雨の初出と新年会と日曜日の関係性

今年は、多くの会社が、1月6日月曜日が、初出だったようにおもう。木村工務店では私が入社する以前から、初出は1月6日と決まっていたが、入社して40年以上経過するものの、1月6日の朝に雨だった記憶がない。清見原神社の境内で誰かがこのお正月の初出に傘差した記憶がないなぁ…..って呟いてる声が聞こえた。確かに、傘をさして、清見原神社に参拝した記憶がないのだ。それで、ChatGPTに「1980年以降の1月6日の大阪市の天気を教えてください」と聞いてみると、「エラー」が返ってきた。こういうコトは答えられないのだな。不思議に感じて、グーグルで検索すると、気象庁のサイトだけが表示され、「ある場所の1月6日をピンポイントとして天気を知り、それを年ごとにお天気データとして表示させる」なんていう具体的な方法でないと天気を知れないのだと知る。

気象庁のサイトにはいると、場所と年月日付を選択すれば、1月6日の1時間ごとの値が表示されるが、それでも1990年以降にしか降水量と日照時間と天気のデータは表示されない。また、2009年以降は表示データがより詳細になり、天気としての表示記号がなくなり、詳細な降水量で天気を判断する形式になって、感覚的な天気記号の部分が排除されていた。きっと、いまでいう、DX化が進んだのだな。

ちなみに大阪市1990年1月6日午前9時は、降水量0.0mmで日射量ー データなしで、天気は●で雨だった。データから解釈すれば、傘をさすほどではない雨がほんのちょっとパラパラ降る時間だったと予想される。ちなみにちなみに、1990年と1992年と2007年は、1月6日午前10時頃に、降水量が1mm以下の数量データがあり、ほんのちょっと雨が降った。と解釈されるが、少量の雨なら、よりピンポイントの大阪市生野区小路東の木村工務店と清見原神社では、雨が降ってない可能性もあり、そこまでピンポイントの場所での降水量はわからない。

ま、人間の記憶とは、曖昧なものだとおもうが、1月6日は雨が降らないのだ。という感覚的雰囲気としては的を得てるようにもおもう。DX化が進みデータが優先される時代になって、建築も全くその通りで、数値データというものを元に考える時代になっているとおもうが、その「データと人間の感覚との調整」というのが、なかなかムツカシく大切な時代のようにもおもう。

「猛暑の年は豪雪になる説」なんていうのも、その感覚をデータとして分析し、今年の青森の豪雪との関連性がテレビでやっていたし、ロサンゼルスの住宅街での大規模な火災に関して、トランプ次期大統領 が「知事がスメルトという小魚の保護に水を使ったために、ロスでは消火用の水がないなんて、ひどい話だ」なんていうのも、温暖化の問題、生態系の問題、人間の住む町の安心安全の問題、予算配分、それらに対するデータと人間の感覚との調整をどのように考えるか…というふうな問いとして、捉えてみたくおもえた、日曜日の夜だった。

そうそう、1月6日月曜日は、新年の抱負を社員と共有し、協力会社も交えて清見原神社で参拝し、加工場で賀詞交換と2025年の年頭所感を語り、その後は、2025年始動のアイドリングとして、加工BARでお正月休暇を共有したりしながら数人で楽しく過ごした。木曜日は生野区の新年会があり、若い参加者が少なく、っといっても、ワタシもそれなりの歳なんですが、たまたま2次会を一緒に行ける人がいなく、会場近くの地下鉄の地下階段から地上に上がる階段途中にある、SUBでJAZZライブを聴いてから帰った。毎回、日本人よりインバウンド比率のほうが高い。10日金曜日は、布施の戎っさんで、商売繁盛を祈願した。夜は生野産業会の新年会があり、この日は若いメンバーと楽しく2次会3次会と続き、完全にタクシーで帰るしかない時間になっていた。

土曜日は、お昼から心斎橋商店街で建てた木造建築のメンバーとお施主さんとによる新年会で、こんな機会に恵まれるのは感謝しかない。心斎橋商店街は65%を占めるインバウンドの方々の到来によって、とってもとっても盛況だそうだ。ひょっとして、ここ5年か10年ほどは、インバウンドの到来によって商売繁盛した方々が、経済をひっぱり建築にも恩恵をもたらしてくれるのかもしれない。とっても美味しいお寿司とマリアージュされた日本酒とを楽しみ、その後は建築メンバーだけで、2次会3次会4次会と続き、最終の地下鉄でなんとか家に帰り着いたが、日曜日は、この3日間の連続した新年会によって「まったく使い物にならないおっさん」状態だった。

2025新春

木村家では、1月1日元旦の朝は、家族全員が座敷に集まって、新年の挨拶を交わし、お屠蘇をし、お節を食べる。その後、地元の清見原神社の拝殿で参拝するのが慣わしで、とっても穏やかで晴天の元日の朝日が、幣殿に差し込んで、神主さんの気品のあるオレンジ色の召し物の右肩に光があたり、吉野桧の床には朝日に照らされた格子の影が美しい模様として描かれた。奥の神殿の鏡は遍く照らす光が内包されているような、真ん丸で真っ白で無のようにさえ感じる輝きだった。参拝の後、それぞれが、おみくじを引いて、一緒に見せ合うのが、木村家の初笑い。新年あけましておめでとうございます。

