命のリレーのバトン

2022年あけましておめでとうございます。

12月28日は大掃除で、伝統的に続いている年末最後の「仕事」でもあり、事務所や倉庫を整理整頓し、一年の「乱雑さ」が増してしまった状況を意識的に反省する機会でもある。机の棚にそのまま残ってまだ手つかずのシゴト、材料置き場に残ってしまった発注ミスした材料などなど、来年はもう一歩カイゼンしたいよね!という想いと願いが生まれたりするのが年末の大掃除であるとおもう。

午後3時過ぎ、社員と大工さんと手伝いさんが集まって、加工場でささやかな打ち上げで終えるのも伝統行事で、コロナ禍なので、桶の寿司を折の寿司に、大ホールのピザを1人用のピザに、日本酒を酌み交わすコトは止めるとか。それなりに工夫しながら1年をリセットし一本締めで終える。良いお年を!と挨拶を交わして、それぞれが一年の仕事を終えて、家路につくのだった。

12月29日30日31日とあっっという間に過ぎていった。29日長男の同級生のユウトが遊びに来て夜の食事を共にする。35歳を過ぎると「仕事」もノリノリになり出す年齢になってきて、「成果」がでた話を聞くと、ワタシもまだまだ頑張ってチャレンジしなアカンなっという気にさせられた。数年前から恒例になっていた次男の同級生とその母親が集まる妙に心温まる雰囲気の宴会は流石にコロナ禍なので中止になった。

30日ワタシの高校の同級生が家族連れでやってきて鍋を囲んだ。年末行きつけの焼き肉屋さんがコロナ禍後も閉まっていて、なんで閉まっているのか、ワタシに聞いてきた。施工したので知ってるやろっというわけだった。理由はわからなかったが、じゃぁ、そこへ行く替わりに、うちの家で鍋しょ!というコトになって取り寄せの「海老蔵」の鍋を囲んだ。遅い結婚だったので、まだ子育て真っ最中。なので、奥方が子育て失敗経験談を雄弁に語り続け、気が付けば深夜を回っていた。

なので31日の午前中は目が覚めなかった。「鶴橋と黑門」の市場に年末の買い出しに行くという木村家の伝統行事は2年連続取り止めた。人混みに揉まれながら、かなり高い値段になっている食材を大阪人的にまけてもらうコミュニケーションを楽しみながら景気づけとして買うのが楽しいのだけれど、いまはコロナ禍的にノリが悪かった。ただ食材だけなら地方の通販で買う方がコスパも最高で、カニやおせちやなんだかんだ通販の食材を楽しむことになったお正月だった。

50歳ぐらいを過ぎてから紅白をみるようになった。もはや一年に一回しかテレビで音楽番組を見ることはない。ワタシはSpotifyが好みでよく聴いた。Netflixの「エミリーパリに行く」なんていうのも好きだ。建築もんとかドキュメンタリーもんも視聴した一年だった。YouTubeで自転車とかスキーとかキャンプとか、珈琲の入れ方とかピザの造り方とか、前沢さんの宇宙中継とか、なんだかんだそんなのを見た一年でもあった。最低視聴率の紅白だったらしいがそれなりに楽しんだ。福山雅治が、「ここに立たせていただいて歌わせていただけるということは僕の両親・祖父母、ご先祖様から受け継いだ命のリレーのバトンを渡してもらえたからだと思っています」と語った言葉が印象に残った。

2022年1月1日「お屠蘇」をする日本的伝統行事は、木村家でもその伝統を引き継いできたが、今年の「お屠蘇」からストーリーがくっついた。前夜の紅白の影響を受けて「先祖から受け継いだ命のリレーを酌み交わす」ということになって、古いしきたりにのっとって、年少者から注いでいくことにした。もともとそんな意味合いの作法だったのだろう。おせちを食べたあと、清見原神社の拝殿にて家族で初詣参拝するという行事になったのは両親が亡くなってからの事だ。新春の宮司さんからのお言葉は「繋いでいく」という大切さだった。

午後から墓参りをし奥方の実家に集まると、その子供達は身長180センチ以上の男子が6人にうちの男子マゴ2人のオトコばかりの集いになる。お年玉をあげる子供だったのに、順番に社会人になっていく姿に接すると、不思議と命のリレー的意識になり、まだまだ働こうエネルギーをもらう。お正月の集まりは働いた報酬を分かち合うエネルギーをリレーする場でもあるのだろう。

本年も「木村工務店」とともに「現場ブログ」と「Voice of 木村工務店」もご愛顧賜りますようよろしくお願い致します。