「スキー」と「湿度」

ひとりスキーに行った2月11日祝日と16日日曜日。コロナ禍の真っ最中に、ひとりスキーにトライしてみると、とっても快適だった。それで一昨年は5回、昨年は3回ほど行った。今年はとっても雪が良いらしい。なのに1月は全く行けるチャンスがなく、2月の日曜日も予定があって、この2月11日祝日を逃すと、もう行けそうな休日が見当たらなかった。前日の午後10時頃に無理矢理寝て、朝5時過ぎ、ひとり車の運転席に座り、コンビニ寄ってからグランスノー奥伊吹に向かう。名神高速の彦根あたりから雪がチラついていたが、午前7時40分頃到着。コンビニで買ったおにぎり食べて珈琲飲んで、3時間半ほど滑り続けたら、もう十分。シニア券でスキーを滑るようになって、昼から滑る気に全くならないですわ。

昨年、モーリーショップのフナモトくんと一緒にスキーに行って、帰り道に立ち寄って美味しかった蕎麦の里伊吹で、くるみ蕎麦を食べて、大阪まで帰ってからスーパー銭湯で体をケアーして、午後5時過ぎ帰宅。家でビール飲んでゆっくりするのがシニアスタイルのような。で、16日日曜日の夜に、ライブを観に行く予定が、主催者の都合で中止になった。このチャンスを逃したら、今年は春スキーにもう1回行けるかどうか…..それにこんな雪の良い年はめったにないかも…..もう1回だけ滑っとこっ!とモチベーション上げて、午前4時半過ぎ出発で、岐阜の高須スノーパークまで行った。道中は雨で、スキー場も湿潤な雪。パウダーに当たる縁は薄いね。それでもエエとおもえる雪で汗かくほど暖かかった。やっぱり3時間半ほど滑って、昼過ぎにスキー場を出て、午後4時過ぎに家に到着してお風呂とビール。

スキーにまた行くようになったのは、スキー板がカービングスキーになって、その滑り方をちょっと体得して、体の負担が大幅に減ったのが大きな要因だとおもうが、スキー場って、風邪が引きにくい環境のようにおもう。気温が低いのでウィルス繁殖しにくいし、湿気が多いのでウィルスが空気中に舞いにくいし、何よりも喉に良さげ。なんで、唐突にこんなこと言いだしたのかっていうのは、昨年の12月初めに喉を痛めて、咳き込んで、耳鼻咽喉科で薬をもらっても、なかなか直らなく、苦しかった。それがお正月に行った軽井沢のスキー場にいてる間は、喉がとっても快適で、それは空気のせいだとおもった。で、やっぱり、大阪に帰るとまた元に戻って、気付いた。

上が2024年12月15日の我が家の寝室とリビングの温度と湿度。下が2025年2月15日の温度と湿度。冬期になると、湿度が20%〜30%という範囲で変位し、その湿度が喉にダメなのだと、ようやく気付いた。湿度が40%を下回るとウィルスの活動が活発になるらしく、60%を超えるとカビとかダニが発生するらしい。それで今年の1月15日頃に寝室用に象印の加湿器を買った。それにしても売り切れ続出で、定価より高いのを買ったのは初めて。居間にはまだ加湿器が置いていないのは、部屋の面積が広いので、どの機種を選べば良いのか…..新潟のダイニチ工業がエエらしいが…..と迷っている状況。加湿器の導入で、寝室の湿度が10%ほど上昇し、ようやく40%ぐらいになってきた。会社のワタシのデスクの横にも加湿器を設置した。それ以降、喉が乾燥して咳き込む度合いが大幅に減少した。

そんなこんなで温熱環境における冬の「湿度」って大切だな…..とおもうし、「スキー」に行って喉をエエ感じにするっていう感覚が芽生えだした今年。

「2025 初午祭」と「換気」

木村工務店には、昔から3階会議室に、お稲荷さんがお祀りしてあり、初午祭といって、現場の安全無事と商売繁盛を祈願して、そのお稲荷さんを、社員と協力会社の職人さんとで、一緒に参拝する神事と直会が、2月初旬のルーティンで、おそらく60年以上は続いているようにおもう。昨日の2月8日土曜日、80人ほどの参加者と一緒に、玉串を奉納し、二礼二拍手一礼で参拝して、加工場に降りて、清見原神社宮司のイヤサカ!の発声とともに御神酒で乾杯したあと直会を催した。

直会として、飲んだり食べたりする前に、私が40分ほどのレクチャーをするようになって十年ほどになる。25年ほど前に加工場から木工機器を撤去し、手加工ができるスペースになって、作業をしない時は、加工場が初午祭の会場として利用できるようになった。またコンピュータとパワポとプロジェクターという新しい道具の発達でレクチャーが出来る環境になって、木村工務店のミッション・ビジョン・バリューを、多くの職人さんたちに、直接伝えることができる唯一の機会になっているようにおもう。この加工場が、良心を持った次世代の社員と職人さん達を育む場になれば、なお嬉しい。

