「ものづくり」的側面
とっても寒い木曜日に地鎮祭があって、スーツの上にダウンの防寒着を羽織って、儀式が始まる時に、その防寒着を脱ごうと思っていたが、寒くて寒くて。参列者全員が防寒着を着たままだったので、私も甘えてそのままの防寒着で地鎮祭に臨んだ。神主さんは、時折雪の降る寒いなか、着物だけのシャキッとした姿で祝詞を奏上し、流石だなぁ…..とおもった。
青空があってもなんとなく全体が灰色な冬の日曜日。朝、ゆっくり寝て、寒いのでスーパー銭湯にいって、サウナ入って体を温め、コメダでたっぷり珈琲と味噌カツサンド食べて、コーナンで買い物して、そうそうコーナンとか本屋にいって15分ぐらいたつと必ず腸がグズグズして、そわそわして、すぐ帰りたくなる。インクのせいらしい…..。家に帰って、ソファーの上で、ゴロゴロしながらiPad miniであれこれ眺め、音楽でも聴いてみるかと自分の iTunes のなかにあるアルバムを覗いてスクロールしながら「J」 の目次で「JDサウザー」の「Black Rose」のジャケットに目がとまる。冬の灰色な空気感の今日には陽気なウェストコーストよりちょっと黒色なウエストコーストが良さそうで、聴いてみる。
「Black Rose」は20歳頃から40年近く聴かなかったのに、ミナミのBar音音でかかっていたので、想い出したように持っていたレコードをイクノのBarソケットに持参して聴いた。有名ミュージシャンがたくさん参加して、久しぶりに聴いてもエエアルバムだな。このレコードのアサイラムというレコードレーベルのことはちょっと前のブログで書いたが、「避難所」という意味らしい。今日は家で避難の気分だな。「J」の目次にはジョン・コルトレーンもあって、そうそう iTunes ではジョン・コルトレーンのアルバムが 「し」と「J」に別れてあるのがとっても使いにくい。
JDサウザーとジョンコルトレーンが混ざっていた偶然に乗っかって、最下段左端の「ブラックローズ」1976年から上にスクロールして、上段左端コルトレーンの「ジョン・コルトレーン・プレイズ・ザ・ブルース」1962年を聴く。⒉段目右端の「マイ・フェーバリット・シングス」1961年は今でも愛聴しているが、プレイズ・ザ・ブルースの聴く回数は少ない。同じ時期に録音されたやつを、数年に分けて発売したらしい。会社という経営に携わると、そういう3日間ほどで録音されたマラソンセッションを、小分けにして、編集して、数年にわたって発表するという、経営的な手法が理解できるようになった。
そういう「編集」という作業で面白いとおもうのは、同じ日の録音なのに、「プレイズ・ザ・ブルース」発表時には、スピーカーの左チャンネルがベースとサックスで、右チャンネルにピアノとドラムが配置されてあるのに、そのあとに続けて「マイ・フェーバリット・シングス」を聴くと、左チャンネルがピアノとドラムで、右チャンネルがベースとサックスになっていて、全く左右が逆で、こういうのって、意図的なのか、その時の担当者の気分によるものなのか、不思議におもう。ちなみにその後続けて、インパルスから発売された、コルトレーンの「クレッセント」1964年を聴くと、録音がルディーバンゲルダーで、まったく「音の雰囲気」が違うし、左チャンネルがサックスで、右チャンネルがベースとピアノとドラムになっていて、左チャンネルのサックスのコルトレーン対右チャンネルのリズムセクションという音楽的コミュニケーションのやりとりを意識させられる感じ。
「クレッセント」ではコルトレーンがサックスを吹かない時は、左チャンネルから音はならず、右チャンネルからリズムセクションの「鎬を削る」ようなリズムのやり取りが「塊」として聞こえるが「マイ・フェーバリット・シングス」ではコルトレーンが吹かない時は、左チャンネルからピアノとドラムが鳴り、右チャンネルからはベースの音だけが響く。これはこれなりの面白さがあって、きっとレコード製作者には、それなりの意図があるのだろう….。
レコードやCDなどミュージック音源としての「ものづくり」的側面がオモロイとおもう。ちなみにその後に続けて「マイルス」の「ネフェルティティ」1967年を聴くと、左チャンネルの端にドラム、左寄りにサックスで、右寄りにトランペット、右端にピアノとベースで、アドリブを吹かないマイルスとショーターの中央よりの管楽器の静かな音色を背景にして、左端のトニーウイリアムスのドラムと、右端のハービーハンコックのピアノとの、激しい「やりとり」が、鮮明に楽しめる。意図された「ものづくり」的側面がいろいろあるのだろう。
そうそう、今日の日曜日は、長男家族が集まって「タコーパー」をしたあと、一緒に「M1」を視聴した。「M1」はここ数年の家族イベントになっている。令和ロマンの2連覇は凄いね。私的には昨年はさや香、今年はバッテリィズが好みだが。今年の審査員でも漫才の「ものづくり」的側面を評価していたようにおもうし、ムツカシイコトより笑えるかどうかの評価もあるし、多様性の時代は笑いも好みも評価も多様になって、これからの笑いはどうなるのだろうかと、優勝が誰かは別にして、いままでの笑いの変化と、笑いの評価と、笑いの現代性と、笑いの「ものづくり」的側面とを眺めて、家族一緒に楽しんだ日曜日の夜だった。