お正月休暇の後半は、去年に引き続いて、アウトレットとスキーという組み合わせでホテルに宿泊した。昨年は長男家族が合流して食事を共にしmagosとスキーを楽しんだが、今年はサプライズで、突然、次男がカップルで合流して、あれやこれやと談笑しながら食事を共にし、そのお陰で楽しく時間を過ごせた。それぞれがそれぞれなりに変化して成長していく姿を見守るお正月になった。息子達が学生の頃までは、どちらかといえば対峙的な感覚が強かったが、仕事をし社会で揉まれるするようになってからは、より見守るような感覚が強くなってきたようにおもう。ワタシも変化しているのだな。

新建ハウジングという雑誌の2025年住宅産業大予測が年末に発刊され、その巻頭に、こんな言葉が掲載されていた。「建築のゴールは人がその空間で「喜び」を共有できることだとおもいます。」と書かれてあって、「売り上げも利益も差別化も大事ですが、施主(の時間や人生)に喜びを与える家を提供しているかはもっと大事です。」とも書かれてあった。2019年に木村工務店では、ミッション・ビジョン・バリューを制定し「建築で人々に喜びを」をミッションとして掲げた。あっ、うちと同じコトバやっ…..とちょっと嬉しくなった2024年の暮れですが、それと同時に、喜びを与える家を提供することの難しさを痛感している、木村工務店の88年間の歴史でもあるとおもいます。

結果として喜んで頂けなかった施主の方々にはあらためて謝罪するとともに、木村工務店という「ものづくりのチーム」として、喜びを共有出来る空間を造れるように精進していきたい。そう願う2025年の元旦でした。1月6日月曜日は、協力会社も一緒に清見原神社に参拝し、加工場で賀詞交換会をして、初出とします。1月7日火曜日より通常営業です。本年も木村工務店をご愛顧賜りますよう、よろしくお願い致します。

28日大掃除仕事納めからの…..

木村工務店の年末年始は、12月28日に全社員で大掃除をし、終了後に納会をして、今年の仕事納めとする。1月6日は初出で、曜日には関係なく、何十年も続く木村工務店のルーティン。納会後に会社前に門松を飾ることを昨年暮れから新たに始めた。来年は、木村工務店にとって、再誕生(Reborn)な年になればとおもう。

そうそう、昨年から「ふるさと納税」を始めた。で、仕事を納めた次の日のとってもリラックスしたムードのなかで、朝から奥方と相談しながら、ネットを眺め、牛肉とかウニイクラとか鰻や日用雑貨のタオルとかそういうモノに釣られて、税金を地元に納めないのはエエのかどうか、本末転倒だと想っていたのに、さてどれにしようかと楽しく迷っているワタシがいて、「おまけ」に弱い子供心をくすぐるような「ふるさと納税」だな。昨年から29日は木村家の「ふるさと納税の日」なんです。

そうそう、うちの子供達兄弟は、成人して大人になって、それぞれ社会に揉まれている真っ最中なんだけど、その子供、magosは、小学生兄弟で、いまが一番カワイイ時だ。クリスマスプレゼントを渡せなかったので、明日にでもなにか買いにいこかっと軽〜く口が滑った程度だったのに、朝7時過ぎから枕元にやってきて、何時から行くぅぅ!とテンション高めに時間を決められた。前日に母親と大丸のポケモンセンターに行ったらしく、magos母の助言もあって、3人で地下鉄乗って、エディオンなんば本店に行くことになった。

地下に巨大な、おもちゃ売り場があるのだけれど、いまのmagosの子供心をくすぐるのは、ポケモンカードとポケモンフレンダーらしい。ここにはエエのがないので、どうしても二日連続で大丸のポケモンセンターに行くぅぅ!という。地下鉄で難波から心斎橋までひと駅乗って到着すると、インバウンドいっぱいの活気溢れたフロアーだった。magosのテンションもマックスになっていた。それにしても、欧米人のたくさんの大人が、縫いぐるみをカワイイを連発して買い求める姿に、ワタシもテンションがあがり気味だった。昼食は、歩道が広がって、とっても気持ちの良い人のための空間になった御堂筋歩いて、はり重で。

そうそう、年末は、鶴橋と黑門いって美味しい食材買うのが、木村家的伝統行事なんだけど、鶴橋は高架下の補強工事のため、私たちが買い求める店は2軒ほどになった。黑門はインバウンドの心を捉える店構えに変貌して、いままでと違う活気があってそれはそれでオモロイ。もう買い求める食材はほとんどなくなったが、そのインバウンドいっぱいの異国情緒の商店街で人混みに揉まれたあと珈琲飲むのが楽しみぐらい。で、河豚を黑門で買うのは遠〜い昔話のようなコトになって、生野区の「活魚センター 大昌総業」で買うのがここ数年のコト。30日31日は激混みなので、今日29日に買って、大晦31日に皆で一緒に食べるコトにした。

