターの方が撮影範囲が見栄え良くみえるように家を片付けてくれたりし、そのあと自分の姿が映らないように皆で一緒に物陰に隠れる。そんなのが数回続くと、エエオトナの「かくれんぼ」みたいで、なんか可笑しいんだけど、ちょっとワクワクドキドキしてきたりして。壁に女性がもたれかかる姿をみて、壁ドン女性みたい!とおもわずお二人にコトバを発したワタシ。

涼しい季節になって、まだそれでもコロナ禍なんだけど、うちの家のデッキでバーベキューをする。設計のヤベさんとその現場担当の現場監督ヤマモトくんを中心に若いけど妙に落ち着いているヒダカくん、新人オオウエくんの20歳代現場監督トリオと共に、もはやベテラン監督の年齢になってきたシノダくんと専務タカノリが集まって飲食を共にした。設計の方々が現場のこんなことを気にしてはるとか、こんな考え方やこんな見立てをする。なんてことを知る機会でもあるが、そんなことより皆で一緒に楽しくこの時間を過ごそうとすることが、これからの良いものづくりに繋がっていくようにおもう。

そうそうアウトドアー薪ストーブを囲んで鉄板焼きをするための鉄製のテーブルを暫く既製品を組み合わせて使っていたけど、幅や高さがこの場所にフィットしなかったので、木村工務店の協力会社の横井金物さんに製作してもらった。低いテーブルでゴロッとしながらストーブを囲むスタイルなのだが、原点は丹沢の大倉尾根にある堀山の家のストーブを囲んで寛ぐスタイルにある。上の写真。当時の山小屋の親父が知り合いだったので20歳後半頃から年に2、3度泊まって、沢登りも含めて周辺の山を遊んだが、このストーブを囲んで皆で過ごす夜な夜なが楽しかった。だるまストーブに円形の鉄板をわざわざ製作し通称バカ尾根とよばれるちょっとしんどい尾根を歩いて担いで持って上がるその情熱にリスペクトし、それをちょっとモダンに再現したのが、うちのテラスのアウトドアー薪ストーブのスタイルになった。

秋のアウトドアーが心地良いこの数ヶ月を緑と火を友にして楽しみたいものだなとおもう。

「ダンス」

朝の天気予報は降水確率0%とアナウンスしていた雲ひとつ無い秋晴れの日曜日。長男の小学生になる子供の運動会があって、端的にいえば孫なんだけど、私も長男も孫も同じ公立小学校に通う。運動場に立つと自分自身の運動会で走った時のあの大きな歓声と長男が小学生の時に親として聞いたあの歓声とが聞こえてきた気がした。

コロナ禍の影響で、全学年の父兄が運動場に集い、トラックの周りにシートを引いて座ってお昼ご飯を一緒に食べるあの光景がない。1、2年生と3、4年生と5、6年生のそれぞれ3組みに分かれた父兄が時間帯を分けて入場する。父兄は歓声を発することもダメだそうだ。ガンバレー!なんてコトバを発せられないのはちょっと寂しい。生徒達は全学年揃って一緒にそれぞれの競技を応援していたが、父兄は入れ替え制なので、他の2組みの競技は見ることができない。

早朝からの席取り合戦がないので、席の後の方から観客の頭越しに我が子の姿を追いかけるイライラ感がない。1年生の競技の時は2年生の父兄が後に下がって1年生の父兄が最前列に出て我が子を応援する。1、2年生の競技が終了すると父兄は退出し、3、4年生の父兄が入場する。極めて合理的で父兄の鑑賞する時間のムダもないので、これはこれで良いような気もするが、運動会というフェス感は皆無なのだ。そういえばオリンピックもフェス感がなかったしね。それよりコロナ後の来年はどんなスタイルの運動会になるのだろうか。興味あるなぁ…..。

玉入れがあって、それは未だに紅白に分かれ赤と白の帽子を被って赤の玉と白の玉を投げて最後にひとーつふたーつと一緒に玉を勘定し数の多い方が優勝になって勝った方が万歳をするっていうスタイルが、いまだに守り継がれていて、今回は同じ数の玉だったので一緒に万歳をしていた。木村工務店の宴会でも万歳三唱は最後の締めとしてちょっとした気恥ずかしさも感じながら守り継いでいるが、生まれて初めて大人数で万歳を体験するのが紅白玉入れなんじゃない…..とおもった。

そうそう紅白玉入れにもスタイルの変化があって、玉入れの前にダンスをするのだ。それがカワイイ。音楽に合わせてまずダンスをし、曲の変わり目で円陣が崩れて玉入れをする。円陣に戻ってダンスして玉入れしてまた戻る。ダンスはいいなぁとおもう。全学年の生徒入場では皆でダンスをしていたしマツケンサンバがかかるとみんなノリノリだった。パリオリンピックでは、野球や空手はないが、ブレイクダンスが競技種目に入るらしい。ダンスって人間の生命に内在しているような気がするし、鳥だってダンスするしね、生命活動の根源的なところにあって人間のエネルギーを解放し生きるエネルギーを活性化するような気がする。そういえば子供たちのダンスにフェス感があって、そのうち運動会フェスとして観客も一緒にダンスする時代になるのかもね。

秋晴れはエネルギーを解放させるよね。

「くびれ」

気持ち良い秋空と秋風の日曜日。家の窓を開けて風が通り抜けるのが心地よい季節。なかなかクーラーと縁を切れなかった夏がようやく終焉したような感じ。久しぶりに自転車に乗って大阪城を散策してみると多くの人が散歩し木陰や芝生の上で寛いでいた。テレビをみるとウクライナのあの瓦礫の光景があったりするなか、こんな自由と平和のある光景を見られるのが心地良いが、さまざまな感情も湧いてくる。