工務店的楽しみのひとつは、会場設営で、すこしずつバージョンアップを繰り返しながら、現在のカタチになってきたが、「換気」というのが稚拙だった。かつては初午祭の直会は、おでんと日本酒と缶ビールだけだったが、加工場で開催できるようになってから、文化祭的に社員が職人さん達をおもてなしすることになって、焼き鳥や焼きそばやフランクフルト、餃子、おにぎり等々、それぞれがアイデアをだして提供するようになった。

昔ながらの木造の加工場ゆえに、かつては、スキマ風があちらこちらから侵入してくる状態で、特に足元が寒く、私の話を聞きながら、ブルブルソワソワしながら話を聞くような状況だった。それで、作業時の近隣の騒音問題もあったので、防音工事も兼ねて、防音シートと断熱材とブラスターボード2重貼りの工事をしたことで、この日の寒波が押し寄せ、手がかじかむほどの寒い土曜日の夜にもかかわらず、ストーブ3台で、快適な温度になる加工場に変身し、「断熱気密」という工法の必要性を、社員と職人さん達とで共有できる場にもなった。

ところが、気密が充実してくると、焼き鳥や焼きそばなどを焼き出すと、煙がモンモンと立ちこめて、目が痛く、とっても煙ったい加工場で、かつての写真を見るとその状況がよくわかる。一応、天井の屋根に工業用の換気扇が一機だけあるが、それでは全く容量が足らなかった。なので、屋根に穴を空けて、もう一機換気扇を増設する方法も考えたが、とっても大変な作業だし費用もかかる。それで、MK電気のカヤくんに相談すると、Amazonで2万円台の中間取り付け型のダクトファンを見つけてくれて、実験的にそれを既存の換気扇の下部に取り付け、上昇気流を誘発して、一部をこのダクトで排煙し、残りを天井換気扇で排煙する計画をたて、開催日の前日に、その作業をすることになった。

結果的には、この仕組みが上手く機能し、開始直後は目が少し痛くなる時もあったが、煙が立ちこめる状況にはならなかった。ただ時間の関係で、吸気口を取り付けることができず、次回は吸気口を最適な場所と高さに取り付ければ、もっと機能するよねっ!と、直会の席でカヤくんと一緒に飲みながら、ものづくり談議を楽しんだ。

そうそう初午祭翌日の今日の日曜日の朝。深夜まで加工Barで呑んでいたらしい、二日酔いの長男夫婦とmagosと私たち夫婦で、一緒に平野に出来た、おおみね湯に行くことになった。自動機械式の熱風オートローリュータイムがあって、赤い照明が点灯し音楽がガンガンかかるモダンなサウナだった。あちらこちらにサウナが沢山出来て、とはいうものの、そんなに、あっちこっちのいろんなサウナに行きたいっ!というワタシでもなく「縁」次第の状況待ちだが、それなりに体験してみると「換気」というのがとっても気になってくる。最近は換気のシステムが良いサウナは快適なのだと感じるようになってきた。

そんなこんなで「断熱気密」には最適な「換気システム」が必要なのだ。と体感した「2025 初午祭」だった。

「キムラ」

花川の家(ほたる食堂)のオープンハウスがあった日曜日。建築家の矢部さん設計で、コロナ前に木村工務店で施工した花川の家は、コロナ禍故に、オープンハウスが出来なかったが、今日の2月2日日曜日、唐突感もありつつオープンハウス開催となった。雨降る日曜日の予定だったが、昼前から時折晴れ間も出る曇り空で、生野区小路から淀川区花川まで自転車で出掛けた。往復24km也。昨年から今年に掛けてロードバイクに乗る回数がめっきり減って、折りたたみ自転車のブロンプトンで出掛けたが、心拍数かなり高めだった。やっぱりコンスタントにペダルを廻す機会がないと、アカンよね。

そうそう、北海道のキムラさんという建材商社の木村社長さんが、木村工務店を表敬訪問してくださった火曜日。キムラと木村工務店と木村社長でややこしいが、14年ほど前に、そのキムラさんが、大阪営業所をだして、その時の所長の佐藤さんが、熱心に断熱気密の布教活動のようなものをやってくれた。当時、最も断熱気密の先進地域は北海道で。北海道の工務店の断熱気密の施工トライがあってこそ、いまの全国的な断熱気密の施工技術が発展しているわけで、一年に一回は社員と一緒に、冬の北海道に行って、断熱気密の施工技術を学んだものだ。そこで北海道キムラさんの幹部社員の方々も懇意にしてくださって、北海道すすきのの冬の夜の楽しさも学んだ。

で、キムラの社長さんから「白い恋人」とこの「SMASH」という本をお土産として頂戴した。案外今まで工務店に関するビジネス書を読んだことがないと気付いたし、なるほど、こういうふうに工務店経営を考えている人がいて…..と共感もしながら一気に読了した。