ま、そんな12月28日大掃除仕事納めからの…..。
1年間、木村工務店のブログを見て頂きありがとうございました。皆さん良いお年をお迎えください。

「ものづくり」的側面

とっても寒い木曜日に地鎮祭があって、スーツの上にダウンの防寒着を羽織って、儀式が始まる時に、その防寒着を脱ごうと思っていたが、寒くて寒くて。参列者全員が防寒着を着たままだったので、私も甘えてそのままの防寒着で地鎮祭に臨んだ。神主さんは、時折雪の降る寒いなか、着物だけのシャキッとした姿で祝詞を奏上し、流石だなぁ…..とおもった。

青空があってもなんとなく全体が灰色な冬の日曜日。朝、ゆっくり寝て、寒いのでスーパー銭湯にいって、サウナ入って体を温め、コメダでたっぷり珈琲と味噌カツサンド食べて、コーナンで買い物して、そうそうコーナンとか本屋にいって15分ぐらいたつと必ず腸がグズグズして、そわそわして、すぐ帰りたくなる。インクのせいらしい…..。家に帰って、ソファーの上で、ゴロゴロしながらiPad miniであれこれ眺め、音楽でも聴いてみるかと自分の iTunes のなかにあるアルバムを覗いてスクロールしながら「J」 の目次で「JDサウザー」の「Black Rose」のジャケットに目がとまる。冬の灰色な空気感の今日には陽気なウェストコーストよりちょっと黒色なウエストコーストが良さそうで、聴いてみる。

「Black Rose」は20歳頃から40年近く聴かなかったのに、ミナミのBar音音でかかっていたので、想い出したように持っていたレコードをイクノのBarソケットに持参して聴いた。有名ミュージシャンがたくさん参加して、久しぶりに聴いてもエエアルバムだな。このレコードのアサイラムというレコードレーベルのことはちょっと前のブログで書いたが、「避難所」という意味らしい。今日は家で避難の気分だな。「J」の目次にはジョン・コルトレーンもあって、そうそう iTunes ではジョン・コルトレーンのアルバムが 「し」と「J」に別れてあるのがとっても使いにくい。

JDサウザーとジョンコルトレーンが混ざっていた偶然に乗っかって、最下段左端の「ブラックローズ」1976年から上にスクロールして、上段左端コルトレーンの「ジョン・コルトレーン・プレイズ・ザ・ブルース」1962年を聴く。⒉段目右端の「マイ・フェーバリット・シングス」1961年は今でも愛聴しているが、プレイズ・ザ・ブルースの聴く回数は少ない。同じ時期に録音されたやつを、数年に分けて発売したらしい。会社という経営に携わると、そういう3日間ほどで録音されたマラソンセッションを、小分けにして、編集して、数年にわたって発表するという、経営的な手法が理解できるようになった。

そういう「編集」という作業で面白いとおもうのは、同じ日の録音なのに、「プレイズ・ザ・ブルース」発表時には、スピーカーの左チャンネルがベースとサックスで、右チャンネルにピアノとドラムが配置されてあるのに、そのあとに続けて「マイ・フェーバリット・シングス」を聴くと、左チャンネルがピアノとドラムで、右チャンネルがベースとサックスになっていて、全く左右が逆で、こういうのって、意図的なのか、その時の担当者の気分によるものなのか、不思議におもう。ちなみにその後続けて、インパルスから発売された、コルトレーンの「クレッセント」1964年を聴くと、録音がルディーバンゲルダーで、まったく「音の雰囲気」が違うし、左チャンネルがサックスで、右チャンネルがベースとピアノとドラムになっていて、左チャンネルのサックスのコルトレーン対右チャンネルのリズムセクションという音楽的コミュニケーションのやりとりを意識させられる感じ。

「クレッセント」ではコルトレーンがサックスを吹かない時は、左チャンネルから音はならず、右チャンネルからリズムセクションの「鎬を削る」ようなリズムのやり取りが「塊」として聞こえるが「マイ・フェーバリット・シングス」ではコルトレーンが吹かない時は、左チャンネルからピアノとドラムが鳴り、右チャンネルからはベースの音だけが響く。これはこれなりの面白さがあって、きっとレコード製作者には、それなりの意図があるのだろう….。

レコードやCDなどミュージック音源としての「ものづくり」的側面がオモロイとおもう。ちなみにその後に続けて「マイルス」の「ネフェルティティ」1967年を聴くと、左チャンネルの端にドラム、左寄りにサックスで、右寄りにトランペット、右端にピアノとベースで、アドリブを吹かないマイルスとショーターの中央よりの管楽器の静かな音色を背景にして、左端のトニーウイリアムスのドラムと、右端のハービーハンコックのピアノとの、激しい「やりとり」が、鮮明に楽しめる。意図された「ものづくり」的側面がいろいろあるのだろう。