我が家をリフォームした時、中庭にあった土をよけてコンクリート製の敷板に変えた。それにともない土植えのモミジや手水鉢もなくなって、光庭となり、ちょっとストイックでミニマリズム的な気分になって、それはそれで良かったが、長いコロナ期間中なぜか不思議にも「緑」を渇望する気持ちがじょじょにじょじょに芽生えてくるのだった。それで鉢植えの観葉植物をちょっとずつ買い足して、いまこんな状態になった。こういうタイプの植物は剪定せずジャングルのようになったら嬉しいとおもう。

光庭の時は夜が寂しい感じだったが、観葉植物たちが加わってから夜景を楽しめるようになった。祝日の夜に秋風とともにこの中庭のライトで照らされたうねりくねった葉っぱの観葉植物を眺めていると、この夜景に対する潜在意識のどこかに先日の夏旅で見た函館の夜景があることに気付いた。一度ぐらいは見ておこうという観光気分で訪れた函館山展望台だったが確かに美しい夜景に遭遇しワタシの記憶に残ることになった。時折iphoneの写真を見返す時があって、なぜ美しいのだろうかと考えるようになり、あっそうそう録画してあったブラタモリの函館山の夜景はなぜ美しいのかを想いだし再視聴することにした。

「くびれ」なのだとあらためておもう。砂洲によって大陸や大きな島と地続きになった島を陸繋島(りくけいとう)というらしいが、そういう地形になる地殻変動とか波や風や沿岸流その他さまざまな自然界の力が長い年月に渡って加わり続けることで「くびれ」が発生したのだと知る。世界中にあるさまざまな美しい景観は自然界の突発的な大きな力が何度も加わった結果として生まれたものだとブラタモリをみていると感じる。

↑ ↓ 是川縄文館で見た土偶

女性の身体の優美な「くびれ」や男性のマッチョな「くびれ」も内面的な力と外面的な力の作用で造られていくものだとおもえてくるし、そういえば縄文土器や縄文土偶の魅力のひとつは「くびれ」なのだとおもう。縄文人もなんらかの心の内からの力と外部環境による力の作用と反作用が長年に渡って継続したことによってあの「くびれ」が発生したのだと、あたりまえといえばあたりまえのことなんですが、あらためてそうおもう。

縄文時代は1万年近く平和な時代が続いたらしい。建築費が高騰する昨今。世界は繋がっているし、いままで世界の平和によって日本の価格も安定していたのだな。自由と平和な社会であって欲しいな。なんてあらてめて感じる秋の穏やかな日曜日だった。

台風接近前。

台風が接近し「経験したことのないような暴風、高波、高潮、記録的な大雨のおそれ」とアナウンスされると、工務店の現場監督は、現場の足場やバリケードは大丈夫かどうか、なんともいえない緊張感がはしり、社内にもそのムードが漂う。近畿地方で19日「線状降水帯」発生の恐れとアナウンスされると、2018年台風21号の被害とその翌日から会社に掛かってきたもの凄い数の電話の事がよぎり、あんな事態になって欲しくないと願う。工務店という立場は「激しい雨や風」というコトバに呪縛されるのだ。無事な台風通過を祈りたい。

先週は台風接近前に地鎮祭と上棟式があった週で、どちらも晴天に恵まれたが真夏のような暑さだった。土地探しからお手伝いし、それなりの住宅地なのに前面道路に給水の本管が完備されておらず、それなりの高額な私費を投じて家の前まで本管を引く必要があって、行政に交渉にいくなどし、ようやく地鎮祭を迎えることができた。給排水がきっちり整備されているのが街づくりと快適な都市生活の基本のようにおもうが、そういうところに「こそ」税金をきっちりと投入して欲しいなとおもう。そんなことを呟きたくなる昨今なのだ。

矢部さん設計のコンクリートに木造の外壁が取り付くハイブリットな住宅の上棟式があった。「中心のある家」のようなコンクリートで囲まれた部分があって、そこに型枠大工の親方と造作大工の親方の両方が参加する珍しい組み合わせの上棟式となったが、夏のような暑い日だったので、ブルーシートで養生をしていたため、ちょっとしたサウナ状態だった。コロナ禍なので現場での祝宴は止めて頂戴した折り詰めを持ち帰り、うちの家で矢部さんと二人、あっ途中から専務が参加してワインの空く本数が3倍速になったが、上棟を祝う宴が深夜まで続いた。

そういえば、その夜。建築関係あるあるなんだけど、この夏旅で「こんな建築を見た」というiphoneの写真をテレビにキャストし、それをアテに飲んだ。

↓ 八戸美術館。「ジャイアントルーム」と「個室群」というのが特徴らしく、『「ひと」が活動する空間を大きく確保することで、「もの」や「こと」を生み出す新しいかたちの美術館として、新たな文化創造と八戸市全体の活性化を図ることを目指します』と書かれてあって『美術館活動に主体的に関わる市民を、アートでコミュニティを耕して育む「アートファーマー」と呼び・・・』とあった。

美術館のなかにアートファーマーのための居場所を造るってムツカシイテーマだなとおもう。行政の人だけでは使いこなしきれない空間なのかも。空間を使いこなすプロの手助けが必要なのかも。なんて感じながらぐるぐる回って居心地の良い居場所を見つけられず外に出た。八戸の飲み屋街に辿り着いて、居心地の良いスケール感にほっとして、まちのひとと楽しく夕食を共にした八戸は、また立ち寄りたいまちだった。

夏から秋にシフトチェンジしたつもりだったのに、ここ数日の暑い天気が夏の記憶を呼び戻させる感じ。9月の連休はここ数年、台風と遭遇する連休のような気がするが、秋の到来を告知するだけの、おとなしい台風であってほしいとおもう。

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