「生野区銭湯いまむかし」

生野区のヒートアッププロジェクトの一環として、「生野区銭湯いまむかし」が、加工場で開催された日曜日。銭湯経営の方々から、生野区は大阪で一番銭湯が多く、ほとんどが、石川県の加賀地方や能登地方から移住してきた人によって銭湯が経営された。と知って、へぇーっと驚くとともに、豆腐屋さんも石川県出身者によって経営されて、豆腐に辛子を入れる文化は石川県から伝わった。と知って、また、へぇーっと驚くのだった。

大正時代や昭和初期に、大阪市生野区の田んぼや畑を持つ地主さんから土地を借りて、そこに長屋を建てた、船場を中心として財をなした商人さんたちがいて、ま、そのことはおいといて、その長屋に住もうとする地方からやってきた、新たな移住者や起業をしようとする人達がいて、その長屋にはお風呂がないのが普通で、その長屋に子供や祖父母もふくめて、4人や6人など大家族で住んでいると、必然的に、遠いお風呂さんに行くより、近くに銭湯が欲しいという需要が高まって、長屋が沢山建ち並ぶ生野区に、銭湯が増えていくのは必然だったようにおもう。

尚かつ、その長屋で起業し、ものづくりをする人達がいて、その最たるビジネスモデルが、松下幸之助さんなのだけれど、そこで働く職人さん達が、汚れ作業のあとに銭湯に入ってから家に帰るという文化もあって、銭湯というものが、なくてはならない存在だった。ところが、お風呂がある鉄筋コンクリートマンションが出現すると、銭湯文化は徐々に衰退し、そのうえ、ホクサンバスのようなユニットバスの出現によって、お風呂のない長屋の裏庭に、家風呂を設置しようとするブームもあって、どんどん銭湯文化の衰退が加速していくという。

生野区の長屋の大家族の人達は、成人になると、生野区を離れ、さまざまな場所で住まう事になり、生野区の長屋の四分の一が空き家になったり、高齢者世帯が、二人や一人しか生活していない状況で、ますます銭湯を使うひとたちが減少してくる状況下に、追い打ちを掛けるように、数年前の大阪を襲った関空台風によって、煙突などに大ダメージを受けた銭湯も多く、生野区の銭湯は、半減を通り越し、どんどん廃業していくのが、現状だという。

1970年代に、銭湯にサウナを併設したのが生野区発祥らしく、それ以降、サウナを併設する銭湯も増えて、それは付加価値としての銭湯経営であったのが、最近のサウナブームで、サウナがあるお陰で、銭湯のサウナに入りにくる若い世代が増えてきてるという。それに、子供達が独立して、高齢者世帯になってくると、家風呂に入ってお風呂を掃除したりするより、銭湯に行くほうが、楽やわ!という人達もそれなりに存在し、銭湯に通う人達は一定数存在するものの、経営的には、もっと入浴者数が必要らしい。

そんな状況のなかで、今回の「生野区銭湯いまむかし」のトークイベントでは「銭湯」が「サードプレース」のような存在として「地域デザイン」というか「地域コミュニティー」の役割を担っていく可能性があるのではないか…..銭湯が多く存在するまちが、まちの魅力のひとつになるのでは…というのが、テーマの中心になりながら、銭湯で「0次回」「衣食湯」をテーマに掲げている銭湯経営者の方もいて、銭湯に入ってから、食事会をするのが一次会で、その後の二次会があるにしても、まず「0次回」を楽しもうよ「湯=遊」でもあるという、提案があり、それは、温泉地の文化でもあるわけだけれど、それを都会でも日常的に楽しめる遊び方があるよ。銭湯行って地元の居酒屋で飲むのも面白いよ!というコトだった。

また、銭湯の掃除をするボランテイアを募集すると、銭湯経営者は懐疑的だったのにも関わらす、それなりの社会貢献をしたいという人達が集まってきて、銭湯の掃除をした後に一番風呂を楽しんだというし、お風呂場でヨガをして、そのあとの一番風呂に入ると、発汗作用も含めて最高だったという。そうそう、それぞれの個性的なアメニティをいれたお風呂セットを見せ合い、新たなデザインを考えよう…とか、厚い今治タオルより薄い泉州タオルのほうが銭湯向きでは…など、銭湯に車で行って洗車してもらっている間に体も洗う仕組みとか、銭湯がシェアーバイクの基地になる仕組み、などなど…..。

都市中心のストレス社会になって、そのストレスをどんな方法で解放していくかは、これからの社会的テーマのひとつで、その一端を担う存在としての「銭湯」で、心地良くなる、その楽しみ方をいろいろ提供し、銭湯に通う「きっかけ」を作っていこうよ!というのが、今回の生野区ヒートアッププロジェクト「生野区銭湯いまむかし」だった。