そうそう、今日の日曜日は、長男家族が集まって「タコーパー」をしたあと、一緒に「M1」を視聴した。「M1」はここ数年の家族イベントになっている。令和ロマンの2連覇は凄いね。私的には昨年はさや香、今年はバッテリィズが好みだが。今年の審査員でも漫才の「ものづくり」的側面を評価していたようにおもうし、ムツカシイコトより笑えるかどうかの評価もあるし、多様性の時代は笑いも好みも評価も多様になって、これからの笑いはどうなるのだろうかと、優勝が誰かは別にして、いままでの笑いの変化と、笑いの評価と、笑いの現代性と、笑いの「ものづくり」的側面とを眺めて、家族一緒に楽しんだ日曜日の夜だった。

忘年

急に寒くなった朝、3階から平屋の屋根を見下ろすと霜がおりていた。忘年会の季節。なぜか昔から社員だけで忘年会をやることがなく、大工さんと手伝いさんも社員のような感じで一緒に食事を共にするのが慣わしになっていて、会社近くにできた焼肉屋さんで30名ほどの忘年会を催した金曜日。2次会は加工場のカウンターで、あーだこーだ。

同級生で開業医の医院忘年会に、同級生4人が誘われて参加した土曜日。奥方も二十歳過ぎからの友達だったので、私も行きたいわっと便乗して、二日続けての焼肉になったが、案外食べられるものだな。昔話で大笑いしながら2次会3次会4次会と続いて、日曜日の朝は全く目覚めなかった。

連チャン忘年会の余韻が残ったままの日曜日。お昼から清見原神社での「しめ縄つくり」に参加して、昨年はmagosと一緒に参加したが、今年は誕生日と重なり家族でお出かけらしく、ひとり参加になった。しめ縄作りは、パートナーと二人で協力して、ひとりが端を握り、もうひとりが捻りながら編んでいくやり方で、おもいのほか楽しい。パートナーには神社マルシェのマツザキさんになってもらったお陰で、教えてもらいながら完成できた。ありがとう。

生野区のものづくりメンバーとの忘年会は、ちょっと高級なイノベーティブ料理だった。最近は料理にマリアージュされたワインや日本酒っていうのがフツウな感じになってきたが、ワタシ的には、いままでで一番、料理にマッチングされたお酒だったように感じた。調理器具へのコダワリも垣間見れて、料理の世界も奥深いし、シェフという職人さんって凄いなぁとおもう。

挨拶で、良いお年を!というのが、しっくりくる時節になって、忘年会も終わると、大晦日とお正月をどう過ごそうかと考えるようにもなってきた。1年を振り返り、反省して、感謝して、リセットして、次に向かう準備ができればとおもう。

地球温暖化と高気密

12月なのだ。とあらためて想う。うちの庭の木々は、例年になく、落葉が遅く、いまだに紅葉のまま残った葉っぱが多い。地球温暖化という現象を肌で感じる今年。クリスマス感も年ごとにどんどん薄くなっているようにおもうのだけれど、毎年、神奈川県の丹沢にある堀山の家という山小屋の女性主人のなっちゃんが、リースを郵送してくれる。それでようやくXmasな季節感を感じる私。その小屋番のセツが存命中の頃は、そのリースを届けに毎年大阪までやって来てくれて、JAZZ漬けな一週間を楽しく過ごしたものだ。うちの家族にとっては、サンタさんみたいな存在だったなぁと、そのリースを見て懐かしく思い返した。

そういえば、昨年から、地元の清見原神社で、しめ縄づくりのワークショップが開催されて、その時参加した様子をこのブログに掲載したのだけれど、今年も開催予定で、先日は、そのしめ縄に清見原神社のお札を取り付けようと、講師のCHIZUさんが、うちの加工場で木札を製作していた。クリスマスリースのトッピングみたいなものなのかもしれない。「リースからしめ縄へ」インバウンドの来襲も含めて「日本的なるもの」が見直されているようにも感じる今年。

トップの写真の庭は、先代先々代が30年近く前に改修した時の、そのままだが、木々の成長が変化を生み、経年変化を楽しめるのが面白いコトだなとおもう。その点、家の新築やリフォームは完成した時がピークのように感じる部分もあって、特に内装材にクロスを多用するとその傾向が強いが、内装材に「自然素材」を使うコトで、経年変化を楽しむコトもできるわけで、木村工務店の家づくりでは、伝統的にそういう自然素材を使おうとする傾向が強い。

で、内装の木製建具は、東大阪の川端建具さんで製作した木製建具を使うコトがほとんどで、外部にはアルミサッシュを使うコトがほとんどなのだけれど、時として、木村工務店で設計し川端建具で製作した木製建具を使うコトもあって、うちの家にも外部の木製建具があり、それなりの快適性とともに、設計と製作と取り付けの難易度も高く「面倒くさい」作業でもあって、メンテナンスも必要で、特に気密に関してはまだまだ実験的な部分が多く、少しづつバージョンアップしている状況。

製作木製建具の「スキマ風」をどう止めるかは、わりとムツカシイ問題で「ピンチブロック」というものを使用することが多い。アルミサッシュだって、結局はアルミ部材とアルミ部材との間にピンチブロックのようなゴム素材で気密処理をしているわけで、木製建具の場合は、この気密処理のためのピンチブロックをどのように取り付けるかのディテールが面倒くさくてムツカシイ。あとアルミサッシュに比べて木製建具は木材としての経年変化的な歪みもあって、建具の引き寄せ金物のチョイスと取り付けがムツカシイ。