ものづくりセッションを一緒に運営している行政マンのタケダさんが、今年度、区役所の配置換えなどもあって、そんなことを話題にしながら、ものづくりセッションメンバー十数人と、桃谷のカサディエッロのピザを食べながら、あれやこれやと楽しく新年会を催した木曜日の夜。ちょっとした「生野愛」と「ものづくり愛」みたいなものを共有しながら一緒にワイワイいえる若いメンバーと飲食できるのは楽しい。こういうコミュニケーションの土壌のようなものが、何かしらそれぞれのエネルギー源になれば、なお楽し。

生野納税協会で懇意になった、同年代のメンバー夫婦3組で、生野区の居酒屋の淡路屋さんで新年会をした金曜日の夜。とっても美味しい和洋の食材をアテにして、あのフジテレビの中居くん問題とか、トランプ問題とか、それぞれが旦那として如何にアカンか問題とか、「アテ」になるような同年代に共通する夫婦間の話題があれやこれやとあって、話題が尽きず、最後は3組で、生野区のBarソケットに行って、グタグタ言いながら楽しい夜を過ごした1月31日の夜だった。

生野区行政の委託業務に携わるキムラーさんという方がいて、生野区の木村工務店のキムラさん、それはワタシのことなんですけど、その二人で「キムラーキムラ」の「ゾロ目ミーティング」というのを催して数年になる。今日は、日曜日なんですけど、2月2日で、そのゾロ目ミーティングの日になって、15時30分から「まちのえんがわ」で、生野区のまちづくりを話題にして、あーだこーだ。っといっても、1月1日は元旦なので流石にやらないし、5月5日もGWの旅行にでかけたりして、やらないし、なんだかんだやらない日もあるけど、1年に8回ほどは開催している感じ。

それで、日程を決めるって、案外ムツカシイなっとおもう。日曜日。なんていう日が、どなたか知らんけど、決めてくれて、それがグローバルスタンダードになっているので、助かるよね。建築関係では、大安。なんていう日に上棟をするのが、決め事だったが、なぜか不思議にプレカットの台頭とともにその習慣が薄れてきた。きっと上棟の夜に直会をするのが慣わしで、それぐらい家を建てるという行為は、祝宴であり祝祭であったのだとおもう。生野の日=19日だと、生野区のどなたかが決めて、それに乗っかって「空き家カフェ」の開催日は、毎月19日と決まった。そんな感じで、名前がキムラキムラのぞろ目的で、ゾロ目の日をミーティングにしたらっ!とキムラーさんが提案してくれた。確かに毎月第一金曜日なんていう決め方よりも、曜日がいろいろ変化し、それによって話す内容も影響を受けたりして、オモロイ。

ここ数回はヒライさんも参加してくれて、今日は2月2日日曜日だし、どっかで飲みながら話をしましょっ!ということになって、近くの角打ちの西口商店に行くと、偶然、休みだった。それで、ぼちぼち歩いて布施までいって、角打ちの小西商店にいったら満員で断られて…..なんて、15時代に空いている酒場は案外少ない。酒場難民になっているうちに午後4時になって、偶然隣の居酒屋が空いて、ようやくちょい飲み。アテは、行政の委託活動もタイヘンだなっ。ていう話だったようにおもう。そうそう、家族以外と初めて、恵方巻きを西南西を向いて、一緒に食べた2月2日の夜でした。

「太陽の塔」と「大阪女子マラソン」

豊中で上棟式があって、社員4人で車に乗って移動中に「太陽の塔」を見た。相変わらず独特の存在感があるよねぇ。製作者の岡本太郎の存在感が凄いなぁっとおもうし、これを許容した当時の万博関係者も凄いよね。さて今年の大阪関西万博はどんな雰囲気になるのだろうか…..とおもう。

近年、上棟式という神事とともに、直会(なおらい)をする機会がどんどん少なくなって、それは、コロナ禍による影響も大きいとおもうが、なによりも、家を造っている「人」の存在感が気薄になっているのが、最大の原因のようにおもう。木造建築では「刻み」といわれる、手加工をする機会はめっきり減って、プレカットという機械による加工がほとんどの時代になったが、それでも、上棟をするためには、なんだかんだ言っても「人」の力がないとできない。その上棟というか建前をする職人さんたちを「フレーマー」と呼んでいる工務店もあるようだが、安全無事に上棟できるのは、いまでも「職人さん」の力によるところが大きい。その職人さんたちを労って頂ける直会の機会は、ますます貴重で有り難い機会だとおもうし、私たち工務店関係者も、このことに最大限の感謝の気持ちを持つことが大切な時代だな。と感じた、上棟式の直会だった。

