「くびれ」

気持ち良い秋空と秋風の日曜日。家の窓を開けて風が通り抜けるのが心地よい季節。なかなかクーラーと縁を切れなかった夏がようやく終焉したような感じ。久しぶりに自転車に乗って大阪城を散策してみると多くの人が散歩し木陰や芝生の上で寛いでいた。テレビをみるとウクライナのあの瓦礫の光景があったりするなか、こんな自由と平和のある光景を見られるのが心地良いが、さまざまな感情も湧いてくる。

我が家をリフォームした時、中庭にあった土をよけてコンクリート製の敷板に変えた。それにともない土植えのモミジや手水鉢もなくなって、光庭となり、ちょっとストイックでミニマリズム的な気分になって、それはそれで良かったが、長いコロナ期間中なぜか不思議にも「緑」を渇望する気持ちがじょじょにじょじょに芽生えてくるのだった。それで鉢植えの観葉植物をちょっとずつ買い足して、いまこんな状態になった。こういうタイプの植物は剪定せずジャングルのようになったら嬉しいとおもう。

光庭の時は夜が寂しい感じだったが、観葉植物たちが加わってから夜景を楽しめるようになった。祝日の夜に秋風とともにこの中庭のライトで照らされたうねりくねった葉っぱの観葉植物を眺めていると、この夜景に対する潜在意識のどこかに先日の夏旅で見た函館の夜景があることに気付いた。一度ぐらいは見ておこうという観光気分で訪れた函館山展望台だったが確かに美しい夜景に遭遇しワタシの記憶に残ることになった。時折iphoneの写真を見返す時があって、なぜ美しいのだろうかと考えるようになり、あっそうそう録画してあったブラタモリの函館山の夜景はなぜ美しいのかを想いだし再視聴することにした。

「くびれ」なのだとあらためておもう。砂洲によって大陸や大きな島と地続きになった島を陸繋島(りくけいとう)というらしいが、そういう地形になる地殻変動とか波や風や沿岸流その他さまざまな自然界の力が長い年月に渡って加わり続けることで「くびれ」が発生したのだと知る。世界中にあるさまざまな美しい景観は自然界の突発的な大きな力が何度も加わった結果として生まれたものだとブラタモリをみていると感じる。

↑ ↓ 是川縄文館で見た土偶

女性の身体の優美な「くびれ」や男性のマッチョな「くびれ」も内面的な力と外面的な力の作用で造られていくものだとおもえてくるし、そういえば縄文土器や縄文土偶の魅力のひとつは「くびれ」なのだとおもう。縄文人もなんらかの心の内からの力と外部環境による力の作用と反作用が長年に渡って継続したことによってあの「くびれ」が発生したのだと、あたりまえといえばあたりまえのことなんですが、あらためてそうおもう。

縄文時代は1万年近く平和な時代が続いたらしい。建築費が高騰する昨今。世界は繋がっているし、いままで世界の平和によって日本の価格も安定していたのだな。自由と平和な社会であって欲しいな。なんてあらてめて感じる秋の穏やかな日曜日だった。