その昔、若い頃、木製建具のディテール集などを眺めていると「ピンチブロック」と書かれてあって、スキマ風? へぇー! そんなのに気を使う必要があるのぉっ!て、考えていた時期もあった。いま、地球が温暖化の傾向になり、猛暑の日々が続き、心地良い秋の季節が減り、一気に冬の寒さが到来する環境になってくると、ますます高気密高断熱の住宅が、省エネのためにも快適性のためにもその必要性が一般化されてきたようにおもう。断熱性能が高いのは感覚的にも理解されやすいが、気密性能は、北海道や東北地方のような寒い地域とは違う、大阪のような温暖な地域では、スキマ風は感覚的にもないがしろにされてきた部分が多い。冬の1、2ヶ月ちょっと我慢したら終わりやし…..みたいな感覚も多かった。

それと似たような感覚を持っていた大阪人の私なんだけれど、高断熱高気密化を目指した家のリフォームが完成して6年近く経過して、外部の木製建具の下框の気密性能の設計に、まだまだ稚拙な部分が多い事にあらためて気付く。ある日、下框のピンチブロックが一部外れて、そのまま2年間過ごしてみると、とっても寒くて風の強い夜になると、スキマ風による足元の温度低下が不快に感じるようになった。それで、窓下に床置きヒーターを置いて対応したが、それはそれなりの効果を発揮するのだけれど、それよりやっぱり、建具の気密性のほうが大切だなと思い直して、先日、デザイン性を無視して、もう一度ピンチブロックを実験的に設置してみた。やっぱり効果抜群。これからまだまだ改良の余地は多いが、木村工務店の木製建具の気密性能をバージョンアップできれば…..とおもう。

そうそう、先月、加工場での「まちのえんがわ」Gallery&Barで催した、ハイカーが集まる「HIKER HANGOUT」のイベントで、そこのスタッフの方々が、加工場の土間で寝た映像が残っていて、それぞれが、タイベックを床に敷いて寝袋で一夜を過ごしたのだけれど、次の日に、大丈夫でしたかっ?て聞くと、笑顔の返事が返ってきた。寝袋というのもある種の高気密性と断熱性能が一体となった高気密高断熱な寝具ともいえるわけで、テントは、断熱性が全くない高気密だけの住宅だといえる。そのテントによって生存と快適性が確保されたりするのだから、気密性能って、大切な要素だな…..なんてあらためて気付かされたイベントだった。

ハスキーボイス

懇親会が一週間に4連チャンと3連チャンと連続して、疲れが溜まって喉にきたのか、木曜日から声がかすれてハスキーボイスで会話をする週末だった。

毎年、忘年会シーズン突入前の11月の週末に「ものづくりの仲間たち」と情報共有をする会議をし、その後に懇親会をするのが慣わしで、私にとってはいちばん早い忘年会でもある。協力会社の精親会には、建築に携わるほとんどの業種が加盟してくれて、このメンバーがいてないと、建築を造ることができないわけで、工務店は協力会社あっての工務店だとおもう。

とはいいながらも、先々代から70年近く続くこの精親会の協力会社に「依存」しすぎると、現場監督の職能が発揮されないことや、職人よりになりすぎて、建築の可能性を制限されることが多い。協力会社の会とは縁を切って「独立」したカタチで、広く遍く業者を募り、ものづくりをするやり方もあるだろうが、木村工務店と心情的に繋がり木村工務店のためをおもう協力会社のハートがあってこそ良い建築を作れる部分も大きい。木村工務店と協力会社が「相互依存」の関係性を良好に保ちながら良い建築を作っていくために、礼儀作法も含めて「キッチリとするキッチリとしたことをする」ことでお互いの信用と信頼が成立していくのだろう…..なんてことが話題にでた懇親会だった。

生野区のものづくり企業の8人が、うちの家に集まって「オープンファクトリー」の話題で食事会を催した木曜日だった。電研のキリシマくんが主催者なのだけれど、どこで食事をするのぉっていう時に、木村さんの家で。と言ってくれるのは嬉しい限りであるものの、食事をどう提供するのかが、とっても難題。奥方に「依存」しすぎると、表面上は低価格で食事ができるのだけれど、その後に、これ買いたいんやけどぉ…..なんて言われると、どうぞどうぞ…..なんて、もはや弱みを握られた日々も辛い。少人数ならなんの対価もなく快く引き受けてくれる…..と奥方の名誉のためには書き残しておくのだけれど、店舗を持たず出張シェフとして生きる植地くんと知り合いになって、何度か食事会を催しているうちに、うちのデッキの薪ストーブと炭火を使ってBBQをしてくれることになった。同じ道具を使っても、食材と調理方法によって、こんなにクオリティーが違うのかっと、感心する料理ばかりで、美味しいもんを食べると、会話の内容がどうでもよくなるのが、エエようなワルイような。

