いのちを生き生きと生きる。
もはや春なのか。そんな穏やかな2月の祝日と日曜日。11日の建国記念日祝日の朝。2ヶ月ぶりに運動がてら自転車に乗る。十三峠をヒルクライムしフラワーロードから朝護孫子寺に行くと、2月は寅祭りだった。黄色い虎がびっしりと飾られている姿が、カワイイ。コロナで行事は中止だとか。寅の年寅の月寅の刻に聖徳太子が信貴山で戦勝祈願し毘沙門天が現れ秘法を授けられたとか。寅がキーワードで独特な空気感。
2月10日夕方。初午祭をささやかに催す。木村工務店では、毎年、初午祭として、会社にお祭りしているお稲荷さんに祝詞を捧げ、商売繁盛と安全祈願をした後、職人さんを交えた協力会社の方々と共に宴会を催すのが伝統的行事だった。昨年は、緊急事態宣言前で滞りなく催せたが、流石に今年は無理なので中止する予定だった。ところが社員の中から、宮司さんに来て頂いて、祈る神事だけはやろう!という意見が出て、社員と協力会社の精親会の役員4名だけが参加しての初午祭となった。2月最初の午の日に稲荷大神が稲荷山に鎮座した日らしい。午がキーワードで狐が鎮座するやっぱり独特の空気感。
お正月の神社参拝では、コロナ感染を危惧して神酒拝戴を躊躇したが、今回は、お神酒による乾杯だけは執行った。慎重をきしながら、宮司さんからお神酒を注いでもらって、乾杯(イヤサカ)と皆で唱和しお神酒を飲み干した。なんでこんなちょっとくだらないような話を書くかと言うと、「乾杯」という所作が、あるのとないのとでは、エネルギーの発露が全く違うコトに気づくのだった。祈って内面化されたエネルギーが、乾杯(イヤサカ)という発声と共にお神酒を飲み干す所作によって、そのエネルギーが外へ向かうのだな。なんて感じたニュアンスを皆でつぶやきあった。
清見原神社の宮司さんが、「祈り」とは、「イ」=「生きる」で、「ノリ」=宣りで、いのちの宣言であり、いのちを生き生きと生きる宣言である。なんて仰って。コロナ禍の印象に残るコトバと初午祭となった。お供物として稲荷寿司を奉納するのがうちの決まりで、それをお下がりとして、11日祝日に美味しく食べて、うららかな春のような祝日のお昼を過ごした。
今日、2月14日日曜日は、バレンタインデーで、いつもの好きなチョコレートを奥方から貰って食べる時、包装紙の裏のクレジットを何気なくみると、生野区巽北で製造されていると知って、ちょっとビックリ。何年も食べ続けていても、味とかデザインだけ気になって、誰が何処でどのようにして作っているのか、そんなの気にしていないのだな。その誰がどのようにしてもの造りをするのか。というより、大工は木という材料をどのように道具を使って木組みするのかを教えてくれた、沖棟梁のお通夜が、今晩あった。90歳の大往生だった。自ら造った自宅で亡くなり自宅での神式のお通夜だった。入院を拒否したらしい。亡くなる前まで図面を書いていたらしい。85歳でも時折現場で作業をしていたらしい。うちの初午祭にも何度か参加してくれて遅くまで語り合った。新年会に参加してくれた時は、大工の皆が、棟梁の周りを取り囲んで正座しながらその話しを聞いていた姿が印象的だった。ウクライナに茶室を造りに行く時はベレボーに法被を着てサスペンダーに雪駄で飛行機に乗って日本人の大工として外国に出向かうのだと言い放ったそうだ。エピソードには事欠かない。
沖棟梁は、清見原神社の増築工事の時、うちの加工場で、1年かけて手加工をし、1年かけて現場で造り上げた。その加工場での一年間でうちの大工も社員も多くのコトを学んだ。何よりも、大工は道具から作るのだと、時には鍛冶屋のように溶接をしていた。6角形の柱を丸太に加工するための道具造りを加工場で始めた時の姿は鮮烈な印象として残る。昨年自転車で門前ライドをした時は、唐招提寺の丸太を見ながら、沖棟梁がうちの加工場で丸太を手加工していた姿が蘇った。古の大工さんたちも、その当時の道具を使いながら手作業で木を削っていたのだ。吉兆の事件で女将がつぶやく姿をテレビで見た翌日は、吉兆の座敷を造作した時のエピソードを面白おかしくかつ哲学的に語ってくれた。
ありし日の動画が残る。その日時間が空いていたらしい。81歳。運動がてらフツウの家のフツウのテラスのフツウのパーゴラを手加工してくれた。その佇まいと静けさに心うたれた。合掌。