今日の日曜日に奥和田建築設計事務所さん設計で木村工務店で施工した、天王寺の家のオープンハウスがあって、昼過ぎに家から自転車で現地に向かうと「大阪女子マラソン」で道路が横断出来ない時間帯だった。全く忘れていた。それで「どうしたらエエのですか…..」と係員の人に聞くと「ここからコース沿いに戻ったあちらに歩道橋があって、それを渡ってください」という。「えっ!自転車を担ぎ上げて歩道橋を渡るのですか….」と聞くと「係員が担ぎ上げてくれますから」という。

キョトンとしながら、コース沿いの歩道を自転車を押し歩いて歩道橋に近づくと、確かに黄色い服を着たスタッフの方が二人ががりで自転車を担いで歩道橋の階段を上り下りしていた。そこまでするんやぁっ!とおもったが、なんと、自転車で歩道橋を担ぎ上げてもらうための行列が、何十台も続いていた。えっ、この4車線の道路を横断するのに一時間以上もかかるやん…..と心配していたら、丁度ランナーがいなくなって何十分もやってこない時間帯になったらしく「皆さん!いま!横断してください!」と閉鎖が解かれ、一斉に自転車が横断する、渋谷の交差点的オモロイ状況だった。

そのオープンハウスの帰りがけに、四天王寺さんの東門前にある奥和田建築設計事務所さんに立ち寄って、30分ほどあれやこれやとお話しして、それでもまだ大阪女子マラソンのために道路が横断できない状況だったので、そうそう大回りして寺田町経由で、うちで設計施工した「Milestone」さんの前を寄り道して帰ろうとしたら、偶然、1ヶ月に1度の日曜日のお店オープン日だった。チーズケーキの販売イベントもしながら多くのお客さんで賑わっていた。

美味しい濃厚なチーズケーキと珈琲を飲みながら、オーナーの冨士灯器の専務さんにお話しを聞くと、主力のヘッドライトの売れ行きもあるが、アパレル製品の売れ行きも好調だという。「大阪のトレランの聖地化」している雰囲気があって「ブランディング」というものの大切さを改めて感じたし、商売繁盛の活気ある姿をみると、こちらもエネルギーをもらえて嬉しかった。これって「大阪女子マラソン」のお陰さまですよね。

「お餅つきフェス」

「お餅つきワークショップ」を催した土曜日。

コロナ禍によって中断していたお餅つきを、昨年から細々と復活して、社員のポジティブな意向を含めて、今年もやろう!ということになった。ここ数年に建築で関わった、お子さんがある家庭を中心に少しだけ招待し、あとはホームページ上だけで宣伝することにしたのは、木村工務店の今のキャパでは、午後1時から午後5時までで、25臼のお餅をつくことが限界で、それでも1時間に5臼で、12分に一臼突くことになって、もちろん、うちの社員だけでは、十分にそのお餅をつき切る能力はあるのだけれど、やっぱり子供さん達にお餅をつく経験をしてもらいたいという気持ちがあって、時間が掛かっても、この日本の伝統的な、一緒に力を合わせてお餅をつくる「ものづくり」体験を共有したいという想いが強い。なので、「ワークショップ」というコトバを付加していた。

延べで200人以上の参加者があった今回のお餅つきなんだけど、何人かの知り合いから、これはもはや「フェス」やな!というコトバを頂戴した。確かに、昨年から「ワークショップ」というコトバに違和感を感じていたし、かつては、「木村家本舗」として、木村家をオープンホームするイベントがあって、「コトバノイエのカトウさん」や「建築家のヤベさん」や「植栽のイエタニさん」の協力を得て開いたイベントなんだけど、ちまたでは「キムフェス」とも呼ばれていた。その「木村家をオープンホームする」というスタイルから「木村工務店をオープンカンパニーする」というスタイルに変えて「まちのえんがわ」が誕生した。

「木村工務店のお餅つき」の特徴のひとつに、お餅をつきながら一緒に食べたり飲んだりしよう!というのがあって、それはうちの親父、2代目の木村正一が、とっても大切にした意向であった。それゆえに、木村正一の妻というのは、ワタシの母親なんだけど、そういう木村工務店的イベント時には「おでん」を作る、というか、うちの家では「関東炊き」と親しまれていて、それを大量に作るのが伝統行事であった。関西風の甘みの強いおでんなんだけど、それをうちの奥方が受け継いでくれて、「お餅つきとおでん」という組み合わせは、木村工務店的に大切な組み合わせであり、それらをエネルギー源として、一緒に飲み食いし、なによりも「一緒にコミュニケーションをしよう!」というのが、木村工務店2代目木村正一の楽しみで、最も大切にしていたコトであったようにおもう。

それゆえ、本音を言えば、子供達をとっても大切に考えながらも、その子供達を連れてきた、両親や祖父母や子供達がいない夫婦や個人も含めて、お餅つきというものづくりのエネルギーを共有しながら、オトナ達に、なによりも楽しんでもらいたい!という想いも強い。そういう意味では「フェス的(お祭り的)」雰囲気を享受して「皆さんに喜んで欲しい!」というのは、先代と先々代から共有されている大切な「コト」だとおもう。ということで、これからは「お餅つきワークショップ」を改め「お餅つきフェス」として、多くのオトナとも共有できればもおもう。