この時、既に私の声はかすれかすれで酷かったのだけれど、それでも印象的な会話のなかのひとつに、人材派遣会社でトップ営業マンになった後、家業の刺繍屋さんを継いだハマダくんが、広告宣伝費にかなりのお金を使わなくても、人情があり、人と人の繋がりがあれば、紹介や口コミで、仕事に繋がっていくものですよね…..って、家業に入ってからの体験を通して云う。確かに信用信頼に繋がっていく人情を大切にすることが、小規模のビジネスにとって、あらためて大事なコトだと、気付かせてくれる食事会になった。

今年最後の、ものづくりセッションがあった土曜日。忘年会的な要素もあったのか、かなりの参加者の熱気に包まれたセッションだった。一人目のプレゼンターのカネダさんは家具屋の家業を継ぐにあたっての家族間の葛藤を含めたプレゼンで、そういえば最近、日経ビジネスで星野リゾートの星野さんが「ファミリービジネス」の問題を取り扱っていて「ファミリービジネス」っていうのをどのように捉え、どのように革新していくのかは、多くの経営者の悩みなのだなっと、つくづくおもう。

二人目のプレゼンターは鉄道会社に勤務する建築設計士のタケベさんで、地方にある、ひなびた駅舎を活用し、そのまちをどのように活性化するのかを、仲間たちとボランティアの立ち位置で活動している話で、地方のひなびた駅舎前での「ひなびた駅舎マルシェ」みたいなものが、全国各地であれば、電車で旅して、その町を歩いて、飲んで、食べて、買って、楽しいかも…..なんておもう。

その後の懇親会は会社加工場で準備ができず、小路のジャンボたこ焼き酒場で催したが、声がかすれた状態のままで、コトバがスムーズに出ず、その後の2次会は流石に辞退した。ものづくりの企業が、どうやってお客さんを生むのかっていう問題は、今に始まったことではないが、この混沌とした経済情勢と多様化した消費者ニーズと格安な企業の出現のなかで、ものづくりの好きな職人気質な小企業が、ファミリービジネスとしての経営というものをどのように捉えて、どのようにして活かそうかと、一緒に模索したような週末3連チャンの懇親会だった。

そうそう、生野納税協会で知り合ったものづくり企業の3家族で地元の淡路屋さんで食事会をした日は、3連チャン前の連休からの4連チャン続いた食事会の最終日で、この日の盛り上がりで、ハスキーボイスになったのだと、今気付いた。それにしても、以前から商売繁盛の有名店だと聞いていたが、こんな不便な場所で予約一杯の繁盛店を眺めていると、居酒屋にある良い食材の魚料理だけでなく、ハンバーグやトンカツなど洋食のデミグラスソースも美味しく、それを高級な飲食店として提供するのはでなく、庶民的な居酒屋の雰囲気のまま提供できる料理人としての技術と、良い食材の美味しい料理を食べて、高級店では騒げないほどの大きな声のトーンで笑い合えるという、居酒屋としての経営方針のようなものがあってのことなんだだろう。なんて、今日のこのブログの流れでは、こんなふうに締め括っておこうとおもう。

ロート製薬さんを訪問した日。

生野区にある、ロート製薬さんの本社を見学した今週。生野区の会合などで、ロート製薬のヤグラさんとお会いすることが度々あり、その時に訪問のお誘いを何度か頂戴していたこともあって、ようやく木曜日に実現するはこびとなった。ロート製薬の現会長さんとは、年に一度、生野納税協会の会合でお会いする時があって、懇親会の席で、その歴史などを度々おうかがいする機会があったが、この写真は、かつてのコマーシャルで鳩が飛ぶシーンがあって、だいたいこの位置ぐらいから鳩が飛んでいったのですね!っとヤグラさんとナイトウさんに庭を案内してもらった。

上の写真は、ロート製薬さんのホームページから切り取って貼り付けたものだけれど「1959年に社員の健康を願って、芝生やプールを備えるロートピアとして大阪本社を設立」とあって、心底、凄いなぁ…..とおもう。ワタシ、「オープンスペース」というコトバが案外好きで、最近では、大阪北ヤードにできた、ウメキタ公園がエエなぁ…..とおもうし、会社の中にこんな広大なオープンスペースがあるのが、飛び抜けた感覚だな。とおもう。社員の喜びや苦悩、会社の想いや歴史など、あらゆるものを包括できるのが、このオープンスペースなのだろう。

ちなみに1959年は私が誕生した年で、その時、既に、こんな考え方の会社が生野区に存在し、そのうえいまも持続的に発展しているのが、なおのこと凄いとおもう。とっても唐突ですが、iTunesに「ジャズベスト:1959年」というのがあって「ジャズ史全体を見渡しても、1959年ほど後世に影響を及ぼした年はない。ジャズのコレクションの中でも重要とされるアルバムの相当数が、この年に誕生している。マイルス・デイヴィス「Kind of Blue」やデイヴ・ブルーベック「Time Out」などを通して、1959年の最高に洗練されたサウンドに浸ろう。」で、たまに聴くし、いま、このブログを書く、backMusicにしてみた。そういう物事がハプニングする年ってあるのだろう。

