「小説って建築に似てる」
寒い日が続く。日曜日だからアウトドアーでスキーでも。体も動かしたい。と土曜日の昼過ぎにおもったが、夜な夜なスキー板と靴と服を用意して、早く寝て、朝早く起きて、スキーの服に着替えて、車で雪道走って、天気だったらエエが雪降る道中とゲレンデやったらいまいちやし…..。なんて前日にそんな気分に囚われて、躊躇してしまうワタシがいて、それを歳のせいにしながら、無理せんとこ。と、用意を止めて、夜な夜なNetflixを視聴しながらシニアなメンタルを慰めているワタシがいた。
日曜日の朝起きて、とっても快晴な空を眺めて、やっぱり行けば良かったと後悔が勃発した途端に、気持ちを朝風呂に切り替えた。露天風呂の湯船から快晴の空を見上げていたら、やっぱり小さなチャレンジを繰り返さんと小さな喜びは味わうことでけへんよな。脳にだまされずに脳をだまさなアカンよな。なんて反省をしてみるワタシがいて。妙に面倒くさがる脳に囚われてしまったことにより、リアルないまとここにある目の前の現実は、雪のゲレンデではなく熱波のサウナになってしまった。なので、それを楽しむことにした。
そうそう、先日のこと。「サトシくんがいま直木賞とったでぇ!」と奥方からLINEが来た。反射的におもわず凄い!と呟いてしまったが、暫くしてテレビ会見が始まったらしい。夜にYouTubeでその会見を見て、ちょっと笑いちょっと心配しちょっと感心した。どんな気分ですか。という質問に、とりあえず早く終わって飲みにいきたいです。というコトバに、会ったときと同じ、率直な印象を語る若者の映像に微笑んだ。嘘をついたことがありますか。という質問に、母親のパンの話を語りだし、おいおいそんなこと言って大丈夫なんかいな。と老婆心でヒヤヒヤしたが、それより、「小説を書く行為自体が建築と似ているとおもっていて…..」という語りに感心した。
「地図と拳」で直木賞をとった作家「小川哲」さんは、うちの長男の友人で、うちの家といっても庭を隔てて繋がっている長男の家に泊まりにきて、顔を合わせ会話したのは小説家になって数年した時のこと。なんでもうちの長男と生年月日がまったく同じだという。生まれた時間だけが1時間ほど違うらしい。受賞直後にうちの家では、占いってどうなっているんやろ。同じ生年月日で、かたや直木賞作家。かたや大阪の小さな工務店。あっはは。と笑いながら祝福するのが、ひとつの作法だった。早速Amazonで弁当箱のような分厚いその本を購入した。読み切れるかどうか心配なのだが、ネット上にこんな記事が掲載されてあった。
そのそもそも僕は小説って建築に似てるよなと思っていたんです。家を建てて人をもてなすのと同じように、小説も空間を作るものである。僕が小説について考えていることは、建築について考えることに繋がっているかもしれないし、その建築というのは満洲という国家のメタファーでもあるので、建築という軸で通して書けるな、という感覚がありました。
――でも建築する際って、事前に綿密な設計図を書くものですよね。小川さんは小説を書く時、設計図、つまりプロットを立てずに書き始めるそうですが。
小川 そうですね。僕の場合、設計図を書くと、どこかで見たことのある建築になっちゃう気がしていて。適当に柱をポンポンと投げて、刺さったところから始めるんです。「うん、この刺さり方いいな」とか「この柱、要らないな」とか。そうやってある程度、その場の天気とか空気とか自分の調子とかに合わせていくと、だんだん全体像が見えてくる。そういう書き方のほうが、自分としては楽しいです。
ワタシ、このブログが長年続いているひとつの要因は、建築の設計図を書いている感覚と同じ気分になりたいために、ちょっと小説風に書こうとしているからだな。とあの会見を視聴し、この記事を読んでそうおもった。時として段落ごとに空間性を考えるような気分になるのがちょっと楽しい。書きたいことがある時は、ひとつのプランニングに基づいた新築のようにおもうし。日曜日の天気と気候と気分を書き出すことから、気分が増築されたり減築されたりし、その週の印象をブリコラージュ的にリノベーションしながら作る時が多いようにおもう。たまに読み返すと、ひどいプランニングで雑な仕事やな。とおもう時も多い。
まっ、建築空間に例えたら、直木賞作家とは雲泥の差なんですけど。というか、祝福をこめて。