とはいうものの、木村工務店的キャパシティーの限界があり、広く遍く招待をすることは出来ないし、子供達を優先にしたい!のだけれど、ホームページ上を通じて、この「お餅つきフェス」に参加したいというオトナの方々がいらっしゃれば、一緒に楽しめればとおもう。参加人数と社員数と会場の大きさの加減で「おもてなし」はいき届かないとはおもいますが…..。

そうそう「お餅つき」に関して、ひとつ付け加えるなら「お餅をつくひと」というのがメインになりがちですが、おもいのほか「お餅をまるめるひと」の作業が、タイヘンで、古い言い方では、お餅付きには、男性的なお餅をつくエネルギーと女性的なお餅を丸めるエネルギーが融合する「ものづくり的」面白さがあって、そういう文化も楽しんで欲しい.なぁ….といいながらも、たまたま上の写真は男性がお餅を丸めて、実際は多くの女性の手助けによってお餅が丸められていたのだけれど、それぞれの適正にしたがって、お餅をつこうかつくまいか、お餅を丸めようか丸めまいか、それを眺めて飲もうか飲むまいか、それぞれなりに参加者として、お餅つきを楽しむフェス感が、最近の面白さだと思う。

参加し、一緒にお餅をつき、お餅を丸めて頂いた方々に感謝するとともに、フェス的雰囲気を楽しみながら飲食して頂いたオトナの方々にも感謝して、土曜日の「お餅つきフェス」のお礼としたいとおもう。

雨の初出と新年会と日曜日の関係性

今年は、多くの会社が、1月6日月曜日が、初出だったようにおもう。木村工務店では私が入社する以前から、初出は1月6日と決まっていたが、入社して40年以上経過するものの、1月6日の朝に雨だった記憶がない。清見原神社の境内で誰かがこのお正月の初出に傘差した記憶がないなぁ…..って呟いてる声が聞こえた。確かに、傘をさして、清見原神社に参拝した記憶がないのだ。それで、ChatGPTに「1980年以降の1月6日の大阪市の天気を教えてください」と聞いてみると、「エラー」が返ってきた。こういうコトは答えられないのだな。不思議に感じて、グーグルで検索すると、気象庁のサイトだけが表示され、「ある場所の1月6日をピンポイントとして天気を知り、それを年ごとにお天気データとして表示させる」なんていう具体的な方法でないと天気を知れないのだと知る。

気象庁のサイトにはいると、場所と年月日付を選択すれば、1月6日の1時間ごとの値が表示されるが、それでも1990年以降にしか降水量と日照時間と天気のデータは表示されない。また、2009年以降は表示データがより詳細になり、天気としての表示記号がなくなり、詳細な降水量で天気を判断する形式になって、感覚的な天気記号の部分が排除されていた。きっと、いまでいう、DX化が進んだのだな。

ちなみに大阪市1990年1月6日午前9時は、降水量0.0mmで日射量ー データなしで、天気は●で雨だった。データから解釈すれば、傘をさすほどではない雨がほんのちょっとパラパラ降る時間だったと予想される。ちなみにちなみに、1990年と1992年と2007年は、1月6日午前10時頃に、降水量が1mm以下の数量データがあり、ほんのちょっと雨が降った。と解釈されるが、少量の雨なら、よりピンポイントの大阪市生野区小路東の木村工務店と清見原神社では、雨が降ってない可能性もあり、そこまでピンポイントの場所での降水量はわからない。

ま、人間の記憶とは、曖昧なものだとおもうが、1月6日は雨が降らないのだ。という感覚的雰囲気としては的を得てるようにもおもう。DX化が進みデータが優先される時代になって、建築も全くその通りで、数値データというものを元に考える時代になっているとおもうが、その「データと人間の感覚との調整」というのが、なかなかムツカシく大切な時代のようにもおもう。

「猛暑の年は豪雪になる説」なんていうのも、その感覚をデータとして分析し、今年の青森の豪雪との関連性がテレビでやっていたし、ロサンゼルスの住宅街での大規模な火災に関して、トランプ次期大統領 が「知事がスメルトという小魚の保護に水を使ったために、ロスでは消火用の水がないなんて、ひどい話だ」なんていうのも、温暖化の問題、生態系の問題、人間の住む町の安心安全の問題、予算配分、それらに対するデータと人間の感覚との調整をどのように考えるか…というふうな問いとして、捉えてみたくおもえた、日曜日の夜だった。