今、池は埋め立てられ、プールはもうすぐ取り壊されるという。プールに隣接する製造工場の窓から50mプールが見えるって、カッコエエですわ。案内してくれたお二人が、子供達が小さい頃は、よくこのプールで泳がせましたわっ!という。青空だったこともあり、その子供達の歓声と水飛沫の音が聞こえてきたような気がした。それで「2004年、大阪本社に、福利厚生施設「スマートキャンプ」開設」とあり、そこで、一緒に昼食を頂くことになった。

社員の健康増進を考え、お品書きまであり、とっても健康に配慮した美味しい食事だった。別に社員食堂はあるらしい。食事をしながら、あれやこれやとお話しをお伺いしたが、社員旅行の話になって、木村さんとこ、社員旅行に行きはりますか…..といわれ、年に一度、協力会社さんもいれて50人ほどで、伝統的な旅行をしてます…..って話をすると、ロートさんは、5年に一度、1000人で社員旅行をしているという…..驚くのっなんのぉ!その担当をヤグラさんがしているそうで、2年をかけて計画するという。あらゆる面での、その規模とクオリティーの違いを感じた昼食だった。

そうそう、プールがなくなるの残念ですね。ワタシ、このプール付属の建物好きですけどね…..というと、そうなんですけど、それより、オリンピック選手を育てるために、プールの側面から泳ぐ選手のフォームをビデオ撮影出来る施設があって、スポーツ選手のフォームを科学した先駆けなんです。それも今はないのですけれど。と。ホームページを見ると、そこに「サイエンスの力で、肌の限界点を考える。」なんてあり、そういう伝統が息づいているのだろう。

「サイエンスの力」を考える工務店でありたいな。「社員の健康」を考える工務店でありたいな。なんていう気付きをもらう会社訪問だった。お二方、ありがとうございました。

山形県川西町吉島地区との交流会

山形県に川西町吉島地区という地域があるそうで、そこの「NPO法人きらりよしじまネットワーク」という団体のメンバー11人と「ものづくりセッション」メンバー10人ほどが、木村工務店の加工場に集結し、会合を催した金曜日の夜だった。「世界一受けたい授業」に出演していた中村先生が、ふらっと、ものづくりセッションに参加するようになって、その数回目のある日、山形県からある団体が大阪に視察にくるので、ここ木村工務店の加工場で、何か、会合を開いて欲しい…..という、軽る〜い話だった。

「ものづくりセッション」は、行政マンのタケダさんと建築マンのワタシの二人で開催する「遊び」で、タケダさんは、行政マンとしてでなく、プライベートの立ち位置で開催し、タケダフィルターを通過した参加者が招待され、ワタシは、その会合にマッチするような「環境」を創造する役目で、生野区のものづくり企業を中心とした、ものづくりに興味のある人達が、集まって、その日のプレゼンターが、自分のおかれている現状や考えや悩みを皆とシェアーし、それに対して、コメンテーターや参加者が、無責任ながらも愛あるコメントをやりとりして終わる。けっしてこの場でプロジェクトを扱わず、その後の結びつきや成果は、それぞれの責任において、勝手に行われる。時として、そのフィードバックが発表されることもあるが、ま、軽いトークイベントだともいえる。セッション後の懇親会は必須で、その日のプレゼンを酒のアテにして開催されるのだけれど、なんだかんだ云っても、結局は、それぞれの抱えている課題を、いったんリセットする場であるとおもう。

早朝に山形県を出発し、新幹線を乗り継ぐと、お昼過ぎに新大阪に到着するそうで、案外、遠いようで近い。とっても多くのインバウンドがやってくるようになって、YouTube上での、そのインバウンドの方々へのインタビューが面白く、視聴すると、日本人の親切と丁寧を褒めるとともに、鉄道交通網の素晴らしさを賞賛する方々が多い。新大阪駅に到着してからマイクロバスに乗って、生野区の代表企業のひとつ、「リゲッタ」さんを見学し、その後、この木村工務店の加工場にやってきて、タケダさんのプレゼンと「電研」の桐島くんのプレゼンのあと、きらりよしじまネットワーク事務局長高橋さんのプレゼンで終えた。

日本のなかの東北と近畿。山形と大阪。農業を産業とする山形の吉島地区。小さなものづくりを産業とする大阪の生野区。お互いの共通点は、住民人口の減少とその産業人口の大幅減少であると知るし、その危機感に対して、どちらも一部の若い世代が立ち上がり、良いまちづくりを模索することを通じて、人のエネルギーの活性化を通じて、ブレークスルーを目指そうとしているところに共通点があるのかもしれない…..なんて薄々気付くものの、限られた時間が、それ以上の深淵を模索することを許さず、それが、ある意味、時間の持つ容赦ない良さであるとおもえる年齢にもなってきたが、ま、それはそれとして、山形県から送られてきた、とっても美味しい地酒と漬けもんの試飲と試食をし、粉もん文化大阪、小路の、じゃんぼ総本店で、懇親会をすることで、そんな課題は一端リセットする夜になった。

