多死社会

突然の雷雨になったり、今週も、やっぱり不順な天候。ウイルス性の風邪で、咳き込む日々で、体調まで不順な今週だった。週末には、親戚の叔母さんの訃報まで飛び込んできて、102歳だという。大往生だな。お通夜、葬儀とも、吉野まで、車で行ったが、今や、1時間ちょっとでいける。昔、小さい頃は、親父の車に乗せられて、山道の峠越えばかりで、3時間ぐらいかかったのか、とぉーいなぁ、って子供心ながらおもっていたが、50年間の道路の整備とナビの発達はすごい。グーグルの案内とカーナビの案内では、20分ほど違う時もあり、今や、グーグル頼りだが、時々、超狭い道を案内する時があって、何度かひやひやさせられた経験があり、京急脱線事故の細い道に迷い混んだトラックの心境を想像してしまう、そんな妙な一週間だった。

20年もっと前に、その叔母さんが住む、吉野の大滝まで、リフォーム工事に行った時があって、その時の「たかちゃん、とぉーいとこまで、よぉきてくれたな」というコトバが、焼香の時に聞こえてきそうだった。その頃の写真が遺影だったようだ。娘さんが東京オリンピックに水泳選手として出場し、なので、オリンピックに対する想いが大きく、この東京オリンピックを見るまで、生きるで。と云ってたそうで、僅か、それはかなわなかったが、悲しみと共に祝福がある葬式だった。

どんな死を迎えるために、どう生きるのか。車窓を通過する吉野川と吉野の山を見ながら、そんなことが一瞬よぎったが、これまで、沢山の葬儀に出席して、昔の映画やドラマにあるような、家族に見守られながら、自宅の布団の中で、静かに息を引き取る。というのは、今や、全くフツウでない、とってもレアなケースだと、あらためて思う。病院か介護施設で死を迎えるのが多くの状況で、葬儀はセレモニーホールで。と、田舎でも、同じ状況のようだった。

考えてみれば、祖父母両親とも病院で最後を迎えたが、祖父が亡くなった時、父が、社葬として会社の加工場で執り行ったのは、当時としても、珍しいことだったのだろうが、なので、父が亡くなると、加工場で社葬をするっというのは、当然の成り行きだった。祖母が亡くなり、家から送り出すために、家の庭を使って葬儀をすることを考えたのが父なので、母が亡くなると、同じように、家の庭から送り出す家族葬を、兄弟姉妹で決めた。

インターネットで、こんなコトバと遭遇する。

かつて「在宅死」が一般的だった時代、多くの人が親や祖父母などの近しい人の最期を自宅で看取り、その経験から「死」の迎え方を学ぶことができた。今では「死」を病院に委ね、家族や自らの「死」について考える機会が乏しい時代になってしまった。

これからは「多死社会」になるそうだ。どこで死を迎えるか、どんな医療ケアを受けるのか、どんな葬儀にするのか、どこの墓に、どんな仏壇に。そんなことを、ライフスタイルとして、しっかりと考える時代なのだろう。それそれの考え方に応じた、建築的な解決案を考えるのが、私たちの立ち位置だな。