そうそう、1月6日月曜日は、新年の抱負を社員と共有し、協力会社も交えて清見原神社で参拝し、加工場で賀詞交換と2025年の年頭所感を語り、その後は、2025年始動のアイドリングとして、加工BARでお正月休暇を共有したりしながら数人で楽しく過ごした。木曜日は生野区の新年会があり、若い参加者が少なく、っといっても、ワタシもそれなりの歳なんですが、たまたま2次会を一緒に行ける人がいなく、会場近くの地下鉄の地下階段から地上に上がる階段途中にある、SUBでJAZZライブを聴いてから帰った。毎回、日本人よりインバウンド比率のほうが高い。10日金曜日は、布施の戎っさんで、商売繁盛を祈願した。夜は生野産業会の新年会があり、この日は若いメンバーと楽しく2次会3次会と続き、完全にタクシーで帰るしかない時間になっていた。

土曜日は、お昼から心斎橋商店街で建てた木造建築のメンバーとお施主さんとによる新年会で、こんな機会に恵まれるのは感謝しかない。心斎橋商店街は65%を占めるインバウンドの方々の到来によって、とってもとっても盛況だそうだ。ひょっとして、ここ5年か10年ほどは、インバウンドの到来によって商売繁盛した方々が、経済をひっぱり建築にも恩恵をもたらしてくれるのかもしれない。とっても美味しいお寿司とマリアージュされた日本酒とを楽しみ、その後は建築メンバーだけで、2次会3次会4次会と続き、最終の地下鉄でなんとか家に帰り着いたが、日曜日は、この3日間の連続した新年会によって「まったく使い物にならないおっさん」状態だった。

2025新春

木村家では、1月1日元旦の朝は、家族全員が座敷に集まって、新年の挨拶を交わし、お屠蘇をし、お節を食べる。その後、地元の清見原神社の拝殿で参拝するのが慣わしで、とっても穏やかで晴天の元日の朝日が、幣殿に差し込んで、神主さんの気品のあるオレンジ色の召し物の右肩に光があたり、吉野桧の床には朝日に照らされた格子の影が美しい模様として描かれた。奥の神殿の鏡は遍く照らす光が内包されているような、真ん丸で真っ白で無のようにさえ感じる輝きだった。参拝の後、それぞれが、おみくじを引いて、一緒に見せ合うのが、木村家の初笑い。新年あけましておめでとうございます。

お正月休暇の後半は、去年に引き続いて、アウトレットとスキーという組み合わせでホテルに宿泊した。昨年は長男家族が合流して食事を共にしmagosとスキーを楽しんだが、今年はサプライズで、突然、次男がカップルで合流して、あれやこれやと談笑しながら食事を共にし、そのお陰で楽しく時間を過ごせた。それぞれがそれぞれなりに変化して成長していく姿を見守るお正月になった。息子達が学生の頃までは、どちらかといえば対峙的な感覚が強かったが、仕事をし社会で揉まれるするようになってからは、より見守るような感覚が強くなってきたようにおもう。ワタシも変化しているのだな。

新建ハウジングという雑誌の2025年住宅産業大予測が年末に発刊され、その巻頭に、こんな言葉が掲載されていた。「建築のゴールは人がその空間で「喜び」を共有できることだとおもいます。」と書かれてあって、「売り上げも利益も差別化も大事ですが、施主(の時間や人生)に喜びを与える家を提供しているかはもっと大事です。」とも書かれてあった。2019年に木村工務店では、ミッション・ビジョン・バリューを制定し「建築で人々に喜びを」をミッションとして掲げた。あっ、うちと同じコトバやっ…..とちょっと嬉しくなった2024年の暮れですが、それと同時に、喜びを与える家を提供することの難しさを痛感している、木村工務店の88年間の歴史でもあるとおもいます。

結果として喜んで頂けなかった施主の方々にはあらためて謝罪するとともに、木村工務店という「ものづくりのチーム」として、喜びを共有出来る空間を造れるように精進していきたい。そう願う2025年の元旦でした。1月6日月曜日は、協力会社も一緒に清見原神社に参拝し、加工場で賀詞交換会をして、初出とします。1月7日火曜日より通常営業です。本年も木村工務店をご愛顧賜りますよう、よろしくお願い致します。

28日大掃除仕事納めからの…..

木村工務店の年末年始は、12月28日に全社員で大掃除をし、終了後に納会をして、今年の仕事納めとする。1月6日は初出で、曜日には関係なく、何十年も続く木村工務店のルーティン。納会後に会社前に門松を飾ることを昨年暮れから新たに始めた。来年は、木村工務店にとって、再誕生(Reborn)な年になればとおもう。

そうそう、昨年から「ふるさと納税」を始めた。で、仕事を納めた次の日のとってもリラックスしたムードのなかで、朝から奥方と相談しながら、ネットを眺め、牛肉とかウニイクラとか鰻や日用雑貨のタオルとかそういうモノに釣られて、税金を地元に納めないのはエエのかどうか、本末転倒だと想っていたのに、さてどれにしようかと楽しく迷っているワタシがいて、「おまけ」に弱い子供心をくすぐるような「ふるさと納税」だな。昨年から29日は木村家の「ふるさと納税の日」なんです。