懇親会には生野区長も参加し、流石に「長」たるものの使命は「成果」だと気付くのだけれど、2月頃には山形県吉島地区に訪問する約束をとりつけて、とっても楽しい交流の半日が過ぎ去っていった…..で、この日のコトは終わっておくところだけれど、とってもとっても蛇足ながら、こういう地方の方々が訪問される機会があると「大阪」という出来事を客観的に眺めようとする機会になって有り難い。その時に、もっとも参考になる本のひとつに、中沢新一の「大阪アースダイバー」があって、そのなかの生野区に関係する目次を列挙したスライドを作って、紹介した。

右からひとつ目の段落「女神の原像」は「大阪のおばちゃん」の成立に関してで、小さい頃から、たこ焼き屋さんやお好み焼き屋さんや駄菓子屋さんや友達の家に行って「おばちゃん!」と発するコトバは、とっても親しみを込めた大阪弁で発音し、そのことで愛とエネルギーを貰えるようなコトバだったようにおもう。右から二つ目の段落「コリア世界の古層と中層」は、ものづくり大阪の土台の成立の話で、五世紀の頃、伽耶から大陸の技術もった多くの移住者が生野区と平野区に住み着いて「融合」した話であり、それがものづくり大阪の土台としての古層を作ったという。

おそらく、木村工務店が、この生野区のこの場所を拠点として「ものづくりの工務店」として存続していきたい…..というその想いの一端は、この地にある、ものづくりのDNA、それを、ものづくりのミームと読んだほうが良いかもしれないが、とにかく、ここで、そういう「ものづくりのパワースポット」的エネルギーを享受しながら「ものづくりとしての工務店」を想起し続けたいからだとおもう。

ハイカーの集う加工場くん

ハイカーハングアウト」というハイカーが集まるイベントが開催された土曜日と日曜日。木村工務店の加工場をどのように使うか…..を考えた時、何よりも、大工のための手加工ができる作業場として活用しよう…..としたのが、30年ほど前の出来事で、それまで、この空間のほとんどを占領していた木工機器を売却し、空間=スペースとして残すことにした。そのお陰で、地元の清見原神社の増築工事をこの加工場で1年かけて手加工する作業場として活用することが出来たし、木材加工がプレカット加工が主流になった現在でも、手加工が必要な木組みも一定数あって、そのほとんどは、プレカット工場に専属する大工さんによって手加工されるのだけれど、木村工務店では、そんな部分をこの加工場に引き取って、うちの大工さんによって、手加工することにしている。何よりも手加工の技術を後世に伝えるためにも大切の仕事だと考えている。

その手加工する時は、この写真にあるような「馬」を使って、その上に木材を乗せ、大工さんが手加工をする。そのためになくてはならないのが、この「馬」で、高さとか、長さとか、重さとか、その時々の大工さんの好みによって作られて、代々引き継がれたり、新しく作り直したり…..と、大工を抱える工務店の必需品だとおもう。その「馬」が、ハイカーたちの椅子として、とっても重宝された今回のイベントだった。

土曜日は4人のハイカー達によるトークイベントで、アメリカの3大トレイルルートを走破した日本人は10人ほどらしいが、そのうちの5人がこの会場に集結しているらしく、4人のロングトレール経験者のそれぞれから語られるトークは、その経験値を等身大で語るがゆえでもあるのだろうが、とっても興味深く、オモロイトークイベントだった。建築的な関連性からピックアップするのなら、GPSや携帯電話を使わずゴミ砂漠を歩く事を自分自身のルールとして旅する奥村くんは、いま自分が立つ位置関係を、出発した町からの距離と四方に見える山々をスケッチブックにスケッチし、その山々に名前を付け、神話として、物語を作って、そうすることで、自分が戻る方向を記録に残すのだという。

それはまるで、平面計画がされた、もしくは、途中の段階の平面計画で、平面上の自分の立ち位置とその前方の窓や、その建築的関係性をスケッチとして表現するのと似ているし、この旅で、生きて帰るために、出発地点に戻る場所をしっかりと記憶に留めるための作業が、スケッチだそうで、書くことによって記憶に残り、その記憶を喚起するために、たまに見返すことがあるぐらいだそうだ。そして神話として、山々を命名し、その関係性を物語として構築することで、記憶として残るのだという。それゆえ、私の命を繋ぐ山々が、神だとおもえる時がある…..と、その後のBarタイムでの個人的会話で語ってくれた。

全国各地から木村工務店の近くにあるゲストハウスに泊まりながら多くのハイカーが集まってきた「ハイカーハングアウト」なのだけれど、木村工務店の加工場史上、初めての出来事があって、このイベントのスタッフの数名は、この加工場のコンクリートの土間の上に、建築の外壁に使う、透湿防水シートのタイベックを敷いて、寝袋で宿泊をした。ハイカー達って、どこでも気軽に寝れて凄いね!超軽量のキャンプ道具の進化があっての事でもあるが、きっと、加工場くんも、ビックリしているとおもう。

今日の日曜日は、中古グッズの販売をするマーケットとして加工場が活用された。木村工務店の加工場くんにとって、驚きの二日間だったとおもう。

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