そうそう、うちの子供達兄弟は、成人して大人になって、それぞれ社会に揉まれている真っ最中なんだけど、その子供、magosは、小学生兄弟で、いまが一番カワイイ時だ。クリスマスプレゼントを渡せなかったので、明日にでもなにか買いにいこかっと軽〜く口が滑った程度だったのに、朝7時過ぎから枕元にやってきて、何時から行くぅぅ!とテンション高めに時間を決められた。前日に母親と大丸のポケモンセンターに行ったらしく、magos母の助言もあって、3人で地下鉄乗って、エディオンなんば本店に行くことになった。

地下に巨大な、おもちゃ売り場があるのだけれど、いまのmagosの子供心をくすぐるのは、ポケモンカードとポケモンフレンダーらしい。ここにはエエのがないので、どうしても二日連続で大丸のポケモンセンターに行くぅぅ!という。地下鉄で難波から心斎橋までひと駅乗って到着すると、インバウンドいっぱいの活気溢れたフロアーだった。magosのテンションもマックスになっていた。それにしても、欧米人のたくさんの大人が、縫いぐるみをカワイイを連発して買い求める姿に、ワタシもテンションがあがり気味だった。昼食は、歩道が広がって、とっても気持ちの良い人のための空間になった御堂筋歩いて、はり重で。

そうそう、年末は、鶴橋と黑門いって美味しい食材買うのが、木村家的伝統行事なんだけど、鶴橋は高架下の補強工事のため、私たちが買い求める店は2軒ほどになった。黑門はインバウンドの心を捉える店構えに変貌して、いままでと違う活気があってそれはそれでオモロイ。もう買い求める食材はほとんどなくなったが、そのインバウンドいっぱいの異国情緒の商店街で人混みに揉まれたあと珈琲飲むのが楽しみぐらい。で、河豚を黑門で買うのは遠〜い昔話のようなコトになって、生野区の「活魚センター 大昌総業」で買うのがここ数年のコト。30日31日は激混みなので、今日29日に買って、大晦31日に皆で一緒に食べるコトにした。

ま、そんな12月28日大掃除仕事納めからの…..。
1年間、木村工務店のブログを見て頂きありがとうございました。皆さん良いお年をお迎えください。

「ものづくり」的側面

とっても寒い木曜日に地鎮祭があって、スーツの上にダウンの防寒着を羽織って、儀式が始まる時に、その防寒着を脱ごうと思っていたが、寒くて寒くて。参列者全員が防寒着を着たままだったので、私も甘えてそのままの防寒着で地鎮祭に臨んだ。神主さんは、時折雪の降る寒いなか、着物だけのシャキッとした姿で祝詞を奏上し、流石だなぁ…..とおもった。

青空があってもなんとなく全体が灰色な冬の日曜日。朝、ゆっくり寝て、寒いのでスーパー銭湯にいって、サウナ入って体を温め、コメダでたっぷり珈琲と味噌カツサンド食べて、コーナンで買い物して、そうそうコーナンとか本屋にいって15分ぐらいたつと必ず腸がグズグズして、そわそわして、すぐ帰りたくなる。インクのせいらしい…..。家に帰って、ソファーの上で、ゴロゴロしながらiPad miniであれこれ眺め、音楽でも聴いてみるかと自分の iTunes のなかにあるアルバムを覗いてスクロールしながら「J」 の目次で「JDサウザー」の「Black Rose」のジャケットに目がとまる。冬の灰色な空気感の今日には陽気なウェストコーストよりちょっと黒色なウエストコーストが良さそうで、聴いてみる。

「Black Rose」は20歳頃から40年近く聴かなかったのに、ミナミのBar音音でかかっていたので、想い出したように持っていたレコードをイクノのBarソケットに持参して聴いた。有名ミュージシャンがたくさん参加して、久しぶりに聴いてもエエアルバムだな。このレコードのアサイラムというレコードレーベルのことはちょっと前のブログで書いたが、「避難所」という意味らしい。今日は家で避難の気分だな。「J」の目次にはジョン・コルトレーンもあって、そうそう iTunes ではジョン・コルトレーンのアルバムが 「し」と「J」に別れてあるのがとっても使いにくい。

JDサウザーとジョンコルトレーンが混ざっていた偶然に乗っかって、最下段左端の「ブラックローズ」1976年から上にスクロールして、上段左端コルトレーンの「ジョン・コルトレーン・プレイズ・ザ・ブルース」1962年を聴く。⒉段目右端の「マイ・フェーバリット・シングス」1961年は今でも愛聴しているが、プレイズ・ザ・ブルースの聴く回数は少ない。同じ時期に録音されたやつを、数年に分けて発売したらしい。会社という経営に携わると、そういう3日間ほどで録音されたマラソンセッションを、小分けにして、編集して、数年にわたって発表するという、経営的な手法が理解できるようになった。

そういう「編集」という作業で面白いとおもうのは、同じ日の録音なのに、「プレイズ・ザ・ブルース」発表時には、スピーカーの左チャンネルがベースとサックスで、右チャンネルにピアノとドラムが配置されてあるのに、そのあとに続けて「マイ・フェーバリット・シングス」を聴くと、左チャンネルがピアノとドラムで、右チャンネルがベースとサックスになっていて、全く左右が逆で、こういうのって、意図的なのか、その時の担当者の気分によるものなのか、不思議におもう。ちなみにその後続けて、インパルスから発売された、コルトレーンの「クレッセント」1964年を聴くと、録音がルディーバンゲルダーで、まったく「音の雰囲気」が違うし、左チャンネルがサックスで、右チャンネルがベースとピアノとドラムになっていて、左チャンネルのサックスのコルトレーン対右チャンネルのリズムセクションという音楽的コミュニケーションのやりとりを意識させられる感じ。

「クレッセント」ではコルトレーンがサックスを吹かない時は、左チャンネルから音はならず、右チャンネルからリズムセクションの「鎬を削る」ようなリズムのやり取りが「塊」として聞こえるが「マイ・フェーバリット・シングス」ではコルトレーンが吹かない時は、左チャンネルからピアノとドラムが鳴り、右チャンネルからはベースの音だけが響く。これはこれなりの面白さがあって、きっとレコード製作者には、それなりの意図があるのだろう….。

レコードやCDなどミュージック音源としての「ものづくり」的側面がオモロイとおもう。ちなみにその後に続けて「マイルス」の「ネフェルティティ」1967年を聴くと、左チャンネルの端にドラム、左寄りにサックスで、右寄りにトランペット、右端にピアノとベースで、アドリブを吹かないマイルスとショーターの中央よりの管楽器の静かな音色を背景にして、左端のトニーウイリアムスのドラムと、右端のハービーハンコックのピアノとの、激しい「やりとり」が、鮮明に楽しめる。意図された「ものづくり」的側面がいろいろあるのだろう。

そうそう、今日の日曜日は、長男家族が集まって「タコーパー」をしたあと、一緒に「M1」を視聴した。「M1」はここ数年の家族イベントになっている。令和ロマンの2連覇は凄いね。私的には昨年はさや香、今年はバッテリィズが好みだが。今年の審査員でも漫才の「ものづくり」的側面を評価していたようにおもうし、ムツカシイコトより笑えるかどうかの評価もあるし、多様性の時代は笑いも好みも評価も多様になって、これからの笑いはどうなるのだろうかと、優勝が誰かは別にして、いままでの笑いの変化と、笑いの評価と、笑いの現代性と、笑いの「ものづくり」的側面とを眺めて、家族一緒に楽しんだ日曜日の夜だった。

忘年

急に寒くなった朝、3階から平屋の屋根を見下ろすと霜がおりていた。忘年会の季節。なぜか昔から社員だけで忘年会をやることがなく、大工さんと手伝いさんも社員のような感じで一緒に食事を共にするのが慣わしになっていて、会社近くにできた焼肉屋さんで30名ほどの忘年会を催した金曜日。2次会は加工場のカウンターで、あーだこーだ。

同級生で開業医の医院忘年会に、同級生4人が誘われて参加した土曜日。奥方も二十歳過ぎからの友達だったので、私も行きたいわっと便乗して、二日続けての焼肉になったが、案外食べられるものだな。昔話で大笑いしながら2次会3次会4次会と続いて、日曜日の朝は全く目覚めなかった。

連チャン忘年会の余韻が残ったままの日曜日。お昼から清見原神社での「しめ縄つくり」に参加して、昨年はmagosと一緒に参加したが、今年は誕生日と重なり家族でお出かけらしく、ひとり参加になった。しめ縄作りは、パートナーと二人で協力して、ひとりが端を握り、もうひとりが捻りながら編んでいくやり方で、おもいのほか楽しい。パートナーには神社マルシェのマツザキさんになってもらったお陰で、教えてもらいながら完成できた。ありがとう。

生野区のものづくりメンバーとの忘年会は、ちょっと高級なイノベーティブ料理だった。最近は料理にマリアージュされたワインや日本酒っていうのがフツウな感じになってきたが、ワタシ的には、いままでで一番、料理にマッチングされたお酒だったように感じた。調理器具へのコダワリも垣間見れて、料理の世界も奥深いし、シェフという職人さんって凄いなぁとおもう。

挨拶で、良いお年を!というのが、しっくりくる時節になって、忘年会も終わると、大晦日とお正月をどう過ごそうかと考えるようにもなってきた。1年を振り返り、反省して、感謝して、リセットして、次に向かう準備ができればとおもう。

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